第146話 1537年「奄美の変」
琉球国。
尚円王より始まる2つ目の尚王家は、その子・尚真王の50年にもわたる治世が終わり、さらにその子・尚清王の治世となっていた。
かつて琉球国は、明から大型船を下賜されたり朝貢の時期や入港地を融通してもらったりと優遇されていて、首里王府内には明人が入って外交を担っていた。
しかしその後、明は逆に諸国に対して朝貢を制限するようになり、琉球も二年一貢とされ、尚真王は外交努力でこれをなんとか一年一貢に戻すというようなことがあった。
そして十数年前、琉球は再び二年一貢に制限される。しかし、このときには先と同じような騒動が起こることは、もはやなかった。
知ってか知らでか、琉球と明の隔たりは少しずつ広がってきていた。
大陸沿岸では和船やポルトガル船も加わっての密貿易も増え、海運における琉球の立場は低下してきており、東南アジアで好き勝手し始めたポルトガル船は情勢の変化を象徴していた。
長らく大型の交易船の入手も明に頼ってきた琉球国が独力で海運立国の道を進むのには、難しい時代が訪れようとしていた。
◇
尚真王の長き御世において大いに栄えた首里。
石灰質の岩山の上に鎮座する三重の城郭の奥、丹柱の鮮やかなる二層閣の朝堂に、紫や黄のはちまきで頭を覆った士族たちが集まっている。
「さて、何から始めるべきか。」
三司官の1人、山内親方・昌信(楊太鶴)が老いてなおよく通る声で第一声を上げた。
三司官は3人制の王府最上級職で、山内親方は前王に長く仕えた老臣であり、王族のご落胤とも噂されている。
親雲上身分のとある上級士族が応えて言う。
「今年は年始より忙しくてありまするが、やはり国頭親方のあとを決めるのが先ではありますまいか。世あすたべは3人そろってこそ、と思われますれば。」
世あすたべとは三司官の別名であるが、そのうちの1人で山内親方と同じく前王に長く仕えた老臣の国頭親方・正胤(馬思良)は年始に隠居を申し出ていた。
この三司官人事を第一とするという意見に対し、別の親雲上が疑義を呈する。
「なるほど、そは道理なれども、奄美にて謀反ありとの訴えもまた至急。先に兵と船の支度を任せる者を定めておくべきにやありますまいか。」
「であればこそ、これを決めるのに世あすたべが3人そろっておらねばならぬでしょう。いずれの世あすたべのご采配で、いずれのヒキの兵船を動かすのか、これが肝心。」
ヒキとは三司官それぞれのもとに複数配置された政治組織であり、琉球ではこれを単位として渡明事業や様々な仕事が行われてきた。
「ううむ、なれど左様に順繰りにやっておっては、まことに奄美で謀反の進みてあらば、手遅れになりかねませぬが……。」
「渡唐船の方もいずれのヒキの船頭にこれを任せるか決まっておらぬで、やはり奄美征伐の兵船ばかりみだりに決めてしまっては和が乱れかねぬでしょう。」
船頭というのはヒキのまとめ役の職名であるが、文字通り船団の長としての役割もあって、遣明船はこの船頭が王府の命令を受けて準備することが多かった。
諸人はこれを聞いて最初の親雲上の本当の懸念を直ちに理解した。
明に弁明する使者の任には三司官の1人があたるのが妥当であり、1人が欠けた状態で1人を送り出してしまえば、残る1人に権力が集中しかねない。
そしてその1人は奄美征伐の軍権すらも有することになるのだ。
人々はこの時ばかりは一致団結して三司官の後任人事を話し合い始める。
とはいえ、これもまた難しい話。すんなりとは決まらぬまま時が過ぎて、気づけば数日が経った。
そんな中で、とある親雲上がしびれを切らして別の問題を提起した。
「法司(三司官)のことも大事なれど、堺のことも考えねばなりませぬぞ。」
「堺か……。室町将軍も大明国もそろって気にしておったが。」
山内親方が疲れた頭を振りながら思い出す。
この親雲上は那覇で外交や交易を所管する御鎖側の職にあり、堺の船団の扱いについて不安を抱えていた。
