第142話 1535年「半貫文手形」◇
三河の軍勢は浜松東の頭陀寺を接収し、これに従う門奈氏の先導を受けて天竜川渡河を行った。門奈何某は残念ながら戦没したが、鈴木兵は対岸の匂坂氏の新城に取り付いた。
これを守るは、二俣城で鈴木家に爆殺された匂坂長能の遺児たち。
彼らは若いながら「父の仇!」と奮戦するが、掛川の今川本軍と匂坂の間には敵対する堀越氏が挟まり、今川方の支援は容易ではなく、匂坂一族は掛川の許しを得て城を明け渡して去った。
鈴木重勝が倒れたのはこの頃である。
進軍の止まった鈴木家は、川船を神輿のように大勢で担いで浜松から陸路で持ち込み、総大将が倒れている間も天竜川を挟んで西から東、匂坂城にせっせと物資と人員を運び入れていた。
匂坂城と堀越氏の見付端城・堀越城は三角に結びつく立地にあり、ようやく支援を受けられるようになった堀越城は、大兵が詰める久野城と最前線で睨み合う。
やがて重勝が復帰すると、この三角地帯を起点に東遠江の全面的な攻略が開始された。
東海道を単に東進しては、各所に今川方の諸勢力が残る中では、南北から奇襲されて安定しない。そのため、鈴木軍は堀越氏には耐えてもらって先に南北に兵を送った。
北軍は奥平監物貞勝を大将とする兵1000。
掛川の北には天方道芬や一宮武藤刑部少輔らがいる。両氏は上方と付き合いの深い文化面で優れた土豪で、道芬は当代一流の文化人・三条西実隆とも交流がある。
両氏に対し重勝は――武をちらつかせつつ――文を送って「堺に移って上方の交渉事を任せたい」と彼らの自尊心をくすぐることで、これらを糾合した。
北軍は天方氏と武藤氏、そしてさらに奥山の天野氏を先頭に立てて、この地の土豪の服従を取り付けていく。
一方、南軍は設楽三郎清広を大将とする兵2500。
沼地と山地の狭間で堅牢な馬伏塚砦を攻囲。守将は二俣近江守昌長で、近くの府八幡宮の神主・秋鹿朝兼や与力・小泉左近が合力している。
設楽三郎は硬軟織り交ぜて攻城を進め、やがて府八幡宮の保護を約束して秋鹿氏の臣従を引き出す。
こうして砦をほとんど無力化すると、その向こうにある小原親高・新野何某・高橋左近将監らの守る高天神城の包囲を開始する。
するとその隙に、さらに東で横地弥三元国なる者が蜂起し、鈴木家に臣従の使者を立てた。
横地氏は故・今川氏親に滅ぼされた遠江の名族であり、流浪して甲斐武田信虎に仕えたが、これも没落して行き場を失っていたところの大混乱。本貫地に戻ってお家再興を図ったのだ。
高天神城に詰める新野何某は横地城の南の八幡平城を本拠地とし、高橋左近は海の方の堀野を領しており、それぞれ在所が気がかりで防戦に身が入らず、やがて開城。
かくして掛川・久野の2城はほとんど全周を包囲されるに至った。
その掛川は瀬名陸奥守氏貞・朝比奈備中守泰能がよく守っており、規律はかなり回復している。
しかしそれでも流民に紛れて逃げ出す兵は少なくなく、武装の貧弱な流民兵や東遠江各地を守る城兵を加えても総数は5000を割り込んでいる。
そして、駿河は駿河で甲斐と向き合わねばならず、東からの増援は見込めない。
これに対し、掛川・久野に対峙する堀越氏を支援するのは、堀越城に入った故・勝太郎の付家老である安藤太郎左衛門家重と伊庭出羽守貞保(服部保長)の計1000、見付端城に入った熊谷次郎左衛門直安と寺部鈴木日向守重教の計1000。
そして、鈴木甚三郎重時の率いる1000の軍勢である。
重時隊は匂坂城に拠って、臣従した向笠城・向笠氏を支援しつつ、背後の天竜川を越えて物資を輸送する小荷駄隊の受け入れを担っていた。
この小荷駄隊は天竜川西岸の市野砦と引馬城を拠点としていて、そこには後詰兵も駐留しており、総数は3500ほどである。全軍で1万人が動員されていた。
◇
匂坂城・主郭陣屋。
鈴木重時は「つまらない。早く戦場に出たい」と不満顔を見せていた。
多くの若武者が抱くその不満に心当たりのある幕僚たちは、重時がそうとは口に出さずとも、先んじて意識を変えさせようと動き始める。
「若様は先には堀江城攻めでは300ほどの兵を動かしましたな。」
「あれは動かしたとは言えぬぞ。」
「ほう、では何をしておられたので?」
「城を見ておっただけだ。」
「まことにそうでしょうか?」
「なんだ、違うのか?」
