第136話 1535年「字余り」
三河の鷹見新城で人質団や駿府朝比奈家、大井夫人らを出迎えた鈴木重勝。
重勝は彼らとの挨拶もそこそこに、涙と鼻水にまみれた阿寺平八を奥殿に通し、息子の亡骸と対面する。
平八の嗚咽でつっかえつっかえの息子の死に際の話を聞きながら、重勝は毒のせいか赤い斑紋で覆われた息子の首の周りに触れた。
「平八、よくぞ勝太郎を連れ帰ってくれた。礼を言う。」
手に返ってくるはずのぬくもりがないのを、重勝はそうしてただ感じていた。
正室の松平久は重勝のもう一方の手にそっと手を伸ばし、側室の奥平もとは、事情をよく分かっていない娘・松子と久の子・松平竹千代を両手に抱いて号泣している。
「3年としばらくぶりか。こんなに身の丈は大きかったか。もはや子供とは言えぬな。」
重勝の記憶の中の息子はまだ子供だった。
成長期を迎えた息子が知らぬ間に伸ばした背丈の分だけ、自らが我が子の大事な時期を蔑ろにしてしまったという事実が眼前に突き付けられるようである。
彼はもう二度とその足で地に立つことはない。横に並んで背を比べることもできない。
「そばにいてやれぬで――」
しかし、その先に続くはずの安易な詫びの言葉はついぞ出てこなかった。
そして、間を空けて告白が続いた。
「……見捨てるつもりがなかったとは言えぬ。あそこで遠江を喰わねば三河は時の流れに埋もれてしまっておったであろう。これに抗いてなお吾子を救うほどには、それがしは強くなかった。」
「強い」という重勝の言葉に、久はびくりと身を震わせた。
「否、我が子への愛と心中の野心との相反するに、結局は我欲の勝ったということやもしれぬ。なんとあさましくふがいなきことか……。」
その言葉に久はいよいよ堪え切れず、目から大粒の涙をこぼし、夫の手を強く握った。
重勝が我欲と述べるその野心もまた、領国に住まう人々を案じる思いからくるものだということを彼女は知っている。
そして同時に、息子の命に対して責めを負おうとする夫の気持ちも彼女は身に染みてわかった。
彼女もまた、かつて夫に強くあるように促し、その結果、彼の退路を断ってしまったかのような自責の念を覚えていたから。
しかし、畢竟、気持ちは当人の心の問題。
分かち合ったつもりになって満足するのは己だけ。
わかった風なことを伝えれば、ましてや己の不明を詫びれば、夫はきっと「大丈夫だ、そんなことはない」と言ってくるだろう。それではいけないのだ。
◇
どれほどの時間がたったか。
すっかり鼻水も乾いた阿寺平八は「そういえば」と言って、文らしきものを重勝に差し出す。
「瑞宝丸の懐にあったで。中は見ておらぬが。」
律儀な平八にかすれた声で礼を言って、重勝は文を受け取り懸紙をはがす。
中からは2つの書き物が出てきた。
己のものに似た楷書で書かれた漢文体の文章を何度も何度も読み返す。
泣き続けていた奥平もとも涙が枯れたか、今やあたりは静けさに包まれている。
するとそこへ、どたどたと聞きなれた若者の足音が床板を伝って響いてきた。
◇
兄者が死んだだと!?