「先の船団が去ってから時が経っておりますれば、近く次が参ってもおかしくありませぬ。されど、室町将軍はこれを敵とみなして打ち払うをよしとし、大明皇帝は我らがかの者らに火矢を与えておらぬかご懸念遊ばしておられた。我らも身の振り方を吟味せねばなりませぬ。」
火矢というのは古い型の火砲で、琉球はそれくらいならばだいぶ昔に室町将軍に献上していたから、御鎖側からすれば「今更騒がれても」というのが内心である。
それゆえ問題を軽く見ており、なんとかごまかして堺船との交易を維持したいのが本音だった。
とはいえ、明が気にしているのは佛郎機なる最新式の火砲の流出である。
2年前に大内氏が幕府の許可のもと送り出した朝貢団が、明の官吏に鈴木家が使った何らかの新兵器について探りを入れたことで、不安視した明から琉球に急遽、問い合わせがなされていたのだ。
「うむ、皇帝陛下に疑念を向けらるるは我らにとって不本意。だからこそ、正しく弁明するにも渡唐船の支度を急がねばならぬ。そのためにも三司官が欠けておっては回るものも回らず!」
山内親方は我が意を得たりといった口調である。
彼は尚真王が中華を手本に王府の力を高めるのを支えてきた。明国との蜜月の日々をよく覚えており、倭寇をよく取り締まってきて、寧波の乱で途絶えた日明の関係を結び直したのは己らであるとの自負もあった。要するに親明派なのである。
しかし、御鎖側は山内親方の物言いを聞いて、堺や日明の問題までもが人事の問題にからめとられてしまったと焦り、早口に言葉を続ける。
「いやいや、それだけに限るお話ではありませぬぞ。大明国に向けてのことと、やってくる堺の船をいかに扱うかはまた別にして、先に堺の扱いを決めておかねばなりませぬ。」
「わからぬことを申すでない。我らが大和人に火矢を与えておらぬとても、あれらがどうにかしてこれを得ておるのは確かなこと。これまでがいわば目こぼし、あるいは抜け道であったにすぎぬのだ。」
尚清王は3年前の嘉靖13 (1534)年に冊封使を出迎えて正式に朝貢するようになったが、堺の船団と琉球の交易は前の尚真王の死から正式な冊封までの空白期間に秘かに行われていたものだった。
堺船は、鈴木家の支援で船腹に余裕があるのを活かして嵩張る輸出品も扱う有益な交易相手だった。琉球向けの米・茶・材木に加え、明向けの進貢品となる馬・硫黄も持ってきてくれる。それに対して琉球は明やシャム(タイ)から手に入れた品を横流しするだけでいいのだ。
彼らとの取引は那覇や泊といった主要な湊でなく、古くて小規模な牧湊でこそこそと行われており、明人には貢物の硫黄や馬を九州商人から集めていると説明してごまかしていた。
しかし、日明の統治者の双方がそれを気に入らぬというのならば、山内親方としては直ちに付き合いをやめるのが当然であった。
親方は続けて言う。
「我らが王もこたび冊封を受けたからには、皇帝陛下の怒りを買うなど言語道断にて、ただちにかの者らに煙硝を売り渡すのをやめればよい。それで火矢も使えぬ。」
「されど向こうも直ちに了承はせぬでしょう。かねてより自ら南蛮(東南アジア)へ赴くを望んでおれば、商いをやめるといえば何を仕出かすか。それに、この商いは我らにも益がありますれば……。」
「大和との間に挟まる我らの許しなしに南蛮に出づるはそも困難なれど、無理を押してかような振る舞いせんというならば、そはもはや賊なり。大明国は倭寇をことさら嫌っておるし、室町将軍の許しもあれば、これを阻むが正しきことよ。」
「いや、ですから!」
なおも食い下がる御鎖側を手で制して山内親方は一喝する。
「弁えよ!まだ来てもおらぬ者どものことを心配しても始まらぬ。かの者らがいつ来てもよいようにまずは世あすたべを決めねばならぬ。よいな!」
「……。」
御鎖側の焦りは他の上級官人の目には付け入る隙に見えた。
