第145話 1536-37年「海事暦」◆
吉田丸船頭・向井助兵衛尉正重は船上の人であった。
彼は配下の航海録事が太陽高度計測器や砂時計を確認するのを見届けている。
「高度差4目盛り!」
「うむ、異常はないようだな。」
「高度差はもはや増さずして、南中を過ぎたと見えまする。先の時分を南中と見て所を改めますると……四半時(約15分)の3分の2早まっており申した。」
「南中時、4目幅の南、四半時の3分の2の東か。」
この録事は名を新兵衛といい、生まれの尾張国小牧を苗字とする。
悴者(奉公の地侍)として三河の奉行のもとを渡り歩くうちに算術を覚え、録事の給料学生の募集に応じ、苦心して免許の証文を得るに至った精鋭である。
記録を付け終えた新兵衛は向井に話しかける。
「去年末の巡見では驚くべきほどの高波のあったと聞きまするが、こたびは穏やかにございまするな。」
「それでいうたらば、宮崎殿はまことに不運であった。御子が生まれたばかりというに。」
宮崎とは名を行信といい、南海探検に出た満天丸の船頭である。
この満天丸は昨年、嵐にあって転覆し、救助もままならずに数十の行方不明者が出て、宮崎も幼子を遺して帰らぬ人となった。
「やはり早いところ御海島様に願いて、海の神を祀る社を建てていただかねば。」
前々から新兵衛は航海の安全のために神社を建てた方がいいと思っている。
彼が頼みにする「御海島様」とは鈴木家先代当主・重勝のことである。
家中では「御隠居様」でよくても他家との間では別の名を使った方がよいということでこの呼び名が使われ始め、船手衆では「こちらこそが恰好の名である」と好まれていた。
新兵衛は続けて言う。
「しかし、海の神とはいかなる神がおられるのやら。向井殿は伊勢のお人なれば、お詳しいでしょうな。」
「伊勢生まれが皆、神事に詳しいなど思うてくれるなよ。」
「いやはや、これはご無礼を。しかしまあ、御伊勢様をお祀りしておれば、たいがいよかろうとは思いまするが、どうでありましょうな。」
「口まめなやつめ……。おい!言うておる場合やないぞ、菩薩丸の旗があがっておらぬ!あほうめ、砂でも零したか!」
向井は僚船・菩薩丸から砂時計の砂の交換完了を報告する旗が揚がらないのに気づいて怒鳴った。
この砂時計は鈴木重勝が隠居してまで制作に集中したかったものである。
漆塗りの二重箱の上箱がだいたい1海時(約1時間)で空になるので、下から上に砂を戻す必要があるのだ。
もし菩薩丸がその砂の交換に失敗した場合は、これから先は向井の乗る吉田丸の砂時計が時を計る唯一の手段になる。時計がなければ大洋上での自船の位置を見失うかもしれない。
そのため向井がやきもきしていると、菩薩丸では旗が掲げられた。
「なに、小舟のやり取りを望むと申すか。これは本当に砂をだめにしたか……。」
向井は仕方なく菩薩丸からの使者を受け入れたが、使者の口から報せを聞くと俄然、興奮して水夫たちにてきぱきと指示を飛ばし始めた――
◇
今度の巡見、祝着至極に候。
大小数多島々見付申し候。就きて候、
島々名付、御意得るが本望に候。
御披露あるべく候。恐々謹言。
三月十五日、鈴木刑部重勝。
鷹見修理亮殿。
猶、航海録事の書付、写し副えて候。
録事御書付、感嘆に候。
己の船上にあるがごとくに候。
御海島殿、九鬼殿、向井殿の
御名を称うべく候。
宜しく御披露に預かり候。恐惶謹言。
四月、鈴木甚三郎重時。
御天文方人々御中、御報。
◇
天文6 (1537)年、ついに鈴木家は八丈島の南に広がる群島を発見した。
我々が小笠原諸島という名で知るそれらの島々には、島番頭の鈴木弥右衛門が探検隊を率いて上陸し、八丈島移住で功のあった医者・伊賀善四郎の目利きで定住予定地を見極めている。
「ふむ、刑部群島、九喜島、迎島に……うむ、万事これでよかろう。」
「まことに、御海島様の御名はおつけにならぬので?」
「ここに『刑部』とあるで、それでよかろう。」
「されど……。」
重勝とやり取りするのは、三河本国から送られた鷹見(三宅)政貞という若武者である。彼は鷹見修理亮の娘と結婚し、三宅家から婿養子に入っていた。
「刑部」は重勝の持つ「刑部少輔」の官名からとられたが、これは変わり得るし、彼自身を象徴するのでなく外から与えられたものなので、家中では諸手を挙げて賛成というわけではなかった。
