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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第10章 獲麟編「愚者と憤怒と悔恨」
151/173

第139話 1535年「潮目と潮時」◆

 九英承菊は死んだ。

 その遺体は持ち去られ、今川家の抗議にもかかわらず三河で荼毘に付された。

 その扱いは極めて丁重で、てっきり遺体を辱めるのではないかと疑っていた今川家は困惑を隠せない。あまつさえ、鈴木重時なる者から「亡き兄の日記を読んだが、承菊禅師には世話になった」と文まで来る始末。

 鈴木・今川の両家は、互いに信を寄せることなどもはやかなわぬ間柄。禅師の残した停戦話も、疑心暗鬼でお互い出方を見るしかない。

 今川家の要請を受けたか、将軍自身が動いた結果か、一度、室町からの和睦斡旋の使者があったが、重勝は会わずに返した。中立でない者が仲介などとはおかしな話である。

 しかし、使者に会いすらしないというのは幕府にとっても今川家にとっても驚きであり、なおさら和睦はならないと思われたが、とはいえこうして睨み合う間は実質の休戦期間である。

 重勝はこの時間をも無駄にしてなるものかとばかりに、近場の敵対勢力、戸田氏に対処した。


 ◇


 戸田氏が滅びていなかったのはひとえに鈴木家が放置していたからである。

 彼らは渥美半島で勢力を増そうと努めてきたが、うまくいっていなかった。

 敵地の真ん中で蜂起した彼らは補給に難があった。

 拠点の田原城周辺には戸田恩顧の村々が広がるが、そこからの上納だけでは足らず、その外側で鈴木と戸田の狭間で揺れる諸村から徴収を行う必要があった。

 しかし、その範囲が広がらなかった。半島の先端は鈴木家の海賊衆のねぐらであり、半島付け根は高縄大津城・大崎城・今橋城の3連の防備で固く封じ込められていたのだ。

 しかも、鈴木家は村々に対し、戸田氏に肩入れして内通・謀反した場合には「保護しない」と通達していた。「保護しない」というのは、戦の間に戸田氏の攻撃を受けても無視するし、戦後に復興なり開発なりをするにあたっても一切助けないという意味である。

 今川相手に一歩も引かない鈴木家の評判は三河では相当に高く、そんな相手からこうまで言われてしまうと安易に戸田氏に味方するわけにはいかなかったのだ。

 さしたる変化もなく時だけが過ぎる中、鈴木家が数千の兵をぶつければ、田原城のみの戸田氏は直ちに滅ぼされる、というのが敵味方で共通する理解だった。


 そこに来て遠江が鈴木優勢で落ち着いた。

 これにいち早く反応したのは、戸田氏に肩入れせざるを得なかった田原近くの元鈴木領民である。

 彼らは遠江から兵が戻ってくれば、次に討伐されるのは自分たちだという自覚があった。そのため、逃散して田原城から東に徒歩1刻の長仙寺に集まって一揆をおこし、鈴木家に支援を求めた。

 田原は田原で、挙兵時に集めたゴロツキは負け戦の空気を感じ取って不穏な様子であるし、それを見た多米戸田氏光は早くも城を脱して姿をくらました。

 とても籠城できる士気ではなく、首魁の戸田光忠と叔父・宣成は「城兵に寝首を掻かれて降伏の手土産にされてはたまらぬ」と早々に抗戦を諦め、宣成の切腹と引き換えで光忠は剃髪し助命された。


 ◇


 潮目が変わった。諸人は天文4年を指してそのように言う。

 鈴木家は耐えきった。危難のときをついに抜けたのである。

 いまや鈴木重勝の目は西方といとし子の未来に向いていた。


 春には美濃で大洪水が起き、土岐氏の動きが止まった。

 それを見逃すわけもなく、重勝は二川防衛線から兵を順繰りに西へ移して、玉突き的に押し出された東尾張の兵を使い、和睦時に奪われた西多治見を奪還。明智家の宗寂入道・光久の兄弟に砦の建設を命じた。

