第153話 1538年「若狭動乱」◆
若狭国新保山城。
若狭武田元光の配下、粟屋孫四郎勝春は主君からの軍勢催促状を前に苦い表情を作っていた。
内容は「近く宇治か摂津で公方様に力添えをいたすから心づもりをしておけ」というものだった。
「また手伝い戦かっ!いくら公方様の御ためとても、我らは先にも大いに血を流しておる!それがしも辛くもというところであった。それを、かくも軽くっ!右京にも諮らん!」
粟屋党はこれまでたびたび室町方の命令を受けた元光の将として上方の戦に出兵し、大いに貢献してきた。それはつまり、大きな負担に耐えてきたということでもある。
孫四郎勝春はいとこで小浜の代官を務める右京亮元隆に意見を求めた。
「ふうむ、殿(武田元光)は六角(定頼)に気を遣っておる、か。なるほど、殿の奥方は管領殿(細川晴元)の姉妹。管領殿の奥方は六角の義娘で、彦二郎殿(次期当主・武田信豊)の奥方は六角の娘。なんと、右京の言は確かであった!武田はもはや六角の手先になり果てておるではないか!」
小浜代官・粟屋元隆は湊でしばしば六角家の手下の保内商人ががめつい振る舞いで騒動を起こすため、両者をまとめて嫌っており、これを悪く言う意見を述べた。
それを聞き、現状を見て勝手に得心した孫四郎は決断を下す。
「いかん、いかんぞ、このままでは手伝い戦ばかり!若狭が持たぬ!かくなってはっ!」
◇
「非理、極まれり!」
六角定頼の腹心・進藤貞治は、馬上でぶつぶつ文句を言いながら手勢を連れて京へ急ぐ。彼は若狭の反乱に共同で対処すべく京の将軍・足利義晴と交渉する任務を帯びている。
小浜の代官・粟屋元隆は叛意を隠し、若狭武田家の本拠地・小浜後瀬山の近くの栖雲寺に向かうと、そこで暮らしていた武田元光嫡男(信豊)の弟(信実)を攫って粟屋勝春に合流。
勝春は、信実への家督相続を求めて蜂起し、懐柔に応じなかった近くの麻生野城・香川大和守を早々に討ち果たした。
当初は武田元光が自力で問題を解決するだろうと見られていたが、彼が反乱鎮圧を命じた甥の武田信孝は、兵を集めるとそのまま粟屋党に同心してしまった。
これに対し、元光は朝倉家に支援を要請したが、かの家は動きを見せない。
そこで、元光は幕府内で懇意にしている本郷光泰に頼んで、武田信豊の家督相続を認める御内書を求め、そして朝倉家に援軍派遣を命令するよう要請した。
すぐにも幕府はこれを認めるだろうと思われたが、どうやら交渉が長引いているようでしばらくしても動きがない。
これをどうにかすべく進藤が派遣されたのである。
進藤は主君・定頼との会話を思い返す――
◇
「朝倉には借りがある。」
六角定頼は言う。
「美濃に乱入しておった景高を戻し、これを郡司から免じた。」
「左様にございまするが、これはもとよりかくあるべきものにて。」
「されど、借りではあろう。それも大きな。」
「……そうでありまするが、返すべきは当家でなく美濃守殿(土岐頼芸)にございましょう。」
「それはそうだが、あれは今それどころではあるまい。」
景高とは朝倉家当主・朝倉孝景の弟である。
定頼は自身の娘婿・土岐頼芸の領国である美濃が洪水や国人の不和で混乱する中、勝手にこれに侵入した景高に強い憤りを覚えていた。
だから、これを叱責した孝景に感謝するのはおかしくないが、この孝景の振る舞いは、身内の不始末の対処を越えた大きな意味を持っていた。
というのも、土岐頼芸一派は先ごろ孝景の妹が嫁いだ頼芸の兄・土岐頼武を謀殺していた。もちろん、彼の妹もろともである。孝景はその恨みを捨てて六角との友好を取ったのである。
ゆえに、定頼は朝倉家に恩を強く感じていたのだ。
その朝倉家の長年の望みと言えば、加賀の本願寺勢力の討伐と若狭の支配権である。
