第135話 1535年「枇杷の恩」
「若様!お気をしっかり!」
家老・安藤太郎左衛門家重に励まされつつ鈴木勝太郎は今川館から祖父・朝比奈丹波守俊永の屋敷に帰ってきた。
勝太郎はもともと体調がすぐれず、成人したとはいえ齢20、30の者に比べて体ができていない。同じ量の毒を喰らっても症状が重かった。
いまにも意識を手放しそうな勝太郎に、諸将が必死で呼びかける中、事情を知らない朝比奈はただただうろたえるばかり。
「何ごとぞ!おお、おお、勝太郎!どうしたというのだ!?」
「(朝比奈)丹波殿、今川館で毒を盛られ申した!新当主(今川彦五郎)も毒を受けたかに見え申したほどに、今川家中のうち、いよいよ焦れて苛立ち堪え切れぬ者らの無道に走りたるのやもしれませぬ!」
「なにっ!?彦五郎様も!?いや、それよりも……、ついにか。いたし方あるまい、逃ぐるぞ!」
安藤は、朝比奈が即座に一緒に逃げる判断をしたことに彼の真心を見て、不安や恐怖に押しつぶされそうな中でわずかばかりの安らぎを得て涙ぐんだ。
◇
虫の息の勝太郎の看護を朝比奈家の女衆がするうちに、彼の付き人として同じく今川館で毒を受けた重臣・大畑定近の嫡男・七右衛門政近が先に逝った。
安藤は、留守居だったもう1人の家老・坂部外記勝宗とともに武装を整え、まだ息のある数人の中毒者を背負う分担を決め、持ち出せるだけの食糧や財物を集めて身に帯びた。
「逃ぐるというても、いずくへ?」
「ひとまずは北がよろしかろう。大井殿(大井夫人/瑞雲院)に力をお借りしてはいかが。」
坂部が誰にともなく発した問いかけに、答えたは駿河になじみの深い神谷喜左衛門宗利。
「大井殿か。熊野者(山伏)ともわたりがつくし、それがよいか。しかし、大井殿の宿りたる寺は瀬名の在所の目の前ぞ。」
「瀬名は当主と嫡男が掛川におるはず。館に残るは女房衆ばかりよ。」
「父上、お体の方は?」
そこに神谷の息子・五郎正利が割って入った。
父・喜左衛門は今川館で飲み食いをして少しだけ毒を受けたようだが、他の者に比べて軽症だった。
息子の心配に父が訝しげに答える。
「毒をあまり喰わなかったのかもしれぬ。はたして何に盛られていたのか……。」
◇
支度があらかた整ったのを見定めた朝比奈俊永が「皆の衆!」と人々に声をかけた。
屋敷を出て、北を目指す一行。
数十人の大所帯がうろうろしていれば嫌でも目に付く。
獲物を見つけた猛獣のごとく、鬼気迫る様子で駆けよってくる武者の一団。
松平党の石川忠成と渡辺氏綱らの手勢である。
「ちくしょう!今川の討手ぞ!」
「よいか、ゆめゆめ孫らを落とすでないぞ!」
安藤の悪態に、朝比奈の怒声がかぶさる。
足軽衆の数人は服毒した勝太郎らや大畑七右衛門の亡骸、そして朝比奈家の幼子を背負っている。
「丹波殿、いかがせん!」
「ここは儂に任せて落ちよ!儂の命は、今この時がためにとってあったのだ。」
「お供いたす!」
神谷喜左衛門など毒を受けても支障のない者たちが幾人か殿を買って出る。
残る残らぬの問答どころか、しみじみと別れを告げている時間もない。
朝比奈家の右衛門尉何某は女衆を先導していち早く逃げ出した。
◇
梶原山へ向けて急ぐ一行。
瀬名氏の館を左手に、その面前で右方に折れて光鏡院に入る。
そこで出迎えるは武田無人斎(信虎)の妻・大井夫人と子・大井信玄。
武者どもが荒っぽくお堂に入り、板間に背負っていた者たちを横たえる。
手拭いで口をふさがれていた幼子が解放され、その甲高い泣き声が諸人の心をけば立たせる。
喧騒の中、中毒者に呼び掛ける女衆のうちから「次郎兵衛が息をしておりませぬ!」と悲痛な声があがり、高い天井にこだました。
次郎兵衛は鈴木家古参の物頭・林光衡の嫡男である。
「何ごとです!」
大井夫人が叫んだ。
「違乱か、あるいは謀反のたぐいか。三河者への恨みの、ついに箍が外れたようだ。」
「落ち着いてくだされ。巻き込んで済まぬが、我らがここへ逃げ込むと知らるれば、大井の方々も危うくてござろう。我らはここで山伏を待ちてさらに山中に隠れる。ただそれまでお見逃しくだされ。」
矢継ぎ早に安藤と坂部に言われて夫人はさらに甲高く金切り声をあげる。
「お待ちなさい!いっぺんにそう言われましても!なんですか、謀反!?そなたらがですか!?」
