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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第10章 獲麟編「愚者と憤怒と悔恨」
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第137話 1535年「河府崩れ」◆

 河府崩れ。

 河府とはすなわち河陽城府、駿府の美称である。

 鈴木重勝の日記に記された「河府崩、三国怱劇、犯分乱理、雖不能不択覇、常本政教」との文言を基に、後代に作られた表現だ。

 その言葉が指すのは、駿府今川館での無差別毒殺事件、その後の今川家当主暗殺事件、そしてなによりも甲斐・遠江・駿河の混乱である。

 隣国の混乱を前に、『荀子』に学んだ重勝は、無秩序の中でも王者の徳を本義とすべしと自戒しつつ、しかし覇者の道を選ばざるを得ないと述べたのだった。


 その混乱の元凶と目される甲斐今川氏は宗家家督の相続を求めており、不作と疫病に苦しむ甲斐国衆と利害が一致して、駿河国の掠奪に走った。

 当主・彦五郎を喪った駿府諸将は、混乱の中、頑なに甲斐今川氏の家督相続を認めず、京の建仁寺に置かれていた彦五郎異母兄弟・栴岳承芳(今川義元)の還俗と帰国を求めている。

 甲斐・駿河・京。いずれも「まずは家督」であり、遠江の問題は二の次であった。


 ◇


 遠江・遠淡海(浜名湖)の北を支配する井伊家は、鈴木家の散発的な攻撃に対処するため、再び井伊谷城で防備を固めており、多くの将兵が集まっていた。


「堀越の者らが守りを固めておるそうな。謀反の支度ではなかろうか。」


 松下蔵人連昌が声を潜めて言う。

 この若武者は、鈴木家中・松下長尹の娘を娶ったばかりで少し前から浮かれていたが、それがここにきての大騒動。若さゆえか、危機感よりも、むしろ冒険心を刺激されて興奮していた。

 己が何か大きな陰謀を動かしているかのような錯覚に陥り、酔ってしまっているのだろう。


「堀越といえば、瀬名殿の御身内にござろう。」

「掛川に合力せぬというのか。」


 現当主・井伊直平の従弟・中野式部大輔直村と直平次男・彦次郎直満が答える。

 堀越氏とは、遠江を守る総大将・瀬名陸奥守氏貞の叔父・堀越貞基とその子・氏延のことである。

 瀬名も堀越も同じく今川庶流だが、瀬名氏当代は駿府で権勢伸長を恣にしていて、遠江の押さえと言えば掛川朝比奈氏に重きが置かれる。これに対し、堀越氏は日陰の存在だった。

 彼らとしては、せめて遠江の問題に瀬名氏がかかわらなければ我慢できたものを、この危難にあって陣頭指揮を執る陸奥守が鬱陶しくてたまらず、隔意を表に出してしまったのだ。


「掛川は掛川で甲斐兵の扱いに難ありて騒動となっておるとか。」

「それはやむを得まい。よもやかくのごとき厄難の打ち出で来るとは何人も思わなんだところ、甲斐からも将兵を集めておったはず。であらば、不審を覚えて成敗に至ることもあろう。」


 中野が掛川の諸将の懸念は無理からぬことと納得していると、そこに通りかかるは今川家に忠実と見られている小野兵庫助・和泉守の父子。

 彼らの姿が視界に入ると井伊彦次郎は露骨に顔をしかめる。単純に嫌いなのだ。

 井伊一族の長老格である中野はすぐにそれを見とがめて彦次郎に「おい」と一言かけたが、小野父子は自分たちに声をかけられたと思って近寄ってきた。


「なんでありますかな。」

「いや、彦次郎に言うたのだが。」

「そうでありましたか。では、我らはこれで――」

「いや、せっかく会うたのだ。どうであろう、蔵人。先の話を小野殿らにも教えてやっては。」


 小野父子と井伊の次男・三男らの仲が悪いのはどうにもならない。だから小野兵庫助は穏便に立ち去ろうとしたが、彦次郎がわざわざ突っかかっていった。

 和泉守は彦次郎の物言いに不満を顔に浮かべるだけで堪えたが、話が井伊家中に悪い噂をまき散らす松下蔵人のことならばそれどころではない。俄然、文句を言ってやらねば気が済まなくなる。


「――という次第で。」

「えい、余計なことを申すな!堀越殿が守りを固めておっても、叛意だなんだという話に直ちにはならぬ!掛川で甲斐兵が厄介なことになっておるならば、在所から兵をさらに集めてくるのやもしれぬ!これしきのことで当て推量するでないわッ!」


