第147話 1537年「尾州殿」
「して、その銃筒なるものは手に入れられそうか?」
「これがどうにも。三河の軍船は商人どころか傭人すら上がることを許されず、相当に厳しく検めておるようで盗むともいきませんで。外より購うならば明か南蛮(東南アジア)かと存じまするが、琉球より向こうに出てどうこうというのはなかなか……。」
三好利長(長慶)は琉球・奄美の騒動を知ると、真っ先に堺と兵庫津の豪商・正直屋の棰井甚左衛門尉に鈴木家が使ったという火器について調べさせていた。
摂津国の支配を着々と固める利長は、池田城に有力親族の三好連盛を置いて伊丹親興・野間長久・瓦林春綱ら中部の国衆を編成し終え、自身は尼崎に入って今度は東部の掌握を進めているところだ。
「三河よりは?」
「売り渋っておるのでもないようでございまする。されど、いわば弓矢の弓にあたるものを売るのはよいが、矢にあたるものは、もとより材を集めるにも作るにも難く、数の少なきがゆえに1箱数十貫文は見ておいてほしいとか。」
「矢もどきでかばかりとな!馬鹿にしておるのか!?」
「いえいえ!さにあらず、むしろわざわざと八丈島の御仁まで許可につきて問い合わせたとかで、『格別に伊賀守様(三好利長)ならば』と聞いておりまする。ただ、松永殿は『起請文を交わし盟を結びて後に』とも仰せにございました。」
「なんと、ううむ……。」
八丈島にいるという鈴木家の先代当主・重勝と、これに引き立てられた堺の松永久秀なる奉行は、まだ若く阿波細川氏の陪臣の立場であるのに、利長のことを丁寧に扱ってくれていた。
その2人がそのように言うのならば、この兵器は相当に金食い虫なのだろう。そうなると、無暗に手に入れても使いようがないかもしれない。
「今はともかく、先々には頼むこともあると伝えておいてくれ。」
「承りてございまする。」
「そうなると奄美を押さえ当家も自ら銃筒とその、ええ、なんであったか、矢にあたるものは――」
「玉薬とかいうそうで。」
「そうか、ではその玉薬を求めるべきやもしれぬな。」
利長は、銃筒も玉薬も琉球から買えると勘違いしているようだが、それはともかく、玉薬を三河から買い続けることでかの地に銭が流れることや、武器の供給を外部に握られてしまうことの危うさを思って、このように言った。
それを聞いた棰井甚左衛門尉は、人好きのする笑顔を浮かべながら、屋号のとおりに正直にお願いを述べる。
「であれば!伊賀守様より讃岐守様(細川持隆/氏之)にも琉球征伐のお口添えを願えますでしょうか。」
「これ!」
黙って聞いていた取次の塩田若狭守高景は、棰井の物言いを不遜と感じて思わず口をはさんだ。
しかし、利長が鷹揚にこれを流して言う。
「まあ、よかろう。瀬戸内を通らずに細島とやり取りのできるようになってきたところであるし、当家としても琉球船は絶やさぬようにしてほしいところよ。」
三好家は日蓮宗の保護者で、尼崎にある本興寺の縁で、この地の湊と、同じく日蓮宗の日向国妙国寺の足下の細島湊との間の交易利権を握っていた。
本来の航路は瀬戸内を通って日向国から南に出るものだが、その場合、瀬戸内の海賊衆が間に挟まって厄介だったから、最近は三好傘下の兵庫津・尼崎の商人は遣琉船団に引っ付いていき、土佐で分かれて細島湊を目指すようになっていた。
この航路だと三好家の本拠地である阿波国も商圏に含まれ、商人の上納の他にもなかなかに儲かるため、三好家としても奨励したいところであった。