加賀は本願寺教団の内部分裂で今がまさに狙い目であり、若狭の方も、孝景の妻は若狭武田家の出身で、先ごろ生まれた嫡男には支配の正当性が一応はある。
加賀攻めは先ごろ定頼の子・義賢の嫁をもらった能登畠山氏も望むところであり、両家を取り持って――といきたいところだが、それでは朝倉家が若狭に援軍を出せず、武田家を見捨てることになる。
「では、若狭の平定の後、かの国内にいくらか取分をお認めになればよろしいのではありませぬか?大舘殿(常興)の文には左様に書いてあり申したが。」
「そうなのだがなあ。」
定頼は進藤の意見に逡巡を見せる。
大舘常興は幕臣の長老で朝倉家など北陸筋の取次を務める重鎮である。
「管領殿(細川晴元)にございまするか。」
「あれは武田びいきであるからな。若狭を朝倉に分け与えんとならば、上機嫌とはいくまい。」
「いま管領殿との不和は避けねばなりませぬか。木沢殿(長政)のこともございましょうし。」
「左様。長政の勝手はいつまでも許しておくわけにはいかぬ。」
木沢長政は元は河内守護・畠山氏の守護代だったが、なんだかんだあって細川晴元の直臣となり、晴元の領国の丹波で守護代格の豪族の服従を取り付けるよう晴元に命じられ、今やかの国で独自の地盤を築いていた。
その勢威と立地ゆえに京以西の諸家の大口の取次のような立場になりつつあり、丹後一色・出雲尼子・播磨赤松・安芸毛利・山名諸家・摂津諸豪族などとやり取りがあるようだった。
そして定頼の目には、晴元がこれを監督できているとは映っていなかった。
「丹波勢を従えておるようにございまするが、堺方を抑えたらば除くことになりましょうか。」
「それで丹波がまとまればよいが。六郎殿(細川晴元)も長政を頼りにしておるし。」
そこで進藤は木沢長政に関して思い出すことがあった。
「木沢殿のことで、そういえば、毛利家よりの注進ございましたな。安芸武田の不行状を大内家と正したというような。」
「覚えておるぞ。」
これは、親族関係で揉めていた安芸武田家を実質的に大内家と毛利家で滅ぼして傀儡を当主に据えたことを言っている。
毛利元就は木沢を取次に、この軍功と現状を認めてほしいと晴元や定頼に連絡してきていた。
「こたび若狭の乱るるに至りては、若狭武田より安芸武田への養子入りの話は潰えましょう。」
「ふむ、そうなるか。」
「でありますれば、これを取り持っておった尼子は不服にございましょう。」
「あぁ……。」
大内・毛利の動きに対し、美作や備中での勢力拡大を図って後背が手薄になっていた尼子家は、後手ながらも「安芸武田家に若狭武田家からの養子を入れてはどうか」と介入していた。
しかし、その養子の候補だった武田信実は反乱陣営の手に落ちてしまった。
そこまで知るところでない進藤と定頼だったが、どのみち養子入りの支度を整えるどころではないと考えたのである。
「新介(進藤貞治)よ、そなた、京にてどうにか間を取り持て。尼子のこと、公方が失念しておるようなら、そなたから口添えをせよ。儂は美濃と堺に備える。」
定頼は大名家のねじくれた関係の狭間で揺れる幕府の要石である。
その思考は深く慎重であり、秩序の体現者として不和の拡大に抗してきた。
しかし、それゆえに彼の腰はいつも重かった。
◇
定頼の疲れをにじませるうめき声を進藤が思い出しているうちに、彼の一行は京に着いた。
彼が幕臣たちに出迎えられた時点で、すでに彼らの間では意見が分裂して議論が迷走していた。
「おお、(進藤)山城守殿、いやあ、難儀なことになり申した。」
真っ先に挨拶をしてきたのは中坊堯仙なる木沢長政の取次である。一足先に丹波から京に出てきていたようだ。
「これは堯仙殿、左京亮殿(木沢長政)は摂津をよく抑えておられまするか。」
「うむ、そちらはなんともなくてござる。しかしなあ。」