「いや違う。我らが襲われたのだ。」
「母上、遠江のことがあって恨みを買っておった三河衆が害されたということかと。」
信玄が口をはさんだ。
坂部はそれに同意する。
「左様。我らは今川館で毒を盛られ、先には松平に攻めかけられ申した。瀬名亭には女房衆しかおらぬほどに、かえってこちらに逃ぐる方が兵がおらぬと思うてな。」
「ともかく、熊野の者らはおりませぬかな?早くに話が付けば、それだけ早くに我らは去りまする。ご夫人らが留まりなさるならば、今川方から我らの一味と見られぬ方がよいでしょう。そのためにも、我らの早く去るを手助け下され。」
畳みかける安藤に、大井夫人は「いまはともかく修験者を呼び出すのが大事」とうろたえながらも理解して、懐柔してある寺の僧侶を呼びつける。
坂部は勝太郎のそばに戻って意識の有無を確かめ、水を飲ませ始めた。
◇
「外記……。」
山伏らを待つうちに、半ば意識を失っていた勝太郎が少し息を吹き返し、ほとんど吐息のような声で坂部外記に呼びかけた。
「皆の者!静かにせよ!――おお、若様、おいたわしや。」
坂部は周囲を黙らせると、手巾で優しく吐瀉物を拭いとる。
「ここは……。」
「瀬名郷の寺にございまする。もう少しご辛抱くだされ。なんとか三河に――」
「それは無理ぞ。この身はもう……。」
朝比奈家と鈴木人質団の面々がさめざめと泣き始める。
その後ろで、駿河育ちで鈴木本国勢とは少々心に隔たりのある神谷五郎は、お堂の入り口をしきりに見ている朝比奈右衛門尉に声を殺して話しかけた。
右衛門尉は瀬名館から兵が攻め込んで来るのではないか気にしているのだろう。
「父と(朝比奈)丹波殿は――」
しかし、右衛門尉は答えず、五郎が父を探しに戻るとでも思ったのか、首を横に振りながら彼の肩をつかんで引き留めた。
そんな2人に大井夫人の息子である信玄が近づいてきて同じく小声で尋ねる。
「かような時にすまぬが、先に坂部殿は『毒は今川館で』と言われたか。」
「いかにも。御屋形様も毒にあたったようなれど、我らはただちに館を去ったゆえ仔細不明なり。」
朝比奈右衛門尉が端的に答えた。
それを聞く信玄は母親の元に戻るも思案に耽るようである。
神谷五郎と右衛門尉がその背を目で追っていた僅かの間に、境内に踏み入る者らの鎧がガチャガチャと音を立てるのが聞こえて、2人は刀を抜いて振り返る。
「待たれよ待たれよ!右衛門!それがし、十郎左衛門ぞ!」
「なにっ!?そこに連れたる者は誰ぞ!」
「こちらは矢部家の方々だ!我らは助けに来たのだ!そう殺気立つな!」
やってきたのは朝比奈十郎左衛門親孝。
遠江宇津山を守る朝比奈氏の一族で駿府在番だったが、混乱する今川館を抜けて来ていた。
「それがし、矢部将監と申す。これなるは一族の美濃守。この者、瀬名陸奥殿のもとで代官を務めておって館で鈴木家の方々を見かけ、それがしに一報よこした次第。」
「矢部将監?」
「聞き覚えあろうかな?お忘れかな?いずれにせよ、心当たりありても、それは我が亡父にござる。」
もったいぶって間をとり、神谷五郎と朝比奈右衛門尉が落ち着くのを見計らって矢部は続ける。
「父は先の御屋形様(今川氏輝/義輝)より甲斐攻めに当たり三河への使者の務めを仰せつかった。そのとき貴家にて真心ある待遇を受けたとかで、遺言に『枇杷の恩を返せ』とあり申してな。」
「ほう、左様なことが。」
「うむ。生前、父は三河と駿河のいかでか心合わせられぬかと憂いておられたが……。」
父の姿を思い浮かべたか、どこともなしに視線をやった矢部は首を振る。
そして、瞑目し眉間にしわを寄せて言う。
「こたびの仕儀、我らの詫びたところで、とも思わるれば、余計なことは言うまい。されども、瀬名館のことは気にせんでよいとだけ。」
「まこと、かたじけない。」
「支度が整いたる後には、安倍川を渡りて久住山の洞慶院に行かれるとよかろう。」
矢部は「かの寺の者にはこれを見せよ」と言って書状を渡してきた。
一方の朝比奈十郎左衛門は鈴木勢に同道するつもりらしく先導役を買って出る。
「先には小瀬戸の古城、また我らが在所(朝比奈郷)もあるで、まずはそこまで。」
◇
「何を考えておるのですか!甲斐へ戻るなどと!」