しかも、細島のあたりに勢力を持つ伊東家では、骨肉の内紛を切り抜けた新当主がつい先ごろ将軍・足利義晴から偏諱を受けて「義祐」を名乗ったという。つまり、かの家は堺方にとって味方ではなく、日向国との交易を維持するにも近くに自前の拠点があるのは望ましいだろう。
「まさに我らも左様に思うところでございまして。いやあ八丈島の御仁は奄美のことに難色を示しておられるとかで、船が出なくなるやもと気を揉んでおり申したが、伊賀守様のお口添えとあらば、百人力いや万人力にございまする!」
曇っていた表情を一気に朗らかなものに変えた棰井は「さても、僅かばかりになりまするが」と切り出し、「後ほど塩田殿にはこちらをお改めいただきたく」と言って上納品の目録を手渡した。
堺商人にとって鈴木家は極めて重要な経済上の後援者・交渉相手であるが、その強大な力は常に恐怖や嫌悪の念を生じさせえた。
この家は野遠屋・阿佐井野氏との友誼を重んじて町政に介入することは避けてきたが、琉球交易を司る唐船奉行と東国方面の通行特権を司る宿次過書奉行の地位を独占している。
商人らの心には、これに目をかけてもらいたいという欲と、なんとか引きずりおろして力を削ぎたいという欲が互いに矛盾せずに存在していた。
もっとも、焼失した堺の町の再建に尽力した鈴木家に好意的な商人は多数いて、新参者とか堺以外に拠点のある商人とかが余計なことを考えているに過ぎない。
とはいえ、鈴木家の目が長らく駿府に向いている間に状況は少しずつ変わってきていた。
交易で富を蓄積した大商人は権力を得て独自に振る舞い始め、琉球を介さずに海外と交易することを夢見て、奄美を彼らの足場として確保しようと望んでいた。
彼らは盛んに進物をして「今回の戦も室町方の命令で琉球国が敵対してきたのだ」と吹聴している。なかなか耳障りの良い話であり、また、こうした献金は交易から得られる抽分銭の魅力を諸将に再認識させるに十分だった。
◇
鈴木家に対して思うところがあるのはもちろん商人だけではない。
誰もが欲としがらみに囚われており、視線の先に映るものが余人と全く同じであることなどないのだ。
「左馬頭殿(足利義維)はどうであったか?」
「はい、話をうまいこと導きて『鈴木めが海賊や商人をまとめきれずして唐船奉行の職を全うできておらぬのではないか』との疑念を抱かしめた、とのことで。」
河内国高屋城では、堺方重鎮で紀伊・南河内を治める畠山稙長と守護代・丹下備後守盛賢が、狭い部屋で膝を突き合わせるがごとくに密談していた。
稙長は居城こそ堺・金蓮寺にいる名目上の棟梁・足利義維から離れているが、無暗に近くないおかげで人付き合い上の不和を抱えておらず、かえってその助言は素直に受け止められていた。
これは、先の鈴木家と今川家の和議を巡っては、義維をして独断で「和議を結べ」と記した御内書を書き送らしめたほどであった。
義維からうまく信を得ているのは稙長が少し前に登用した三宝院快敏という高野山の僧である。
「快敏というのはなかなかによく働く。」
「まことに。」
「これであやつらめも少しは大人しくなるか。」
「鈴木の先代はやり手であり申したが、これが隠居したすぐとあっては、定めて動きは鈍くありましょうし、その内に重ねて手を打てばますます上方のことに口を出しづらくなるでしょうな。」
「ならば、あとは細川か……。」
主君の呟きに丹下は黙して答えずに茶を一口飲んだ。
稙長は話は終わったかと思ったが、丹下は去る様子がない。それゆえ、まだ話し合うことがあるのだと思って視線をやって先を促した。
「さても、大和のことでございまする。まずは鷹山主殿助(弘頼)と誼を通ずるに至り申した。また、宇智郡にては(平)三郎左衛門の差配によりて右衛門佐殿(畠山在氏)に味方する者はもはやおらず、との由にございまする。」
