第140話 1535年「唐鋏」
「上をお向きになって。」
「うむ。」
松平久は夫・鈴木重勝の喉に剃刀を当てて髭を剃りながら何気なく聞いた。
「お前様、あんなに島ばかり得てどうなさるのです?」
「致し方あるまい。そろそろ『土地を得た』と内外に広く示してやらねばならぬところ、北条と北畠は遠国。土地を奪うにも島しかなかったのだ。しかし、ますます船手衆を増やしていかねばならぬなあ。二郎右衛門などはもう船大将ならぬ『島大将』でよいのではないかと思うが。」
妻の問いかけにトゲを感じたか、はぐらかすように重勝は少しおどけて言う。
二郎右衛門とは松平重吉のことで、しばらくは志摩沖の答志島の守備についていた。本人はそれについて不満を述べたわけではないが、妻からは久に対して苦情が入っていたらしい。
「あの方、まだ男児がないとかで奥方は『あまり遠くには』と気を揉んでおりましたよ。」
「島の扱いを知る者は他におらぬでなあ。一所に島に住んでもらうわけにはいかぬか。」
「屋敷でも用意なさって、蔵にお米の詰まっているのをお見せすれば、安心してお移りになるのでは?あとは産婆や薬師も連れて行くとか。」
「わおもとは色々と考えてくれておるようだな。」
重勝の声は明るい。自分の仕事に妻が興味を持っているのが嬉しいようだ。
そんな夫の様子に、妻も「差し出がましい」と言われないのが嬉しくて微笑む。
「しかし、もとのことは――」
「そうまで気を回さぬでよいのですよ。あのこが自ら決めたのです。いまは松子のそばにいてやりたい、と。」
「……わおもとは竹千代のことはいいのか?」
「右をお向きなさって。」
重勝の口から出てきた側室・奥平もとの話を途中で遮った久は、息子・竹千代についての夫からの問いかけには答えず、夫が博多から取り寄せた唐鋏なるものでもみあげを整えてやる。
重勝は久が答えを返さないので「余計な一言だったかなあ」と思っていると、久は夫の頬に1本飛び出ていた毛をエイっと引き抜いた。
「あいたっ!」
「はい、終いですよ。」
そして、久は情けない顔で頬を押さえている夫に向けて言う。
「ご家督を甚三郎殿(鈴木重時)に引き渡すのならば、竹千代はそのご采配に従うのがよいでしょう。お前様もそうお思いだからあれこれ手配を進めておられるのでしょう?
奥のこともそうです。甚三郎殿のご正室は九条の姫様。されど、かのお方はまだ幼いですからね。酒吞殿を呼び寄せたのも『後をお任せできる人を』ということでしょう。ですから、竹千代はそうした方々にお任せします。」
跡継ぎの甚三郎重時は九条稙通の娘との婚約が決まった。この娘は亡き兄・勝太郎の許嫁であり縁を結び直すことになったのだ。
とはいえ、赤子の彼女には正室の仕事どころかまだ結婚もできない。そのため、久の言う通り、重勝は家の奥向きの管理を組織化しようとして人を集めていた。
核となるのは一門衆である酒呑鈴木重信の妻で「酒吞殿」と呼ばれる女性。彼女は少し前に生んだ重信の嫡男も連れて東三河に移ってきていた。
他にも熊谷実長養女で松平信長妻の「宇利殿」も嫡男とともに東三河に入った。宇利殿母子は清洲城代となる松平信長にとっては実質の人質である。
そして、下向したまま京になかなか戻らない徳大寺実通の妻・吉田敬子も上方諸家との付き合い方における助言役となった。
「そうか……。それがしはわおもとを継室に迎えられて幸せであった。」
理解のある妻の物言いに心から感謝の気持ちを述べる重勝だが、妻は渋い顔。
「そんな縁起でもない言い方はやめてくださいな。縁起でもないと言えば、あの家督継承の序列とかいうのもあまりよろしくないのでは?」
「確かに縁起でもないと思うやもしれぬが、この戦乱の世を耐え抜くには何よりも大事ぞ。」
「そうなのでしょうか。」
「家を傾けぬはすなわち家を長く保つこと。それには当主が長生きしてもよいが、こればかりはなあ。そこで万一に備えて家督を継ぐ者の順番を、いや順番を決める掟を定めておくのだ。」
「……。」
こういう話になると夫は理屈っぽくて困る。
重勝はその後もさらに説明を続けるが、その言葉は彼女の心に響かなかった。
この家督継承に関する規則は、重勝・重時の子孫が絶えた場合など詳細な条件を付けて継承順位の設定方法を定めるものだが、「子が絶えたら」とか「嫡男が若年で大病を得たら」とか、ろくでもないことばかり書いてあって、久は見るのも嫌だと遠ざけていた。
妻の反応を見た重勝は「これはあまり表に出さない方がよい」と思って、ひとまず熊野の鳥居氏、鷹見氏、熊谷氏に内々に共有するにとどめたが、万一の場合は三家が統一の家督相続者を推挙する支度が整ったのは大きいだろう。
