第144話 1535-36年「八丈島」◆
八丈島神湊。
湊には、しばらく姿を見せていなかった三河船が久しぶりにやってきており、「何事か」と島民が集まっていた。
上陸したのは鈴木家の抱き稲の旗を掲げた鎧武者の一団。
物々しい集団が大賀郷の代官屋敷まで歩みを進めると、興味津々の島民は遠巻きのその後をついてくる。
「北条家代官、奥山殿に面談願いたい。それがしは三河鈴木家より代官職を任され申した医者の伊賀善四郎にござる。」
一団の中から前に出てきて呼びかけるのは伊賀善四郎正親。
彼は岡崎松平氏の出である。この一族は、かつて鈴木家重臣・西郷氏に城を奪われて没落し、岡崎北の伊賀に移り、地名から苗字をとって細々と暮らしていた。
しかし、彼らは鈴木家の勢威著しいのを見て「時流に乗り遅れてはならぬ」とばかりに、一族の再起の期待を寄せて、早くに善四郎を庭野学校に送り込んでいた。
こうして若くして医術を身に着けた善四郎は、鈴木家先代当主・重勝の隠居所開拓にあたり、有能な文官が必要ということで抜擢され、八丈島にやってきたのである。
「あんでおじゃろう、鈴木家の代官とな?こら異なこと。本島の代官はそれがしのととう殿におじゃれば、貴殿はいずくの代官におじゃるか。」
慌てて出てきたのは、北条家から八丈島代官に任じられている奥山家の次期当主・与次郎忠俊。父の式部は不在のようである。
不信感をにじませた与次郎の問いかけに、善四郎はさもありなんといった様子で頷く。
「やはり、いまだお聞き及びでない。こたび、尊家と当家は少々の争いの後に和議を結び申して、伊豆の島々は八丈島に至るまで鈴木家に譲り渡されたのでござる。」
「そ、そごんどぉことは聞きておりもぉさぬ。騙そぉしゃぁても、そうはいきんなか!そごん武者ぁ従えて、戦でもしょうてよのか!」
「騙そうとは心外にござる。戦なぞ我らは望んでおり申さぬ。」
善四郎は興奮した与次郎の言葉をすべては理解しきれなかったが、聞き取れた分に関しては、歳に似合わない落ち着いた声音でゆっくりと返事をした。
善四郎はそれっきり黙ってしまって動くそぶりもない。
一方の与次郎は彼の様子を見定めて悪意がないのを悟ると、ひとまず落ち着いたようで、少し考えた後、再び口を開いた。
「……ともかくも、国よりよくおじゃりやった。ととう殿が戻ららば詳しく話そごん。待ちてたもうりやれ。」
◇
「溜め池と三宅島の者らでありいたすか。」
島民の相談を受けて外出していた奥山与次郎の父・式部は、戻ってくるなり伊賀善四郎から用件を聞いてうなった。
八丈島を鈴木重勝の隠居所として整備するにあたり、移住予定の配下の者らを養うために畠を開き家屋敷を建て増さねばならない。
そのために、何よりも生活用水を確保すべく先に溜め池を掘っておきたい、というのが善四郎の要望だった。その際、春の噴火で生計が立ち行かなくなった三宅島民をいくらか移す予定だという。
「されどぉも、本当に北条様はそごんこと……。」
「何とぞ溜め池につきていったんお許しいただき、そのうちに相模の御本国に文をお遣りくだされ。溜め池は作りても損にはなり申さぬほどに。」
「ううむ……。」
善四郎は、煮え切らない奥山式部の反応を待ったが、しばらくすると、時間はかけられないとばかりに「ともかくも用地を見ておかねばなりませぬで」と言って屋敷を去るそぶりを見せた。
式部はむすっとして座敷に居残るままだが、息子の与次郎の方は「勝手は困ろわ!」と言って慌てて善四郎についてきた。
◇
結局、奥山父子は文句を言いつつも、眼光鋭い鎧武者に囲まれた善四郎に手出しはできず、急ぎ相模北条氏に問い合わせの舟を出すのみだった。
その間にも善四郎は、すでに三宅島で船に乗せてきていた数組の夫婦と三河の熟練農民を使って溜め池づくりを始めてしまった。開拓地は島南西の樫立という集落のあたり。
