第148話 1537年「宿り木」◆
ひとまずは奄美へと兵を送り出した堺方の諸家であったが、その支度をする間にも、すでに奄美のことに気を回している余裕はなくなっていた。
西国で動きがあったのだ。
堺方とも室町方ともつながりを保つ大内氏は、東西を対立する尼子氏・大友氏に挟まれていたが、3年前の天文3 (1534)年に勢場ヶ原の戦いで大友氏と痛み分けると、遣明船の派遣に固執する室町方を動かして大友氏に対して圧力をかけさせ、優位な形で和睦を結んだ。
それに続いた遣明船の派遣は、ただでさえ大内氏の勢威と博多支配の確立を世間に示していたが、本年天文6 (1537)年には、室町方が朝廷に働きかけて大内義隆は兵部大輔に任じられ、一条家からの養継嗣・新介(義隆の甥)は従五位下に叙された。
さらに、大友氏にとっては格下であり、しかも日向北部を巡って競合関係にある伊東義祐に対し、将軍・足利義晴から一字が与えられた。
このような大友軽視の姿勢は、大内びいきの裏返しであった。
室町方があからさまに大内氏に気を遣っているのは、大内義隆の上洛に期待しているからである。
◇
「鈴木殿はいよいよ下剋上に至りて、これを為済ますや身を引いた。主家の不行状を諫めるとの目当てを果たしたがゆえとも御嫡男の復讐の心を満たしたがゆえとも噂されておる。」
「少輔太郎殿のことが気がかりにございますか。」
腹心の児玉就忠に問われた毛利元就は、大内家に人質に出した嫡男・少輔太郎(毛利隆元)のことを考えていた。
「鈴木殿のこともあって、いまここで嫡男を送るは何よりの誠意と思われよう。だで、あの者の身に不幸の降りかかるはよもやあるまいが、駿府のようにわけもわからぬうちに害さるるはあるでな……。」
「そうでありますな。」
口ではそう言う元就であったが、内心では様々な思いが渦巻いている。
4年前、安芸国では名族武田家の当主・光和に対して、その正室の兄である熊谷信直が妹の処遇を巡って不満を抱き、主家を見限った。信直討伐に出た光和はしかしながら武威振るわず、一門の有力者・伴繁清が大けがを負う有様だった。
これにつけこんだ大内家と傘下の毛利家は、昨年、熊谷家を支援して武田家を攻め、元就が敵方の大将・己斐直之を寝返らせ、武田家を存亡の淵に追いやった。
熊谷家から恨まれている自覚のあった光和は庶子・小三郎(武田宗慶)を落ち延びさせると自害。
夫婦関係がこじれていた光和に正嫡の子はおらず、熊谷信直は妻の兄弟である伴繁清やその娘婿の猛将・香川光景を味方に引き入れるため、安芸武田一門の伴氏から傀儡の新当主・武田信重を置いて大内家に臣従した。
かくして安芸国は大内家の下で毛利氏と熊谷氏が采配することになったが、そこでさらに元就は嫡男を人質に出して数多の国人から一頭地を抜くに至ったわけである。
「大内のもとには数多の家々が集っておる。その相争う先がいかなる顛末をたどるかは何人にもわからぬが、その中で上を目指すもまた道。」
「そうでございまするな。」
元就は今川家と鈴木家の争いを目を凝らして見続けてきた。なぜなら、それが自家がたどるかもしれない将来の1つであるかのように思えてならなかったからだ。
そしてわかったことがある。すなわち、今川家よりも巨大な大内家を前に、安芸1国すら支配できていない己には、下剋上はまだ早いということである。
とはいえ、そのような巨木を倒すには、鋸で正面から伐る他にもやりようはある。
「大内上洛の噂、当家もこれを広めるに手を貸してみるか。あるいは、石見を見るよう促すか。室町か、堺か。不審なる世情、これ見誤りてはたちどころに家運の傾くこととなろう。」
「それがしも一層心して様子を見定めてまいりまする。」
「うむ、それがし独りではどうにもならぬ。頼りにしておる。」
高く繁茂する巨木は、常に日輪を目指している。やがて陽光はその高みを焼くばかりとなり、もはや足元を照らすことはなく、影はますます深くなるであろう。
そうなったときに、はたして影の中では根が腐っているのか、大きな洞でもできているのか。宿り木にできるのはせいぜいそれまで巨木から養分を吸い続けるくらいか。
背筋にぞくぞくしたものが走った元就は身震いしつつ、大内家に深く食い込むが第一と、山口にいる嫡男の周囲の人間に宛てて手紙を書き始めた。