宇智郡は畠山氏が昔から支配していて、北河内を領する畠山氏別流の在氏の家系に親しい土豪もいたが、北河内の支配も狙う稙長からすれば、在氏の影などないに越したことはない。
そのため稙長は、この在氏や室町方の木沢長政の間でふらふらしていた二見左衛門大夫なる者を脅して臣従を約させるなど、在氏勢力の排除・転向を進めており、今や一郡を彼の被官・平氏の下に置くようになっていた。
「片岡の去就はいまだ定まらぬか。」
「あれはもう放っておきましょう。いざとなれば攻め滅ぼせばよろしいかと。」
河内中部から大和へ東に直通する道の途上には片岡国春なる土豪がいる。
稙長は紀伊から大和に通ずる経路や伝手が他にあるが、北河内しかない在氏にとってはこの道が特に大事であり、片岡氏の支援のために古い信貴山城を修築して背後を固めるなどしていた。
「越智と筒井は?」
「筒井は当主がまだ元服前でありますればどうなることやら。越智は民部少輔が家中をまとめきれておらぬようで。」
筒井藤松(順昭)は家督を継いだばかりで、紀伊畠山の力を背後に自らの地位を固めることを考え、稙長の「いざというときは軍令に従え」という命令に即座に応じていた。
一方で、大和国の有力者である古市公胤・箸尾為政らは筒井家と隔意があって、これが稙長方についたと知るや、独自に大和中央部の雄・十市遠忠と同盟を組もうとし始めた。
その中で、越智家では、筒井家と轡を並べるかどうかで惣領・民部少輔家栄と親族の弾正忠家頼なる者の間で意見が分かれ、まとまりを欠いていた。
「また、宇陀郡・吉野郡ばかりか、柳生までもが北畠に属したとも聞こえまする。」
「なに、柳生が。柳生と言えば、大和でも北の方であろう。」
伊勢国司・北畠晴具は本格的に大和に進出し、早くに南の吉野郡の小川氏らを従属させると、かねてより支配下にあった宇陀郡の豪族とともに一揆を結ばせ、連名で臣従を約する起請文を提出させた。
そしてまた、宇陀郡の北側にも勢力を拡大し始めた。
このあたりには筒井家の勢力が及んでおり、その筒井家が堺方の稙長に与したことから、晴具はこれ幸いと兵を送って筒井党の吐山氏や福住氏らを攻撃し、吐山氏の宿敵の多田氏を従属下に置いて支援するなどした。
その勢いで同じ室町方の木沢長政に従う柳生家厳に対しても圧力をかけ、臣従させるに至っていた。晴具は、細川晴元と昵懇で勝手な振る舞いの目立つ木沢をよく思っておらず、その勢力を削ることにためらいがなかった。
ともかく、大雑把に言えば、これで大和の東半分は北畠家に従うかに見えた。
「このままでは戦となろう。」
大和国内では、北畠傘下の宇陀郡勢力と筒井家の支援を受ける土豪との間で小競り合いがあるだけだが、これがそのまま悪化すれば、背後の北畠晴具と畠山稙長もそれぞれ兵を出すことになる。
そうなれば堺方と室町幕府での全面戦争になりかねない。
「いったん折半もありやもしれぬ。」
室町方との決戦が念頭にないわけではないが、不安定な情勢の中ではできるだけ兵力を損ねたくない。稙長は自分が矢面に立つのは嫌だった。
それに、堺方には邪魔な在氏も鈴木も属している。室町方が何事かあって著しく勢威を伸ばせば、己はそちらと和議を結んで転向するのもやぶさかではない。
様子を見極めるためにも、もう少し衝突は先送りしたいところだった。
「東西に分けるわけですな。では、国司殿にそのように申し入れておきましょうか。」
「うむ。内々にな。」
「承知にございまする。あとは、これは定かにはござらねども、湯川が鈴木と通じておるとの見立てがあるようで。」