「――そういうわけでな、何事も手筈が大事。ほれ、今度の島行きの話もそうだ。島というのは水が少ない。飢饉が多いというのは水がなくて田がつくれぬからであろう。畠を主としておるのだ。そこに人を送るとならば、まずは溜め池をこしらえる。畠1反にいかばかり水が要るのか。畠1反で人はどれだけ食っていけるのか。こういうのを算用しておくわけよ。」
夫はまだごちゃごちゃ言っている。妻は「はあ」と半分聞き流しながらも、前と違ってその様子が少し明るくなったことに安堵していた。
◇
九英承菊の死を見て重勝の心は少し変わった。憎むべき相手の1人の死を見届けたことは、彼の仄暗い復讐心を満たし、多少なりともすっきりした気持ちをもたらしたのだ。
しかも、自身も毒にあたったこの和尚に責はないにもかかわらず、彼は息子・勝太郎の死について重勝に謝った。謝ってもらうというのは、それで何か変わるでなくとも少し気が楽になる。
重勝の自らの行いを悔いる気持ちや今川家を憎む気持ちなど様々な負の感情は、複雑に絡み合って彼の心を蝕んでいた。
それが今や、承菊禅師の末期の振る舞いで、少しだけ表面のとげとげしさが削られて、誰かに対する復讐心というものからは重勝は解き放たれていた――もはやそれだけの強い気持ちを保てないほど心が疲れていただけかもしれないが。
そんな干からびた心では、目の前でこちらの歓心を買おうとしている幕府の使者の振る舞いも、ただ鬱陶しいとしか思えなかった。
「それで、公方様は雅楽会を京で開かれると。」
「はい、刑部少輔殿は雅ごとの再興において先鞭をおつけなされ申した。公方様をはじめ洛中の方々はそのお志を大いにお認めなさって『ぜひこたびの会にもご同席を』とお心待ちにしておられまする。」
「左様でありまするか。」
鈴木重勝は内心を表に出さないように気をつけていたが、面倒くささが応対ににじみ出ていた。
圧をかけやすい幕府側の地元・京に呼びつけ、さらにはそれにより当主不在の本国が軍事行動をとれないようにして、交渉を有利に進めようというのだろう。
幕臣・進士国秀は重勝が乗り気でないのを察しつつ、これを幕府に対する不服ゆえと思って、すでに太刀やら何やらを贈り「将軍からの下賜だ」と謳ってなんとか懐柔しようと試みている。
進士は「京にくれば好待遇で出迎える」と雅楽会の他にもあれやこれやと話を続けていく。
「宰相中将様もお望みですぞ。」
「宰相中将とは?」
「北畠の参議・左近衛中将様(晴具)にござる。」
進士は重勝が「気を遣っている」というので有名な北畠家の話を持ち出し、暗にこちらとの仲も取り持つと仄めかしたのだが、重勝はそれではなびかない。
というよりも彼は北畠家が嫌いだから慇懃に接して面倒事にならないようにしていたのであり、ここで名前を出されても余計に不快である。
しかも重勝は参議と左近衛中将を兼ねる者を「宰相中将」と呼ぶのを知らなった。それを見て進士ははっとした。これでは進士が重勝に恥をかかせた形になる。
とはいえそもそも、失われた催馬楽の故実を復興しようと開催された以前の雅楽会は鈴木家と伊勢神宮で始めた催しであり、気を遣って北畠家を呼び込んだもの。
「自分のものだ」と主張するのは大人げないかもしれないが、元の主催者に対し断りなしに同じような会を行うと呼びかけて「招くから喜んでくれ」というのはさすがにどうだろう。
特別に感情が揺さぶられるということはなかったが、ただひたすら疲れを覚える重勝は、適当に話を合わせた後、こんなことを言い出した。
「そういえば、家中の岩堀という者から聞いたのだが、進士殿はかつて三河に給地があったとか。」
「はあ岩堀殿ですか、確かずいぶん昔に室町でご奉公しておりましたか。」
「そのようだ。それでどうであるか、これを復するでこちらに付かぬか?」
「え?いや、滅相もございません!それがしは――」
突然のことで動転した進士は話をうやむやにされてしまうが、その後は大いに歓待を受けた。
そして結局、重勝からは「嫡男の喪に服する」という理由で雅楽会参加を断られたが、接待を受けて気をよくしていた進士は「それは道理だ」と納得した。
本題の今川との和平についても、「京の今川御曹司を相手に現状の領境を以て和議を結び、かの御曹司を鈴木家で世話して甲斐まで進める。これは駿府も承知の話だ」という重勝の言葉で言いくるめられて、それをそのまま――多くの返礼品とともに――室町に持ち帰った。
◇
鈴木重勝は先には幕府の使者・諏訪晴長を会わずに返したが、それに続いた進士の方はずいぶんと厚遇され、ほとんど言いなりで帰ってきてしまった。