政貞はそうした本国の意見を背にして食い下がろうとしたが、重勝は「まあまあ」と宥め、発見した八丈島以南の島々を命名する文書を書き始めた。
政貞は渋々ながら「……写して回覧に供しまする」と答える。
一方の重勝はそれを書き終えると、せっかく墨を作ったからついでとばかりに別の折紙に「承候畢」と書き入れた。
これは船大将・九鬼重隆が島の発見者たる若い水夫の功績を書いて寄こしたもので、重勝がすべきは確認して送り返すことだった。要は軍忠状だ。
しかし、重勝は花押を書こうとしたところで、ふと筆を止め何かを考えると、紙の冒頭の余白に追記した。
「猶以て、是非無く慶福に候えば、名字『天眼』を書き出すべきものに候。」
「おお、家名をお与えになられる。」
「我ながら、よき名を思いついた。」
「まことに。」
重勝は最初に島を発見した目のよい水夫に「天眼」なる苗字を与えることにし、しみじみと書状を見返していたが、もう1枚紙を取り出すと同じ文面を書き付け始めた。
「いかがなさいましたか?」
「いやなに、この者にこの一見状を与えてしまわば、儂の手許に何もないであろう。」
「はあ。」
「せがれの書状も大事に置いてあるが、これも記念として置いておかねばと思うてな。」
「……なるほど、左様にございましたか。」
重勝の言を理解しかねた政貞は中身のない返事だけして、恭しく2通の文書を受け取った。
そして、そのまま下がろうとするところで、重勝は彼を引き留めて話を続ける。
「のう、こたびのことで、暦やら砂時計やら日測術やらの大事なるは周知となったであろう。」
日測術とは重勝の作った言葉であり、要するに天測航法である。
太陽の南中時刻と高度を基に基準地点からどれだけ離れたかを算定する航法であり、暦も砂時計もそのためのもので、重勝が隠居したのもすべてはこの技術の開発に注力するためだった。
「はい、それはもうまことに左様にて。」
「であろう。なれば、物は物で数を増やし、術の上手も増やし、ということになろう。そこで、天文方を三河にも整えてよろしくやってほしいと思うのだが。」
「よろしいので?天文のあれこれは御海島様のご本懐にてございましょう。」
「儂しかできぬところがあったで手許でやってきたが、今後、難事の生じるでもなくば、あとは任せたいと思うておる。島々の差配も手を抜けぬし、なにより儂はかの刑部群島に移るやもしれぬで――」
「ええっ!そ、それは、その!」
「『なりませぬ』か?」
「いや、そうは申しませぬが、なにとぞ御身を大事になさいまして、御当主様や三河の方々ともよくよくご相談を……。」
「よいよい、わかっておる。『ご相談』はするでな。どれ、湊まで見送ろうぞ。」
そう言って重勝は立ち上がり、政貞についていく。
途中、政貞に妻の松平久と生後半年ほどの娘・煕子を紹介しつつ湊に出向くと、彼の乗船が沖で小さくなっていくのを眺めながら、これまでのことを思い返していた。
◇
時は遡って入島してすぐの春のこと。
「お前様!なにをやっておられますか!」
久が珍しく怒ったような声で夫に呼び掛けた。
この頃は久の妊娠がわかったばかり。久しぶりのことで、しかも慣れない島暮らしの中というのもあって、彼女は気分がすぐれないことが多かった。
そんな中で屋敷の庭で夫が妙なことをしていたらイラっと来るのも仕方ない。
「邪魔せんでくれ、今しかないのだ。おい、そこの!砂を、砂を浜から持ってきてくれ!くれぐれも粒の細かいものを頼むぞ!」
「は、はい!」
重勝は朝からこうだった。
しばらく前から紙に何やら数を書いてはああでもないこうでもないと思案したかと思えば、まだ2月だというのに「ということは今は3月半ばか」などと惚けたことを言いだす。
庭に棒を立ててその影の先にときどき石を並べるようなことは前々からやっていたが、「いよいよだ」などと今日にいたっては砂遊び。
何だかわからぬ木箱をいくつか並べ、日の出からこの箱に砂を注ぎ始めた。
訝しげな妻には「ここの漏斗の傾きが同じでなくばならん」とにこやかに話しかけることもあったが、砂が途切れぬよう、昼までずっとつきっきりだった。
