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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第11章 南海編「他なるもの」
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第152話 1538年「匂当内侍」

 天文7 (1538)年。

 鈴木家の本国三河は石高にして30万に至ろうというところ。両隣の東尾張20万石と遠江25万石の計75万石の土地から兵2万数千を集められる。従属する織田家(信秀)は西尾張20万石から数千の兵。

 これに対し、土岐家の支配する美濃は尾張1国に相当する豊かさで、鈴木家を奇襲したときの兵数が1万近かったことから、しっかり用意すればもっと多くの兵が集められるだろう。その背後の同盟国・近江六角家はさらに富裕でこれまでも上方で1万、2万の兵を動かしてきた。


 鈴木家当主・重時は、しかし、六角家は上方にかかりきりであるし、土岐家はしばらく前の大洪水が後を引いて内が定まらないことから、大兵力をぶつけて短期に押し込めると主張した。

 織田家が美濃南西部の木曽川沿いを脅かし、鈴木家が美濃1国の最大兵力を上回る戦力を見せつけながら東濃から西進して領土を奪うのである。

 重臣団は当主の判断を支持し、場合によっては美濃国人衆は抗戦を諦めるだろうし、最低でも数郡を切り取る結果になるだろうと見込んだ。

 その命を受けた奉行衆は、当主の交代や従属国衆の転封などに並んで、2万の遠征軍の手配と彼らが不在の間の国内の人手の配分など繊細な仕事に追われて疲弊しつつ、なんとか体を動かしている。


 その中で、前当主・鈴木重勝には不安があった。

 八丈島で南方の異邦人の相手をしながら、そろそろ三河本国では忘れられ始めている奄美諸島の世話も焼いている重勝は、近頃は手紙の人であった。

 気質として、もうどうにもならないのだろう。

 彼が隠居したのは心労に耐えかねてであり、俗世の報せが入ってこない南海の孤島で静かに心を休めるはずだったが、少し余裕が出てくると俄然、世情を知りたがり、あちこち旧縁をたどって手紙のやりとりをしているのだ。

 そうして美濃を取り仕切っているのが先に名字を長井から斎藤に改めた守護代・新九郎利政なる者であると知るや、重勝は不安を覚えた。かの者が斎藤道三であると確信したからだ。

 しかも重勝はいまだに織田信秀を信用しておらず、東と南で美濃を挟み撃ちするという計画がうまくいかない可能性を気にしていた。

 そのため、ともかく美濃国の状況をもっと知ろうと、同盟相手の信濃国木曽・美濃国恵那を支配する木曽義在と文通を重ね、やがて次善の策が立ち上がった。

 木曽家と付き合いのある飛騨国衆・三木直頼を引き込み、北からも土岐家に圧をかけるのである。


 ◇


 京は烏丸通の山科言継亭。

 亭主の山科に招かれて参議(宰相)・高倉永家が酒宴に興じている。

 天皇家の装束の手配を分掌する高倉・山科両家は婚姻でも深く結びついており仲がよい。


「――では、こたびも禁裏小番のことは。」

「ええ、お任せくださいませ。」

「ありがたや。絹布が届いておじゃるで融通しよう。」


 高倉はいつものごとく禁裏の宿直番を山科に代わってもらう相談をしていた。

 高倉家は外様衆という家格で、山科家は内々衆の家格。外様が内々の代わりをするのはできないため、山科は他家の割当もときどき肩代わりして、そのお礼を生計の足しにしていた。

 今回の絹布も他家への贈答品に転用できるから、家計の負担が減る。

 ちりも積もればだが、少し前に室町方に枚方楠葉の関銭収入を没収されて、補填するはずだった今川家もそれどころではなくなり、丸損となった山科には今は大事な収入だった。


「布は三河の?」

「左様。紙に続いて布もとはのう。かの家の東国一豊かと言わるるは納得でおじゃる。」

「それまでは宿紙用に反故でもない紙を手放しておじゃりましたからな。蔵人所も宿紙の工面に汲々(きゅうきゅう)とせんでよいので喜んでおじゃりまする。」


 紙云々は、しばらく昔に鈴木家が宿紙座の職人を三河に招致する代わりに、三河紙や宿紙(漉き返し紙)の材料となる古紙を上納するようになったことを言っており、それ以前は図書寮にある経典を破いて漉き返すなどしていた。

 それと同じく、上方での地盤固めを進めてきた鈴木家は、高倉家が監督する西陣の織手(機織り職人)の下向を求め、三河の織物を「西陣」として売り出す代わりに、高倉家に織物や在京の織手の給料を納めるようになっていた。