 先ごろまで守護・土岐頼芸は亡き兄・頼武と守護職をめぐって争っていた。

 この頼武を支援していたのが朝倉家――中でも、美濃に接する大野郡に置かれていた当主・孝景の弟・朝倉景高である。

 自立心たくましい景高は、隣国が洪水と鈴木兵の侵入で混乱するのを見るや、兄の承諾を得ずに美濃国郡上郡に乱入し、東氏と争って落ち目だった鷲見氏の勢力圏に進出した。

 土岐氏はこれらに対処すべく兵を集めようとしたが、夏にも再び洪水の被害に遭い、守護所の枝広館まで流されてしまって、それどころではなくなった。


 鈴木兵は続々と戦地から戻ってきて帰村し、代わって予備人員が彼らの武装と糧秣を引き継いで戦支度を整え、どんどん尾張に進駐していく。

 海では遠州沖から渥美半島にかけて巡回していた小笠原水軍も手透きとなって、半分は伊勢志摩沖に出没するようになる。

 尾張の織田氏も伊勢の北畠氏も、てっきり今川と停戦しても鈴木は当分は休養するとみていたから、まさかそのまま自国が狙われるとは思っていなかった。


 特に伊勢北畠氏は、鈴木家との間で小康状態が続いているのを、彼らが伊勢に気を回している余力がないからだと思って、懸案だった大和国にちょっかいを出しているところだった。

 鈴木家のこれみよがしな戦支度を伊勢国司・北畠晴具はある種の合図と思って、すぐに和睦した。


「だから西を目指すのならば、先に東を片付けてからと申し上げましたものを。」

「今川との戦で手薄になれば島を取り返す機もあろうと思うたのだ。」


 晴具は腹心の山室式部大輔の小言にむすっとして言い返した。

 彼が奪われたと思っている答志島・菅島はそもそも北畠家の支配下にはなく海賊衆の拠点だったから、和睦条件で割譲した形になったとはいえ、実質、何も失ったわけではない。


「まあまあ。熊野はそもそも攻めにくく、苦労して細道をずいぶん進まねば実入りのよい土地にはありつけませぬ。深入りする前によくぞご決断なされました。」


 不満そうな主君を宥めて、上機嫌の鳥屋尾豊前守が言った。

 三河本国の支援がなくなった熊野鳥居氏は、伊勢からの細い侵攻路に沿って防御陣地を次々構築し、海辺は海賊衆に見張らせ、ひたすら守備を固めていた。これを抜くには相当の労力を要する。

 財務に携わる鳥屋尾としては、攻めてくる気配のない鈴木家相手に余計な戦費を積み増さないでほしかった。

 むしろ彼は、2島割譲の対価の1000貫文、ついでに得た鈴木家に対する借財の帳消し、そして、北畠傘下の船の警固料減免を大いに喜んでおり、機嫌がよかった。

 晴具が鳥屋尾に「それ以上はもういい」とばかりに手を向けて話題を変える。


「それよりも大和だ。」

「こちらも山深き地でありまするからな。大軍を動かすには少々難儀しまする」とは山室の言。

「畠山が相争うはいつものことながら、こたびは大和の衆徒を巻き込んでおるのが厄介にて。」


 堺方の紀伊畠山稙長の圧迫を受け、同じく堺方の河内畠山在氏は大和国の衆徒(国人)を味方につけて対抗しようとしたが、当然、稙長も邪魔をする。そのせいで大和国は混乱していた。