 和泉守が思わず声を荒げると、松下をかばって彦次郎が強く言い返す。


「当て推量なものか!3人で同じく思うたのだ。我らがそろって愚盲とでもいうか!おぬしこそ、いつでも『今川今川』で目が曇っておるのであろう!」

「なにおうっ!?」

「やるか、このちくしょうめ!」

「言うたな!このたわけ!」


 和泉守は彦次郎の短絡的な罵詈(めり)に、これまた短絡的に反応して互いに抜刀する。

 中野と小野兵庫が「やめい!やめい!」と両者を押さえにかかるが、どちらも若者2人の膂力にはかなわず、振りほどこうと暴れる2人の刀に当たってしまう。


「おい!そこまでにせい!」


 和泉守を抑え込もうとして小野兵庫が出血したのを見て、中野は和泉守を責める。

 しかし、血を見て一気に昂った和泉守は、父を傷つけたのは自らだというのに、中野と彦次郎のせいだと瞬時に逆恨みして刀を振りかざした。

 彦次郎は相手が本気だと見抜くと、自分を捕まえている中野を蹴倒して一気に前に出る。

 両者の刃は交錯し、いよいよ喧嘩となった。


 ◇


「ともに頭を冷やせ。」


 井伊家当主・信濃守直平は、己の次男と小野の嫡男に押込(謹慎)を言い渡した。


 小部屋に押し込められた小野和泉守は思う。

 父は額を少し切っただけだったが、出血がそこそこあった。そうなると一手やり返さねば引っ込みがつかぬで、つい暴れてしまった。こんなことをしている場合ではないのに。

 彦次郎も己も少々の切り傷を負っただけだった。しかし将来、我らの間柄は好転するどころか尋常に戻ることさえもうないだろう。まあそれはよい。どのみちこうなっただろうから。

 一方の小憎い松下蔵人は、いつの間にやらいなくなっていて、気づけばなんと当主・直平を連れて戻ってきていた。要領がいいというか。それがどうにも癪に障る。


 押込はもう半月になる。

 その間、彼はこうして同じことを堂々巡りで考えるばかりだった。

 なにしろ、外の様子が全然わからないのだから仕方がない。

 松下や彦次郎のことがあれほど気になったのも、結局は彼らが仕入れてくる噂が気になってしょうがなく、そして、己よりも彼らが情勢に通じているのが鬱陶しかった、ということなのだろう。

 瞑想する和泉守が殊勝にも自己を省みているのは、実のところ不安から目を背けるためだった。

 その不安とは、まさに「もう今川はダメなのではないか」というものである。

 今川家はどうなったのか。知りたい。早く外に出たい。

 いっそ、抜けて駿府に参るか。

 井伊氏は今川氏とは長らく対立してきて、永正年間にも敵対した。

 だからこそ我ら父子は両家をつなぐ取次として井伊氏の立場をよくしようと励んできたのに、家中には我らを悪し様に言い今川への敵意を捨てぬ厄介者ばかり。

 いまこそ井伊氏の叛意を報せ、せめて我らへの今川新当主の覚えをよくせねば。

 掛川の瀬名殿・朝比奈殿(泰能)には大軍勢でもって湖北に出馬を願い、あの頑愚どもの頭を押さえつけてもらわねばならぬ!


「よし、決めた!」

「何を決めたのじゃ。」


 よもや己の声に返事があるとは思わなかった和泉守が驚いて部屋の入口を見ると、井伊直平が入ってくるところだった。


「殿!もしや押込は終いにございまするか!?」

「おぬしが籠っておる間に当家は去就を定めた。」


 直平は和泉守の問いには答えず、重々しく言った。

 和泉守はその物言いに不安を覚え、さらに質問しようと口を開きかける。

 しかし、直平の後から父が部屋に入ってくるのを見るや、出かかっていた言葉は引っ込んだ。

 父はずいぶん憔悴した様子であった。和泉守はそれに驚き心配したが、それとともに、直平の言う「去就」がどういうものなのかをたちまちに悟った。

 そして、「よくて自害」と覚悟すると、さっき出かかった言葉を固い声音で発しようとした。


「では、我らは――」

「いや、おぬしらはこの地を去ればそれでよい。その後は掛川なり引馬なり、好きにせよ。」


 しかし、直平はこれ以上の問答を嫌ったか、有無を言わせず言葉をかぶせる。

 もはや己にできることはないと理解した和泉守は、父に促されて部屋を後にした。

 かくして、小野父子は僅かな手勢を連れて南へと落ち延び、井伊家は鈴木家に降伏した。


 ◇


 小野和泉守が謹慎していた半月の間には、遠江情勢は目まぐるしく変化していた。


「伊豆守、覚悟ッ!」


 最初に暴発したのは、掛川の遠征軍に属していた甲斐国人・長坂何某であった。

 長坂氏は享禄年間の甲斐併合に際して栗原伊豆守信重の家臣となっていた。

 この栗原は、武田信虎の股肱の臣・曽根縄長をどさくさに紛れて討ち取って、その後はこの戦功で大いに勢力を伸ばし、親今川の立場で権力を強化しているところだった。

 そうして配下扱いとなった長坂氏だが、もとは栗原氏と同族で上下差もなかったところ、今回の三河遠征に加わる中で軍事的な序列が嫌でも明瞭となり、それに耐えられなくなったのだ。