「そうでおじゃるな。これも鈴木が今川を追い詰めたがゆえか。しかし、よもやこうなるとはのう……。叔母御殿(寿桂尼)のご心痛はいかばかりでおじゃろう。」

「幸い前中納言様(冷泉為和)が叔母上を気遣って下向なされ、諸家の間をお取り結びいただく運びでおじゃりますれば、東海も落ち着いてきましょう。」

「ああ、それで言えば、三河からは内々に大樹のご次男殿のお祝いもあったでおじゃれば、『南北大樹の分かれておるはよからず』と思うておるのでおじゃろう。そなたには残念なれど、こうして駿河とも決着したからには遺恨の元を除かんとするはよいことでおじゃる。」


 高倉は、年始に鈴木家の松永久秀から「近衛家にお口添えを」という言付けとともにお祝いの品が贈られたのを思い出して言った。

 先年末には室町将軍・足利義晴と近衛家の正室の間に2人目の男子が生まれたが、鈴木家は堺の公方を支持していて室町方と険悪であるから、大っぴらにこれを祝うことはない。

 だからこそ、室町とも親しい高倉家を介し、なおかつ年始の祝いにかこつけて、近衛家のご機嫌伺いをしようという魂胆なのだろう。高倉は松永の振る舞いをそう理解していた。


「少弼殿(六角定頼)にも『大樹の南北にて互い互いするの愚に至らず、なんとか和合を』とよくよく頼んでまいったが、実を結びつつあるようでおじゃろうの。」

「……そうでおじゃりまするな。」


 高倉の楽観的な物言いに山科は微妙な間を空けて答えた。

 高倉が言っているのは、「南北朝の両統迭立のように、将軍を室町と堺から交代で出すのは絶対に失敗するからやめた方がいい」ということである。

 堺公方・足利義維は室町将軍・義晴の兄弟であり、しかも朝廷から正式に次期将軍に与えられる左馬頭の職を認められている。将軍職請求の正当性は十分だ。

 どうにか揉み消せればいいが、堺方は数年前の一向門徒の大乱を切り抜け、今や「義維の次期将軍の地位は朝廷に約束されている」と喧伝している。

 せめて交渉で1代限りの将軍任命という形でどうにかならないか。

 実際、室町方と堺方が京の近くで戦に至ってはたまったものではないと思う公家衆は多く、室町幕府重鎮・六角定頼もできれば穏便かつ早期に解決できればと思っていた。

 それはそうなのだ。

 しかし、山科は見込み薄と睨んでいる。

 義晴は天文5 (1536)年に嫡男が生まれると、これに将軍職を譲って引退しようと騒動を起こした。理由は政務による気疲れと聞くが、義晴が堺方に将軍職を渡したくないからに違いない。

 なにしろ、頼みとしていた今川家がお家騒動で勢威を落とし、これを追い落とした鈴木家では当主の早期引退で家督相続に成功したわけで、「己も」と思うのは自然なことだ。


「とはいえ、木沢(長政)は丹波でうまくやりおおせたとか。近江衆だけで幾万の兵がおじゃって、右京大夫殿が山城・丹波にて同数集むるとなれば、わざわざと次の公方を譲るまでもなしと思う者も多くておじゃりましょう?」

「木沢なあ。畠山被官かと思えば、前管領殿(細川高国)に味方し、やがては右京大夫殿の許へとあちらへこちらへしおって、我らも嗤ったものでおじゃったが。」


 右京大夫とは細川六郎晴元のことである。

 晴元は三条公頼次女を娶って、同長女を娶った故・今川氏輝の義弟となったが、それと同じくして右京大夫に任官し、京兆家の当主としての地位を確立させていた。

 しかし、分国の丹波の支配は定まっておらず、争乱続きの中で細川家内衆だった国人が自立し、晴元の動員令に十分に応じられなくなってきていた。

 京兆家に昔から仕える守護代・内藤氏に対し、一時は敵になりながらも転向して晴元に重用され始めた波多野氏が対抗し、背後では内藤氏属下の赤井氏が波多野氏と通ずるといった有様である。

 これをどうにかするよう命じられたのが晴元側近の木沢長政だった。

 彼は旧本拠地の河内で堺方の支配が安定してきて、自身の復帰の見込みがなくなったことから丹波に地盤を築くつもりで精励し、内藤氏を叩く形で与党を作って見事に丹波衆を配下に収めていた。