中坊の視線の先には三好政長とその仲間の高畠長信の姿があった。
彼らは晴元の配下で京やその周囲の徴収・治安維持などを統括しており、幕府に対しては彼らが晴元の代弁者として、あるいはそのように騙って意見を述べている。
「武田をどうにか助けたいということでございましょうな。」
進藤は中坊から事情を聴き出そうと問いかける。
「それは皆そうでござる。されど、誰が、というのがなかなかに……。」
「朝倉では?」
「大舘殿は『命ずる』というのと礼物の手配のことで工夫が要ろう、とな。」
「軍勢催促を命ずるのがよろしくない……。ふむなるほど、その命令は堺方との戦のために温存しておきたい、と。では、武田にて礼物の用意は?」
「本郷殿はなんとか『なしで』と思うておるそうな。」
「銭もなんとかならぬと?」
「さあ、そこまではのう。されど、厳しいで粟屋は謀反なぞ起こしたのではないか?」
「……。」
どうやら本郷は武田の意向で朝倉への対価を渋っており、一方、大舘は朝倉に気を遣って命令の形をとることを渋り「幕府は武田が対価を払って支援を頼むのを仲介するにとどめるべき」という意見らしい。
「弾正殿(六角定頼)はいかがか、兵をお出しになっては?」
「美濃も尾張もありまするし、いざ堺方が兵を向けてきたらば、近江より京に兵を送らねばなりませぬで。」
「そうよなあ。なれども、早うせねば、それこそまことに堺方の攻めて来よることになりかねぬ、とも思わるるが。」
「六角が先に若狭を片づけよ、と?左京亮殿のお考えか。」
「いや、そうは言うておらぬが。とは申せ、丹後も若狭とは昔から悶着あるで、気がかりよ。」
「一色か……。」
丹後一色家は長らく若狭武田家と争ってきた。
実のところ、近頃はその同族で奉公衆の一色氏が、美作を占領した尼子家に所領の大庭郡久世保郷を奪われてしまったのをどうにかしてほしいと将軍に直訴していた。
しかし、幕府としては堺方と目される播磨赤松氏から美作を奪ってくれた尼子氏はなんとか味方にしておきたいところである。しかも、彼らはかつては細川高国陣営で、なにより六角氏と同族なのだ。
導き出される対応は、無視であった。
はたして、それが同族の丹後一色家にどういう風に伝わっているか。
「左京亮殿は丹後とも親しくしておられる?」
「さて、拙僧は家中の者ではござらぬでな。」
「はぁ……。」
進藤は惚けた物言いに急に疲れを感じてため息をついた。
この中坊、実のところ元は別口で主君を持ち、晴元陣営では長老役だった故・可竹軒周聡の近くにいたのが、いつの間にか木沢の与党になっていたため、確かに木沢家の者ではない。
それでいて木沢の取次として振る舞っているわけで、煙に巻く言い草といい、要するに食えない人物なのである。
すると、進藤を見つけた三好政長は「おお山城守殿!」と声をかけてきた。
政長はそれから進藤をつかまえて離さず、晴元の願いだとして
「なんとか義父殿(六角定頼)のお力添えで武田の危難を乗り越えたい」
とあれこれ言葉を変えながら頼み続けた。
のらりくらりとかわす進藤だったが、取次を介したやりとりは時間がかかることもしばしばで、その間に数日も粘られると政長に返すうまい言葉もなくなってくる。
そうこうするうちに、顔の広い大舘常興は知り合いに文を送って己の意見を吹き込むと、「あちらもこう言っている、こちらもこう言っている」という風に世論を形成し始める。
こうなると武田の取次である本郷はいよいよ苦しい立場に置かれた。
「これは大舘殿の言い分が通るであろう。おや、そういえば、本郷殿の姿が見えぬが。」
そしてその本郷であるが、進藤はここ数日は誰も彼の姿を見ていないことに気がついた。
その行方を気の付く人々が気にし始めたころ、当の若狭では事態が大きく動いていた。
