第14話 1515年「視線」◇
甚三郎は兵を休ませるとともに、野田の農民に銭を払う代わりに味方するよう呼びかけた。
「10文やるゆえ手伝え!」
「10文は米だとどんくらいなんや?」
「2升はいくだろうよ。」
「ほなら手伝うでな!」
10文といえば京の人夫の日当ほど、米2升なら炊いたら茶碗に30杯にはなる。なかなかの金額だ。
こうして熊谷勢は持ってきていた1貫文を使い果たして100足らずの兵を増やした。
50の兵に鷹見弥次郎と熊谷の当主の弟・直運をつけて宇利の防備に帰らせ、50の兵で野田を守り、この地の仕置は熊谷家当主・実長が降伏した塩瀬甚兵衛の助言を得て行うこととなった。
◇
菅沼新八郎とその一味に身辺整理をさせると、その翌日、甚三郎は彼らを連れて兵300で豊川西岸を北上した。長篠の鳥居父子の援軍のためである。
「待たれい、待たれい!これはなにごとなりや!?」
急ぎ移動する甚三郎のもとには途中、その軍勢の勢いに大いに肝を冷やした岩広城と川路城の設楽氏からそれぞれ使者がやって来た。
甚三郎はちょうどよいとばかりに休憩をとらせ、不戦と熊谷勢の一度きりの通行許可を求め、使者が城に戻るや否や、答えを待たずに一気にこの地を抜けた。
こうして半日で長篠城の裏手にたどり着いた。
熊谷勢の来援を見た長篠の農民たちは菅沼氏の不利を見てとり、大通寺の周りを囲んでいた者からはこっそり逃げる者が出た。
長篠菅沼氏の新九郎元成のもとには、野田の菅沼新八郎の側付きの者が降伏勧告の使者として遣わされた。
「まこと無念なれど、我が主君・新八郎様は熊谷家の捕囚となりてござりまする。
さのみにあらず、道中の奥平家と設楽家は熊谷家に通じ、田峯は足助の鈴木家に攻められており申す。
かくなりては新九郎様にもご観念いただき、ともに田峯に帰参いたし申さんとぞ。」
この使者は甚三郎の間者だった。
間者は現状を甚三郎の側に都合のよいように説明して新九郎の危機感をあおった。
野田館にいた者たちを検分していた折に、甚三郎は、この者と奉公の女がなにやら意味ありげな視線を交わしていたのを見とがめ、奉公の女すなわち彼の情婦の身柄と引き換えに菅沼氏の動向を知らせる間者としての働きを約束させていたのだった。
新九郎は田峯城からの援軍はないと観念し、新八郎を連れて田峯へ落ち延びることとなった。
◇
「殿、策は見事になり申した!」
「野田のみならず、長篠まで手中になさりて祝着至極にござる。それがしは田峯よりいつ援軍がくるか、心中安らかにはいられなかったでござる。」
源右衛門は甚三郎の策略を褒めて手放しに喜び、源七郎は長篠閉塞という重責から解放された安堵で自然と笑顔になった。
「そなたらの無事は何よりのこと。まこと思うておったよりもはるかに上首尾だったゆえ、それがしもいまだに信じられない心持ちよ。」
甚三郎はすべてが首尾よく運んだことと、鳥居父子や平七・平八兄弟が無事であったことをたいそう喜んだが、彼はすでに次のことを考え始めていた。
「我らはいきなりこれまでの倍の地を治むることとなったゆえ、これを何とかうまく扱わねばならぬのが次なる悩みの種であるな。
とはいえ、どうせなら、あといくらか治むる土地が増えるもそうは変わらぬゆえ、それがしはこの機にさらに鳳来の麓まで進みたい。」
彼の野心はとどまらなかった。
弟分の足助鈴木の千代丸に送った書状に書いたように、豊川に注ぎ込む上流の宇連川沿いで、鳳来山南の谷にある大野の城を取りたいと考えていたのである。
「ほう、さらに兵を動かしなさるか。」
「左様。それは菅沼新九郎・新八郎が田峯に帰る前であらねばならず。田峯に気取られて兵を動かさるれば厄介なことになるからな。
やつらをここで一日、二日留め置きて、その間に源七郎、おぬしが兵を率いて大野城を落としてまいれ。」
「それがしでござるか?」
「頼む。それがし、あちこちと動いてさすがにくたびれた。この地を押さえおかねばならぬし、おぬしこそが頼みだ。」
「ははっ!承ってござる!」
こうして、源七郎は長篠から川伝いに北上した。
兵を先導する小弓衆は甚三郎とともにこの地を下見していたため、大した苦労もなく菅沼方の大野城に至った。
城には増援があったのか、そこそこの兵が詰めており、頭目とおぼしき武者もいたが、源七郎は次のように言って降伏を促した。
「いま退却するならば城内にある物は好きにもっていくがよい。こっそり持ち帰れば菅沼のご主君は気づくまい。」
すると、城兵は、彼らのみならず頭目の武者までも加わって、小屋の戸板に米俵を載せてせっせと運び出し、満面の笑みで帰郷した。
源七郎はその現金な様にあきれて苦笑したものの、当分は反撃があるかもしれないため気を引き締めた。そして、柿本城から物資を運ばせ、しばらく城に詰めることにした。