「もう昼ですよ、なにをやっておられるのです!おかしな風に思われてしまいますよ!」
実際、重勝の奇行は島民にも知られており、やれ狐憑きだ、いやご隠居は髷を落としておるであれは修験の何かだ、どっこい陰陽の秘術だなんだと噂されていた。
気が立っている久はそれが我慢ならず、三河に残る側室の奥平もとに手紙で愚痴を言っており、そのため、久を心配したもとは娘の松子を連れて近く八丈島に来ることになっている。
「よし!そろそろ南中であろう!」
棒の先の影をみて何かに納得したらしい重勝は、庭に並ぶ木箱の下の器を順繰りに引っこ抜いて回り、ようやく纏っていた鬼気迫る空気を霧散させた。
そして、どっかと庭に座り込み、額の汗をぬぐった。
「すまぬな、騒がしうて。」
「すまぬなではありません!何だったのですか、今日は朝から!」
「今日はおそらく春分のあたり!日の最も長き夏至、最も短き冬至より日を数え起こして、いよいよの今日あたり!おあつらえ向きに近頃は晴れ続きときた。やるしかなかったのだ!」
「……はあ。ちゃんとお話しなさるおつもりはないのですね。」
呆れた風の久は屋敷の奥の方に引っ込んでしまい、重勝は「待て待て」と起き上がって話を続けようとするが、そこへ砂をとりに行かせた下男がヒイヒイ言いながら戻ってきた。
「粒の小さいとは、これでようござったでしょうや!」
「おお、ご苦労であった!うむ、よいよい!では砂はそこの甕に――」
◇
重勝の奇行を心配する久の手紙は、奥平もとから鷹見修理亮の手に渡っていた。
身重の久にこれ以上心労をかけてはいけないと、鷹見が重勝に問い合わせの手紙を送ったが、重勝は嬉々として何やら長文であれこれと書いて寄こしてきた。
「春分の日の出より日の最も高くなるまでを6等分して新たに『1海時』なるものを定め……。1海時のずれで海上15度のずれとみなし……。日の最も高く上るとき、その高さを平らかな板を128等分した1目盛りで測り……。ううむ全くわからん。」
鷹見は何一つ理解できずに頭を抱えた。
しかし、旧主の頭がおかしくなったとは受け取らずに、なにか全く未知の事柄に手を出しているということだけは理解して、彼のもとに人を送ることにした。
彼の考えていること、やっていることを理解できる人を増やしておかねば、と思ったのだ。
すでに重勝は諸事の遂行に際して「天文方」という部署の設立を申請していて、さしあたり南海の島々はその管轄下にあるという形になっていたが、どうやら重勝のいう天文方はまさしくこの不可思議な秘術の研究にこそ本質があったようだ。
そこで鷹見は庭野学校から見込みのある若者を3人ほど見繕って天文方付として送り出し、連絡係として自分の後継者たる婿養子の政貞を置いた。
また、相談を受けた熊野の鳥居忠吉も、僧籍でなおかつ熊野統治の安定のために地元の米良家に養子入りしていた次男を送って学問させることとした。
やがては熊野にも「天文方」を用意するつもりのようだ。
◇
もっとも、鷹見が手紙では重勝の仕事を理解できなかったのは当然である。
重勝は言葉や概念から道具まですべて勝手に作っていたから、共有の前提がないのだ。
まず、暦がない。
正確には、固定的な暦がなかった。
春分も通常の暦では毎年変わってくるところ、重勝はこれを自前で作った暦の月日で固定して把握していた。この暦――重勝は海事暦と呼ぶ――からして鷹見には未知のものである。
重勝はこれまで日時計でちまちま測定して、南中時の影が最長の日と最短の日というのにだいたいあたりを付け、おおよそ冬至と思われる日を、夢で見た記憶を基に「12月22日」に固定した。
そのうえで、我々のよく知る12か月365日の暦に合わせて日を数え、春分を「3月22日」、夏至を「6月22日」、秋分を「9月22日」とした。
どうも日付の末尾一桁は適当に決めたようだ。
なぜそのような暦になるのかという歴史的・天文学的な過程なしに結果だけ適用しているため、これについては重勝自身もそもそも説明のしようがない。
そして、時間もない。
こちらも正確に言えば、日の出と日の入りの間を等分する変動的な時間ではなく、我々が思うような長さが一定の時間というものがないのだ。