 そんな木沢の活躍が煙たいのか、高倉は何かをかき消すようなそぶりで手をひらひらと振った。

 すると、それで酔いも払われたのか、少しすっきりした頭で山科に相談したいことがあったのを思い出し、急に話題を変える。


「ああ、そうやった。徳大寺殿(実通)のことでおじゃる。」

「亜相殿(権大納言=実通)の……。もしや、お子のことで?」

「耳が早いでおじゃるな。左様、近衛の大政所殿(近衛尚通妻・徳大寺維子)から『亜相殿の奥方の立腹の由を知りたい』ときておる。」


 高倉は、なんとも言葉にできない表情で言った。

 徳大寺実通は三河に下向していた公家で、妻は鈴木家の外交を担った故・吉田兼満の娘である。

 少し精神的に不安定だった彼女も、三河で鈴木家の奥勤めの女性に作法などの手ほどきをしながらゆったり暮らしていたが、突如送られてきた実通の叔母・維子からの手紙で狂乱に陥った。

 実通は維子を非難する手紙を出して急遽上洛したが、手紙を受け取った維子は困惑し、室町方と親しく血縁もあり、なおかつ三河とも付き合いのある高倉に様子伺いの問い合わせをしてきたのだ。


「養子をお取りになるよう勧めたと聞いておじゃりまするが……。よもや、大政所殿は嫁御殿に男子のお生まれになったをご存じでない?」

「そうらしい。男子があって健やかに育っておるところに養子を押し込もうとしたとあってはなあ。いかが伝えたものでおじゃるか。」


 この年、近衛家からの養子が当主となっている久我家で隠居の先代に男子が生まれ、跡目争いになる恐れがあった。そのため、子の母親が徳大寺家出身であるから、なかなか子ができなかった実通の養子にどうかという話になったのである。

 しかし、実通にはすでに男子が生まれていた。それなのに、将軍家と昵懇で権勢著しい近衛家から養子をどうかと言われては、実通夫妻が驚き不安になるのも当然であった。

 どちらが音信を怠ったというのでもないのだろう。あれやこれやが積み重なって、どんどん疎遠になっていき、致命的な齟齬が生じたのだ。


「なるほど……。」


 助言を求められた山科は思案する。

 近衛家が徳大寺殿に子がいるのを知らなかったのは仕方ない。

 しかし、なぜわざわざ高倉宰相に問い合わせたのか。執り成しを期待しているのだろうが、少し奇妙だ。事情からすれば近衛家の手落ちだろうから、宰相殿はそちらをかばう形になるだろうか。

 なるほど、そうなると徳大寺家と高倉家には微妙な隔たりができるかもしれない。どちらも鈴木家と縁を深めつつある両家である。これはそういうことなのか?

 一方、山科家としては駿河今川家との縁を無視できない。かの家は両隣の鈴木家と北条家の様子を伺わなければ風前の灯火である。室町殿の顔色ばかりでは成り立たない。


 今ここで、己の回答で、高倉宰相の立ち位置が変わってくる!

 山科は背や脇にじんわり湿気を感じながら必死に考えた。

 しかし!特段よい案もない!


「いや、もうそのままお伝えになればよいのでおじゃりませぬか?」

「そなたもそう思うか。ならば、それしかないでおじゃろうな。」


 山科の返事にあっさりとそう返した高倉。

 結局のところ、彼も面倒事に深くかかわりたくなく、距離を置くよう山科に背を押してほしかったのだろう。なにしろ、彼には目下はるかに大事なことがあるのだから。


「それで、でおじゃる。本日、麿がそなたを訪ねたは他でもない。例の姉小路のことよ。」

「でおじゃりましょうな。さても――」


 そう言った山科は、ここでちょっともったいぶって間をとると、さらに続ける。


「鈴木家で養われておるという高橋外記。まずこちらの身元は確かでおじゃりました。そして、かの者の示した姉小路と鈴木の縁続きの話も、系図で調べがつきましておじゃりまする。」

「では?」

「はい、匂当内侍殿(姉小路済子)にはお下がりに、藤内侍殿(高倉永家養女・量子)にはお繰り上がりになりていただき、刑部少輔殿(鈴木重勝)の娘御(松子)には姉小路の跡ということでひとまず今参(新参女房)として出仕していただく運びになりましょう。」

「おお!」


 高倉は大きな声を上げた。

 養女・量子が、中級女房の序列一位である匂当内侍になる見込みが立ったのを喜んだのだ。


 この話は少々複雑である。

 元々、姉小路済子の前に勾当内侍だったのは、高倉永家の叔母・継子だった。それゆえ高倉は、叔母が10年ほど前に亡くなったときに、己の養女を後任にするよう後奈良天皇に願い出た。

