第141話 1535年「義絶」
鈴木家と今川家の和睦交渉において室町幕府が思うように動いてくれないとなると、在京今川家は自力で何とかしないといけない。
京と駿府では間に鈴木家を挟んでいるし、後者は何よりも甲斐の反乱分子を相手に戦もかくやの有様。なかなか意思疎通がとりにくい中、地元でなく人手も少ない京の者たちは焦りをみせる。
焦った末の一手が泣き落としであった。
「恵柿尼殿(重勝母・旧名あき)からは『どうか母を慈しむように尼御台様(寿桂尼)も労わりたまえ』とのお言付いただいておりまする。」
重勝は母からの手紙を受け取り、使者・興津三郎左衛門の話を聞いていた。
興津氏は母と内縁婚を結んだ興津盛綱の一族で、重勝にとっても養子にとった弟・紅葉丸の一族となるから一応は身内である――面識はないが。
その興津何某が「身内だから」と感情豊かに情に訴える言葉を聞き、また、母の手紙を読むうちに、彼は心に澱みがたまるのを感じていた。
息子を失ったからといって恨みを返すようではいけない。立て続けに子を喪った尼御台様の悲しみがわかるだろうから、せめてお家を立て直すのをお手伝いしてあげなさい。悪いのは甲斐今川氏、尼御台様と協力して事に当たるのが一番。
思えば母は孫である勝太郎とほとんど交流がなかった。彼女は長く駿府に人質に出ており、寿桂尼に従って京へ行く段になって、勝太郎が代わりに駿府に呼び出されたのだ。
いや、それだけではないだろう。
母は元は農民の娘で良くも悪くも普通の人。父に見初められたのも素朴さが癒しに見えたから。その母は駿府に行って教育を受け、寿桂尼に仕えるようになった。
寿桂尼は母と同じく50余歳、教養も気品もあり、今やきっと自信に満ちて優れた風格を備えるはずだ。そんな御人を前に、母が惚れ込まないわけがない。
我ら母子はもう同じ価値観を持たないのだろう。重勝にとって母の言葉は空疎にも、見当違いにも思える。あるいは、母は誰かの言葉を繰り返しているに過ぎないのかもしれない。
それは彼の内心が目を曇らせるからなのか。長々喋った使者は「うまく言うべきことを言えた」とでもいうのか満足げに見えるが、そう見えるのも己の心次第なのか。
「……母には『まこと不孝を済まなく思う』とお伝え願いたい。」
「は?」
ずっと沈黙を保っていた重勝の口から低い声で吐き出されたその言葉を、興津は理解しかねて思わず失礼な態度をとった。
重勝の護衛らがすぐさま殺気を見せると、興津は「しまった」という顔で「これは大変な失礼を」などと頭を下げている。
しかし、重勝は気に留めずにどこかのんびりとした仕草で祐筆の西郷孫三郎正勝に紙と筆を持ってこさせ、一筆書いて興津に渡した。
「これは?」
「絶縁状だ。」
「ぜ、ぜつえんじょう?」
「母とはこれを以て義絶とする。」
「ぎ、義絶ッ!?」
重勝はそれだけ伝えると興津を送り返した。
これは重勝から母への最後の思いやりだった。心が遠のいても母は母。彼女が自分のせいで何らかの罪に問われないように、という思いを込めた絶縁状だった。
帰りしな、興津三郎左衛門のもとには、元服して重勝の子となった恵柿尼の次男・興津勝三郎時綱からの文がこっそりと届けられた。
◇
母親との義絶というのはなかなかの話である。
それがどこかから漏れて尾ひれ背びれがつき、京では三河鈴木家が調停の失敗で激怒しているという噂が立った。
これに続いて在京今川軍からは、重勝の亡き妻・つねの兄にあたる朝比奈親徳が出奔して、先の今川館の騒動で三河に移っていた妻子のもとに逃げてきた。
義絶された母以外では唯一の重勝の親族ということで、立場がかなり悪くなったらしい。