 北畠家は大和国東部の宇陀郡を支配下に置くが、これが動揺するのは、熊野云々とは異なり自家の既得権益が損なわれることになる。

 そのため、なんとしてもこれを確保し、あわよくば混乱に乗じて勢力を拡大するべく、かの地に兵を入れていたのだ。


「ゆえにこそ狙い目というものよ。」

「まずは吉野ですかな。よい筆が手に入ることでしょうな。」


 勘定の点で「厄介」と述べた鳥屋尾に対し、山室は大和進出に前向きである。

 それに対しただ頷くだけの晴具。

 知らず、東海の逆転模様は彼の内心にいかなる思いをもたらしたのか。


 ◇


「おお、よくぞ無事に戻った、上総介!」

「恥ずかしながら、帰って参り申した。」


 渥美半島赤羽根の海戦以来、福島上総介はしばらく鈴木家の虜囚となっていたが、両家の間で和睦がなり、ようやく解放されて相模国に帰ってきた。

 わざわざ当主・北条氏綱自らがこれを出迎えた。


「鈴木家中の様子はどうであったか。閉籠されておってはわからぬか。」

「いえ、目付さえおれば見回ることは許されており申した。お話しできることもあるかと。」

「おお、そうか。で、どうであろう。」

「それがしは戦地でなく内地におり申したほどに、それゆえやもしれませぬが、かの家では奉行らしき者どもがよく目立っておりました。」

「ほう、奉行か。あれだけの砦を構え、長くにわたって兵を動かしておるのだ。さもありなん。」


 今川兵を跳ね返した二川陣城と今しがたの遠江からの大返しを思って氏綱は納得顔である。

 しかしそうと聞けば、なおさら惜しむらくは大道寺盛昌を件の海戦で喪ったことだ。大道寺は相模半国を一手に任せても不安のないほどの逸材だったから。

 一方、氏綱は三男・為昌も喪ったが、これはもう割り切っていた。息子に任せた玉縄城は、外と海を知ったこの上総介に任せてもよかろう。娘を娶わせるか。


「あとは刑部少輔殿(鈴木重勝)とも少々話をしてございまする。」

「ほう!それはよい。あれは何を考えておるのかいまいちわからぬでな。」

「やはり、伊豆の島々が気にかかっておったようで、御先代様(伊勢宗瑞)が永正の頃に大島、八丈島あたりまで知行なさるに至ったお話を伝え申した。」

「そうか。かの者は海に、というよりは廻船や商いに心を寄せておるのであろうな。」


 伊豆諸島の話がでたのは和睦交渉の焦点が島々の領有権だったからだ。

 鈴木家と北条家は、途中からは今川家を省いて、人質返還交渉を行ってきた。

 それが天文4年に入って情勢が変わったことで、京都小笠原氏の小笠原元続(氏綱従兄)を折衝役に――それにより室町や信濃小笠原氏の口添えも期待しつつ――本格的な和睦交渉に発展した。

 最大の理由は、これまで遠州沖までしか進出していなかった鈴木家属下の小笠原水軍が、西伊豆や伊豆諸島まで掠奪し始めたからだ。

 当然、北条家は伊豆の海賊衆を動かして対抗した。

 しかし、領国の東、房総半島では反北条氏の小弓公方・足利義明が勢力を強めており、北条氏の支援で本家から家督を奪った安房の里見義堯が船手衆の供出を拒否した。

 そのうえ、ついに先般、宿敵・扇谷上杉朝興が、今川北条連合の海賊衆が渥美半島沖で敗れたのを好機と見て相模国に侵寇するに至った。

 こうなってはもはや西方にかまけておられず、和議となったのだ。


「大島は相模に近すぎるで、ここを寄こせというは慮外極まる物言いであったが、利島より南はやむを得ぬ。八丈島ばかりは痛いが……、いや、これも先の噴火から立ち直っておらぬし、利島は水が出ぬし、三宅島はつい先ごろ噴火したばかり。」


 八丈島の噴火は十数年前、三宅島の噴火はこの年の春である。

 鈴木家との和睦条件は、大島を除く伊豆諸島すべての割譲だった。

 これらの島からは大した上納があるでもなく、飢饉に陥ることも少なくない。伊豆沖まで鈴木船が入ってくるという国防上の懸念以外は痛手ではなかった。


「それよりも、これにて再び東海で舟を廻すことができると思えば、益の方が大きい。あちらもそのこと承知の上であろう。または甲斐・駿東を得て穴を埋めてもよい。いや、穴は松平か……。」


 氏綱は自分に言い聞かせるようにして言った。

 遠州から紀州までの沿岸部が鈴木家の勢力圏として固まるなら、これと敵対するのは損ばかり。

 失った分は新たに得ればよい。駿河の無秩序は放置しておくこともできない。今川家が自力で事態を収拾できないのであれば、当家で一部を押さえて――

 主君の相貌が脳裏を駆け巡る思索によって研ぎ澄まされていくのを福島上総介は頼もしく見ていた。


 ◇


 そして残るは尾張。


「終わりである……。」


 織田信秀は鈴木家に首を垂れることにした。

 唯一の頼みの美濃が動けないとなっては、東尾張に集まる鈴木の大軍を相手に自家単独では持ちこたえられない。

 那古野に逃げた本家の織田大和守家は落ちぶれたとはいえ――しかもなぜか跡継ぎの織田信友は謀反して逐電したが――当主・達勝は健在で、鈴木家の支援があれば清洲に復帰して守護代としての地位を取り戻すだろう。

 彼の目には、もう情勢をひっくり返すような手立ては見えなかった。

 しかも、こじれにこじれた本家との関係を自力で修復するのはもはや無理である。


「『寧ろ鶏口となるも』でやってきたが……。やむを得ぬ、ここからは連衡策といくか。」


 連衡策。それはすなわち千と数百年前の戦国時代に、強国・秦に対する対応として、当の秦と同盟して自国の安全を確保しつつ、それ以外の隣国を攻めて勢力を伸ばす策である。


 ◇


 突如舞い込んだ同盟の打診と織田大和守家との仲の執り成しの要請。

 信秀の方から仲裁を願い出るのは十分にへりくだっているから、従属的地位を進んで受け入れるというのだろうか。しかし、どこまでも自分勝手である。

 それを受け取った直後は困惑と疑念しかなかったが、鈴木重勝はすぐにも強い苛立ちに支配された。


「こやつめッ!!」


 重勝は信秀直々の書状をチリヂリに破り捨てるも、なんとかそれで癇癪を押しとどめる。

 実際、兵の大移動ははったりだった。三河は吉良領と渥美半島で秩序が崩壊しており、同じく無秩序の遠江も守備せねばならない。見境なしに東から西へ兵を動かしたから軍の編成も滅茶苦茶。