「なに?」
以前、稙長が河内を失って勢威を落としていた中で、紀伊の有力国衆・湯川光春は自立心をのぞかせていた。そのため、稙長はこれを紀伊守護代に任じるかわりに、主従の関係を認めさせていた。
「鈴木は不遜にも宿次過書の奉行職をもほしいままにしておりまするが、堺より紀南を回って東国に出る船の扱いにつき、湯川に便宜を図っておるやもしれませぬ。」
「便宜とな。」
「小松原で町家が増えておるとか。過書船(免税船)にかこつけて、湯川を利するの企みをしよるやもしれませぬ。」
小松原は湯川家膝下の湊町だ。
海路において紀南は難所であるため、これを越えて東国へ出る航路は元来細々としか使われていなかった。とはいえ、東国から伊勢・熊野には年貢輸送の海路が昔からあったし、御師の縁で堺では熊野の割符(為替手形)が使えたから、経済的にはつながっていた。
そこに来て東海・熊野・堺が鈴木家という一個大名の勢力下に収まった。しかもこれは外海に耐える船を有するとなれば、紀南航路を使わずにはおれない。
三河商人は強く望んで戦時徴発を前提に100石・200石積の船の貸与を受け、この航路を独占していた。そのせいでかつては伊勢商人と激しい相論になったほどである。
なんにせよ、彼らを介して鈴木家は長らく秘密裏に紀伊守護に反抗する湯川家を支援していた。
「……大和でいつ戦が起こるともわからぬ中では紀伊を揺るがしてはならぬ。」
「では、ひとまず棟別でも命じておきましょう。それでしばらく様子を見まする。」
「……いつでも始末できるようにしておけ。」
苛立たし気に言い捨てた稙長はやにわに立ち上がり、丹下を残して狭い茶室を後にした。
◇
河内国小山城。
この城は畠山稙長のいる高屋城から徒歩半刻ほどのところにある。
高屋城はいわば守護の城であり、この城の支配をめぐって両畠山氏は長年抗争を続けてきたが、稙長の勢力は昨今著しく、北河内守護・畠山在氏はこの城の支配を諦めるしかなかった。
しかし、在氏は稙長のこれ以上の北上を意地でも阻止するとでもいうかのように、高屋城の目と鼻の先の小山城を改築して居所と定めていた。
「刑部少輔殿(鈴木重勝)は何と言っておるのだ。」
在氏は、目の前の細川国慶を胡散臭そうに見ながら言った。
「刑部少輔殿にございまするか?松永より聞いた話では遠国ゆえ懸念を示しておるとか。」
「ではそれがしも琉球攻めには同意せぬ。」
「いや、鈴木家はいまや若き甚三郎殿がご当主。御家中もその意を汲んで『まずは援軍を』との話でまとまっておりますれば、お考え直し下され。」
「船や商いのことはすべて刑部少輔殿の采配でうまくいっておったのだ。それが心配しておるというならば、やめておくべきであろう。」
それを聞いた国慶の目には在氏に対する軽侮の色が浮かんだ。
利や富に執着を見せる国慶は琉球派遣船団の継続、もっと言えばそこから得られる抽分銭こそが堺の政権にとって大事と信じているから、在氏の発言は思慮不足に思えたのだ。
とはいえ、それは彼が自らをすら騙して信じてしまっている表向きの理由であり、実のところは確たる采地のない国慶自身が商人をいいように使って財を巻き上げたいだけである。
現に、今の彼は船団派遣継続を願う堺の商人から大量の付け届けを受け取ってホクホクだった。
「されど、すでに大勢は決しておりまする。尾州殿(畠山稙長)、讃岐守殿(細川持隆/氏之)も我らの富の源たる琉球をしっかと押さえておくべし、左様な思いで一致しておるのです。」
ここで一番に「尾州殿」と名を出すあたり、在氏は国慶の無神経さや粗雑さが嫌いだった。