もはや彼に発言権はなく、失脚せぬよう立場を守るので精一杯だった。
◇
「父上、またもや古見の者らが……。」
「なに、またか。今年に入ってから何度目ぞ。しつこい者どもだ。」
奄美大島の北に突き出た端の部分に置かれた笠利間切、中でも端の付け根にある用安の地を治める与湾大親(大屋子)は、息子の糠中城の報せを受けて顔をしかめた。
彼らの在所のすぐ南にある古見間切の一部を治める大親と与湾大親・糠中城の父子は不和であり、なんだかんだ問題が生じていたが、年始より特に挑発的な振る舞いが増えていた。
「しかし今度は度を越しておりまする!かの者は我らが首里に反して悪事をたくらむなぞ嘘を吹いて回っておって――」
「なに、そうまで言うたか!これはいよいよであるな。かくも邪なる物言いは、よもや他の大親を誘いて我らに戦を仕掛けようという腹積もりではなかろうな。」
「父上、それはありうることにございまするぞ。幸いにしてこの湊城は要害の地。守りを固めて様子を見るのはいかがでしょう。」
「されども、兵を動かすようなことあってはそれこそかの者の思うつぼではないか。」
「しかし、なにもせぬというのは……。いや、ともかく笠利の大屋子もいに相談してみましょう。」
「うむ、そうよな、それが第一か。」
件の大屋子は笠利間切の首里大屋子、すなわち統括役人であり、しばらく前に琉球から派遣された喜志統親雲上のことである。
彼の子は用安の山を挟んだ向こう側の喜世(喜瀬)の大親であり、彼らに疑われれば東の海を除く四方を敵に囲まれることになり、破滅を意味する。
兵を集め始めた古見間切の様子を見て、与湾大親父子は念のため湊城の防備を整えつつ、笠利の首里大屋子に申し開きの使者をたてたが、どうにも反応が鈍い。
もしや疑われているのか。
不安に苛まれる与湾大親であったが、不思議なことに古見間切からは攻めてくる気配はない。
どうしたものかと悩むうちに、沖の鬼界島(喜界島)からの使者がやってきた。
かの島にも首里に任じられた役人がいようものを、はたして押し込められでもしたか、少なくとも使者は謀反に加担する立場にあるようだ。
「よもや与湾大親がお立ちになるとは我らも驚きてございますれど、我らとしましてはお力添えいたす所存にて。」
「待て待て、こたびのことは古見の慮外者が言いふらしたるものにて――」
「しかし、奄美にも心の底にては首里の支配に納得しておらぬ方々のおらぬわけではありますまい。この笠利にても捌理(上級職種)のほとんどが浮縄の者らの手にありて、悪しき官人のせいでいかに民が苦しんでおるか。あなた様もご存じでしょう。」
「そういう話はするでない。」
「善政で名高きあなた様にはあまり似つかわしくないお言葉ですな。」
「やめよ。」
「ではどうするのです。聞けば間切の他の大親の方々は疑念を抱いておるとか。あなた様は民の信望厚きお方。同心する者も少なくないと思われておるのでしょう。」
「すべて誤解だ。」
「本当はわかっておいででしょう。事ここに至っては、なにがまことかは大事でないのです。あなた様の謀反の噂を聞いた者が勝手をする、これを大屋子連中は恐れておるのです。そしてまた、うまくあなた様を打ち滅ぼせば、大親職がひとつ空くのです。」
「……。」
「されど己が独り立ったとて、そうお思いですか?我らがこうまで言うのは何も無策からではありませぬ。実のところ、ただいま島には堺船が訪れておりまする。」
「なに、堺の船が!?」
「これを味方に引き込みまする。なんでも、かの者らには室町将軍から追討令が出ておるとか。日明の双方と親しい首里がはたしてこの者らとこれまで通りでいられるでしょうや。」
「……。」
「たとい堺の政所につくことになりても、あれだけ遠くの相手。大屋子職を自在に任免できるとも思えず、年貢を求められても遠さの由を以てどうとでもなりましょう。それでいて、兵船の援けが得られるのです。」