東から武田家支援を掲げた元大野郡司・朝倉景高(当主弟)が乱入してきたのである。
郡司職を解任されて立場が悪化していた景高は、妻の実家の公家・烏丸家の伝手をたどり、上方で味方を作って越前での復権の足掛かりにしようと動いていた。
そうして秘かに上洛していた景高と会っていたのが、本郷であった。
姿をくらませていた本郷は、景高の郡司再任を幕府から朝倉本家に働きかけるという条件で若狭救援を頼んでいたのだ。
その間を取り持ったのは、一向に進まない議論に見切りをつけた本郷の上司にあたる政所執事・伊勢貞孝である。
朝倉本家が俄かに騒がしくなる中で、しかしながら若狭での動きはこれだけではなかった。
かつて武田家に奪われた丹後国加佐郡の所領を狙って一色家が西から田辺まで進撃していたのだ。
なんとかして若狭の混乱を早期に鎮め、忠実な若狭武田家を安定させたい。
しかしながら、室町方は南に主敵・堺公方勢力を抱えている。
彼らがこの機に北上してくるのは時間の問題だった。
◇
時を同じくして――
大和国は堺方の河内畠山氏と紀伊畠山氏、そして室町方の特に伊勢北畠氏の手が伸びていて、衆徒・国民(豪族階層)は右往左往し混乱が常態化していた。
先には戒重氏なる土豪が興福寺の命令に背く問題があって、解決は当初、興福寺一乗院衆徒・越智家の家頼という者に委ねられたが進展がなく、興福寺は室町を頼った。
結果、問題解決に派遣された元和泉守護・細川元常は、頑なな戒重氏を武力を以て打ち伏せ、越智家頼には自身の末子を養子にとって隠居するよう迫った。
このとき、大和国で一目置かれる十市氏は元常に協力する姿勢を見せたため、情勢は一気に室町方に傾いたかのように見えた。
こうして興福寺に対する豪族の反抗や彼ら同士の武力衝突が頻発する中、自衛のために本願寺系の坊主が音頭を取って今井の地に道場を立ち上げ、これを濠で囲い要塞化を進めていた。
これを座視できなかったのが件の越智氏である。
彼らの支配地は道場の南に徒歩で1刻(2時間)もかからないほどの近さであり、以前には大挙して押し寄せた一向門徒に国内を荒らされた記憶も新しく、元来この道場を快く思っていなかった。
越智氏の惣領は家栄なる者で、自立しつつあった別家が勢威を落としたことに気をよくしたのか、大胆な行動に出た。
防御施設が完成する前に破壊してしまおう。
越智家栄は今井道場を焼き討ちしたのである。
「いかにしたものかと思うておったが、これはよい言い分になろう。」
そして、今井道場の焼き討ちは紀伊守護・畠山稙長の介入を招いた。
彼の弟は本願寺に入っていたから、本願寺勢力を保護するのに十分な正当性があった。
豪族の懐柔があまりうまくいっていなかった稙長は、河内の畠山在氏も大和国でなにやら小細工をしているらしいのを鬱陶しく思っており、早めに勢力拡大を済ませておきたかったところ、ちょうどよい口実を得たと思ったのだ。
◇
ここから動きは加速していく。
「時は来たれり!讃州殿(細川持隆)にも動いていただかねば!」
堺方の雄たる三好家の凛々しき若当主・利長は、紀伊畠山家の動きで伊勢北畠家が釣り出されるだろうから丹波・山城・近江など京周辺だけ見ればよいと判断し、今が上洛の好機と見た。
そのため、美作で尼子家に敗北して萎えていた主君・細川持隆に文を送って元気づけ、その尼子家と和議を手早く取りまとめた。
尼子家も国力に見合わない大兵力を2方面に展開していたため限界だったのだ。
結局、播磨赤松家は美作1国を尼子家に割譲。備中国北部の新見氏・多治部氏・植木氏・平川氏らが尼子家に臣従して哲多郡・阿賀郡の全域が尼子家の支配下にはいった。
美作を失ったとはいえ、赤松家は領国・播磨で離反し始めていた国人の討伐に着手できるようになり、備中国南部の国人は東の浦上家と西の毛利家と結んで尼子家の再侵攻に耐える見通しである。