鈴木甚三郎重時は助言役として付けられている加藤駿河守を見て眉を寄せる。
加藤は甲斐牢人で、赤羽根の海戦の際に今川兵の上陸を阻止した殊勲者である。
「若様は城を囲むお味方の動きは見ておりませなんだか?」
「……。」
「励みなされ。」
加藤と重時のやり取りに口をはさんだのは副将・鈴木次郎左衛門重信。先に女官として取り立てられた酒呑殿の夫である。
鈴木重信はさらに言葉を続ける。
「戦場での将兵や小荷駄の動き、こればかりは慣れがものを言いまする。殿は若様にその慣れの場を与えたいのでしょう。されども、若様は今度はいきなり1000を任され申した。すぐにもさらに広く物を見るよう求められましょう。
本来は兵の動きを知り、物頭の動きに慣れ、将の動きに至るべきなれど、若様には残念ながら時がありませぬ。すべての物事の意味を常に真剣に吟味せねばなりませぬ。」
親族ゆえの遠慮のなさか、重信は厳しい言葉を投げかける。
「そうだな……。」
「毎度毎度の実見を大事になさいませ。わからぬことがあっても恥と思いなさいますな。わからねばお聞きくだされ。少しの実見で最大の糧を得るのでござる。そのための我らにございますれば。」
これに対し、場を和ませるような口調で松下長尹が言った。
彼は家中では中下級家臣の上申の窓口として働いているが、今回は遠江松下氏の調略にかかわっており、「調略の指南のために」と重勝が息子の幕僚に加えたのだ。
そう言われれば素直な重時は顔を綻ばせて「わかった!」と答える。
加藤と松下もつられて笑顔を浮かべそうになるが、同じく幕僚で何やら用事を伝えに部屋に入ってきた林光衡と目が合って、咳払いをして笑みを引っ込めた。
「別に笑うくらいよかろうものを。さて若様、お望みの戦場にございまする。とはいえ、戦となるか調略となるかは何とも言えませぬが。」
この林は鈴木家古参の熟練物頭で「兵を手足のように動かす」と名高いが、その仕事は直感的で、上級部将が陣立書や小荷駄当番書、物見絵図、道絵図などを使って評定をするのについていけず、物頭の地位にとどまっていた。
そういうところを諸将から気難しい職人気質と誤解されており、しかも気の毒なことに今川館の変で息子を喪っているため、加藤と松下は笑うのを遠慮したのだ。
「いよいよ城を出るのか!」
重時が期待して尋ねる。
亡き息子を重ねて内心で微笑みつつ、そうは見えない仏頂面で林は答えた。
「いかにも。この城に酒井雅楽助殿(正親)らが入りますれば、我らは先に開城した馬伏山に入り、北の新池郷を押さえよとの由。伊庭殿、(寺部)鈴木日向殿の久野攻めと機を合わせて行いまする。」
伊庭とは、美濃土岐氏との戦いで討たれた貞説の婿養子で旧名・服部保長のことである。
伊庭党はその際に甚大な被害を受けたが、重勝の手配で、伊勢長野氏の流れの分部氏や、さすがに戦勝手の優遇が認められなくなってきた石川又四郎の一党、甲斐牢人の一部を配下に加え、有力な兵団に再編されていた。
「新池郷、新池郷……。おや?どこでござるか?」
加藤が物見絵図を見ながら場所を探すが、絵図には新池郷の名がない。
絵図の見れない林に代わって松下が覗き見て、「ここ、加賀爪とあるところにございましょうな。地名でなく領主の名があるようで」と答えた。
得心した加藤は重時の方を見ながら言う。
「ははあ、かの地は堀越城の南ながら、それより先に当家の兵は出ておりませぬで、まさに敵の面前にございまする。」
「おお!では!――」
◇
遠江攻めもいよいよ大詰め。
じわじわと絞られていく袋のように遠江今川軍は掛川に押し込められていく。
まずは久野城。この城は1000と数百の兵が守っていたが、各所に守備兵だけ残して兵力を集中し始めた鈴木家は大軍で力攻めを行う。
北面は崖で堅固。南側は幅の広い水堀と湿地。
鈴木家はこの湿地帯に――天竜川で味を占めたか――川船を担いで運び込み、船の前に楯を掲げて無理やり城の敷地に乗り込んだ。
あとは兵力がものをいう。陥落は大した時を要さなかった。
途中から城攻めに参加した鈴木重時は、開城交渉時には城攻め総大将という扱いになっており、彼の名において城主・久野三郎左衛門といくらかの兵の掛川への退去が認められた。
天文4年の末には救援の見込みのない掛川1城での籠城戦となった。
