第149話 1537年「見附」
「――かような仕儀にございまする。松永はよくやっておるようで、『いずれご上洛となりますれば、ぜひ貝塚の惣構を御覧に入れたく』と申しておりまする。」
代替わりした三河鈴木家の新当主・重時のそばには酒井将監が控えて、松永久秀からの書状の内容を説明していた。
上方で外交交渉を一手に引き受ける松永は、堺を去って面倒事から解放された反動か嬉々として築城に取り組んでおり、急速に形成されつつある町も囲ってもらおうとする商人の動きもあって、貝塚には惣構の防備に櫓門などを有する高層の本曲輪が建設中だった。
重時は城については関心を示したものの、淡泊に返事をする。
「惣構か、どれほどのものか見てみたいが、今は美濃攻めが先よ。上方のことは親父殿も苦心しておったで、今の俺ではわからん。うまくやっておいてくれ。」
「さすれば、爾後は取次を1人定め、これと相談してそれがしが話をまとめ、殿にお伝えいたしまする。取次には……、左様、ひとまず坂部殿をお認めいただけますれば。」
「坂部?親父殿が祐筆の頭に置いたではないか。他の者と替えるのか?」
坂部とは外記勝宗のことであり、重時の亡き兄・鈴木勝太郎の付家老として駿府滞在を支えたが、三河帰還後は奉書掛(祐筆)のまとめ役についていた。
それまでの祐筆筆頭は西郷孫三郎正勝だったが、これは倉奉行に転出しており、宇津忠茂の子・忠員が繰り上がるはずだった。しかし、先代当主・鈴木重勝は、軍事面で大きな勢力を持つ宇津家に権力が集まり過ぎるのを懸念していた。
鈴木家では兵站を担当する小荷駄奉行が常設職となり、物見・使番を総括する役職として旗奉行の職名が転用されているが、小荷駄奉行が宇津家、旗奉行が伊庭家の家職となっている。
その伊庭家は当主と配下がいっぺんに戦没し、伊庭という家の格こそ高いものの、外から入った婿のもと人を寄せ集めている有様で、西三河の重鎮で親族衆も手厚い宇津家が俄然、有力となっていた。
そのため、重勝は隠居前に宇津忠員の昇進を阻んで坂部をねじ込んだのだ。
「他によき御仁が思い当たりませぬ。甚四郎(宇津忠員)を頭とし、新たに、そうですな、遠江者か尾張者か、若いのを入れて育てさせましょう。」
「わかった。坂部には兄者が世話になったで引き立ててやりたい。」
「承知しておりまする。」
騒動を収めるのに大変だった酒井は、疲れをにじませつつも、なんとか乗り切って安心した様子だが、重時はどうも実感がないようで大して悩む風でもなくなんともあっさりしている。
これまで上方関係は格式のある中条常隆や吉田兼満といった者が交渉役を担っていたが、彼らが急逝して急遽、茶人の武野紹鴎や摂津地侍の松永久秀が取り立てられて代わりを担っていた。
彼らが選ばれたのは身分ではなく実務や交友における実力からであり、鈴木家譜代どころか三河者ですらなく、本国と疎遠で、かろうじて先代当主・鈴木重勝が直轄して綱渡りの外交を行ってきた。
しかし、その彼も隠居した今や――当主交代に際して十分な準備がなされたとはいえ――降ってわいた琉球の騒動に堺政所内での同盟勢力間の軋轢という厄介ごとに対処するのは困難だった。
これは能力や経験が足りないとか、そういう話ではない。
ことが起きて、松永はすぐに本国に相談した。
相手は重勝に相談するときに手紙を送っていた鷹見修理亮である。
ここで鷹見はひとつしくじった。上方のことは熟練の重勝にも相談すべきと思って、新当主の重時とその側近となっている酒井将監だけでなく、旧主にも相談してしまったのだ。
奄美で味方が琉球王府軍に攻められていると聞いた重時は、「味方を見捨ててはならない」とすぐに宣言した。
それは自然だし、特に浅慮でもなかった。彼にとって今一番大事なのは美濃攻めであり、内陸の美濃を攻めるのに海賊衆は手透きだから何とかなると思ったのだ。
しかし、遠く離れた琉球に軍船を送り、戦をして、ことによると支配地を確保して、という話が具体的になってくると、奉行連中が控えめに懸念を述べ始めた。
そこに来て、遅ればせながら、八丈島の重勝から文が返ってきた。
遠すぎるから手を出すのはやめた方がいい。
こちらもまっとうな意見である。
彼が隠居して八丈島に移るまでして海事に専従したのは、琉球に行くのに間に多くの外部勢力を挟むのを嫌って、無謀にも八丈島から南蛮(東南アジア)に直接航行しようと思ったからだ。
そんな事情だから、内心は琉球方面にあまり力を割いてほしくない。
彼は「重時の意を一とせよ」とも手紙に書いたものの、いずれにせよ、これで援軍派遣に消極的な人間は拠り所を得てしまった。