鈴木家・駿河朝比奈家が光鏡院の僧侶に大畑七右衛門と林次郎兵衛尉ら毒で死去した者たちの供養を頼む中、大井家では言い争いが起きていた。
「今川館で変事あり、新当主の身もどうなったかわからぬともなれば、甲斐は定めて荒れ申す。父上(武田信虎)がこの機を逃すはずもありますまい。ゆえにこそ、それがしの道も開けるというもの。」
「そうだとて、あのお方のもとに戻ってどうするのです!」
「そうではありませぬ。それがしは大井の西郡にて立つのです。」
夫人の弟・松月斎(大井常昭)は信玄の言葉に静かに頷く。
「無理です、兵もなしに!甲斐に入って集めんとでも!?」
「いかにも。甲斐に入って様子を見る。まずはそこからにございまする。」
「そんな……。うまくいかねば吾子の身は――」
「母上は鈴木と朝比奈の者らについて三河にお移りくだされ。」
「なっ!?母を置いていくのですか!?」
「甲斐に戻るにも、松月斎とわずかの者のみでは母上をお連れするはもとより困難。それに、母上が三河におらるれば、その縁で三河より兵を借り受くることもできましょう。」
大井夫人はなんとか息子と弟の翻意を願ったが、2人は何を言っても駄目だった。
この賢妻は、彼らの決意が固いとわかると目に涙をためて息子のそばへにじり寄り、手を伸ばす。息子とさほど歳の変わらぬ鈴木勝太郎の様子を見ていて、思うところがあるのだろう。
信玄も母の気持ちがわからぬわけもない。そのぬくもりを忘れてなるものかとばかりに、母の細身をきつく抱きしめ返した。
◇
人々の進むべき道が見えてきたところで、鈴木重勝旗揚げ時からの付き人で三駿間の連絡係を担ってきた阿寺平八と熊野御師・一乗坊が山間から姿を現した。
「ああっ!瑞宝丸!なんということかぁっ!!」
子のない平八は重勝の子を己の子供のように思って慈しんできた。
そのため、苦しげに呻く勝太郎を認めると駆け寄って、縋りつかんばかりに泣き崩れた。
薄れゆく意識でそれを見る勝太郎も「ああ、平八、平八」と声を詰まらせ呼びかける。
そしてもはや動かぬ体を横たえたまま、目じりから涙のしずくを零した。
「なしたることのいまだ何もないままに、この命、消ゆるというのか……。」
何の因果でかような責め苦を受けるか、人々は哀れな幼君の最期の声をかき消さぬように、息を殺してすすり泣く。
「無念、無念ぞ……。ちちうえ、はは、う――」
◇
勝太郎を三河に連れ帰ると言って聞かない阿寺平八は、亡骸を大切に己の着物でくるんで紐で体に括りつけて背負い、真冬の寒さの中、薄着で山中に入った。
息子との別れを惜しむ大井夫人を連れた鈴木・朝比奈勢は西へ西へと落ちていく。
やがて、かつて今川氏春(玄広恵探/武田氏信)も住した花倉の遍照光寺にたどり着いた。
朝比奈家には女子供も多く、ましてや客人の大井夫人も同行している。寒空の下、川を渡り山中を練り歩くのはこれ以上は厳しい。
やむなく海路で三河を目指すことになり、安藤と朝比奈十郎左衛門で相談して、鈴木家と水運関係で付き合いのある小川湊の長谷川氏を頼ることした。
「なんとも、かようなことになっておろうとは。」
駿府の町の炎上、駿府在番衆と松平・武田勢の戦、甲斐今川家の蜂起。
長谷川元長から情勢を伝え聞いた安藤は絶句した。
くたびれた様子の鈴木・朝比奈の者らを気の毒そうに眺めやりながら、長谷川は独り言ちる。
「それにしても、文明年間のご家督争いにては父(長谷川正宣)が亡き紹僖様(今川氏親)と北川殿(氏親母)とをお匿い申し上げたが、紹僖様もまた時の公方様に反するお立場にあられた。それがいま今川家中は分かれ、かように珍しき客人を迎えるとは、なんとも不思議であだなきことかな。」
長谷川は鈴木家・朝比奈家の面々をつくづくと見やって、各人の立場が巡り重なるさまに世の移ろいを感じながら、手下を動かして舟を用意させた。
かくして一月が終わる前に一行は三河の鈴木重勝のもとにたどり着くことができた。
【注意】矢部将監の枇杷云々は第85話です。彼は永正年間に活動の痕跡があり、1554年には同名人物が台風で亡くなった記録があるので、両者を別人父子と設定しました。瀬名郷で活動した矢部美濃守も実在しますが、彼ら矢部氏の親族関係は創作であり詳細不明です。