これを受けて幕閣には進士に対する疑念を抱く者がでた。引き抜きの話は意図して彼の従者に漏らされていたから、密告もあったようだ。
重勝が諏訪を追い返したのは単純に会いたくなかったからだが、弟・鈴木重直の妻である諏訪殿から「使者は盟友・諏訪氏と対立した金刺氏の流れだろう」と聞いたからなおさらである。
一方の進士に対する対応は「こうして揺さぶったらどうなるかな」程度の試み。
そんなこととは知らない幕臣たちは進士国秀を隠居処分に追い詰め、和睦斡旋は再び頓挫する。こうなると諸人の目には、幕府が両家の和議に対して積極的でないようにも見えた。
実際、幕府としては今川家の危機は承知でも「和睦して鈴木家の支援を受ける」というのは認められない。東海がすっかり敵対派閥の鈴木の色に染まることをひどく警戒しているからだ。
しかし「そうでもしなければ駿河を甲斐今川家にとられてしまう」というのが今川本国の見立てであり、駿府から催促を受ける京の寿桂尼はなんとか幕府を説得したいところ。
和睦自体には前向きな鈴木と今川の双方は、ともに互いを信じられないから第三者の仲立ちで和睦の効力を保証しようというのに、おかしなことに仲裁者たる幕府の意向で話が進まない。
同じく今川家の家督相続も思うように進んでいない。
今川彦五郎の相続に様々な便宜を図った将軍・足利義晴は、今回も、建仁寺から呼び出されて還俗した栴岳承芳に「義」の字を与えて「今川義元」を名乗らせた。
しかし、官位の方は彦五郎のときのようには手配が間に合っていなかったのだ。
さらに今川義元を上洛軍ごと駿河に返すのには、将軍が直々に反対していた。
年始には堺の阿波細川氏・三好氏が北河内の有力国人・野尻氏を急襲して巨椋池南岸に進出し、この地の石清水八幡宮の恭順を取り付けた。
堺方はいきなり京を獲らずに周りの支配を固めるのを優先するらしく、両畠山氏は大和国を切り取り始めたし、細川系の有力者たちは摂津国周辺の国人の排除・服属強化を進めている。
その一環での北河内平定であるとはいえ、隙を見せればその地を越えてすぐにも京に兵を入れてくるだろうから、常駐している今川兵は室町の頼みの綱なのだ。
そもそも幕府は暇ではない。
日常的に京の内外の様々な争いごとの面倒を見たり、各地からの上納がきちんと届くか確認して適切に催促をしたりしないといけない。
ちょうど今川家が大混乱に陥った頃には後奈良天皇の即位式を行っていた。
これが終わったからには、即位式の故実に詳しいというだけで関白に再任された二条尹房を、今度は彼が権力を持つ前に急いで解任し、親幕府の近衛稙家に挿げ替えねばならない。
他にも、北九州で大内氏の侵攻を食い止める大友氏から幕府に調停が依頼されているが、一方の大内氏は大内氏で幕府肝いりの遣明船を送り出したばかりだ。
その直前には琉球からの使節も京にやってきて「明国と冊封関係を結び直した」と報告しており、こうした外国とのやり取りにも気を配らねばならない。
しかし、明と直接やりとりすることになる大内氏は、室町に思うところがあるのか、堺方の足利義維と細川持隆に娘を嫁がせており、このあたりの舵取りは困難極まる。
室町はこれらの対応で手一杯になっていた。
特に眼前の河内の問題については、堺方が地盤を固める前に武力で押し戻すべきとする者たちと、自分たちも今のうちに丹波国など山城国周辺で力をつけるべきとする者たちが分かれている。
どちらも間違いではないが、割れていてはだめなのだ。
頼りの近江守護・六角定頼は婿の細川晴元が京兆細川氏の地盤である丹波国を掌握することを望んでおり、一方で自家が武力を供出することに慎重である。
それゆえ地盤強化派が優勢にも見えるが、武力行使派は近くの伊勢北畠氏・若狭武田氏・越前朝倉氏、西国の大内氏・尼子氏などにまで上洛軍派遣の要請をしており無策ではない。
彼らは上洛軍を引き出すために大内氏・大友氏の和睦を急ぎたいが、尼子氏は両家が争ってくれている方が都合がよく、あちらを立てればこちらが立たない。
こうした西国重視の者の間では、駿府が鈴木家の勢力下に入るくらいならば、いっそ甲斐今川家を認めてやって親幕府の大名を立てるべきではないかという声まである。
なるほどそれも間違いではないが、問題は全体の意思統一がないことだった。
【メモ】史実では、当時の上方は天文の乱で混乱しており、後奈良天皇即位式は1536年春です。本作の幕府はなまじ京で頑張って仕事をしているので、案件がどんどん舞い込みキャパオーバーとなりました。これら案件は第108・129話などと関連します。進士国秀の隠居は全く別の文脈で数年後に起こります。