黙ってしまった与湾大親の様子をじっくりと見定めると、使者は「よき返事をお待ちしておりまする」と言って下がった。
◇
一方の鬼界島では、十数隻からなる船団を率いる船大将・佐治上野介為貞は悩んでいた。
「本当に琉球は我らと敵対することを選んだというのか。」
鬼界島の者らによれば、琉球は堺船を受け入れないだろうとのことだった。
今回の船団が20隻近くになったのは、室町幕府が堺船の打ち払い勝手とも受け取り得る法度を布告したのを受けて、道中の海賊衆の攻撃を警戒したからだった。
また、先の大内氏による遣明船派遣には堺からも加わる者が出ていたため、今回の船団派遣を大々的に喧伝し、堺商人に対する求心力を高める必要もあった。
遣明船の再開や幕府の打払令のことは琉球にも伝わっているというので、船団が琉球から忌避されるということはあり得た。
その場合、最悪は寄港できない可能性もあるから、乗員の命のために物資を多めに持っていくべきだったし、もし交渉で妥協案を模索するにしても、十分な武力がなければ軽んじられる。
こうした理由から船団の規模は大きくなっていて、佐治としては最初から戦の覚悟もあった。
しかし、何と言っても本国を遠く離れて味方もおらず、そもそも落ち着いて休むことのできる陸地すらない南海の彼方。そして、気を張り続けての連日の航海。
乗り込んでいる商人たちも含めて一団の不安は計り知れない。
船団は緊迫した空気に支配されていた。
「船数の多さに助けられたが、九州の海賊どもは手出しの気はあったようだで、琉球に敗れでもしたらば危うい。幸い土佐ではかの悪法のままに短慮に走る者はおらなんだで、退くならば土佐だが……。」
正確に言えば、土佐で安全なのは一条家の支配する西側だけである。
当主・一条房冬は堺との縁と交易に強い関心を持っており、自前の商人を堺の船団に同行させて交易事業に加わっていたから、先の法度を出した室町方には不信感を抱いていた。
佐治は水軍の将として軍事的に撤退を考えているが、商人連中はそうでもない。
彼らはむしろ、大内の遣明船が再開されて自らの優位性が危うくなってきている中、ここで退却することで南海航路が途絶えるのを恐れている。
そんな彼らは鬼界島の反首里の者たちと意気投合して、この島を押さえて渡海の拠点にしてしまおうという話で盛り上がっている。
緊迫した状況の中で思考が過激になっているのか、あるいは、商いをするのに琉球を挟むことの不満がここにきて噴出したのか。
もちろん、この島にも首里王府寄りの者たちは少なくない。5つある間切には多くの大屋子がいて、中には本島(沖縄)から来た者もいる。
しかし、彼らが個々で動員できる兵数は船団のそれに遠く及ばず、奄美の反乱の行く末を見るまで静観を決め込むらしい。
「確かに商人どもの望むまま戦になるとても、大筒も備えておるほどに、倍の敵ならばなんとかなる。しかし、それならば当方より先に撃ちかけて敵の数を減らさねばならぬ。」
佐治は悩む。
琉球の軍船がどれほどの数かはわからないが、おそらくはかなりのものだろう。
とはいえ、水軍衆での評議では、この船団は商船団とはいえ30隻か40隻の相手ならば互角に渡り合えるはずとの見立てである。
なぜなら、船団の大型軍船には計15門の有力な火砲が配備されているのだ。
これは、慢性的な火薬不足の中、火薬を多く使う攻撃距離の短い焙烙玉に代わって、10年かかって開発された大型の銃筒である。
これならば、石や金属のつぶてを少量の火薬で遠くまで弾き飛ばすことができ、先制攻撃で撃ちかけて敵船の側面なり底面なりに穴をあければ、直ちにこれを沈めることはできなくとも、浸水に対処したり退却したりで撃たれた船は攻撃に参加できない。
接舷攻撃までに15門で数発ずつ撃ち込めば、倍の相手でも同数程度に削ることができるはずだ。
だからこそ、戦の心づもりは早くに固めておかねばならない。
「とにもかくにも、まずは那覇に小舟を送りて使者のやり取りをせねばなるまいが。」