 しかしいかなる叡慮によってか、これは退けられてしまう。代わって勾当内侍となったのが、異例なことに飛騨姉小路家の済子であった。

 高倉は不服だったが、ここ数年で済子の実家の勢威は低落。実家の支援なしでは彼女も働きにくい。

 しかも近頃は上臈(最上位女房)だった大炊御門家の二位局に、長年よく手伝ってきた播磨局と、次々と女房衆が亡くなって、二位局の後継は20歳そこそこの西御方。人手不足が深刻だった。

 高倉量子の実父・薄以緒には、これも異例なことに、彼女の妹・好子も出仕させたいと熱烈な相談があったほどで、支援の負担も大きくなるし「さすがに姉妹揃っては」と薄は渋っていた。


 新しい女房を立てるとなれば、それにふさわしい衣装や仕事に必要な小物をそろえたり、側付きの給料の当てを用意したり、出費は避けられない。

 一応、女房には手当てが出るとはいえ、過去には仕事に比して得るものが少ないと不満をこぼして出奔した者もいるほどである。

 そこで、近頃は三河に後援者を得て懐も温かい高倉永家が、己が支援する代わりに繰り上げで量子を勾当内侍とすることを求めた。

 しかし、さすがに何もなしに鈴木家にその支援を頼むのは、例えれば贈答の関係で一方的に物をもらいすぎて評判を落とすようなことになる。


 どうしたものかと思案していたところ、驚くべきことに八丈島から姉小路家の話が飛び込んできた。

 もっとも、これは姉小路家そのものの話ではない。

 鈴木家は飛騨で力を増す三木家との縁つなぎを欲しており、その三木家は没落した姉小路家にとってかわる大義名分が欲しい。

 その中で、三河に下向して養育された六位外記・高橋之職なる若者が、鈴木家の先祖が姉小路家の先祖である藤原北家小一条流を女系で引いていることを見つけたのである。

 この高橋は孤児になって困窮していたところを、鈴木家で文書作成の仕事をこなしてきた故・中原康友に拾われ、師父たる康友の薫陶を受けて系譜の学に通ずるようになっていた。

 鈴木家の女が姉小路の名跡を継ぐに足る、という風になれば、これと三木家の嫡男を婚約させれば両家はともに利益を得ることができる。

 鈴木家としては飛騨から美濃土岐家に対して圧をかけることができるし、三木家は姉小路家を完全に支配下に置く道が開けることになるのだ。


 そして、これは高倉にとっても利益になる話だった。

 さすがに己の養女のために前任の匂当内侍を引退に追い込むというのは権力欲が過ぎる。

 鈴木家の娘を姉小路の跡目とし、実家の没落のみならず歳も取ってきて宮仕えに疲れを見せる済子に代えて出仕させるのは、表面だけでも穏便にするのにちょうどよかった。


「ホホホホホ!刑部少輔殿(鈴木重勝)は、細やかなところが武家にしておくには惜しいでおじゃる!そうでおじゃる、柳酒がまだいくらかあるでおじゃる。そこな者!とって参れ!」


 高倉は嬉しい話に気が大きくなり、雑色に命じて自邸に柳酒を持ってこさせる。

 とっておきの逸品が来るまで、上機嫌の高倉は山科に三河のことでさらに手伝いを頼み始めた。


「その高橋なる外記でおじゃるが、明経道や奏文を中原家(故・康友)の者に習い、神道を吉田家(故・兼満)の者に習い、歌を亡き宗長殿に習ったという。幼き頃は元服まで育つかどうかと危ぶまれたそうでおじゃれど、今や健やかでおじゃれば、嫁の世話などよかろうと思うておじゃる。」

「ほう、左様に仰せとは、お心当たりが?」

「うむ、聞けば三河には楽人の多家の者が行き来しておじゃるとか。(楽所)別当のそなたならばよく知っておるでおじゃろう?」

「よくとまではいかねども……、そういえば京の当代殿(多忠宗)は『失伝に備えて三河に楽所の文庫を設けるのはいかが』と尋ねてきたような。」

「その多家と件の外記とを結ぶのはどうかと思うておじゃる。」

「ふむ、よきご思案でおじゃるやもしれませぬな。」

「でおじゃろう?」


 高倉はにこやかに言い放って、やがて届いた柳酒に舌鼓を打ち、ぐでんぐでんになるまで山科邸で酒盛りを続ける。

 付き合いで杯を重ねる山科は、高橋という外記が参内すれば人手不足もましになるかと期待を持ちつつも、おそらく彼の家領は散逸しているからどうしたものか、と頭の片隅で考え続けていた。