上方の世論を堺の松永久秀の手紙で知った重勝は、「調停が失敗したという流れならいける!」と判断し、最後の一仕事とばかりに重い腰を上げ、自ら軍勢を率いて西遠江に入り、掛川の今川軍に対する攻撃を開始した。
室町はさすがにまずいと思って、将軍側近で三河に所縁の荒川氏隆を送って説得にかかる。
長男を喪った鈴木家は将来の家督継承における安心材料が欲しいはずだと踏んだ荒川は、その方向から畳みかける。
「すでに九条様よりお話のあったものと思いまするが、こたび、ご嫡男殿(鈴木重時)にはなんらかの官位を、ということにございまする。」
「何を仰せかわかりませぬ」とは重勝の言。
彼の内心は「九条がなんだって?」と疑問だらけだ。
その惚けた様を見て、荒川は「芸達者だな」と思いながら言葉を続ける。
「ええ、ええ、わかっており申す。もちろん、大樹(足利義晴)も貴殿には三河守護と知多郡守の職をお認めになりまするし、ご嫡男殿が将来これを引き継ぐにも一切滞りのないように、との御意にございまする。」
「それで手を引け、と。」
「西遠江はやはり手放せませぬか。」
「いや、というか――」
重勝は権威だけではなびかない、というのは亡き管領・細川高国の言葉。
周囲を敵に囲まれて耐えきった鈴木家の武威はもはや侮れない。荒川はなんだかんだ交渉上手だった前管領を念頭に、譲歩として鈴木家の実利も認めると述べる。
「わかりまするぞ。であれば、これには目を瞑りましょう。なれども、三国守護の今川殿が貴殿の旗下に入るというのは、さすがに大樹もお困りになられましょう。こればかりはなにとぞ。」
「ううむ、それがしにはその方が何を言うておるのかいまいちわからぬ。」
話の導入で引っ掛かりを覚えた重勝はそこから先に頭が進んでいない。それに、さっきから今川家というよりは幕府の話ばかりだ。もしや話題は条件交渉ではないのか?
考え事に思考が持っていかれて、言葉遣いも乱暴になってきている。重勝は気になって仕方ない最初の九条云々のことを問おうと試みる。
しかし、荒川は先に進士国秀が重勝の「話題そらし」で失脚したのを知っているから口を挟ませない。相手の砕けた口調を焦りの証と思って「ここで畳みかける!」と内心は舌なめずりである。
「おやおや、これは手厳しい。しかし、そうですな、大樹にお伺いを立てねばなりませぬが、一字を変えるというようなこともあるやもしれませぬな、ホホホ。」
一字を変えるというのは偏諱を与えられるということだろうが、重勝はそれが和睦の話と何の関係があるのかよくわからない。
言いたいことをすべて言って「これでどうか!」という顔で息を切らしている荒川を前に、重勝はずっと困惑しっぱなしでようやく答える。
「……済まぬが、本当に何の話かわからぬのだ。和議の話ではなかったのか?ともかく、これについて三河としては、各条目は駿府とすでに合意はなったものと思っていた――」
「では?」と期待する荒川。しかし、重勝の言葉はそこで終わりではない。
「――が、公方様の思し召しで差し止めとなったと承知しておる。また、その後しばらく経って諸々の事情も変わってきておる。話を持ち掛けたる亡き禅師(九英承菊)への義理ももう十分であろう。それゆえ先の各条目は自然、反故になった。今となってみれば、だからこその義絶だったのやもしれぬ。」
承菊禅師の死、西方の安定、義絶、調停失敗の噂、東遠江侵攻。
そのときどきではただ流れに身を任せたに過ぎないが、顧みれば、全体が「そうあれ」とでもいうような自然な運びだったように思われた。
「……はて、ということは。」
「左様、一からすべてを改めて取り決めねばならぬということにござる。」
荒川は耳の内で自分の高鳴る鼓動を聞いたような気がした。