なお、三河農民はかさぶた吸引法で疱瘡の予防を済ませていた。
この予防法が大々的に行われるのはこれが初めてで、疫病の蔓延を警戒した重勝の指示で、庭野学校の御医・徳本が「実検の好機!」と率先して試みていた。
開拓民たちは石置き屋根の狭い小屋に分かれて住み、冬に向けて三河からは食料や炭・薪などを積んだ船がやってきて、瞬く間に生活環境を整えていった。
まだ畠から得られるものはほとんどないが、開拓民には小舟が下げ渡されており、鶏と牛も持ち込まれ、備蓄の穀物に加えて魚・卵・牛乳で十分に飢えをしのげるようになった。
元三宅島民の中には「元よりもいい生活をしている」と言ってはばからない者もおり、彼らは親族を呼び寄せたいと陳情している。
遠巻きに見る八丈島民の中にはこれを妬んで、秘かに唐滝川から溜め池に繋がる水路に石を落とすなどして小さな嫌がらせをする者もあった。
なにしろ数年前にも島では凶作で飢饉となったばかりだったから、無尽蔵に本国から支援を受けるのを見せつけられては彼らの心が曇るのも道理である。
とはいえ、基本的にはおおらかな気質の人々が多く、三河船が桑の苗木を持ってきて島の特産の絹と交換するようになると、島民も入植者と友好関係を結ぶようになった。
十数年前に八丈島でも噴火があって桑畑が被害に遭っており、島では養蚕を生業とする者が少なくないため、桑畑の再建・拡大は島民の切望するところだったのだ。
樫立や中之郷といった島の南部の集落がこうして懐柔されていく中で、奥山父子はようやく相模からの返事を受け取った。
しかし、北条家は扇谷上杉家との戦の最中で、すでに和睦で手放した上に海の向こうの八丈島にまで気を回している余裕はなく、島での定住と代官職の安堵、あるいはそのための三河本国との取次を願う奥山父子の訴えは聞き入れられなかった。
奥山父子は、北条家の指示通りに一族のもともとの出身地である神奈川に帰るか、三河鈴木家に従って島に住み続けるかの二択を迫られた。
「ととう殿、これからあだんしいたすか。」
「末吉の長戸路はあだん思ったろか。」
「うれらははら代官でもなくてありいたせば……。」
八丈島にはかつて奥山氏と同じく代官の地位にあった長戸路氏がいるが、奥山氏が島の西部の大賀郷を支配するのに対して、彼らは島南東の末吉村に住している。
当代の七郎次郎真純は村の浅沼何某と婚姻を結んですっかり土着しており、おそらく島の支配者が北条家から鈴木家に代わっても、特に何もしないだろう。
「中之郷にては湊までこしらえ始めたろようでおじゃる。ととう殿、従わば、はやくしんのぉと、我らが立場が……。」
「……。」
中之郷は樫立の東、島の南部の集落である。
島の南西に勢力を築きつつある鈴木家は、年も改まる頃には、樫立と中之郷の住民に呼び掛けて、中之郷の藍ヶ江に湊まで作り始め、住民にこれを開放していた。
いつの間にか、東部の神湊には鈴木家傘下・小笠原水軍の荒尾(佐治)美作守善次という者が番所を建てて住み着き、奥山家に挨拶に来るのも伊賀善四郎から神谷五郎正利という者に交代していた。
善四郎は本業の医者の務めに戻って、樫立で住民の世話をしている。
鈴木家は着々と島を支配するための人手を送り込んできていた。
それを知る与次郎は、鈴木家が奥山家の助力なしに島で地位を確立し富を蓄えていくだろうと見越して、早いうちに従ってせめて大賀郷の代官職を確保しようと焦っているのだが、父の式部は「それではなめられる」と思っているのか、鈴木家の方から話を持ち掛けてくるのを待っているようだった。
「ととう殿!」
決断を迫る与次郎に対し、式部はそれでも動かない。
業を煮やした与次郎は、ついに交渉相手の神谷五郎に臣従の話を申し入れた。