甚三郎はそうした事情を源七郎からの使者の口づてに聞くことになった。
「源七郎殿からのお言付けは『いささか拍子抜けでござる』との由。」
「ははっ。まあそんなものであろう。」
◇
足助の鈴木重政と野田の熊谷実長のもとに作手奥平氏から不戦の申し入れがあった。
「奥平家は動かぬとの由、我が殿・出羽守様より言伝を承りてございまする。」
実のところ、奥平家当主の出羽守貞昌は浜松に所領があり、先ごろ今川の旗下で戦功をあげて加増されたため、貞昌はその管理のために一時的に不在だったのだ。
残された家老衆は不戦受け入れを巡って意見が割れ、浜松の当主に伺いを立てるなどしていたため動くことができず、戦も終盤になってようやく使者が立てられたのだった。
一方の田峯菅沼氏は、鳥居源七郎の討ち漏らした使者がたどり着いており、長篠のことは知っていたものの、目の前の足助鈴木氏の軍勢が邪魔で救援に向かえなかった。
そうこうするうちに、長篠の新九郎と野田の新八郎が出戻ってきて、奥平氏や設楽氏まで鈴木に与し、すでに野田まで陥落したことを知ると、これ以上ねばれば田峯まで攻め込まれると思い、重政に和睦を申し入れた。
重政は菅沼城で捕らえた一族を返還する代わりに、菅沼城の支配を認めさせた。
「ふん、甚三郎のやつめは二城を得たか。なればその分こちらの費えをたんと払うてもらわねばなるまい。」
重政は当初の約束の礼金30貫文の倍額、60貫文を要求した。
30貫文ですら300の兵を金で釣って3週間ばかり働かせるのに十分な金額である。
とはいえ、田峯を圧迫してもらわねば長篠を獲れなかったのは間違いなく、甚三郎は苛立ちながらも次の収穫を待って言う通りに倍額を支払った。
重政は菅沼城周辺を恒常的に支配するために、甚三郎から得た銭を使って、北の当貝津川へ抜ける峠道を守るように支城・小田城を築き始めた。
あらかたの設備を作ると、農作業のために農民兵を返し、復讐を誓う田峯菅沼氏との長いにらみ合いが始まるのだった。
◇
戦が終わっても甚三郎は忙しかった。
この地を誰の文句も出ないように安定させねばならないからである。
「野田館では守れず。これを崩して野田城に運ぼう。」
甚三郎は、野田館は防御力が乏しいため解体し、要害に位置する作りかけの野田城に資材を運ばせた。
野田城は縄張りは済んでいて、門と最低限の城柵や小屋はあったので、吉田の開墾で作事に習熟した農民兵を呼んできて、足りない城柵と家屋を作らせ、空堀と土塁を整備させ、一応の完成とした。
今後、野田城は長篠城とともに重要な防衛拠点として曲輪・城壁・堀など時間をかけて整備されていくことになる。
「新太郎、おぬしはまことよく働いた。屋号を『三河屋』とするがよい。また、舟を当家で支度し、野田・長篠・宇利の城下に倉も手配せん。」
「なんと!ありがたきことにございまする!」
甚三郎は野田城に入ってこの地の慰撫と開発のための手配をしたが、その際には浜嶋新太郎が大いに役に立った。
そこで、熊谷家の当主・実長に頼んで、新太郎のために「名実」の「名」として御用商人としての「三河屋」の屋号を与え、「実」として海川両用の小舟と各地に拠点となる倉を用意してもらった。
大野から長篠を通って野田そして三河湾に至る豊川の交通は、これらの地の開発にとって重要であり、開発用の物資を融通するためには新太郎の動かせる力をどんどん増していく必要があったのだ。
甚三郎はその後も矢継ぎ早に新太郎に様々な指令を出したため、新太郎は自力では対処できないほどの人手不足になり、岡崎の大店を経営していた実家を呼び寄せて吸収し、事業の規模を大きく拡げた。
「塩瀬殿、その方は鈴木家の鷹見弥次郎殿に付き、吉田で行われているのと同じように、野田にて田を開き村を起こし銭を得るべく励んでほしい。」
急激に支配地域を拡大した熊谷・吉田鈴木連合は、それを治めるに足る人材の数が不足していた。
それゆえ甚三郎は、降伏した塩瀬甚兵衛を鷹見弥次郎につけて吉田鈴木家のやり方を学ばせつつ、将来は野田の開発を任せるつもりで家中に取り込んだ。
なお、最初の挨拶は熊谷実長が行ったが、その後の指示はすべて甚三郎からのものだった。
対菅沼氏の防御の要となる長篠城には鈴木家家老・鳥居源七郎が入って、大通寺の陣地を解体して長篠の防備を増築した。
支配圏の北端にある大野城の守備も疎かにするわけにはいかず、小弓衆の平七・平八兄弟に城番を任せ、狩猟がてら地形や付近の土豪らの把握に努めさせた。
内地となる吉田・宇利の開発は、野田から鷹見弥次郎が指示を出し、熊谷家当主の弟・直運が現地で作業を監督する形で進められた。
鳥居源右衛門は、集めた農民の訓練を担当し、作事用の常備の兵、戦場では組頭として扱うべく育成に努めた。
この状況を見る者の目には、もはや両家はひとつの家としか見えなかった。