◇
大小数十艘、兵2000を超える大船団を率いて、三司官に任じられた根差部親方は海原を進む。
「奄美の者らは懲りることを知らぬと見ゆる。四十有余年前のことをもう忘れておるとは嘆かわしい。あるいは我らが新王を軽んじておるのか。いずれにせよ、ここは再び王軍の威を見せつけ、心を折っておかねばならぬ。」
和暦の明応2 (1493)年には、奄美に大和の兵船が入り込み、王軍がこれを打ち破ったことがあった。
首里王府は長らくの朝議の後、今回も、日明の間で立場を失った堺の者どもが反乱にかこつけて奄美を占拠し、無理やり明や南蛮(東南アジア)との商いに割って入ろうとしていると判断した。
それゆえ根差部親方は、堺船団を一撃して敗退せしめ、それを以て反乱者の意気を挫き、すみやかな反乱鎮定に努めるよう命じられていた。
この件を片付けたら、王府は明に堂々とやましいところがないと報告する予定であった。
奄美大島の東を北へ進むうちに、やがて待ち構える船団が見えてくる。
「ふむ、さすがに使者が帰ってくるまで大人しく待っておるということはなかったか。」
堺の船団が送った使者は首里で囚われており、彼らには何一つ問い合わせの回答は伝わっていないが、それで戦と決め込むとは血気盛んなことだ。根差部親方は内心でため息をついた。
「どうも聞いておったよりは船数が多いが、おおかた奄美の者らの助太刀か。いや、むしろ堺の者らが助太刀なのであろうな。」
くだらないことに思考を割きながらも、親方は敵船団から一切目を離さずに集中してその様子を見極めている。
帆をたたんで動くそぶりがないのはどういうつもりなのか。
火を受けるのを嫌って帆をたたんでいるとすればわからぬでもないが。
とはいえ、それでこちらが火矢を射かけぬということにはならない。
敵はいくらか巨船が目立つが、総数ではこちらが3倍ほどはあろう。
よく火で焼いた後に囲んで乗り込み、奪うとするか。かばかりの船は大和人にはもったいない。
親方がそんなことを考えながら兵士に矢の用意をさせていると、にわかに敵船団から大きな音がして、気づけば味方の船から何かをたたき割るような音と悲鳴が立て続けに聞こえていた。
「なんだ!どうした!」
「船に穴が!」
「よもやこれが大明国が気にしておったというっ!!」
根差部親方は朝議で話題になった火砲のことをただちに思い浮かべたが、とはいえ棒火矢ならば琉球にもあるし、火砲は南蛮でもよくあるもの。
驚くほどではない!
親方はクワと目を見開き大声を張り上げた。
「ともかく矢を射かけよ!そして近づくのだ!」
◇
かくして堺方の先制攻撃は琉球軍船の20艘近くの動きを封じたが、根差部親方の果敢な猛撃により彼らも大きな被害を受け、両者は痛み分けとなった。
しかし、船数優位の琉球軍が引き下がったという衝撃的な光景を前に奄美情勢は一気に不穏なものとなる。
堺方は鬼界島に拠って大島の東岸に目を光らせながら、救援を求めて堺に急使を送り出した。
一方の根差部親方は急ぎ本島に帰還して軍勢の再編成を始めたが、首里では退却を咎める声が上がり、弁明に奔走するも親方は失脚。再び後任人事をめぐって朝議が重ねられることとなる。
琉球と奄美は突如として動乱の渦中に突き落とされることとなった。
【メモ】首里の役人はこの頃作られた首里方言という共通語を使用したそうですが、奄美方言ともども、雰囲気等の再現には力が及びませんでした。琉球・奄美の制度や当時の人物についても調査が難しく、かなり想像で膨らませています。どうぞ本話の内容を真に受けないようお願いいたします。
また、ここでの銃筒は砲身1mに満たない小型の砲で、すでに東南アジアで普及していた水準のものです。琉球も棒火矢を持っていますが、調べても使用に関する情報が得られなかったので、本作では金属資源に乏しいから普及していないと処理しています。




