第15話 1515年「弟びいき」◆
野田の甚三郎のもとに、来客の報せが入った。
客は信濃から街道伝いに長篠にふらりと立ち寄り、これを迎えた城代の源七郎が、案内の人を付けて野田に送ったとのことだった。
「来客?信濃から我らにか?」
「はい、小笠原の右馬助様と名乗られておるとのことにござり申す。」
「小笠原?信濃守護の?よもやご本人にてはあるまいな。ご親族か?」
「おそらく……。」
「それはお待たせするわけにはまいらん。ただちに行かねば。」
慌てて着物を直すと、甚三郎は来客を出迎えた。
「ようこそいらっしゃった。野田の差配を任されており申す鈴木甚三郎重勝にござる。」
「うむ。それがし、信濃は小笠原『宗家』が『嫡流』、右馬助長高なり。」
「信濃守護のご嫡流の右馬助様が、かようなところへいかなるご用向きでお越し召したのでござろうか。ん?あいや、お待ちを。」
妙に力んで答える客人を前にして、甚三郎にはその理由に思い当たるところがあった。今川家を取り巻く状況を調べた際に信濃小笠原氏の事情に聞き及んでいたからだ。
厄介な話題のため、失礼にならないよう気を付けながら、甚三郎は問いかけた。
「けだし、信濃にては府中と松尾でもめておられると聞き申したが、右馬助様は……?」
「うむ、それがしは府中の『宗家』の出なり。」
「左様でござるか。府中小笠原家のご嫡流……ご当主様のご嫡男あるいはご嫡孫にてござるか?」
「……いや、それはな……。」
苦り切った顔で返事を濁す長高に、甚三郎は何やらお家騒動の気配を感じ取った。
長高が本当に信濃守護の嫡男か嫡孫であるならば、今のお供は数も少なく、まともな家臣らしき家臣も見られないのは異常である。
これは落ち延びてきたか、と感づいた甚三郎は、追い返そうかと思ったが、自家が今は尋常ならざる人手不足であることを思い出し、勧誘を試みることにした。
「いやいや、これは失礼いたした。ご気分を害すること申した模様。
それがし、事情は存じませぬが、小笠原氏と言えば故実に通じた誉れ高きお家柄。
我らは足助鈴木より分かれて短き間に所領を広げし新たなる家ゆえ、なにとぞ当家にお留まりいただき、ご指導をたまわりたく願い申す。」
それを聞いた長高は予想外といった感じの表情をして少し考える風だったが、やがて嘆息してこう言った。
「はぁ。通りがかりに奥三河で噂を聞き申したが、その方、聞きしに勝りて如才ないことよ。
大方存じておろうから敢えて言ってしまえば、実のところ……それがし、弟を贔屓した父に廃嫡されたのである。しばらく尾張は知多にて世話になっておったが、先ごろ父が身罷ったゆえ『これは好機ぞ』と思うて信濃に入りたるも……この有様よ。
府中に帰るを諦めたわけではないが、機の熟しておらぬことは承知した。とはいえ、やがて信濃に攻め入るならば、後ろの三河のことを知るは肝要ゆえ、帰りしなに、何やら騒動ありと聞き及んだところの東三河を見に来た次第。
されども、信濃に戻ると言って出たからには、知多には少々帰りづらく思っていたところよ。その方がそのように申してくれるとは思っておらなんだが、かの地におってもすることもないからのう……。」
信濃に帰ってもおそらくはその弟がすでに支配を固めていて、期待していたようには支持者を得られなかったのだろう。それを目の当たりにして気持ちが挫けてしまったのかもしれない。甚三郎はそのように思った。
「右馬助様はいずれは府中にお帰りになるお立場。当家にて客将として武者・軍兵のご指導を賜ること、かない申さぬか?
当家の家中は大きな軍勢を率いたことのある者もおらず、兵法に精通したる者もほとんどおりませぬ。お助けいただければこの上なくありがたきことにて。」
「……さまで言わるれば、それがしもその方の頼みに応えぬわけにはまいらず。よきかな、それがし、小笠原の名に恥じぬ兵法家として尊家に力添えいたそう。」
「まこと、かたじけなきことにてござる。」
こうして熊谷・吉田鈴木家には小笠原長高が仕えることとなった。
長高は野田・長篠・宇利の各城の増築を監督する傍ら、野田で甚三郎、鳥居源右衛門、熊谷の嫡男・次郎左衛門直安らに兵法を説き鍛錬の面倒を見た。
守護の家柄で武家故実を伝える小笠原の者が仕えたという話は、熊谷家・吉田鈴木家にとってよい評判として広まり、両家の名声を高めることとなった。
【史実】小笠原長高はこの後しばらくして、今川氏親に仕えて遠江国の馬伏塚城を任されます。