五郎の父は、駿河で今川家との交渉役を務めた神谷喜左衛門。彼は重勝長男・勝太郎が毒殺されるに至った駿河の変事で、勝太郎らを松平家の追手から逃がすために殿を務めて討死していた。
五郎は父の功績もあって引き立てられ、御隠居直属の役人として八丈島に入っていたのである。
「よくぞご決断なされた!近く御隠居様がご来島いたしまする。貴殿のお立場はそのときによくよく話し合いましょうぞ。」
神谷は心の底から歓迎するような笑顔で与次郎を受け入れ、大いにもてなした。
隠居所の整備は三河本国の重臣たちにとって極めて重大な関心事であり、島民との軋轢などで計画が頓挫してしまうのは万が一にも避けたいところだった。
そのため、鈴木家から遣わされた者たちは、彼らは彼らで非常に気を揉んでおり、いつまでも隔意を見せ続ける奥山父子にはほとほと困っていた。
しかし、それももうこれでおしまいである。
神谷は与次郎に長戸路氏との取次を頼み、彼らの住む末吉の村とも誼を通ずると、「移住の支度は万事整った」と本国に連絡を入れた。
◇
早速、鈴木重勝は数百石積みの大船に乗って島の沖にやってきて、出迎えの小舟に乗り換えて神湊に上陸した。
「やあやあ、出迎えご苦労!」
上等な鎧に身を包んだ短髪の男が朗らかに湊番の荒尾のもとへやってくる。
その後ろには立派な装いの兵らが続くが、彼らは大海の中に漕ぎだすという大いなる恐怖と船酔いでやられていて、あまり元気がない。
沖の船上には重勝の妻をはじめ女衆なども上陸のための小舟が往復してくるのを待っているが、彼女たちもやはり元気はない。
一方、独り場違いなほど明るい重勝は、三河を去るにあたって人々から素朴な感謝の気持ちを受け取っており、とても晴れやかな気持ちなのであった。
「お元気のようで珍重に存じまする。」
「うむ!皆々、短い間によく村に湊にと整えておって、この刑部、まことに感心しきりである!」
「お言葉、痛み入りまする。」
重勝は荒尾と島の暮らしについて話をしながら、平伏すべきか迷ってひとまず遠くから様子を伺う島民たちに手を振って挨拶しつつ、奥山父子のいる代官屋敷にたどり着いた。
そこには末吉村の長者・長戸路七郎次郎の姿もあった。
「しばらくぶりにございまする、御隠居様。まずはそれがしより、かの者らを紹介いたしたく。」
「うむ、たのむぞ、五郎。」
神谷五郎はひとつ頷いて下座の3人に手を向ける。
「順に北条家代官・奥山式部殿、御嫡男・与次郎殿。末吉村代官・長戸路七郎次郎殿にございまする。」
「お初にお目にかかりもぉす!それがしは奥山与次郎忠俊にありいたす!我らは御隠居様のもとでぜひとも務めぇ果たしたく思っておじゃりいたす!」
「うむ、よろしく頼む!」
重勝は簡単にそう返事をして代官職を安堵したつもりだったが、与次郎はそこから先の話が続かないので、困惑して神谷五郎の方をちらちらと見た。
「ええと、御隠居様。それでは方々のお立場は変わらずということで?」
「当家の奉行仕事を頼むこともあろうが、そはつまり代官ということになろう。」
「ということにございまする。与次郎殿、一層のお力添えをお願いしまするぞ。」
「は、ははあ。」
どこか腑に落ちない与次郎が頭を下げると、長戸路もそろって「どうぞよしなにお頼みもぉす」と言い、わずかに遅れて式部も頭を下げた。
奥山父子は鈴木家の重要人物がわざわざ島に来るからには、北条系の自分たちは要職から遠ざけられ、鈴木家の先代当主なる人物が直接采配するだろうと思ってあれこれと悩んでいたのである。
しかし、当の重勝には、島を支配するという感覚が端から希薄であった。
彼にとって重要なのは寄港地であり、そこで働く人間を食わせるだけの水・農地・労働力が確保できればそれでよかったのである。