 それを見透かしたかのような決戦前の和睦申し入れは確かに妙手だった。

 自家も無駄な損失を押さえられる。次男坊に家督を譲るにしても疲弊した家を任せたくない。

 しかし、その信秀からの申し出というのが、いかにもかの者に振り回されおちょくられ続けているかのようで、ただただ不快だった。


 とはいえ、先年に生まれた正室の子、信長と思われる嫡男らしき赤子が、将来、息子・重時を支える同盟相手になるかもしれない。

 赤子など元服まで生きるかどうかもわからないというのに、どうしても期待してしまう。


「信長のため、信長のため……。」


 念仏のように(とな)えて気を鎮めた重勝は、私心なく問題に対処した。

 そもそも重勝は少し前に織田達勝からも和睦の調停を頼まれていたが、嫡男・勝太郎の死などで話が進んでいなかった。

 この達勝は跡継ぎ・信友を失い途方に暮れて隠居を望んでおり、信秀に離縁されて出戻っていた娘と結婚する形で婿を鈴木家中から呼び込もうとまでしていた。

 守護弑逆未遂の件で大和守家家中は忠義の拠り所を失い、解体もかくやというほどに崩れていたから、それも致し方ない。

 とはいえ、奉行の小田井織田氏(藤左衛門家)など一族は残っており、達勝の動きはそうした忠臣から不満に思われていた。


「まずは上から決めていくべし。両織田が当家と結ぶならば、室町の任じた守護たる斯波は浮くことになる。京には武衛陣(斯波邸)があるというし、室町殿に引き取ってもらいたいが。」


 大和守家とともに那古野に移っていた斯波義達、信秀が囲っていたその子で現守護の義統、織田信友の襲撃から毛利十郎によって逃がされた次男以下の者たち。

 他国に渡って尾張攻めの神輿になっては困るが、神輿などなくても攻められるときは攻められるから、重勝としては今更である。抱えるにも扶持がもったいないし、家格を盾に面倒を言われても困る。

 そこで室町に送ろうというのだが、そもそもそんな簡単な話ではないし、また非常に具体的な問題が生じた。京には斯波家にとって憎むべき織田信友がいるのだ。

 「いやだいやだ」とごねる斯波一族。奥州にも斯波氏がいるということで、そちらはいかがとなっても、やはり「いやだいやだ」とごね、「それならば」とばかりに三河に引っ越してきた。


 徒労感を覚えるも、重勝はここからさらに織田家の扱いを決めねばならない。

 これまでの信義からすれば大和守家を大事にしたいが、家中が崩壊状態のかの家には実際的な権力はなく、どうやっても形しか残らない。

 一方、信秀には信用などないから、できるだけその勢力を削る方向が望ましい。そもそも和議を願うのも本心かわからない。


「まずは渥美に潜り込みたる戸田氏は当家の仇敵。尾張に残る一族の身柄を渡されたし。」


 第一に本心を確かめねば。

 ということで、重勝は尾張にいる出家・降伏した戸田光忠の幼子や、父・政光、兄・孫四郎宗光らの引き渡しを求めた。信秀の策謀用の手駒を減らすためだ。

 老いてなお鈴木家に対する憤りを糧に気力を保っていた政光は、しかし今川家崩壊と田原城降伏を聞いて生気を失い自害しており、残る宗光は三河に戻れば族滅と思い込み、家族への寛恕を願って腹を切った。