 ◇


 かくして、人手不足をどうにかしたいと腐心していた女房衆の圧に負けて、後奈良天皇は渋々これら一連の措置を受け入れることになった。

 薄以緒の次女・好子は侍読・五条為学の養女となり、目々内侍として出仕することになる。

 こうなると高倉派の女房が増えたように見えるが、宮中運営はどちらかといえば室町方の三条家・大炊御門家・勧修寺家・広橋家が結託して握っており、上級女房の典侍はすべてこの派閥の者である。

 それゆえ高倉家の力は伸びたりとはいえまだまだである。

 永家はさらに、貧したる壬生家出身の伊代局の幼妹を預かって養育して出仕させるなど、機を見ては策を講じていくことになる。


 一方、鈴木重勝の次女・奥平松子は三木家との婚約など支度が済めば上洛し、四条の武野紹鴎邸に逗留して引退する姉小路済子から手ほどきを受ける予定だ。

 在京雑掌としては、以前の約束通り、遠江国人でありながら京とのつながりを持つ天方道芬らが一団をなして派遣される。

 しかし、彼女の母親である奥平()()は、双子の娘の片割れを喪ってからなかなか子離れができずにいて、この扱いに大いに機嫌を損ね、娘に付いて上洛すると言って聞かない。

 松子は参内してしまえば害されることもそうないはずだが、情勢的に今の京はいつ戦場になってもおかしくない。

 不安が拭えない彼女は、代わりに遠江に移った一族から松子の大叔父にあたる奥平左京進貞次を世話役に送るという案で、何とか引き下がった。


 もっとも彼女が諦めたのは、重勝が他にも娘の支援に手を尽くしていると知ったからだった。

 京での味方を欲して、公家と広く婚姻を結んで宮中に大きな影響力を持つ本願寺とさらに接近し、浄土真宗の山科興正寺・蓮秀に接触したのである。

 蓮秀は本願寺法主・証如と紀州門徒の間を取り持つ役割を果たす人物だが、山科興正寺は天文初年の戦で法華門徒に焼き尽くされており、その再建補助の代わりに娘の支援を頼んだのだ。

 さらに、彼との縁を長く保たせるために、重勝は三河本宗寺を興正寺の末寺とし、住持の派遣を求めた。本宗寺は、かつて一向一揆の際に敵対した実円が住持だったが、これを殺してしまった結果、寺の再建後も彼の子で住持職を引き継いだ実勝に赴任を拒否されていたのである。

 なんにせよ、蓮秀との関係が深まっていけば、実質的に敵対している紀伊守護・畠山稙長に対する交渉役になってくれるかもしれない。

 実のところ、重勝は堺公方と疎遠になりつつあるのを懸念していた。そのため、今回のいわば「女房政治」から学んで、人質にとっている戸田家の娘を養女にして堺の足利義維に仕えさせる案を三河に打診してすらいた。

 今度こそ家族を大切にする。美濃のことしか考えていない息子のために、できるだけ他事で煩わされることがないよう、あれこれ思案を止めない重勝であった。

【作者用備忘録】

①三木直頼・木曽義在は父世代では対立したが、義在が関係を改善させた。本来、三木家は土岐家と友好。時頼の子・良頼(1520年生)は母が長橋局(勾当内侍)とあるが、どういうことか?

②鈴木重実妻が姉小路家祖・藤原済時の姪(養子・藤原実方の妹)。姉小路家は姉小路済俊の早世後、田向家に養子に入っていた彼の弟・重継が下向して管理か?

③戸田氏=康光娘・真喜姫、史実の徳川家康継母、作中の女房名は小刑部局。

④女房:大納言典侍・勧修寺尚子(若い)、新大典侍・水無瀬具子(広橋家養女)、権大納言典侍・広橋国子(後奈良天皇の母の故・勧修寺藤子の姪、若い)、中山局(元足利義稙女房、藤子が連れてきた)。

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― 新着の感想 ―
[良い点] >鈴木家の先祖が姉小路家の先祖である藤原北家小一条流を女系で引いていること 女系もかなり重んじられますからね。上手く繋がれば幸いです。 [一言] 約束事と言えば、起請文ですな。 武家の場合…
[良い点] なんか、息子はん毒が足らないなあなイメージ。まだまだ戦国だから、大丈夫かなあ。はかりごと大好きなマムシさんとバトルかぁ、、、まあ頑張って!美濃押さえて経済圏広げてたらもう負けんやろ。
[良い点] そうかこの年代だと畿内最強は全盛期の六角定頼か あとは北の戦闘マシーン朝倉宗滴がジジイなれどまだまだ元気、と この辺はこっからどう動いて来るのかなあ
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