一方、重時の意見におもねって覚えをよくしたい者はそれを批判するし、他にも新たに得た遠江の支配に注力したい者もいれば、航海や琉球の遠さがいかに難事か理解しないで血気だけ盛んな者もいる。
本国が内々で意思統一できていないだけなら、まだましだった。
しかし、元々和泉国で頑張っている連中は重勝とは親しくとも三河の諸将とは疎遠であり、様子がおかしいと思えば、重勝恩顧の旧臣に問い合わせるのは道理だった。また、鈴木家と親しい堺商人が冨永資広などの商いに携わる奉行に様子伺いをするのも当然のこと。
そうなると、内外で人々がばらばらなことを言ったり聞いたりするのは仕方がなかった。
そうして上方諸家が集めた噂に全然まとまりがないことから、鈴木家――というよりも新当主――は与しやすしと侮られ、堺を去ってまでして何とか意地を見せつける羽目になったのである。
「はあ、それにしてもままならぬ。早く美濃を攻めたいというのに。」
美濃は少し前の水害で混乱しており、重時は討ち入りの好機と思っていた。
彼が三河の周囲に支配を広げたいと思うのは、領土欲ばかりからではない。
父は引退のときに「覇道だ、王道だ」と説教したが、やっぱり重時にはよくわからない。一方で、彼は父が整えた内治の仕組みを高く評価しているし、天下泰平を願う真摯な心も持っている。
これらを合わせて自分なりに素直に考えると、自然、自家の支配下での平和が一番手っ取り早く泰平に至る手立てなのではないかと思えてならなかった。
観念が先に立つ父の話は、わかったようなわからないような、といった具合で、それに比してこれはとても分かりやすい。
先君の思想にかぶれて法治だなんだと言っていても、重時を支えているのは結局は武人である。
領地を広げてよく治めて、天下を安んじる。
彼らにとってはこれで十分だった。
重勝が言っているのは「その『よく治める』がどういうことかを常に吟味せよ」ということなのだが、重時のみならず、多くの者にとって簡単に理解できる話ではなかった。
父の考えていることは、まだまだわからない。
しかしここにきて重時は、「どうしていま動かないのか!」と父に文句を垂れていた己の不明を恥じるようになってきていた。
やりたいことの準備を進めてきたのに、突然降ってわいた厄介事で邪魔されるのが一番やるせない。「なかなかそうもいかんのだ」とぼやいていた父の気持ちがようやくわかった気がした。
◇
「そうだ、さっきの話だが、祐筆は遠江者にしよう。竹王丸、いや左馬介か。あいつに誰か寄こすよう言うてみる。」
「那古野殿(今川氏豊)でございまするか。」
酒井は、言ってしまえば部外者の今川竹王丸に人事の推薦権を与えるのはどうかと思ったが、間に自分が入ればどうとでもいじることができる、と思って「承知つかまつり申した」と返事をした。
今川竹王丸と重時は、だいぶ前に重勝に引き合わされてから友誼を深めていた。その後、竹王丸は庭野学校に見学に来ることがあったが、重時がいるのもあって、そのまま三河に滞在していた。
織田家の内紛で政情不安だった当時、幼君とはいえ城主不在の那古野は鈴木家に接収され、今や重勝の義弟・重直が住する尾張支配の本拠となっている。
「左馬介は義父殿と存外うまくやっておるそうだな。」
「那古野殿は風雅なお方ですからな。いくら御気性の荒い前守護殿といえども、これに触れてお心を安んじられたのでしょう。」
「ああ、左馬介にはそういうところがある。」
今川竹王丸は友人の重時が元服した後、重時の主導で同じく元服し、左馬介氏豊を名乗った。
そして、庭野学校で学びながら鈴木家の楽所に入り浸っていた氏豊は、三河に移り住んだ元尾張守護・斯波義達と雅楽の催しで知り合い、気に入られてその娘と結婚したのだ。
「そういえば、その那古野殿にございまする。見附にて学校を作りたいという話が持ち上がっておりまする。」
「庭野のようにか?」
「いえ、どうも医や農でなく、歌やら舞やらといった雅事につきてのことのようで。」
「よいのではないか?しかし、銭は出せぬぞ。美濃攻めに障りがあってはかなわぬ。」
「そうですな、見附の町もうまくいっておるようなれば、工面のしようはあるでしょう。『手当なぞなくとも』とまでの御根性であらば、自ずとなしとげましょう。」
この氏豊、重時の友人かつ今川の血縁ということで親今川勢の慰撫もかねて遠江支配の神輿に据えられ、古くは国府のあった見附の町に移されていた。
見附は対今川戦で協力し合った堀越氏の拠点だったが、彼らにはより大きな所領とともに掛川城を委ねる形でこれを手放させていた。