鈴木重勝の次男・順天丸は、重勝異父弟で実質は順天丸の舎弟である興津紅葉丸と、久の連れ子で護衛役の松平親乗を引き連れて、父のもとへ向かおうとしていた。
「いいから、修理も来るのだ!」
「しかし……。」
順天丸の傅役のような立場の鷹見修理亮は、勝太郎のもとへ向かうのを渋っていた。
勝太郎を迎える場には家族しか集まっていないというので、遠慮があるようだ。
しかし順天丸は、父にとって鷹見は家族のようなものだと思っていたから、その手を引いて強引に連れて行く。
「修理殿、後のことはそれがしがみておきましょう。今は若殿にお会いになってはいかがですか。」
順天丸のもうひとりの傅役・酒井将監忠尚もそう言って促し、順天丸と修理は連れ立って重勝と勝太郎のもとへ向かった。
「父上!」
部屋に入ると、平八と妻2人そして息子と娘に囲まれるようにして父が何やら文らしきものを読んでいた。
「父上!かようなときも仕事にござるか!文など読んでおらんで、兄者を見なされ!」
しかし、すかさず鷹見に拳骨を落とされる。
「順天丸か。」
父が青白い顔でこちらを見た。
近頃は面と向かって話すこともほぼなかったが、父はこんなに弱そうだったか。
「これはな、勝太郎からの最後の便りよ。」
そう言われて順天丸は己の先の言葉は大きな過ちだったと知る。
どうしよう。謝らなければ。
「これはおぬしが大事にせよ。おぬしに宛てたものだ。」
そういって父は手に持った文をこちらに向ける。
次弟は「悪いことを言った」と小声で言いながら兄の手紙を受け取る。
父は苦笑して「それがしは仕事ばかりであるからな」と言った。
順天丸はその言葉になぜだか涙があふれてきたが、袖で目を強くこすって、滲む視界で手元の紙を見やった。
文は2通あった。
1つは紙1枚だけ。もう1つは数枚を束ねた冊子のようになっていた。
「そは辞世よ。予め残しておくとは……。まこと、それがしはこの子を不幸に置いてしもうた。」
重勝が1枚の紙を持つ順天丸に弱々しく悔いて言う。
鷹見や酒井は口を酸っぱくして順天丸に対し、重勝が勝太郎を送り出した心境や身柄回収の試みについて諭していた。
ゆえに、順天丸もかつてほどには父が兄を手放したことを悪く思ってはいなかったが、やはりこれを認めるという気持ちには至ってはおらず、何とも言いかねた。
父も答えを求めているわけでもなく、その悲しそうな声音を心配した幼い松子がよたよたと寄ってくるのをあやしている。
それを見た彼は兄の辞世の句に目をやった。
「世は火宅、残る父乙ゆくえなし。破りて先に大道こそあれ。」
よく意味がわからなくて困惑する息子に、父は優しく叱る。
「言うたであろう。よく学んでおかねば、こういうときに困るぞ、とな。まあよい――」
父の説明した意味は、なかなかに苛烈な内容だった。
炎に呑まれた家(現世)に残る父と弟には前途がないが、それを打ち破った先に大道がある。
内容はもとより、言葉の結びつきがとげとげしいところも、字余りで終わるところも、激しいところがなく規律を重んじる性情の勝太郎にしては異質である。
「勝太郎の心のうちには、かばかり猛きものがあったか。かくも強く将来を思っておったとは、それがしはただその表を見てわかったつもりになっておったか。」
重勝は勝太郎の内心に閉じ込められていた未来に向けた激情を感じ取っていた。
駿府に不本意に留め置かれ、それでも先の世に思いをはせつつ、己の不意の死に備えて辞世の句を残していた息子。重勝は己の所業がどれほど責められるべきものなのかを痛感していた。
順天丸にそんな父の内心はわからない。しかし、ともすれば他人事に聞こえるように言う父を責める気にはなれなかった。その姿があたかも空蝉のようであったから。
「天文三年四月十五日、駿州朝比奈丹波亭、穂積朝臣輝重。曾在参州始書之、不了而不達舎弟。今寓居於河府、就其正統儀、縦令小人難察之也、改執筆。」