駿府からは数百ほどの兵が大井川の向こうにやってきて、少しでも掛川城にかかる圧を分散させようとしたが、さしたる意味はない。
鞍替えした遠江国人を合わせた鈴木方総兵力は1万と2000近くになり、籠城方は各地の守備兵は戻ってこれず、久野城兵の多くも村に返されてしまったため、3000少々といったところ。
とはいえ、守将の朝比奈は忠臣、瀬名は重勝への嫌悪が深いから、簡単には諦めないだろう。
「瀬名陸奥と朝比奈備中ならばいつまでも開城せぬであろうな。」
鈴木重勝は独り言ちる。彼がいるのは再び鷹見新城。
城攻めはもはや難事でないと判断し、本国で内々の仕事を急いで進めていた。
「遠江が気になりまするか?」
元小姓の冨永孫大夫資広が問うた。
この冨永は今回、臣従した駿河・宇津山の朝比奈氏か井伊氏から嫁をとることとなった。
加えて、今こうして話しているのは、彼が長らくの奉行勤めで商いに通じることから、その方面での重勝の置き土産の支度を任されているからだった。
「うむ、どうにもな。時をかければいかようにもなるが、それももったいない。時をかけずに済ますに腹案はあるが、これはそれがしの身の振り方次第。おぬしとの相談も手早く済ませ、いよいよということになるであろう。」
「その『いよいよ』の方がもったいのうございまする。」
「それがしがおらぬでも当家はうまく働くような立派な家中を持つに至った。倅は戦につきては、才があるとは言わずとも苦手でもないらしい。おぬしや鷹見、酒井あたりが内を支えてやれば、下手なことにはなるまい。であらば、それがしはそれがしにしかできぬことをやるのがよかろう。」
「なれど……。」
冨永は己を頼りにしてくれている主君の言葉を嬉しく思うが、やはり重勝に当主であってほしいという気持ちが捨てきれない。
すぐにも来たる別れをすでに今から惜しんでいる冨永。
これを元気づけようと、重勝はおどけて言う。
「さても、こちらも大詰めぞ。これが動き出したらば、おぬしはきっと忙しくてそれがしを恨むようになるな!」
重勝が手配していたのは、領内で公定の割符屋を組織することだった。
すでに三河では蔵元が発行する為替手形が疑似紙幣として取引されているが、取引された手形で銭や物品を引き出すのは、蔵元ひいては鈴木家の想定しない在り方だから問題が発生していた。
単純に言えば、手形の持ち主が蔵元側の記録と変わっているし、手形の額面が勝手に変更されているなどもあったのだ。
そこで重勝は、手形1枚の価値を半貫文(500文)に固定して、受取人の名義ではなく番号や暗号などで手形1枚1枚を区別できるようにしたものを商人たちに使わせることを考えた。
この半貫文手形の作成・登録・管理を行うのが公定割符屋である。
彼らは那古野・大浜湊・岡崎・足助・御油宿・鷹見新城・今橋で営業する予定だが、やがてはこれに浜松なども加わっていくことだろう。
各地の公定割符屋は「仲間」を作って発行手形の情報を定期的に共有する。そのために鈴木家の武装飛脚や小荷駄隊が台帳の写しの配達を担うことになる。
こうして領内のどこでも手形の発行と物品との交換が行われるのだ。
いずれこの手形は堺の割符屋とも交換できるようになるのが望ましい。遠国の熊野もこれに組み込むことができればなおよい。そうでなくとも遠江から尾張までが一体的な商圏となるのは大きい。
もちろん、きっと準備は大変ですぐにはできないし、実施されても問題は山積みだろう。絶対に偽造手形が出てくるし、管理する側の手違いも出てくる。
とはいえ、重勝がこれまで三河で行ってきた官衙講による集団的・計画的な土地経営は、彼なしでも奉行たちが実行できるようになった。
堺商人との協力の上で、共有鋳型を使った割と品質の良い私鋳銭も流通するようになってきている。
幕府の邪魔が入って琉球派遣船団の運営は雲行きが怪しいが、それがなくても通常の農政と東西の海上交易と廻船業で自家の財政は十分に支えられるだろう。
これら安定した諸々に並行して進める新事業としては割符屋はちょうどいい。
これで、重勝がいなくなっても、彼の敷いた路線は10年くらいは維持されるだろう。こうして指針があれば、息子がてんで内政がだめでもどうにかなる。
「さて、いよいよであるな。」




