第150話 1537年「唐瘡」◆
摂津国住吉郡平野郷の豪商・末吉藤右衛門は堺政所から銅銭鋳造の特権を認められている。
いうなれば堺の紐付きだが、しかし、その自立心は非常に強い。
末吉の目には、堺の町衆は一向門徒に焼き討ちされた後、町を再建した三河鈴木家によって骨抜きになったと見えていた。
自分たちは違う。平野は己らで守る。
そう誓った末吉ら平野郷の地下人は、摂津国の支配をおおよそ固めた三好家が代官を送ってきたときにも、兵を雇ってこれを郷に入れずに追い返した。
先に堺方内々で奄美をめぐって――もっといえば琉球交易の今後について――騒動があった際には、銭座に強い影響力を持つ鈴木家の邪魔をしてやろうと、先代当主が求めたとかいう航路停止の案に猛反対した。
これで鈴木家の勢いも鈍るだろう。
「そう思うておったが、どうにも様子が違うてきたか。」
鈴木家は堺政所の者らや己のような彼らを疎む商人に見せつけるかのように、南の貝塚に立派な町を造り始めていた。堺の商人も一部はそちらに移るようだ。
いまや紀州より東は三河の勝手ともいえるほどとなっている。しかし、己は実のところ三河がどうなっているのかよく知らない。このままでいいのか。
「おい、勘兵衛。」
末吉は次男の勘兵衛利方を呼んだ。
「なんでしょう、ととさま。」
「おぬし、三河に行ってまいれ。」
「へえ?」
かくして数え12歳の末吉勘兵衛は貝塚に赴くことになった。
◇
「ととさまは『3年奉公して手代になって廻船の仕事でも取ってこい』というが。」
勘兵衛は、人知れず懐の父親からもらった紹介状に手をやってその在処を確かめ確かめしながら、濠と土塁のできつつある貝塚の町の門に至った。
木戸から中を見る限り、道が通って両側に町屋が建てられつつあるようだ。
門兵は人の出入りが多く気が立っているようで機嫌が悪い。
少年は、貝塚に物を売りに来た郷の商人に引っ付いている。これなら特に何もないだろうと思っていたが、よりによってその門兵が誰何してきた。
「そっちのは親か?」
「いえ、郷の者でして。親からは三河屋に奉公に行けと――」
「そんなやつばかりだ。」
兵が吐き捨てるように言うと、平野郷から来た者らは気色ばむ。
「なんだと!なめた口きくなよ、勘兵衛は平野郷一の乙名・末吉殿の次男坊ぞ!」
「うぬこそ、なめたまねしよるなよ!ここは鈴木様の町じゃ!乱暴者は通ること罷りならぬぞ!」
「なにをぅ!」
とはいえ喧嘩になっては互いに面倒なだけであるから、双方で割合まともな者たちが間に入り、あれよあれよといううちに少年の身は町の中に入っていた。
見回すと向こうの方に真新しい寺らしき建物があって人が集まっていた。
「なんの騒ぎであろう?」
「おや、ご存じでない?」
そばにいる郷の者に話しかけたつもりが、返ってきたのは別人の声だった。
見れば、法師の風体の男である。
「え、いや、その。」
人違いをして恥ずかしく思う勘兵衛に、法師は気にせず答える。
「こたび、ここ貝塚の御坊は法主様よりご本尊(方便法身尊像)を賜ることとなってな、門徒みなでこれを拝みに来ておるのよ。」
「法主様?」
「おやおや、これは本当に何も知らぬと見ゆる。ここは本願寺末寺の願泉寺、顕誓上人が住持となられる。法主様といえば証如上人であろうよ。」
「ああ、武野なる御仁が音頭を取っておったとかいう?」
「左様。武野殿がご尊父と三条西様のご供養に、と呼びかけなさってな。」
「そうでしたか。しかし、それにしても人が多くてありまする。みな門徒の方々ですか?」