この見附の近くには三河鈴木家と同族の鈴木因幡守吉勝なる者がいて、彼は職人らに影響力を持っていたから、これを取り立ててこの宿場町を東遠江支配の拠点として拡充させていた。
これも重勝の隠居前の手配である。
重勝は本当は未来で大都市となる浜松を開発したかったが、この地は早くに今川家から寝返って勢力を保った飯尾家のもので、勝手ができなかった。しかも、重勝はたびたび主家を替えてきた飯尾家に不信感を抱いており、浜松の開発を進めてこれを利するのを嫌ったようだ。
飯尾家に加え、遠淡海(浜名湖)の北には同じく勢力を保ったままの井伊家もあり、これらに目を光らせるのが南北の間に置かれた奥平家である。
また、見附の今川氏豊に軍事力はないため、これを補って東遠江を目付するのは設楽清広。設楽家はいよいよ三河の所領を返上し、1万石相当の家禄を宛がわれ、郡代として見附に赴任した。
さらには、海外との交易で金が入用のため田峯菅沼氏勢力圏の津具金山が直轄化され、菅沼氏は加増転封の形で遠江沿岸・相良に入部。高天神城と勝間田城の修築を引き受けて2万石の知行が与えられた。
これらもやはり重勝が隠居前に済ませた措置である。
見附の町で好きにやっているらしい氏豊のことを思い浮かべる重時は、しかし全く楽しげな様子ではなく、口をすぼめて変な顔を作って呟く。
「……つまらぬな。」
「ふむ?いまなんと?」
「つまらぬと言うたのだ。思うたより、己であれこれ考え、その末になにやらを成し遂げるとはならぬでな。」
「それは……。」
酒井からすれば、当主があれこれ決断するというのはそれだけ厄介事が多いということだし、短期で何かを成し遂げたと言える程度の小事にまで当主を関わらせるのもどうかと思うし、何とも返事をしかねた。
しかし、重時がもやもやした気持ちなのは、そういうことではなかった。
「何をしてもそこには親父殿がおって、俺は『よしなに』しか言うことがない。」
「ああ、なるほど、なんでも御隠居様のお手配が先に済んでしまっておると。」
「つまらぬ。」
「殿、それは御隠居様が殿のことを思えばこそにございまする。厄介事が起こらぬよう、それはもうお気を配っておられ申した。であればこそ、殿は美濃に目をやることがかなうわけにござって――」
「わかっておる!わかってはおるが!」
「落ち着かれませ。」
重時もバカではないし、内治に長けた父に敬意を持っているものの、何かしようにもすべて「先君の御計らいにより云々」と毎度毎度言われていては嫌にもなる。
酒井もそれを側で見ていて、少し気の毒に思うところはあったから、彼は努めて子ども扱いにならないようにしながら何とか重時を宥める。
「殿のご采配でなしたることも、いくらもあったでございましょう。」
「なんぞある。」
「まずは駿府のことにございまする。新当主の治部大輔殿の頼みを聞いて、当家の軍船でかの地に送り届け申した。室町殿は今川殿を下向させたがらぬとのことで、これは今川に恩を売ったことにもなりまするし、当家の船で運ばれたる御当主を見てあちらの御家中は上下を思い知ったことでしょう。」
駿府今川家の当主とは今川義元である。
彼が京の建仁寺にいたときに先代が頓死。京と駿府の今川重臣団は、甲斐で家督を求めて反乱を起こした慮外者を絶対に認めず、義元の家督相続を支度した。とはいえ、急なことで官位の手配なども遅れ、室町将軍の意向もあって、義元はその後もしばらく京に留め置かれていた。
このままでは駿河が守り切れない。業を煮やした義元は、背に腹は代えられないと、東海沿岸を完全に支配する鈴木家に船の手配を頼んだのだった。
「ああ、左様なこともあったか。」
「何かをなしたとは思えませぬか?」
「ううむ、2、3の文をやり取りしただけではな……。そういえば、文にあった『織田何某を伴うことはない』というのは、なんだったのか。」
「ああ、あれは守護代織田家にて廃されたる跡取りの信友のことにございまする。かの者は信秀を強く恨んでおりますれば、これと結んだ当家を邪魔せんと今川に取り入ろうとしたのでしょう。しかしそれをわざわざと殿に伝えた。はて、これはいかなる意のあることでしょう?」
織田信友は信秀の姦計で守護弑逆の汚名を着せられ、尾張にいられなくなって室町に逃げていた。
しかし、供の者もほぼおらず、世渡りの方便もない信友が厚遇されるはずもなく、窮余の策で今川家に接近して在京の雑掌にでもしてもらおうとした、というのが実際のところだった。
それすらも断られた信友は、名字の地があるという越前に向かったという話だが、その行方は杳として知れない。