 信秀はそういう事情を伝えると、すぐさま残余の戸田一族を三河に送る。

 殊勝な態度と言えなくもないが胡散臭い。


「こちらが大和守殿から。なるほど、信秀の子を養子にとるのは嫌か。信秀の方は」と言葉を切り、重勝は達勝の文を置いて信秀の文を読んでから続ける。

「先年に生まれた赤子なら、ときたか。清洲に置くならその生母も一緒にとな?ふうむ、よくわからぬが。」


 信長らしき赤子をめぐる条件は、生母・土田夫人の意向が大きい。

 重勝は当初、信秀庶長子・信広を大和守家の養子とするのを提案したが、その場合、土田夫人の正嫡の子は将来の守護代・信広に従わねばならない。夫人はこれが嫌だった。

 一方、実子を養子に出すと他家に行くわけで、二度と会えないかもしれない。それも嫌だということで、彼女は一緒に連れて行けと求めたのだ。


 織田家をくっつけて大雑把に所領を削るのが一番簡単と思ったが、なかなかそうもいかない。

 それには信秀と、その父・信定の手配で彼に嫁ぎ両家の決裂で一方的に離縁された達勝の娘とを再婚させる手もあるが、さすがにそれは娘がかわいそうだ。


「くだんの女は尾張にいてもあまりよいこともなかろうし、いっそ外に出そう。和泉の肥後守(鱸永重、重勝甥)と娶わせるか。あれも守護代家の嫁をもらうとなれば、上方でもやりやすかろうて。

 しかし、大和守殿の御養子か。やはり両家を合わせるのは無理であろうし、順当にもう一方の奉行の家から取るしかあるまいな。」


 かくして仕置きは済まされた。

 大和守家には織田藤左衛門家から10歳にも満たない信張が元服のうえ養子に入って相続し、居所は那古野とされ、重勝弟・鈴木重直が入部して織田信張を後見する。

 この地には那古野今川家があるが、当主・竹王丸は三河の学校に興味があり、そちらには友人の鈴木重時もいることから、遊学を望んで統治を放棄した。そのため、重直は那古野今川家中の総意で家政も担うことになった。

 信秀を全く信用していない重勝は、人質として信秀の父・信定、次弟・信康、庶長子・信広ら多くの者たちを要求し、岩倉織田家の一部家臣の譲渡も要請した。

 そして、領土を北伊勢以外で海東郡・海西郡・中島郡・葉栗郡の西4郡に制限し、重直が采配する織田大和守家勢力圏を那古野・熱田・清洲を中心とする1郡半程度の領域とした。

 信秀側が手放す土地はそこまで大きくないが、信秀が長年かけて勝ち取った清洲城を明け渡さねばならないというのは厳しい要求だった。

 しかし信秀はこれすらもあっさりと承諾する。

 そこまで見て、ようやく重勝も何かの策略ではないと認め、信秀に対し伊勢国を切り取るならば増援を出すとまで述べた。


 鈴木家が抱える諸問題はこれにてほとんど片付いた。

 城将に抜擢された宿老・熊谷実長の婿・松平信長から「清洲受取」の知らせが来た日、重勝の日記には「潮時」の2文字があった。

【メモ】戸田氏は第60・114話、北畠家の大和進出は第73・110話、畠山家の大和進出は第111・112・129話、信秀の結婚は第63話、信長の出生は第128話、織田信友・信秀関連は第130・131話にあります。特に第131話には清洲を獲った信秀がかえって虚脱感を覚える描写があります。

 織田家は桶狭間っぽい状況に見えるかもですが、敵国当主が前線に出ておらず、桶狭間は前から鈴木領で奇襲に適した場所がないため手詰まりとなりました。

 織田家武将の所在(備忘録):重勝配下=佐々(犬山)、丹羽、山内、坪内、前野;重直配下=林、坂井、河尻、柴田;信秀配下=滝川、前田、佐久間、岩倉織田、稲田、堀尾、蜂須賀。

【史実】洪水や噴火、上杉朝興の侵攻は史実通りです。時期はわかりませんでしたが、北畠晴具の吉野進出も史実通り、里見義堯の反北条の動きは少し時間が早まっています。史実でもこの頃になぜか信秀が那古野城を無血で入手しますが、本作では鈴木家の手に渡りました。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 陸路で熊野攻めるのは無理でしょうねえ あそこ現代ですら地の果てみたいな場所だし しかし紀伊南岸から渥美半島、東遠まで海岸線握ってるとなると 東西流通の寄港地は殆ど鈴木家が掌握できますね こ…
[良い点] 連続更新お疲れ様です 感謝感謝 [気になる点] 西方面と北条が片付いて、あとは甲斐と今川の顛末といったところでしょうか 織田家を生き残らせるのは意外でもありますが、あそことの関係はめちゃく…
[良い点] ようやく戦が一旦落ち着きましたね。唯一今川方面はまだハッキリしませんが、ここで国力を回復させて次の拡大に備えないところです。 [気になる点] 尾張の西方面に織田家を残したということは伊勢に…
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