第13話 1515年「菅沼」
一方の足助鈴木勢の動きは、これも迅速だった。
「進め進め!こたびは田峯を落とすにあらずといえども、隙あらばこれを落とし我がものとせん!」
鈴木雅楽助重政は三宅氏と寺部・酒呑の鈴木氏から援軍を得て400の兵で田峯方面に進軍した。
事前に道中にある平勝寺を補給と休憩の場所として押さえていた足助勢は、この寺を早朝に発ち、神越川を上って次の拠点の阿蔵で休憩した。
その時にはすでに進軍の報は田峯菅沼氏にもたらされていたが、菅沼氏が兵を集める前に重政は菅沼城を急襲し、その一族を捕虜とした。
翌朝、南の方にある島田城の菅沼伊賀守定盛が慌てて攻め寄せたが、小勢であったため、簡単に撃退されてしまった。
「ううむ、一城を落としたはよいが、なんとかして田峯を狙いたきことよ。」
「殿、こたびは忍んでこの城をよく守り、次こそここから進みて、田峯を落とすべきにてござり申す。」
重政は菅沼城を落としただけでは満足できなかったが、近臣たちはこれをよく宥め、菅沼城をよく守って次の攻勢の拠点とするよう進言した。
足助鈴木勢はしばらく菅沼城にとどまり、田峯菅沼と作手奥平を牽制するのだった。
◇
野田の周囲が封鎖されていく中、甚三郎は熊谷勢とともに豊川の浅瀬を渡河していた。
鷹見弥次郎のみを供廻りとする甚三郎は、熊谷備中守実長に請われて、軍師のような形で熊谷勢300ほどの面倒を見ていた。
「綱を張れ!」
甚三郎は、船の往来がなくなる日暮れ頃に、予め綱を持たせた兵を豊川の反対側の藪に潜ませておいた。そして、この兵らに合図を出して、持たせてあった綱を川面にぴんと張らせ、木に括らせた。
「綱持てそろりと渡れ!暗いうえに足場も悪い。足先で石ころをせせってから、足を置け!」
夜明け前の渡河だったため、流される者が出ないよう綱を伝って気を付けて渡河させた。
そこそこ時間はかかったが、幸い溺死者もでず、まだ朝日も見えない。
「よしよし、うまく渡れたな。いよいよでござるよ、備中殿。」
「なんともはや。それがしには大博奕にしか見え申さぬ。こうまでしてもなお失敗したらば、熊谷は終いよ。されど、それがしがこんなことを口走ったなどとは家中の誰にも知られてはなるまいな。」
熊谷家の当主・備中守実長は周囲には厳しい顔つきで堂々とした姿を見せていたが、内心ではびくびくしており、近づいて話しかけてきた甚三郎に小声で愚痴を言った。
なぜなら、この300という数は熊谷・鈴木の両家で用意できた武具のすべてを配布した数であり、ほぼ全兵力と言ってよかったからだ。
つまりは、宇利・吉田にはまともな装備の戦力がほとんどない状態であり、周囲の勢力にこのことが知られて攻め込まれる前に決着をつける必要があった。
とはいえ、宇利・吉田を空にしてもしばらくは大丈夫と甚三郎が考えるのは、それ相応に策をめぐらして兵を集めたからだった。
彼は熊谷家中の武士を農民兵を供出する予定の宇利と吉田の集落に予め配置していた。この者らには、攻め込む前日の夕刻までに農民兵が豊川沿いの集合場所に集まれるよう、移動の時間差を考慮して村を発つべき時刻を言い含めてあった。
当然ながら、予定の時刻どおりに集合することはできなかったし、落伍者も出たが、必要な兵数は確保できたため、敵方に襲撃の予兆を捉えさせることなく軍勢を集結させることができた。
小領ゆえに、各村から集合場所まで1日もかからなかったため、このようなことができたのである。