◇
大内義隆の上洛。
その噂は、室町方がこれを望んで盛んに大内家を優遇していたから、噂では済まないものと広くみなされていた。
しかも、大内家と和睦を結びつつも根本的に対立関係にある尼子家では、先に当主の交代が生じ、先代・尼子経久の若年の孫・詮久に家督が移ったばかり。
大内家が上洛軍を起こすのにこの上ない好機であり、堺方でもこれを警戒して摂津国では三好利長が西方に目を光らせていた。
しかし、大内義隆は動かなかった。
彼は石見銀山の支配を固めることを第一とする配下の意見を容れて、長く銀山を巡って争ってきた石見小笠原長隆に不審ありとして討伐の軍勢を起こしたのだ。
もっともその実は石見国内の親尼子勢力の討伐であり、大内と尼子の間で二転三転の国衆は当然、尼子に救援を求めたが、尼子詮久が目を向けていたのは東であった。
尼子経久は3年前に内乱を鎮圧してからは石見銀山を狙っていたが、大内家と大友家の和睦成立で単独で大内家と争うことをためらって石見侵入を見送り、因幡・備中・美作の3国に手を出していた。
しかし、美作を支配する赤松政村が堺方と婚姻同盟を結んだり、備中国守護を堺方の細川氏綱が名乗ったりして、両国は攻めきれないままとなっていた。
これを不満に思っていた若き当主・詮久は祖父の助言に反して石見救援でなく、自らの武威を示すためか、不満を爆発させたか、破竹の勢いで備中・美作に攻め入ったのである。
美作ではここ5年は高田城の三浦貞久・貞尚兄弟が頑張って尼子氏を追い返し続けていた。
三浦家の武威を認めた美作攻め総大将・川副久盛は、城を囲みながら副将の宇山誠明を美作東部に入れて三浦家を孤立させた。
そして宇山は慌てて救援に来た赤松軍を伏撃して赤松一門・豊福氏を討ち取るなどの大勝利。
播磨の赤松一門・宇野村秀のもとに逃げた赤松政村は、やむなく確執の深い備前浦上家との和議を模索し、本家の家督を代行する浦上国秀を介し、恩讐を越えて盟を結んだ。
とはいえ、備前から援軍を引き出すことはできなかった。浦上家は備中に攻め入った牛尾幸清を総大将とする尼子軍を相手していたからだ。
というよりも、ともに尼子家の脅威にさらされたからこそ両家は和議を結ぶことができたのである。
備中国は細川家の領国であり、名目上は守護である堺方重鎮・細川氏綱から庄為資なる国人が守護代の地位を認められていた。その庄家が尼子の大軍に包囲されたことで、必然、堺方も軍勢を送ることになる。
赤松氏・浦上氏の要請を受けて、阿波衆を率いた細川持隆が美作に向かい、摂津衆を率いた三好利長次弟・千満丸(実休)と後見人・三好長逸が備中に向かった。
三好軍は浦上国秀軍とともに西進して首尾よく備中の三村家親と合流し、なんとか尼子氏に対抗することに成功する。
しかし、美作では細川持隆軍が西部の三浦家のもとにたどり着くも、背後の美作東部で有力国人・江見久盛が尼子氏に寝返り再び敗北。赤松政村と細川持隆はなんとか国を脱出したが、三浦家は尼子家に降伏し、美作国は失陥した。
そんな中、堺の町から少し離れた踞尾(津久野)にある鈴木屋敷では――
「今度は『兵を出せ、船を出せ』と矢の催促。先には『奉行をやめろ』だなんだと言うておいてこれか!」
松永久秀が激高していた。
側で見ているのは宇喜多八郎。
義父ともいうべき松永の怒りを前に、その目に宿る激情の色は深い。
「弾正さま、またあの紀伊のくそたわけでしょうか。どうにかあれを消すことはかなわぬものでしょうか。」
「ああ、八郎。左様な汚い言葉はやめよ。」
家督を継ぐために元服しているとはいえ、八郎は幼子。
このような物言いをさせてはよくない。
松永はスッと冷静になる。
「しかし、おぬしの言はもっともだ。あれのせいで我らの足並みは乱されておる。されど、あれは我ら三河から阿波の真ん中に居座り、これが敵とならばたちまち東西は分かたれ、はなはだ危うい。」
琉球騒動でねちねちとしつこい紀伊畠山稙長は、堺の公方政所の奉行人たちに働きかけて鈴木家が持つ唐船奉行か宿次過書奉行の特権を奪おうと動いていた。
西国の騒動で阿波衆・摂津衆がそれどころでなくなり、この機に室町方が攻めてくるのを警戒して石清水で神経をすり減らしている細川氏綱も堺を顧みない今、紀伊畠山家の発言力は増していた。