 しかも、掛川の今川軍の雰囲気はこのころ非常に悪化していた。

 駿府の凶事については、町が燃え近くで兵がぶつかり合うとなれば人の口を閉ざしておくことなどできず、噂は遠江の将兵にも届いていた。

 重ねて甲斐今川家の謀反と甲斐国人の駿河侵寇が知られると、遠征軍中の甲斐兵に対する視線は当然厳しくなり、にわかに空気は張り詰めた。


 こうした緊張に加え、引馬や掛川はもともと難民問題も抱えていた。

 元来、鈴木重勝は、掠奪で脅して西遠江の人間を追いやり、これを東遠江で今川家に保護させることで、兵站に負担をかける算段だった。

 とはいえ深刻なのは、兵糧そのものよりも、もっと別のことだった。

 着の身着のままで逃げてきた彼らは衣食住の衣も住も足りず、冬の寒空の下で野宿を強いられ、凍死者が出ていた。その不満は推して知るべしである。

 さらに、今川家としてはこれを支援するつもりはあれど、そのための物資は遠征軍のものを分けることになるから、将兵の不満の種になっていた。

 その将兵は、出たり引っ込んだりの鈴木家相手ではまともな合戦もない。

 尾張・美濃・伊勢に不安を抱える鈴木家は、遠江で多くの占領地を得ても西方の守備兵を減らしてまで確保しておくつもりはないから、略奪してすぐに撤退してしまう。

 領国を荒らされているだけでも業腹なのに、力を発揮できないままの今川将兵が苛立ちを抱えて帰城すれば、陣地は治安も衛生状態も悪く、腹いっぱいの飯が待っているのでもない。


 そんな中での刃傷沙汰である。

 長坂氏はこうした雰囲気にあてられて常にイライラを感じていたが、あるときカッとなって栗原伊豆守を切ってしまった。

 その行動には、目下の情勢に絡んだ甲斐国衆としての主義主張はこれっぽっちもかかわっていなかったが、こうなってしまうと規律の崩壊は早かった。

 「甲斐勢が不穏だ」というなんとなしの不安は、この事件により――実態はどうあれ――現実のものとなった。これではすぐにも内々で相争うことになるだろう。


 そういう空気をいち早く察したのは、遠征軍に加わっていた甲斐国人・板垣信方。

 板垣は甲駿合併時に所領を大幅に削られて不満を持っており、遠征軍上層部が甲斐衆の暴発を危惧して長坂氏の処罰をためらううちに、彼らを連れて出奔した。

 林野に潜む板垣・長坂勢は、やがて蜂起した堀越氏に合流する。そして、鈴木家に仕える長坂一族の左衛門尉を頼って使者を出し、援軍を要請した。

 こうした甲斐の武将の動きに、「甲斐兵まで暴れては困る」とやむなく総大将・瀬名陸奥守と掛川守将・朝比奈泰能は、掛川に残っていた甲斐衆の物頭・市川何某らを粛清。武力と恐怖で兵を威圧し、規律の回復に努めた。


 ◇


 井伊家を追放され、ひとまず湖の東岸を南下する小野父子。

 道中、兵庫助は息子に状況を説明した。


「堀越のもとには甲斐兵が逃げ込み、鈴木に後詰を求めておるとか。宇津山の朝比奈はすでに降っておったらしく、湖の西に貯めてあった兵糧は奪われたらしい。」

「なんと、それがしが籠っておる間に、そんなことに。」


 掛川とは別に、浜名湖西岸の情勢も急変していた。

 かの地には宇津山城を守る朝比奈紀伊守がいた。彼の兄は十郎左衛門というが、これはまさしく重勝嫡男・鈴木勝太郎の亡骸とともに駿府から落ち延びてきた朝比奈十郎左衛門のことである。紀伊守は兄の執り成しを受けて鞍替えしたのだ。

 そうであれば、と鈴木家は浜名湖西岸に本格進出。占領地の慰撫のために今川軍の兵站基地たる妙立寺砦を暴いて、残っていた住民に対し掠奪の詫びとして兵糧をばらまいた。

 こうなると湖西からの難民は、一転、帰郷して鈴木家の支配を受け入れるのを考え始める。


 また、鈴木家に囚われる各和・庵原・鵜殿ら将兵の請戻しを今川家が渋っていることから、「今川家は略取された者たちを助ける気はないだろう」というような誤解も生じていた。