どうしようもなく、視線を冊子に移した順天丸。
その冒頭は名乗りに日付にとなんとも仰々しく、しかも「正統の儀」を論ずるのだ、と始まった文に彼は「これは厄介だぞ」と顔をしかめた。しかし、兄の言葉をゆっくりと丁寧に読み進めていく。
「父より『無聊のともに』と持たされた『神皇正統記』を読んだ。舎弟は読んでいないだろうから、必ず自ら読むように。ここには公武の狭間、天下移ろいの理が記されている。」
次には几帳面な角ばった文字で、順天丸に対する小言が続けられていた。
「そうよ、小難しく面倒。兄上はかような御人であった。」
順天丸にとっての兄とはそういう人だった。
父が順天丸にとやかく言わない分を己が補っているつもりだったのか。
もっとも次弟はそういう兄を尊敬し、自分は智の兄に仕えて武を担うのだと思っていた。
これはその兄からの最後の小言。
気になるのか、後ろから覗き込んでいるらしい鷹見修理の鼻息がさっきから右耳をくすぐるが、それも意識の外に消えていく。
順天丸はぽたぽたと落ちる涙で紙をぬらしながら、しかし食い入るように、そしてやがては雑念も忘れてその文章にのめり込んでいった。
◇
勝太郎は、くだんの史書に記された様々な出来事の中で承久の乱に関心を寄せていた。
彼の見立てでは、世の乱れを座視していたかつての朝廷は今の室町将軍に重なり、乱世で兵権をとって三河から善政を広げていく父・重勝はひとりで北条義時・泰時の両方に重なる。
この義時、朝廷に代わって乱世を終わらせた源頼朝とその後継が絶えると政を担い、ゆえなく朝廷から追討の対象とされたが、その地位は人望に背くものではなかったため順当に勝利した。
後を継いだ泰時は徳政に努め、法式(御成敗式目)を固め、よく己の分を量った名君であった。
翻って今代。
父・重勝は国主なき三河を武を以て平らかにし、後には徳を以て治める。かつては故・今川大君を立て、みだりに高位を求めず、法治に努めた。
なるほど、父は室町よりも堺の足利公を奉る。しかし、彼は次の大樹となるべき御仁。そのことは朝廷から正しく認められている。
いま父が室町と今川から追討の憂き目にあうのは、まさしく北畠親房卿の書きたる「一往のいはれ」によるもの。すなわち、放置していた三河やそのほかの地を父が平らげたから、後になってこれを還付せよといっているのである。
これは追討に値する咎とは全く言えない。
先の世にあっては、同じく憂き目にあった義時公は天の佑けを得た。
ゆえに当家も同じく私心なく天命に従い、徳政を行い続けて時期を待てば、室町が天に反する振る舞いを続けるほどに人望が集まり、天下の機運が満ちて正道が開ける。
かくして当家は東海に覇を唱え、堺の足利公の大樹となりし世においては正しき太守となり、やがては将軍を支えて天に従い治国の任を全うするのである。
そして最後の最後に勝太郎の遺訓があった。
まさに父を敬うべし。
篤く学を尊べ。
人を明らかに察よ。
高く立ち遠く達れ。
而して心身堅固にしかず。
順天丸の涙はいつのまにか引っ込んでいた。
その耳のうちには力強く兄の声が響いている。
その声に否応なく鼓舞され、彼の頬は上気し赤らんでいた。
◇
重勝は息子を見ながら、その頭から湯気があがっているかのように思って苦笑した。
次男も長男から若者特有の何かを移されてかぶれたらしい。
その何かの持つ熱量を重勝もよく承知してはいるものの、それを注がれても、己の心は底に穴でも開いているのか、うんともすんとも言わない。
なにしろ息子の死を前にしても頭とは別に心は全然なのだ。
もうだいぶ前から――おそらくは当主の責務をいったん放り出してしばらく過ごしたころから――そうだったのだろう。
それでも何とか家を保ち、妻子・家臣・領民に不自由させまいと頑張ってきた。
いや、そうではない。