それはともかく、重臣団の合議で決まった通りに手紙を書いただけと思い込んで腐っていた重時は、酒井の問いかけを聞くや眉をピクッとして興味を示す。
「ふむ、あの今川が当家に気を遣ったということか。」
「殿に、でございまする。いかがにございまするか、文のいくらかのやり取りでも、これはなかなか大事にございまする。」
「ふうむ。」
明らかに声音に満足の色がのった重時に、酒井はしめたと思ってさらに続ける。
「また、久松家のこともございまする。」
「おお、あれはそうよな。俺がそうしたいと思った。」
「はい、あれは殿のお心ひとつで決まったものにございまする。」
久松家というのは知多半島の付け根で勢力を持っていた有力武家であるが、水野家に臣従を迫る中で鈴木重勝によって見せしめに族滅された。
当時の久松家は先代当主が死去した直後で、新当主はわずかに数えで8歳。混乱の中で年嵩の親族から先に討たれていき、降伏の交渉もままならぬうちに滅びることとなった。
知多の攻略を任されていた鈴木家の将・熊谷直安は、主君に族滅を命じられたが、習いに因って女子供は助けるつもりだった。
しかし、子供とはいえ当主はさすがに見逃せず、泣く泣くこれを斬った。そして、その分かの者の幼妹をひどく憐れみ、いくらかの女衆とともに熱田の神主に預けて大事にこれを育てさせていた。
それから数年。
熊谷直安に2人目の男児が生まれると、生き延びた久松家ゆかりの女衆は、これを婿にとって家を再興できないかという動きを見せた。
家臣団が大きくなって内々の競争が目につくようになってきている鈴木家では、格別の地位にある熊谷家の足を引っ張ろうと「敵方の姫を匿うなど」と陰口をたたく者も現れた。
放っておいてはまずいことになる。そう思われた矢先、重時は諸将を集め、素直に女児の生き延びたことを喜び、その幸せを願うと告げた。
家中のすべてがこれをよく思ったわけではもちろんないが、重臣団は総じて新たな主君の心根の善なるを好もしく捉えたものである。
「殿はこれからにございまする。御隠居様の踏み固めた地を進み果てた先にては御自ら道を開いていかねばなりませぬが、かくなっていかなる道を通すか、御隠居様はこれを殿がご思案なさるだけの時を残されたのでございまする。」
「ああ、わかっておる。親父殿のなしたる物事をよく見習い学んでおかねばならぬことも、わかってはおるのだ。」
「差し出がましく申しました。」
何もなしていないわけではない、という酒井の言葉を受け入れた重時は、良くも悪くも根が素直である。その素直さは父親にもあったものだが、あちらは色々と隠したり理屈を先に立てたりするから、それに比べると重時はなんとも支えがいのある主君である。
そう思って酒井が重時に微笑みを向けていたところ、鷹見のところに届いたという重勝からの手紙を小姓が持ってきた。
「噂をすればなんとやらですな。」
「(鷹見)修理様からは『大事と言いうるやも、ひとまずお読みを』とのお言付を承っておりまする。」
小姓が酒井に手紙を手渡しながら、そのように伝言を伝える。
「ふむ、気になるな。とはいえ、まずは殿がお読みくだされ。」
酒井は主君を蔑ろにしていないのを態度でも示すべく、重時に先に手紙を読むよう勧める。
手紙を受け取って読みだした重時は、だんだんと眉間にしわを寄せていき、紙から顔を上げて酒井を見やるともうすっかり渋面だった。
「いかがなされた。」
「刑部群島(小笠原諸島)の先に島を見つけたのだと!」
重時のぶっきらぼうな物言いと慶事ともいえる内容との噛み合わなさに「ほう、それはそれは」と言いつつ、酒井は首をかしげる。
鈴木重勝は水夫の願いで刑部群島に神社を建立していたが、そこで祀る鳥之石楠船神なる船神も頼みにしつつ、荒波に負けない新造の2000石積の大船2隻を投入し、南海探検をさらに進めていた。
我々の知る小笠原諸島のさらに向こう、重勝はそこにサイパンやグアムといった島々があるのを知っている。未来で有名な観光地となるからには住みやすい地なのだろう。そこからフィリピンの方へ進めば南蛮(東南アジア)と交易ができるに違いない!
しかし、島々の存在を確信する重勝でも、考えが至っていないところがあった。
それはすなわち――
「されども、すでに人がおったらしい。」
「なんと!?」
「親父殿は楽しそうで結構よなッ!」
父親の影がちらついて思うままに振る舞えないという不満を吐露したばかりの重時は、その最中に伝えられた父親の冒険の成果に対し、不貞腐れて言葉を吐き捨てた。