最終目標は幕府・琉球・明などのことを考えずに好き勝手に海外と交易することで、大回りだとしても太平洋を抜けて大陸や島嶼部に船を送り出すことだった。
すなわち、彼の計画においては、途中の島々との交易は船荷の空いている分で行うべきものであり、「三河本国と大陸の品々で船倉がいっぱいになる」というのが究極的な理想なのである。
当然その航路が確立するには少なくとも数年は見ておかねばならないが、航路開拓に費やされる労力や物資は、寄港地のある大洋の孤島から得られる年貢や交易品で埋め合わせできるはずもない。
むしろ、投資は物資も労働力も確保が容易な三河本国でこそ集中的に行われるべきであって、そこで生み出した余剰で計画を動かすわけである。
◇
最初からそうした心づもりでやってきた重勝は、島々の住民にとって寛大な支配者であった。
島々は水不足・飢饉・疫病の蔓延にたびたび悩まされてきたが、危機にあってもせいぜい近くの島どうしで乏しい物資を分け合うほかなく、多くの命が失われてきた。
しかしここにきて、そのような厳しい環境に進んで身を置こうという奇天烈な先代当主のために、なんとか隠居所を整えようと財を投じる大々名家が現れた。
鈴木家は接岸の難しさから御蔵島に避難港を整備する計画を早々に放棄したものの、神津島・三宅島・八丈島に人員と物資を集め、それ以外の島の住人は危難のときには3島の代官所に救援を頼んでよいものとした。
三宅島代官としては大給松平親清、神津島代官としては永見貞近が配された。
道中の航海は九鬼重隆と荒尾善次が監督し、わずかながら置かれた番兵は渥美半島に残る鈴木弥右衛門の指揮下に置かれた。
また、飢饉対策で、島々には作付け用に品種改良中の大唐米や新種の占城米といった陸稲が配られた。占城米は直近の琉球交易でたまたま入ってきたモチモチした晩稲である。
これまで鈴木家は早稲の大唐米を備荒用に生産させ、収量の多いものや食味のましなものを掛け合わせて少しでもいい品種を作ろうと努力してきた。
一方の占城米は、同じく旱に強く畠で作ることができるのに、大唐米のようにパサパサしていないというので、ただちに普及が図られていた。
加えて、雨水濾過槽の製法も各島に伝えられた。とはいえ、それほど難しい話ではない。木材で作った大きな開口部を持つ受水槽の底部に砂と炭を敷き詰めるだけである。
当然、種類は違えど陸稲や単なる雨水槽はすでに各島にある。
しかし、食糧不足・水不足をどうにかしようと支配者の側が工夫したということは、住民にとって大きな意味をもった。
最初、支配者が北条家から鈴木家に代わるという知らせが来ても、島民たちは関心を示さないか、困惑するくらいだった。
むしろ、鈴木家が積極的に手を出してくるとなると、人々は警戒心を強めた。
そもそも島民は日々の暮らしを成り立たせるだけで精一杯で、それ以上の開発は困難だったし、しきたりというものがあるから現状を変えることに否定的だった。
ところが、新しい支配者が抑圧的でないどころか、自分で勝手に物事を進めるだけだとわかると、「外の人が外の物資を使ってするなら」と開拓を拒否しなくなったのである。
◇
南海領が整備されていく中で鈴木家の支配は大過なく受け入れられ、八丈島の御隠居様は十分に敬意を集めた。
とはいえ、他ならぬ彼の振る舞いにより、鈴木家は少々不審に思われてもいた。
まず彼は台帳を作って島々の人口と生産力を正確に把握するよう求めた。当然、島民は年貢を警戒したが、徴収がなされることはついになかった。
ではなぜ台帳を作るのか?人々は理解できずに首を傾げた。
そしてさらに不思議なのは、戸籍の作成が強制ではなかったことである。
また、重勝は住民との距離が近づいたことで、武家向けでなく民衆向けの法整備についてもあれこれ思案したようで、訴訟法は武家法に準拠するとしつつ、新たに刑法を作った。