人事においては公人奉行の細川持隆の意見に重きが置かれていたが、その彼は今や尼子の大軍を前に播磨で戦々恐々。近場の河内・紀伊から戦力を投入できる紀伊畠山家の援軍に期待しており、その意向にあからさまに反対するようなことはない。
相変わらず和泉細川家はだんまりで、稙長に反発するのは河内畠山在氏だけである。
「あの玄蕃めも、目先の利ばかりで、義理というものがない。」
「当家の援けを受けておきながら。あまりに俗物。いっそ憐れにございまする。」
「おお、八郎、それはよい言い様であるな。それがしとしても、溶かした銭の海にでも沈めてやりたいところよ。」
玄蕃というのは細川国慶のことである。
元来、この者は所領もなく鈴木家から支援を受ける客将の立場にあった。
しかし、先には奄美を確保したい商人連中からの賄賂に目がくらみ、今に至っては、その利の極みとでも思ったか、畠山稙長に対し己が唐船奉行に就任するための支援を求めていた。
在氏はしきりに両者の不義理を堺方の棟梁たる足利義維に訴えるが、彼は紀伊畠山家のこととなるといつもこうで、そのとげとげしさは顰蹙を買っていたからうまくない。
公方政所や諸家の心中では、室町方に尼子家と敵を抱える中で話を大事にせず穏便に片付けることが優先されて、いつのまにか「唐船奉行の地位を維持するなら鈴木家が何か譲歩をすべき、特にこの危難にあって戦力を出していないのはいただけない」というような空気感になっていた。
しかし、これが松永には非常に不快であった。
まず第一に当然、細川国慶のことである。これはさんざん松永に尻拭いを押し付けてあれこれ好き勝手しておきながら、その恩を仇で返すというのだ。
そして、何のゆえあって当家が譲歩すれば万事丸く収まるというような世迷言がまかり通るのかも理解できず、諸人の程度の低さに呆れるほどだった。
そもそも、鈴木家は唐船奉行の職をわたくししていない。その利は公方政所のために多くが割かれている。
松永個人の話でも、彼は商人から付け届けを受け取ってはいるが、(松永の目から見れば)大した量でもなく、茶器を買ったり、在京の茶の友にして師匠たる武野紹鴎に送ったりすれば、あっという間に消えてしまう。
確かに鈴木家は上方にほとんど兵を置いていないが、財政面や海船の手配においてこれを下支えしているのであり、堺の地下人と良好な関係が維持できているのも松永の執り成しのおかげである。
旧主・鈴木重勝はそれをよく理解していて、新参の松永に目をかけて引き立ててくれた。
鈴木家中でも政所奉行人の中にも己ほどの仕事をこなせる者はおらず、己なくしてこの政権は成り立たない。松永はそのように自負していた。
「御無礼つかまつりまする。三河の御当主様よりの書状が届きましてございまする。」
「おお、早かったな。」
使番から手紙を受け取った松永は早速中を改めた。
八郎も興味津々である。
「それで、いかがでしたか?それがしは弾正さまのお考えは堺の公方らにとってよい灸となると思うておりまするが。」
「うむ、やはり当代様は上方よりも御領国に重きを置かれるお方のようだ。」
「では?」
「うむ、お認めいただいた。やるぞ!」
◇
「上様におかれましては、騒がしきこの頃なれども、つつがなくお過ごし遊ばしますよう、臣らは切に願うておりまする。ゆえにこそ、こたびの奉行職のことにつきて、御心をあえて騒がせんと振る舞う者のおること、まこと忸怩たる思いでございまする。」
「そはいかなる意であるか。己の振る舞いを恥じるということか。」
平伏した松永久秀に対し、足利義維はムッとした表情を隠さずに言い返す。
両者はしばらくの付き合いで間柄が深まっており、義維は心情を面に出すほどに気を許していた。
「いえ、さにあらずして、当家で世話をしておりまする上野玄蕃殿(細川国慶)のお振る舞いの、いささか度を過ぎておりますことにございまする。」
「玄蕃の?」
「かのお方の欲に囚われ人倫を逸したる様は、すでに地下人の間ですら噂となっておりまする。尾州様(畠山稙長)はこれを次の奉行に、と薦めておられると伝え聞いておりまするが、かのお方に仕事をお任せになりますにあたり、上様におかれましては、なにとぞお気を付け遊ばされますよう。」