◇
体調が悪くなった荒川は、三河の医者の世話になりながら、互いの認識がだいぶ異なっていることを理解して鷹見修理亮と改めて準備交渉を始めた。
するとそこで、すでに幕府は前関白・九条稙通に対し、彼の娘と婚姻を結ぶ予定の鈴木家に適切に官位が届くよう、朝廷における手配と鈴木家への連絡を頼んでいたことが判明した。
そんな話は全く聞いていない重勝が堺の稙通に問い合わせると、「もう三河は和睦を必要としないだろう。将来の婿のためになるように振る舞った」との返事があった。
稙通は「鈴木家が今川家を滅ぼしたいだろう」と推し量って、幕府の要請に応えるのを延ばしていたというのだ。
これは確かにありがたいことだった。
このとき実のところ重勝は焦っていた。
京で家督を相続したというのが「今川義元」であると聞いて、「これに東遠江から甲斐まで与えてしまってはいつか再びの逆転もあり得る!」と思っていたのだ。
もはや彼が夢で見た歴史とは異なる世の中。今川家の最盛期を築いた英傑と同名でも、それが同じ人物かはわからない。しかし、大事な息子のため、後顧の憂いは絶っておきたかった。
ところが、このまま本当に和睦が成立せずに今川家が鈴木家に喰われてしまうとなってくると、なんとかそれを食い止めたいという勢力も出てくる。
第一には相模北条氏である。
とはいえ、彼らは強くは言ってこない。下剋上すら辞さずに旧主を追い詰める三河鈴木家と国境を接したくないがために、控えめに「駿河今川家を(壁として)残してほしい」と頼んだだけだった。
第二には伊勢志摩の北畠晴具である。
これも仕方がない。彼は元来、室町方であるし、海を挟んだ隣国が三河から下手をしたら甲斐まで拡大してしまうとなれば、止めずにはいられない。
とはいえ、重勝はもし伊勢と開戦しても、いまなら織田信秀をぶつければいいから、もうそこまで気を遣わなくてよい。
そして、第三には堺方の棟梁・足利義維である――
「殿!左馬頭様(足利義維)より『今川家との和議を早くまとめるように』との御内書が!」
「な、なんと!」
堺からの急使・松永弾正忠久秀は、後ろに幼い宇喜多八郎直家を連れたまま、滑り込むように重勝の待つ部屋に入り、開口一番、大声で上申した。
重勝は文字通り魂消て血の気を失い、失神しかけた。
御内書は遠江制圧を進める自家を押しとどめようとするものであるから、重勝は堺政権を支える諸家がすっかり自家と道を違えてしまったと思って絶望したのだ。
くらっと横に揺れた主君めがけて近習の菅沼新八郎が突撃し、慌てて支え、横にならせる。
「殿!お気を確かに!」
「と、殿!」
両脇から松永と菅沼に、遠目から宇喜多少年に覗き込まれる重勝。
周りは護衛の阿寺の手の者たちが心配そうに囲んでいる。
「伝え方が悪うござい申した!殿、こちら確かに左馬頭様の御内書なれど、堺の方々のおしなべてかように思うておるのではございませぬ!」
これまでにないほど焦った声で松永が重勝の体をゆすりながら訴えかけると、「えぇ?」と重勝は弱々しく言葉を発した。
その後、重勝は少し休んで回復するが、これがなかなか大事になる。
彼が今いるのは西遠江・引馬城であり、全軍はまさに掛川攻めの真っ最中。
鈴木家は急流の天竜川の渡河に四苦八苦していたが、難民を抱え兵数だけは十分の掛川城の今川軍は、何度もこれを邪魔しに兵を送ってきた。
しかし、三河の将兵は犠牲をいとわぬ粘りで向こう岸の匂坂氏の城を奪い、これでようやく敵中で粘っていた堀越氏・板垣氏に合流できる――
その時点で、総大将が倒れたのである。
この城を守る以外で、鈴木家の軍勢は一切の動きを止めてしまった。