そこで、この暦に従って天文5年2月半ばの春分らしき日の日の出を朝6海時と定め、12海時に当たるはず――と重勝が思った――の南中まで、漏斗付きの箱に砂を注ぎ続けて6時間を測定した。
この6時間分の砂を6等分したものが1海時を示す砂の量であり、これを基に同じ重さの砂を用意して砂時計を量産していったのである。
そう、重勝が作っていたのは、砂時計だった。
固定的な時間が一般的でないのは時計がないからだ。
もちろん日時計や水時計などはあるが、航海用の時計としては使えない。
日時計は足場の安定しない船上ではダメだし、水時計は規模が大きいものが多かったり揺れる船上では水が零れて難しかったりでダメだったのだ。
結果、重勝は砂時計を作ることにした。
しかし、ここでも問題があった。
彼が思い浮かべる砂時計はガラス製だが、日本ではガラスが生産されていないのである。
方々を探してもガラスが入手できなかった重勝は、やむなく漆塗りの箱で砂時計を作った。
上箱には下面に漏斗、上面に蓋が付けられ、内側には目盛りがあり、下箱は2つ1組で漏斗を流れ落ちてくる砂を受け、1海時で下箱の1つが満杯になったら2つ目の箱と差し替えて、溜まった砂を上箱に戻すのである。
さて、これでなんとか暦と時間と時計がそろった。
時間がわかれば、重勝の覚えている限りで、1時間の南中時刻のズレが経度15度のズレに相当するから、基準となった場所の南中時刻とのズレで船の東西の現在位置がわかることになる。
もっとも、いつが南中なのかは判断が難しく、小刻みに測定して「さっきが一番高かったから遡って南中としておこう」というぐらいしかできない。
それでも時計による東西位置の把握というのは当時最先端の理論であり、技術的には世界的にもこれ以上はどうしようもなかった。
そうなると、必要なのは太陽高度を計る器材となるが、またもや壁に直面する。
角度がないのだ。というか、我々が知る直角を90度とする分度器がないのだ。
やむなく重勝は、水平すなわち180度から出発して、これを半分にし、さらに半分にし、と繰り返していって、128等分したあたりで自力でもはや等分できなくなり、これで目盛りを作った。
水平を180度とした場合の1.40625度が1目盛りとなるわけだ。
それに基づき重勝は四分円を板から切り出し、64の目盛りを付けた紙の帯で弧を覆い、中心とその目盛りを結んで墨を打った。
四分円の中心に影を作るための針をつけ、そこから錘を垂らして水平でない場所で基準とすべき目盛りを示すようにもした。こうして針の作る影で太陽の高度を測るのだ。
これで南中高度がわかれば、基準地点との差で南北の場所の違いもわかる寸法だ。
あとは、出港地たる八丈島で何月何日の日の出・日の入り時刻はいつかとか、そういうことを調べていく必要がある。
とはいえそれらがなくとも、船団の出港前日に、日の出を基準に砂時計を動かし始めて相対的な南中時刻を確認しておいて、それを基準に海上で南中時刻のズレを確認すれば、ある程度は現在位置の把握が可能となる。
もちろん、これはかなり不安定だ。
まず日の出が正確にどの瞬間なのかすら曖昧である。船上でも万事が天気に左右されるし、砂がどこかで漏れていれば時刻はすべて間違いになるし、南中の特定に失敗すれば算定結果は怪しいものとなる。
実際、八丈島の春分の日の日の出は我々の時間でいう6時ではないし、日の出から南中までの時間は厳密にはぴったり6時間ではない。
だからこそ、船乗りはこれらに加えて凧の垂れ下がり具合から風速・風向きを緻密に記録し、潮がどれくらい強かったかも記録し、持てる能力を総動員して船の位置を把握する。
これだけのことができる人材を育てるのは大変だ。
重勝が「天文方を三河にも」と言ったのはまさしく人材育成のためであり、自身が万一いなくなっても技術を継承させるためでもあった。
大きくなった鈴木家において、専門人材はますます重要になっていく。
【メモ】小牧新兵衛は本来は甲斐武田に仕えて秋山十郎兵衛/万可斎(?)を名乗り、尾張方面の使者や諜報を担ったそうです。鳥居忠吉の次男は本翁意伯といいますが、本作では敵対後に降伏した米良家を継いで米良道意を名乗り、米良家の実報院執行職を得ます。本作で鷹見家に婿入りした三宅政貞の子孫は本来は三河の挙母藩主や田原藩主となります。