これは律令の徒刑(懲役刑)に近いものだが、罪の大小を補償額で定め、労働の成果が補償額を満たすまで労役を科すという原則をとった。
この頃、徒刑は廃れており、律令には上位の死刑と流刑もあったが、死刑は凶悪犯、累犯、労役中の犯罪に限って適用され、紙幣偽造以外では罪人の係累が連座で死罪になることもなくなった。
ただし、親族に補償の義務が生じる可能性は完全には排除されなかった。
また、遠流の刑も廃された。これ以上遠くに流せないためだ。
多くの身体刑(鼻削ぎや鞭打ち等)も廃されたが、労役中の脱走に対処すべく入墨刑は拡大された。
このような規則が書かれた高札を目にした島民たちはまたもや困惑した。村には村の掟があるからだ。しかも、この法も「必ず守れ」というわけではなかったから、彼らは余計に困惑を深めた。
むしろ、この法の影響を強く受けたのは本国の方だった。
律儀なことに、重勝はこの法について、わざわざ新当主たる息子・重時に発布の許可をとった。
その際には「まだ健在な先代がいるのでは仕事がしづらかろう」という息子を思う気持ちや、息子の権威を高めようという意図があったようだ。
それはともかく、許可を求められたからには吟味せねばらなず、三河の重臣連中は一通り内容を確認し、そして気づいた。確かに先代当主の隠居所を流刑の地にするわけにもいかない、と。
そういうわけで、流刑を廃したこの新法は、本国でも適用されることになった。
特に三河は新しくできた開拓村が多く、伝来の村掟というものは特にないから、そういう村で一律に適用できる民衆向けの刑法は有用だったのだ。
重勝の作った刑法は息子・重時の名のもとに尾張・美濃・三河・遠江・紀伊熊野と広く施行され、やがては鈴木家の支配圏で一律に適用される法となっていくことになる。
◇
かくして伊豆の島々には、名目上は一律の戸籍台帳と身分差なしの刑法・訴訟法が備えつけられ、すべての役人は一元的に八丈島の御隠居様に従うという、独特な統治機構が生まれた。
これらは当初、すべて形だけのものだった。重勝自身が「定めたとて、ただちに受け入れられるはずもなし」と最初から諦めていたからだ。
しかし、島々ではその後、本国よりも集権具合の高い制度が実際に運用されるようになっていく。
ひとつには、孤島での生活を維持するには、農業生産力と人口の対応関係はしっかり管理するのがよく、そのために戸籍が活用され始めたのだ。
また、既存の掟で対処できないときに村々では鈴木家の定めた法を使ったり鈴木家の役人に相談したりして訴訟法や刑法が浸透し、裁判権は物調役なる役人のもとに集約していった。
そして、強権を持つこの物調役は、労役囚に対して同様に強権を持つ牢番とともに、厳しい資格審査を伴う免許制の職として確立する。
さらには、役人の暴走を防ぐために、訴訟を代行したり被疑者を弁護したりする差添人の制度も生まれた。
このような仕組みは本国に逆輸入されたり、他の入植地に導入されたりすることになる。
ところが、こうした取り組みに手を付けた当の本人である鈴木重勝は、八丈島民の間では入島直後の奇妙な行動から「陰陽師」などと噂されていた――
【メモ】作中の八丈方言もどきは、16世紀から現代までの間に生じそうな変化を省いて、それっぽい単語や文法をいくらか戦国時代くらいの武家風の言葉に組み込んだもので、でたらめです。改善案などありましたらご意見歓迎です。
岡崎松平氏の話は第31話です。大唐米と占城米は実態がよくわからないところがありますが、本作では前者を以前から日本に伝わっていた早稲、後者を本来は江戸時代に伝わる晩稲としています。差添人も江戸時代のものですが、本作では半官の職業弁護士みたいなものになっています。