「典厩殿は何と言っておる。」
「よしなに、と。」
国慶は典厩こと細川氏綱のことを思い浮かべた。
氏綱はいま石清水八幡宮に入って巨椋池南のあたりの安定に努めている。
側近の松田や斎藤といった奉行人に、淀城の弟・四郎、牢人衆の多羅尾綱知や赤沢又三郎ら、少ない配下をやりくりして室町方の挙動を注視しているさなかだ。
彼としては、父・光雲(尹賢)の命を救ってくれた鈴木重勝に恩義を感じ彼の意見に賛同する気もあったし、そもそも室町方と睨み合う中で琉球に手を出すなど正気ではないとも思っていた。
しかし、ここで難しいのは、琉球征伐が決まってしまった場合である。「兵船や兵糧を用意してくれ」などと言われてはたまったものではない。そこで氏綱はやむなく「征伐軍の支度などを手伝わない代わりに勝手にしてくれ」と国慶に判断を一任したのだ。
氏綱の内心を知らない国慶は、その振る舞いを見て彼の評価を下げていた。
それに比べて三好利長はなんと立派なことか。声変わりしたばかりの若人ながら、本国・阿波の差配をしながら、摂津で敵勢力を目の前に国衆の調略を進め、さらにこうして商人や海の向こうのことにも手を回している。
こうして利長の評価は国慶の中では高かったが、氏綱と同じく一段下に見られている在氏は、今まさに国慶から問い詰められるかのごとき不快感を覚えて、胸中に詰まっていた息を吐き出した。
「はあ……。大勢が決したというならば、それがしが何を言おうが何をしようが変わらぬのであろう?ならば心に直くあるをよしとせん。」
在氏が「心に素直に」と言ったのは、とはいえ琉球攻めには関係ない。
単に畠山稙長が嫌いなのである。
そして、在氏の目から見て、かの者に対して盛んに嫌がらせをしていたようだった重勝に勝手に好意を持っており、反稙長・親重勝で物を言ったに過ぎなかった。
◇
かくして、様々な思惑の行きかう中、だいぶ時間がかかったものの、兵千数百を乗せた船団が鬼界島(喜界島)に向かった。
兵を用意したのは三河鈴木家と阿波三好家、そして今回の騒動では影の薄いままに面倒事を押し付けられた和泉細川家である。
「南海に孤立する商人にまず援軍を」ということになったのだ。
とはいえ、諸人は商人連中やとりわけ細川国慶に焚きつけられただけで、まったく先の見通しがなかった。戦で武威を示して琉球と和議を結ぶのか、奄美を占領するのか、そのまま琉球を降すのか、奄美をとるとして誰が支配するのか、こうしたことはすべて棚上げである。
一方の琉球国でも先に撤退した奄美討伐軍は、王府の用意できる全軍の半分以上を投じてのものだったため、これと同等のものを再び送るというのはなかなかに大変で、派兵に時間がかかっていた。
その間にも奄美では反乱の火が燃え広がり、琉球軍が堺方を首尾よく退けたとしても、島内の反乱が直ちに鎮圧できるような状況ではもはやなかった。
琉球王府から反乱の首謀者と見られている与湾大親は「己は謀略に巻き込まれただけ」と悲嘆に暮れてふさぎ込んでおり、彼を慕っていた住民は道標もなしに右往左往。その中で、鬼界島民や堺商人は与湾大親一家を幽閉し、勝手に反乱の指導を始めていた。
しかも、どうやら倭寇らしき賊も加わり始めたようで、大島西岸で反乱に対抗するための兵を集めていた屋喜内間切・大和浜の名族・太家や名瀬間切の(笠利)為春なる大親の拠点が度々襲撃された。
奄美の混乱はすでに九州の大名の知るところであるから、やがて室町幕府にも伝わるだろう。
そしてまた、この騒動で見え隠れした堺方や鈴木家の内部の大小さまざまな不和はしばらくくすぶり続けることだろう。