「普段はこれほどではなかろう。鈴木家は本願寺と仲を深めたようなれど、かの家と門徒の諍いは世に知られておるしな。されど、こたびはなにしろ住持が顕誓上人で、しかもかのお方と、今は河内で出戻り門徒の世話をしておるが、実悟上人とで加賀の門徒に合力せんという話で人が集まっておるのだ。」
「加賀の。そういえば、なにやら本願寺ではしばらく前に大坂者と加賀者とで悶着あったとか。それでありまするか?」
「うむ。元は顕誓上人が悶着を起こした側で、勘気を被っておった。されど、こたび実悟上人とともに法主様よりお許しありて祝着とのことで、法主様の加賀を安んじたいとの願いに応えんと、顕誓上人は討ち入りに熱心なのだ。」
数年前、本願寺では法主を頂点に一家衆(法主一族)で教団を支配する体制をつくる動きがあった。
その中で派閥が分かれて加賀で乱が起こり、主流派からこぼれて破門されたのが顕誓や実悟である。
このときに本願寺教団の最高指導者となったのが、法主・証如の父方の大叔父にして母方の祖父である蓮淳だった。
教団がなんとかまとまっていたのは蓮淳の強引ともいえる指導力のおかげだったが、同時に、天文初年頃に室町方と堺方で分かれた大戦に首を突っ込んだのも蓮淳だった。
この大戦の最中、教団は門徒を統制できなくなって各地を荒廃させ、恨みを買って諸勢力から袋叩きにあい、まずいことになった。
追い詰められた蓮淳は証如を捨てて伊勢に落ち延び再起を図ろうとしたところ、道中の伊賀で、たまたま間者働きをしていた鈴木家の柘植党に見つかって暗殺されていた。
蓮淳を喪った教団では無理がたたって上層部が内部分裂。証如は一念発起して、母の融誓尼の援けを受けながら難局を切り抜けるべく諸勢力との融和に努めた。
しかし、それを弱腰と見くびった蓮淳の娘婿・実玄は、先には義父に従って教団の支配を強めるように動いたにもかかわらず、今度は「己が加賀・越中を取りまとめん!」と下向していた。
加賀で分派が再び台頭すると、堺に潜伏していた実悟らを許すなど、証如はかつて排除した勢力も味方に取り込んで加賀の支配を取り戻すことを企図した。
要請を受けた実悟は今のところ、先の大乱で追放された河内の門徒が還住するのを支援しているが、蓮淳に虐げられて餓死寸前に追い込まれた近江堅田本福寺の明宗・明誓の父子などは、加賀攻めの暁には彼らを慕う支持者を厚遇するという約束に導かれて加賀派遣軍団の中核をなしている。
河内畠山家が本願寺と懇意にする一方、同じく堺方内部で立場が微妙な鈴木家としても本願寺にいざというときの味方になってもらえたら心強い。
そう思った松永久秀は、かつて彼らと敵対した先代当主・鈴木重勝の許しを予め得るなど、万全の根回しの上で彼らとの協力について本国に許可を得ていた。
その結果が願泉寺の建立と、証如からの本尊の下賜であった。
「へえ、お詳しいですねえ。」
「まあなあ、というのも拙僧は――」
「右京坊!そんなところで何をしておりますか!」
雨龍紋の豪華な羽織を着てお付きの者たちを従える恰幅の良い男が、勘兵衛の隣の男に呼び掛けた。
「ああ武野殿、いやなに、若人に世事を説いておったところにて――」
「門徒の面倒を見るのではなかったのですか!行きますよ!」
では、と言って去る右京坊。
これを連れて行ったのは武野紹鴎その人であり、右京坊は彼によって京から連れてこられた遍歴僧であった。彼は卜半斎了珍と名乗りを変え、加賀に行く顕誓に代わって願泉寺を管理することになる。
◇
勘兵衛は、貝塚での用が済んで平野に戻る者らに別れを告げ、三河船に乗る。冷や汗をかきながら紀州沖の難所を越え、伊勢に寄って熱田にたどり着いた。