「ふむ、玄蕃に気を付けよ、と。奉行の職はどうするのだ。」
「それはもう上様のお心ひとつにございまする。尾州様のお計らいもございますれば。」
「ほう、いやに素直であるな。」
「わけがございまする。かたじけなきことにございまするが、当家先代の約しましたる『今川のこと片付きまして後に上洛をお助けするべく兵を送る』との由、いまだ東国の穏やかならず、また、六角を後ろにしましたる美濃も油断ならざるほどに、しばらく果たすことかなわぬところにございまする。それがために、御役目をお返しするを以てお詫びとしたいと我が主より言付かり申してございまする。」
「ふうむ、左様か。相分かった。」
義維は「そういえばそんな約束もあったかな」と思いながら松永の言葉を簡単に受け流すと、話を聞いていなかったかのように別の要望を述べる。
「されど、播磨に少し兵を送るくらいはできような?」
「それにつきましては、先ごろの尾州様たってのお願いに応えて当家は奄美に兵を送り申しまして、なかなか手が足りぬところでございまする。」
「東海の雄と聞こゆるに、もう少し頼りになるかと思うておったが。」
「まことにかたじけなく。当家より出しておりまする堺の町の守りすらも、穴なく万全とはまいりませぬで、こちらは民部少輔殿(和泉細川勝基)にお任せいたしまする。」
「なに、それは聞いておらぬぞ。」
「諸々の手配もございまして、ようやくのお知らせとなり申した。また、唐船奉行の職をお返し申しあげるにあたり、開口神社の奉行所より手の者も引き上げることと相成り申した。」
「え?ま、待ちやれ。」
「ご安心召されませ。」
「おう。」
松永の心に語り掛けるような深い声音の一言に、思わず義維は返事をした。
「『当家の振る舞いはどうやら方々の眼には不信に映るようなり』と我が主も自らを省みておりまして、しばし堺を離れ大人しくしておかんとの存念にございまする。」
「いや待て、なぜそうなる。」
「いえいえ、こればかりは。やはりなんと申しましても。上様におかれましては、なにとぞお健やかに、お健やかにあられますように。臣ら一同まことにかたじけなく、かたじけなく……。」
そう言いながらずるずると下がっていく松永。
義維側近の畠山式部少輔維広ら奉行人も目を白黒させる中で、松永は公方座所・金蓮寺を後にした。
◇
堺では最低限の取次を和泉細川家の守護所に置いて、鈴木家は上方における拠点の貝塚に下がった。
貝塚には和泉鱸家が常駐しているが、これを防御拠点として確かなものにするために、新当主・鈴木重時から許可を得た松永が築城の音頭をとることとなった。
踞尾の鈴木屋敷も解体されて、貝塚城内の御殿に作り替えられた。
京の四条に屋敷を構える武野紹鴎は、松永に呼ばれて城に茶室を作る仕事を託され、ついでとばかりにこの年に死去した堺の革屋だった彼の父を弔うためのお堂の建立にも着手した。
そうこうするうちに、武野が世話になった当代一流の文化人・三条西実隆が物故したため、武野はその供養にあてるべく、お堂を寺に拡大しようと商人連中に喜捨を呼び掛けた。
鈴木家のこの動きは堺の町人には驚きを以て迎えられ、御用商人である三河屋も貝塚に移動し始めたため、その庇護下にあった規模の小さい商人も貝塚を目指した。
町の規模が十分でなかったため、貝塚では城下町の拡充が進むとともに、入りきらなかった者たちは貝塚の少し北、和泉細川家の岸和田の城下にも分かれた。
鈴木家と密約を結んでいた和泉細川家は、かの家の抜けた分を埋めるという名目で一気に堺の支配を強める運びとなり、これに対し、新たに唐船奉行となった細川国慶は琉球交易や商人から得られる利益に期待してやる気に満ち溢れているという。
【メモ】史実の遣明船派遣は1539年頃で、大内・大友の和睦はもっと対等な形で1538年。和睦がなる前の1537年頃に尼子家は石見銀山に手を出します。大内関連の叙位任官も時期が早まっており、大内・毛利が安芸武田を攻めるのは史実では1537年と、全体的に出来事が前倒しになっています。赤松家の美作失陥も数年早まっていますが、本作では逆に備中の庄家・三村家が持ちこたえました。




