序 前編 1542-43年「サン・フアン号」
本航海記は海事暦9年(すなわち天文13年・イ暦1544年)9月1日に航海録事、間浦日根介より没収されたるものなり。
この日根介、伊須波爾は「へれす」の生まれ、歳50有余と申す。
永正末から大永頃に「へるなんど・まがやねす」なる船大将に従い真那賀近海を巡るも、敵国・甫戸牙に大将は討たれ、録事は虜囚となる。
釈放後、故郷の妻の夫死したると思いて何某に再嫁したるを知るや不義と憤り、世を儚みて死地を求め、天文初年頃に伊須波爾の副王領なる新地に移る。
かの地より最後の船出と思い定めて西海へ漕ぎ出で、ついに御隠居所の近海に流れ来りて御海島様に服するに至る。
◇
1542年11月1日、天気・波は穏やか、風向きもよし、北緯19.2。
私はヒネス・デ・マフラ。アロンソ・マンリケ船長のもと、70トネラーダ(約100t)のサン・フアン・デ・レトラン号の水先案内人を務める。
我々はルイ・ロペス・デ・ビリャロボス提督率いる6隻の船隊で西風諸島を目指して、ナヴィダード港を出発した。
船隊内訳:
1) サンチャゴ号(150トネラーダ):偉大なるフアン・ロドリゲス・カブリリョ殿の所有船、主席水先案内人ガスパル・リコ。
2) サン・ホルヘ号(120トネラーダ):船長ベルナルド・デ・ラ・トーレ、水先案内人アロンソ・フェルナンデス・タリフェーニョ。
3) サン・アントニオ号(90トネラーダ):船長フランシスコ・メリーノ、水先案内人フランシスコ・ルイス。
4) 本船。
5) サン・クリストバル号(20櫂ガレー):船長ペドロ・オルティス・デ・ルエダ、水先案内人アントニオ・コルソ。
6) サン・マルティン号(14櫂フスタ):船長フアン・マルテル、水先案内人クリストバル・デ・パレーハ。
◇
12月25日、曇り、波やや高い、夕方は小刻みに風向が変わる、午前は強い北東風、北緯9.3。
豚を潰して主の誕生を祝った。そのおかげか環礁群島を見つけた。これらはおそらくアルバロ・デ・サアベドラ殿の以前の航海で諸王群島と名づけられたものの一部だろう。
12月26日、やや曇り、波穏やか、午後は弱い北東風、北緯9.5。
適した島を見定め、上陸した。これをサン・エステバンと名づけた。ここで新年の休暇を取ることとする。
1543年1月6日、晴、波穏やか、弱い東風と南風が切り替わる、北緯9.3。
サン・エステバン島を離れてすぐに10の島々――我々はこれを庭園群島と呼称する――を見つけた。
1月23日、曇り、波やや高い、南風、北緯9.4。
さらにいくつかの島々を発見した。その中には、住民が「こんにちは、船員!」と話しかけてきたという逸話のある船員群島も確認できた。
1月27日、嵐、北緯10.4。
ひどい嵐で視界が利かず本船の位置を把握するので手いっぱいであった。かなり北に流されたようだ。船隊からはぐれ、船員4名が行方不明となった。怪我人は12名。
もはや本隊との合流は不可能に思われたため、私から船長に単独でセブを目指すべきだと進言した。幸い私にはマゼラン提督のもとでの航海経験がある。神よ、ご加護を!