義弟(鈴木重直)に当主を代わってもらっていた間、重勝は心身に何らかの不慮が生じるのに備えて、鷹見修理亮と酒井将監を中心に家督交代の準備をさせていた。
その中で生まれてきたのがある種の希望。
すなわち「交代まで頑張れば解放される」という希望。
おそらく、己にとっての最後の心の支えがこれだったのだ。
励んでも終わりもなく次々襲い来る難事。
互いにわかり合えない相手と定まらない世情。
そして、次々と世を去っていく家族や友人。
そのような苦しい現世からの出口。重勝はそれを求めていたのだ。
それでも彼が当主の座を早々に放棄しなかったのは理由があった。
その重責を愛する息子に引き継がせることに大きな抵抗を感じていたのだ。
しかし、兄の遺言を読み終えた弟は、決意に満ちた目で父を見やる。
父はその言わんとするところを悟り、弱々しく微笑みながらこれを手招きし、相対して座らせるとその手を優しくとった。
「はたして東海太守の地位の、喪われた尊き命に見合うかどうか。愛息の命に代えて得たる覇者の号をわがものとするは何とも虚しく、我利の極みとも見え、忸怩するに堪えず。」
重勝は、それとともに、勝太郎の書にあったように自分が徳政だけをしてきたのではないことが気にかかっていた。
己はずいぶんと悪辣なことにも手を染めてきた。仁徳に反するとわかっていても、それを行えば自家に有利になるというようなことは敢えて行ってきた。
そしてなお厄介なことに、彼はそれがために心を痛めるような人間であった。息子からの清廉な信頼を前にその身を恥じる。そういう道徳がある人間だった。
「むしろ、それがしと勝太郎とで相ともに残すものとして、その号は我らの愛するおぬしにこそにふさわしかろう。そしてまた、今度こそは己が身を賭して息を助けんと思うところよ。」
次子が引き継いでしまうかもしれない苦しみを思って悩みをにじませながら言う父の言葉に、順天丸は頭が沸騰していて考えがまとまらず、返事ができない。
顔を真っ赤にして歯を食いしばり再び泣き出した息子を重勝は優しく抱きしめ、久しぶりに触れたその背中をトントンと叩く。
「勝太郎はよくわかっておる。大事なのは天運、『時』なのだ。おぬしが当主となるならば、まずは元服ぞ。今年で14か。それがしは12、勝太郎は13で元服したのだ。これもまた天の定めたる順なるか。」
順天丸は父にしがみつき、いよいよ大声で泣いた。
◇
鈴木順天丸。天文4年2月吉日に元服し、甚三郎重時を名乗る。
1歳上の興津紅葉丸は正式に弟となって一緒に元服し、勝三郎時綱を名乗る。
その重時は何のつもりか元服式で烏帽子親たるべき父の手から烏帽子をひょいと取って自ら被った。
これを見た鷹見修理亮は眼をクワと見開いて今にも打擲するばかりの気迫だったが、重勝は久々に呵々と笑って「やめだやめだ」と言い、適当に式を切り上げ、面々は酒盛りに突入した。
翌朝、重時が床板の冷たさに起きると、己は狭い部屋に押し込められて雑に布団をかけられていた。そして、隣には大口を開けて寝ている父の姿があった。
重時は父の隣でもうひと眠りしようかと思ったが、己にかけられていた布団をさらに父にかけてやって、小部屋を後にした。
【メモ】鈴木勝太郎の書き物に出てくる「河府」は駿府を指す言葉で、このころの駿河の禅僧の間で使用されていたそうです。勝太郎が九英承菊の教育をきちんと受けていたことを示します。
松平久のところの強さ云々は第117話。重勝が家督交代の準備をしていたことに対する酒井の微妙な反応は第111話。重勝の「言うたであろう」発言関連は第76話。鈴木勝太郎(瑞宝丸)が弟に手紙を残そうとしてそのままになっていた描写は第100話です。
なお、『神皇正統記』に関することは以前の加筆で第130話でも少し触れています。また、第131話で織田信秀が今川の年始の変事と言っていたのはこの一連の騒動で、重勝は嫡男との死別の後に織田信友の挨拶を受けました。