 鈴木家がさらに東進すれば、次に荒らされるのは浜名湖東岸。かの地出身の土豪や農民は、もし親族が攫われでもしたら誰の保護も得られないと怯えていた。

 こうなっては自力で財産や家族を守るか、諦めて鈴木家に従うか。

 いずれにせよ帰村するのが第一。

 おあつらえ向けに城の周りにはどこの誰とも知れない難民がたむろしているから、これに紛れて陣を抜け出すのは容易かった。


「かくなっては、あるいは天竜川より西はだめかもしれぬ……。」

「そんなことはおっしゃいますな、父上!まだ大沢殿や飯尾殿がおられまする。ただ、大沢殿の堀江城は湖に突き出た先にあれば守りにはよかれども、陸地の根本を塞がれてしまえば攻めには向きませぬ。我らとしては飯尾殿に合力し、掛川が持ち直すまで、西に北にと戦うばかりにござる!」

「ううむ、しかし……。」


 小野和泉守は煮え切らない様子の父を励まし、ともに引馬を目指す。

 城の周りにたむろする難民か兵かよくわからない者たちの間を抜けて城に至る。

 敵兵が近くにいるでもないのに、城門は固く閉ざされていた。


「開門願いたし!我らは井伊谷より参った小野兵庫助と和泉守なり!」

「井伊谷の小野殿か、承った。しばしお待ちくだされ!」


 門兵の応答があって、父子はしばらく待つが、なかなか招き入れられない。

 父子が不審を覚え始めたころ、将らしき者が門の向こうから声をかけてきた。


「それがしは飯尾家中、森川日向守と申す。城内は病が流行っており申して、お立ち寄りにならぬがよかろうと飯尾様も仰せにござる。面も見せずに無礼千万まことかたじけなくてござるが、重ねて御無礼なれど、少し井伊谷のこと伺いたい。」


 なんとも胡散臭い内容である。

 父子は額のみならず眉根を寄せて相談する。


「疫病とな。なるほど、城外の者どもの集うを見ればさもありなんと思わるるが。」

「しかし入城も拒むとは穏やかにありませぬ。そのうえ、井伊谷のことを知りたがるのもいかなる思惑によるのやら、なんとも怪しくてありまする。」

「よもや内応か?」


 父の懸念を受けて息子・和泉守は機転を利かせて森川に問いかける。


「さても天野殿は息災か?」


 天野氏は奥遠江の秋葉城から鈴木氏に追われて移ってきた者たちのことで、現当主が宮内右衛門尉、弟が小四郎、嫡男が与四郎、叔父が孫四郎である。


「天野殿は、病を得て臥せっておりまする。」

「そは、宮内右衛門尉殿なるか?小四郎殿は?」

「いかにも宮内殿なり。小四郎殿は、ええと、小四郎殿もそうでござる。」

「ふうむ。されど、病でも文くらいは書けよう?我らは宮内右衛門尉殿に伝えねばならぬことがあるで、取次願いたい。返書を井伊信濃守様に運ばねばならぬで。」

「ああ。いや、文か。であらば、ううむ……。」


 これだけの問答であったが、城内でなにかおかしなことが起きていて、門の向こうの者が何かを隠していることを父子が確信するには十分であった。

 彼らはしどろもどろの相手を無視して、音を立てずに手勢を連れて引馬を後にした。

 目指すは大沢基相の守る堀江城である。

【メモ】「河府」は前話の鈴木勝太郎の遺言にも出てきます。これは当時の駿河の禅僧の間で使用されていた表現だそうです。重勝は文通で、勝太郎は教育で、九英承菊から影響を受けたことを示します。「犯分乱理」が『荀子』性悪篇の言葉で、王者・覇者云々は王覇篇の影響を受けたということです。

【史実】甲斐では天文3-6 (1534-1537)年に毎年疫病があったようです。堀越父子は1536年の今川義元と玄広恵探の間の家督争い(花倉の乱)から北条氏の東駿河侵入まで、反今川家で反乱します。後者には井伊氏も加担したようです。それに関連してか、瀬名陸奥守の子も今川義元から疑念を持たれ所領を削られます。井伊直平の次男(本話に出てくる彦次郎)・三男は反今川の動きがあると小野和泉守に密告されて1544年に今川義元に自害させられます。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 手練手管を駆使して少しづつ勢力拡大する展開や苦労が丁寧に描かれているのがいつもながら素晴らしく、楽しんで拝読させていただいています。 とはいえ庄内川から遠江まで制圧し、かつ安定的に運営出来…
[一言] はじまりましたねー 仲介できそうな勢力がないから今川滅亡一直線かな まぁ北条と隣接するとめんどくさそうって感じで雑にボロボロの領土だけ残されるかもですが 甲斐も上杉と隣接するの面倒だから信玄…
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