村から人がいなくなったことに周りの諸勢力が気づくには少なくとも数日はかかるだろうし、それから兵・武器・食料を集めるとしても、1週間くらいは余裕があるのではないか。甚三郎はそう見積もっていた。
とはいえ急がねばならないのは変わりなく、渡河した300の熊谷勢は野田館に向けて駆けた。
◇
野田菅沼一党は、建設途中の野田城ではなく、いまだに豊川沿いの野田館とその周りの家々に居住していた。
「何事ぞ!」
菅沼新八郎が甲高く叫んだ。
寝所に家老の今泉四郎兵衛が飛び込んできて報告する。
「殿、敵襲にござる!」
「すわやっ!槍持て!守れ!」
「されども暗くて何が何やら。」
「えい!泣き言を言うな!」
寝込みを襲われた彼らは、取る物も取りあえず館の門に集まったが、すでに塀の周りは熊谷勢が取り囲んでおり、館に詰めていた寡兵では討って出るわけにはいかなかった。
周りの家に住んでいた郎党たちも多勢に無勢で、抵抗すれば討ち取られ、抵抗しなければ捕虜となっており、館に駆けつけることはできなかった。
しかも、この館はろくな防備がなかったため、今泉四郎兵衛は抵抗を諦め、和睦すべきであると主張した。
一方、甚三郎は近隣の農民を買収して、田峯からついてきた菅沼家臣が北の徳定に屋敷を構えていると聞き、一隊を率いて攻め寄せてこれを降した。
「もはや野田は兵にてすっかり囲んだ。その方は今降らば厚く遇さん。」
この者は、田峯菅沼氏の勢力圏にある塩瀬城から下ってきた塩瀬甚兵衛久次といった。
塩瀬に続けて近く居を構えていた中島市兵衛も傘下に加えた甚三郎は、懸念していた作手奥平家の介入を防ぐべく西進した。
奥平氏は、平地の野田から山間部の作手に至る道の入り口に臼子城を築き、これを家臣の佐宗大膳重之に守らせていた。
甚三郎は塩瀬らを伴って臼子城に至り、不戦を奥平本家に伝えるよう佐宗大膳に言い聞かせた。
「奥平殿には動かずただじっとしていて欲しいのだ。それだけよ。我らは何の悪さもしない。おわかりか?
その方にも何も悪さはせず。刈田もせぬし、狼藉は一切あるべからず。このことだけ奥平殿に伝えて欲しいのだ。
……それは分かったということか?」
寝起きの大膳は突然のことで「ふんふん」と頷くばかりで、甚三郎はその様子にちゃんとわかっているのか不安を覚えながらも、急ぎ野田に帰ってきた。
そしていまだに抗戦か降伏かで意見がまとまらない菅沼新八郎一党に向けてこう告げた。
「我らはこの地を荘司たる冨永氏の手に戻さんとするなり!
吉良様のもと牟呂城は冨永の縁者より一子を預かりてまいった。これを当家で養い、元服の後に野田に戻すつもりだ!
その方らが大人しく田峯に帰るならば我らは神に掛けて何もするまい!」
この冨永の縁者というのは、かつては野田の支城である下り地城に詰めており、菅沼氏による乗っ取りを機に落ち延びて西三河の吉良氏に仕え、牟呂城の城主となっていた者である。
「吉良様と今川様は微妙なご関係。お家のことを考えても、ご主君のことを考えても、今川方の当家にお子を預けて縁を保つぞ上策ではございませぬか?」
甚三郎は牟呂城にほど近い上ノ郷の鵜殿氏と接触する中でこの者の存在を知り、予めこのように懐柔して、その末子をもらい受けることに成功していたのである。
菅沼新八郎は塩瀬らの離反を聞いて抗戦をようやく諦め、自らを無事に田峯に帰参させることを条件に、館を明け渡した。
かくして熊谷家は野田郷を手中に収めたのだった。