父のもとで商いを多少は学んでいた勘兵衛は「三河を調べてこい」という父の命に従って自分の知らない物事に特に気を向けている。
そんな彼は気になることがあって、己に付いている三河屋の手代に質問した。
「堺の為替が(伊勢)山田でも(尾張)熱田でも通ずるのですか?」
「ああ、というよりも、もとは堺なり駿府なりで熊野御師の切紙(為替)が使われておったが、三河で割符屋が増えてその割符、『半貫文』というが、これも使えるようになったんだ。」
勘兵衛は丁稚として入ってきたとはいえ平野郷の豪商の息子であるから、三河屋でも粗略にはできず、手代は普通の丁稚にやるのとは違って丁寧に対応する。
「割符ですか、そうなると割符屋と広く見知りになっておかねばなりませぬか。」
「そうでもない。普通は行った先の割符屋で銭に替えるんだが、いや、元は三河のこれもそうだったか、なれど今や木札のまま使われて、そうさな、木札を渡して300文の物を買うたら、物と200文が返ってくる。」
「どこでもですか?」
「東海から堺までだ。便利よな。ただ、初めは半年で柄が変わって、取り替えねば反故と厳しかったで、たびたび揉めたわ。今は2年ごとの取り換えになっておる。そのたびに五分の銭を払わねばならぬがな。」
「それがこれですか。それならば、こちらは何ですか?」
勘兵衛は半貫文と呼ばれる木札とは別に、手代の持つ文字がびっしり書かれた紙を指さして言う。
「これは山田の羽書だな。5疋(50文)だで使いやすいが、こすれて読めぬとか、濡れて読めぬとか、いろいろある。初めは造りが雑で偽物が出回ったで、我ら三河は伊勢船を湊で追い返したこともあった。今はほれ、絵が入っておろう。これで偽書はさほど見なくなった。
半貫文は木札にあれこれ彫ってあるで、悪くもなりにくいし、偽札もそうは出回らぬ。まあ、いざ銭を引き出さんとして本銭がないのはままあるが。」
「へえ。」
「近頃は、津島でも織田様(信秀)の肝いりで何やら作っておるそうな。またぞろ偽札でも出てこないかと噂よ。」
勘兵衛は舟から荷を下ろすのを手伝い、伊勢商人の納屋に荷物を運び入れた。
「これは何の荷ですか?」
「ああ、これは……。」
すると手代は少し言いづらそうにしたが、まあいいかと思ったようでそのまま続ける。
「射和の軽粉だな。しばらく前にはお殿様のアレでな、つまらん白粉が出回ったんだが、ちっとも白くないで、もうすっかり伊勢の水銀粉しか使われぬな。」
「へえ。」
「伊勢の商人の頼みでこっちの伊勢者に運んでやって、やつらが遊女に売るんだ。」
「え?」
「遊女だ。ご禁制らしいが、乳に塗らねばいいらしい。」
「ほ、ほう。」
「摂津の大番頭の子なんだろう?変な病をもろうてはいかんで、行かん方がええ。体中にカサができるんだと。唐瘡とかいって、庭野のお医者でも治しようがないらしい。いや、堺で流行ってるんだったか。ならお前さんも知っとるか。なんにせよ、気を付けろよ。」
唐瘡は琉球瘡ともいうが、すなわち梅毒である。
明や南蛮にゆかりの商人が堺に持ち込んで永正年間から上方で流行しつつあるが、東海道沿いでも宿場でちらほらみられるようになっていた。
奉行所は鷹見新城の仕組みに倣って私娼を禁じ、遊女を宿屋と紐づけて監視させ、症状の出た者を奥に引っ込めるなどしたものの、男の方がうつしていては効果も見込めない。
治療法もなく、評判の高い三河の医者たちでも、熱やかゆみを抑える苦参や忍冬といった薬を与えるくらいしかやりようがなかった。
◇
勘兵衛は手代に連れられて熱田の町をふらふらしてから三河屋の建物のひとつに入った。狭い廊下を抜けて奥の部屋に案内されると「お前さんは俺らとここで寝起きだ」と言われた。室内には他にも手代らしき者がいる。