「典厩殿(細川氏綱)と合力し、早く京を押さえねばならぬ。三河よりも先に!」
三好家が事を急いだのは、この機を逃さず鈴木家が美濃攻めに動くと踏んでのことである。
堺方内々の評判では「美濃は大国だが東海3国を平らげた鈴木家が優勢だろう」とある。
かの家が美濃をも取るとなると、次は近江六角家との決戦となる。これまでは遠国ゆえに上方の事柄に手出し口出しをしてこなかったが、いよいよ軍勢を率いての上洛も視野に入る。
これに京を渡してはならない。
それが三好家の、いや堺方の総意であった。
三好利長は慎重さも備えており、鈴木家との縁を深める手配りも欠かさない。
聞くところによれば、幼い婚約者を持つ鈴木家現当主・重時は、その婚約者が九条家の娘であることに気を遣ってまだ側室を置いていないという。
実のところ、この頃の鈴木家は関東の北条氏の娘を側室に迎えようとしていた。
しかし、北条家の当主・氏綱は娘を駿河の今川義元の正室として求められており、鈴木家からの縁談はそれを口実に断られた。
それに、氏綱は近衛家の女性を継室としていて、将軍・足利義晴とは相婿だから、鈴木家との婚姻は幕府の意向に反するのではないかと北条家中で強く懸念されたのも大きかった。
あるいはそもそも、北条家の娘を側室にするというのは(摂家の正室に次ぐ地位とはいえ)駿河今川から自立した対等な家同士、むしろ自家の方が家格が上という認識の北条家中からすれば、好ましい話ではなかった。
とはいえ、三好家による婚姻話も難しい話だった。
鈴木家も堺方の諸家から嫁を貰うことを当然考えたが、親しい和泉守護・細川勝基の妹はすでに嫁いでしまっており、同じく友好的な河内・畠山在氏の娘は生まれたばかり。彼の亡き兄・畠山義堯の未亡人は細川持隆の妹だが、少々年上である。
それでも、細川勝基には鈴木氏の女と紀伊国熊野を差配する鈴木家重臣・鳥居忠吉の間の娘を嫁がせ、畠山在氏の娘を鈴木家当主・重時の弟の松平竹千代の嫁にもらうとの約束を交わしてある。
一方、三好本家でも当主の妹はすでに嫁いでしまっており、彼らの主君たる阿波守護・細川持隆の妹婿らの娘たちが候補にあがったが、いずれもまだ幼い。
なんとか持隆正室の大内氏娘に仕える阿波国人・岡本氏の娘が候補になるが、これと会見した持隆はあろうことか、その美しさに手放すのを惜しんで手籠めにしてしまう。
結局、三好家から持ち掛けた婚姻話なのに、候補がいなくなって話は立ち消えとなり、かえって両家の間にはしこりが残ることになった。
なお、このときの持隆は美作での敗戦が尾を引いていて心が弱っていたらしい。
愛妾によって心が癒されたのか、反省して「己には悪いものが憑いている!」と判断。厄を払い、「細川氏之」と名を改めた。
堺方がこれを機に上洛戦を仕掛けてくる。
戦場となるだろう京は慌ただしさを見せ始めた。
【注意】第123話で細川持隆の別名を氏之としていましたが、本話で改名の理由を作れたので第123話の方を修正しました。ちなみに、細川持隆・氏之で運勢を調べたところ、持隆がびっくりするくらい最悪で氏之がほどほどでした。そもそも持隆という名は実際には名乗られなかった可能性が高いそうです。
【メモ】史実で粟屋勝春は天文4年に一向法華の乱で戦死しており、反乱の首謀者は粟屋元隆です。反乱の神輿も本来は武田信孝で、本作での神輿の信実は尼子方の後押しで安芸武田家に養子に出ますが、養子に出る前に安芸武田家が崩壊したので、違いが生じました。おかげで安芸では大内家・毛利家の勢力がやや安定します。細川晴元も管領か微妙なようですが、本作では安定した政権内で見習い管領として作法などを習得中です。