「ははあ、紀伊畠山が悪さをしておるということにござるか。」
「いかにも。」
真っ青な顔で主君と自軍の心配をしている松永を宥めすかして鷹見修理亮が聞き出したところでは、どうも阿波細川氏らが堺から出陣している間に、足利義維は紀伊守護・畠山稙長から何やら吹き込まれたのではないかとのことだった。
そうとわかれば堺方の有力者たる阿波細川持隆や三好利長(長慶)、摂津細川氏綱、河内畠山在氏らの意向を確認せねばならない。
全軍進軍停止の状態で上方との間で急使が行ったり来たり。
その間には、奥平家の先代・道閑入道(貞昌)が80有余歳の大往生をとげ、室町からは再び荒川がやってきて「九条家の話は二階堂何某の手違いで云々、将軍正室懐妊でせっかくなので一緒に祝おう云々」と言ってきたのを無視するなどあって、ようやく細川氏らとも話がついた。
「『先の御内書は無効、東海制覇の後には堺への援助を手厚くする』と。うまく話がまとまって何よりであった。」
心底安堵した様子の重勝であるが、嫌悪感が急にせり上がってきたか、「しかし」と続けて悪態をつく。
「おのれ尾州畠山(稙長)、あのちくしょうめをいつか滅ぼしてくれん!」
愚痴の相手は再びの松永久秀。諸々が落ち着いて人心地ついた松永は、改めて堺から来て重勝に面会していた。
「まことにそれがしの不手際で――」
「いや、よいのだ。それがしが少々どころでなく、くたびれておったのだ。」
重勝は松永を労わるように言った。
上方で交渉事を頑張っている松永には、本国で手いっぱいの重勝は十分感謝しているし、夢で見た未来世界で悪評のあるこの人物に嫌われるのは避けたい。
「しかし、二階堂云々というのは、結局なんだったのか。」
「ああ、あれは、公方様のご正室(近衛夫人)がご懐妊あそばし、二階堂有泰なる者が産所惣奉行となっておりまして。この二階堂が九条様に『和睦のことでお力添えを』と文を出したそうにござる。
されど、どうやら九条様が文に書いてあった近衛家のお話を疎ましく思し召され、また、二階堂の方も惣奉行の仕事にかまけてその後の手配りを怠ったとかで。」
「はあ。」
九条稙通は堺にいるまま突然に関白に任じられて出仕の支度も整わないうちに1年少々で去年いきなり解任された。後任は、今年春に行われた後奈良天皇即位式のために、故実に通じる二条尹房があてられていた。
このことで稙通は己がないがしろにされたと感じており、これらを主導した幕府と近衛家を恨んでいた。彼が幕府の頼みを黙殺したのは私怨だったのだ。
「その後、二階堂が詰め腹を切る切らぬでも揉め申して、さすがに『公方様のお子が生まれるというのにそのための奉行が生害では』となって出家したそうにございまする。」
「それで『二階堂はもう罰したでこれにて堪忍、ともにお子の誕生を祝おう』ということか?」
「おそらく。」
「……室町もいろいろと忙しいようだなあ。」
忙しすぎてとち狂ったことを言っていることに気づかないのか。呆れたような、それでいて少し同情心も入ったような微妙な声音で重勝は感想を述べた。
しかし結局のところ、今川家との和睦の話はこれだけの騒動が起きておいて、何一つ進んでいない。ただ無意味に2か月ばかりが過ぎただけであった。
【メモ】荒川氏隆は第105話に出てきます。今川義元は同名別人ではなくちゃんと本人です。奥平貞昌の没年月日は所伝が正しいか不明ですが、本作はそれより数か月長生きしました。二階堂有泰が何かの用件でいつの時期にか九条家に手紙を出したことはありますが、彼は本来きちんと産所奉行の仕事を全うします。この奉行職が出産の何か月前に任命されるかなどは調べてませんので適当です。諸々ご注意ください。