つまり勘兵衛は手代と同格とは言わずとも、それ並みの扱いということのようだ。指南の手代も親切で、殴ったり怒鳴ったりもない。どうやら己はだいぶいい待遇らしい。
煮売屋で買ってきた煮豆を手代とつまんでいると向こうから話しかけてきた。
「お前さんはいずれは廻船の船頭になろうっていうんだろう?」
「父からそう言われておりまする。」
「年季が明けたら摂津に戻って、てておやの舟に乗るのか?」
「そう思いまするが、なにかございますか?」
「いやな、廻船なら三河で開業した方がいいぞ。開業ってのは、お奉行に届けを出して免許を得るのをいうんだ。他の開業商人の執り成しでな。舟も奉行所を通して熊野から買えるし、銭も安く貸してくれる。それに、舟が沈んで破産となっても奉行所付の住処に家族をしばらく預くることもできる。」
「それは手厚いですね。」
「運上はかなりのものだが、お殿様の膝元の湊なら出入りに手間も関銭もない。普通にやっておったら食っていけぬなんてことはない。」
「ふうむ。」
「まあ、修行は何年かかかるだろう。よく考えな。」
勘兵衛は「よくしてもろうて、かたじけないです」などと頭を下げた。
とはいえ、この手代も含め同室の者たちはいくつか口にしていないことがある。
ひとつは、開業届を出すといざというときには舟を接収されたり軍役があったりすることであるが、それはどこの大名と船主の間でも同じだから知らぬ方が悪い。
しかし、三河の商人は毎年の免状の更新の際に商いの規模を申告させられる。これは普通ではない。
申告を偽って運上の額を誤魔化したり、免状をもらって1年間商いをしておいて逃げたりした場合には最悪、死罪まであるが、不届き者を捕まえて身ぐるみを剥ぐのは三河屋や水軍衆の仕事である。
水夫ならともかく、船頭かそれに準ずる立場で三河と外を行き来するなら、鈴木家がひた隠しにする秘密に接することになる。造船技術、航海術、火薬などだ。
三河海商はそれらに触れるのを許された者たちであり、そういう特別な集団としてかなりの排他性と団結力を持っている。
貝塚からこっち、この手代も勘兵衛を間者と疑って監視してきたが、どうやら本当にただ何も知らずに丁稚奉公に来たらしいのはわかった。
そして、なかなか聡い子なのもわかった。仲間にふさわしいと思えるほどに。
こうなると勘兵衛が何もなしに摂津に帰ることはもはやないだろう。
しかし何も知らない少年は「どうやら三河は上方に劣らず商いのしやすいところなのだ」と素直に感心していた。
【メモ】山田羽書は本来は江戸初期に銀に代わる紙幣として出てきます。主人公は三河で金属系の白粉使用を禁じて植物系のものを流行らせようとしましたが、お追従で少し使われただけで廃れました。水銀由来の白粉は鉛由来よりは危なくないそうです。作中の「運上」は「冥加」の語の方がよさそうですが、冥加という税の名称がまだないので、運上の語をあてました。
【作者用の備忘録】加賀では越中勝興寺住持・実玄の呼びかけで小松本覚寺住持・蓮恵が越前超勝寺住持・実顕とともに独立。証如は腹心の鈴木佐太夫を送り、かつて敵対した小一揆残党を支援して蓮恵を暗殺するが、下間頼秀・頼盛に追い散らされる。実顕弟・勝祐が本覚寺に入る。
証如は母・融誓尼や浄照坊明春の助言を受け、実悟・顕誓を加賀攻め総大将にする。実悟につらく当たった養父・蓮悟は恩赦なく失意で病死。顕誓は実玄の弟だが、兄に同心しないと誓いを立てており、越前で朝倉教景と交渉して加賀に入る。