2月1日、晴、波やや高い、東風、北緯9.7。
なんとかしかるべき航路に戻りつつある。しかし、破損箇所は応急修理しただけであり、次に嵐に遭えば船が分解しかねない。しかも、周囲には全く島がなく、船員はひどい不安に悩まされている。骨折が悪化した者が2名、神の御許に召された。
私の計算に間違いがなければ、この海域に島がないのは海図通りなのだが、船員たちは納得しない。とはいえ、このままさらに西へ進めば目的地のはずだ。多くの食料がだめになった。彼らを安心させるために、なるべく急いで目的地を目指すよう船長に進言した。
2月7日、午後は小雨、波やや高い、弱い北東風、北緯9.9。
島々が視界に入ってきた。本隊との合流はできなかったが、この島々の内海に入れば波浪による損壊も防げるだろう。例の病の者たちも出てきている。私はマゼラン提督とともに上陸したことのあるマザウア島での補給を提案した。
2月11日、マザウア島。
酋長ラジャ・シアウィに招かれた。彼はマゼラン提督のことを覚えており、彼からもらったものを我々に見せてきた。我々は大いに喜んだが、酋長は他のスペイン人は見ていないという。本隊は別の場所にたどり着いたのだろうか。
3月15日、マザウア島。
船体の修復と傷病者の回復を待ちつつ、本隊と連絡を取ろうと試みたが埒が明かない。本来の目的地であるセブには本隊はたどり着いていないという。我々の食料状況もよくはなく、再びの屈辱ではあるが、ポルトガルに降伏してリスボンに向かうことを考えねばならないかもしれない。
4月9日、マザウア島。
我々はついに本隊と合流を果たした!しかし、我々よりも本隊の方が損害はひどく、原住民とも戦闘をしたようで、傷病者はかなりの数だった。
我々と異なり長く外海の波浪に晒されたらしく、船員は例の病で苦しみ、船体の破損もひどい。サン・アントニオ号は未帰還とのことだ。
そんな中でも提督は熱意を失わず、この島々を国王陛下の太子殿にちなんでフェリピナス群島と名づけたそうだ。
提督は南の島――彼はこれを我らがアントニオ・デ・メンドーサ副王陛下を称えてアントニアと呼んだ――に滞在することを望んでいる。我々はこの島を去ることとなった。
8月9日、アントニア島。
風向きがよくなく島には長らく滞在することになったが、我々の存在がついにポルトガル人に知れてしまい、7日、ホルヘ・デ・カストロ総督から詰問状が送られてきた。
少なくともマザウア島はマゼラン提督が「カルロス陛下のものである」と宣言したからスペイン領のはずだが、総督は何某かの条約を盾に、彼がポルトガル領内と主張する一帯の島々に我々が無断で滞在していることを咎めているという。
提督は私の進言もあって、くだんの条約を踏まえてもフェリピナス群島はスペイン領であると宣言し、毅然とした態度で書状を送り返した。
8月27日、天気・風・波すべてよし!
賢明にも提督はポルトガル人が攻撃してくる可能性を考慮して、ヌエバ・エスパーニャに増援を要請することを決定した。
我々の危機を伝える任には誉れ高くも本船があたることになり、ベルナルド・デ・ラ・トーレ殿を船長に迎え、ガスパル・リコ主席水先案内人も乗船し、我々はアントニア島を離れた。
僚船はサン・クリストバル号である。
なお、ベルナルド殿は自船の水先案内人アロンソ・フェルナンデスを次席水先案内人にすることを望んだが、彼はけがを負っていたため、私が代わりを務めることになった。
8月29日、曇り、波高い、強い東風、北緯10.5。
我々は我々の友人の住むマザウア島で補給をし、いよいよ外海に出た。
この大洋を西から東へ向かうのは至難の業である。
先人たちに倣って私はマゼラン提督が訪れたことのある南のティドレに向かうことを提案したが、主席殿は「我々は急がねばならない」と述べて北回りの航路を提案し、船長はそちらを選んだ。
9月11日、晴、波やや高い、南東風、北緯22.3。
東に向かうのは難しく、西へ流されている感が強い。本来の目的地は盗人群島だが、まだ見つかっていない。私はもう少し進んでも見つからなければ引き返すよう進言し、ガスパル・リコ殿はそれに同意した。
9月14日、晴、波やや高い、東風、北緯23.8。
島らしきものを北に見たとの報告があった!
9月15日、晴、波やや高い、南東風、北緯25。
島には港らしきものがある。ここが盗人群島であれば、その名づけの通り、住民には大いに警戒して臨まねばならない。
9月16日、曇り、波穏やか、東風、北緯24.7。
おお神よ!原住民の船隊が――
【注意】スペインとポルトガルの漢字表記ですが、本作では中国式の表記を学ぶ前に主人公周辺が適当に当て字しており、西班牙・葡萄牙という普通の表記とは異なっていますのでご注意ください。




