第134話 1535年「栗金飩」◆
「これなるは、公方様のお口添えを賜りて講読のために逍遥院様(三条西実隆)より譲り受けた『御注孝経』の写しにございまする。」
今川館に集まった今川家新当主・彦五郎、吉良家嫡男・三郎、鈴木家嫡男・勝太郎を前に、九英承菊はそれがいかに素晴らしいことかを言い聞かせるようにゆったりと切り出した。
承菊は新当主・今川彦五郎の権威づけのために準備を重ねてきた。
読書始は将軍家の新年行事で、特別である。
先代・今川義輝(氏輝)が卒去した後、大いに気落ちし「友を喪った」と公言して憚らない将軍・足利義晴の好意に付け込んで、今川家があたかも将軍家に次ぐかのごとき扱いを諸々引き出したのだ。
おかげで義輝(氏輝)の異母弟で故・今川氏親次男である武田氏信(玄広恵探)を奉じて違乱を起こす者どもも現れなかった。
「鎌倉右大臣・源実朝公も元服して初めの新年に『孝経』をお読みになられました。愚禿が侍講を務めるなど、まことにおこがましくてございますれど、治部大輔様(彦五郎)のご栄達を祈念し、今日はこちらを読み合いたくてございまする。」
承菊は、息子についてきていた吉良家当主・左兵衛佐義堯の様子を誰にも気づかれない程度にちらりと伺った。
このような儀礼は吉良家を飛び越えて今川家を足利家と同等であるかのごとく扱うもので、いかにも僭越であるが、こういう序列にとりわけ敏感と思われる義堯は、しかし、満足げにすら見えた。
吉良家は三河からの上納が途絶えると鈴木家人質団との関係が悪化したこともあったが、彼らの扶持を今川家で負担するようになって落ち着きを見せていた。
しかし、先の幕府使者の来訪時には、自家の格を楯にするかのように歓待役を務めることを主張して譲らなかった。接待は数か月にわたり、三河との戦のさなかというのに連日遊興に耽り、倹約を強いられていた諸将の顰蹙を買っていた。
吉良家はその格の高さから実に扱いにくく、承菊としては着実に権威を削いでいきたいところである。彦五郎の元服関連の手配は、今川当主の権威を高め、吉良家を介さず足利将軍家と直接の結びつきを密にするための手段でもあった。
左衛門佐義堯は、近頃は、接待を名目に潤沢な財をほしいままにできて気をよくしていた。今回の催しの意味するところもよく理解せずに、鷹揚に流し見ているのだろうか。
内心でそう思いたがっているのか、あるいは義堯に対する言い知れぬ恐怖心からこの者に思いを向けたくないのか。承菊はそれ以上は考えるのをやめた。
◇
ひとまず安堵した承菊は、『孝経』の成り立ちやらなにやらを話したのち、天下を治める道たる修身の在り方について、孔子の言葉を丁寧にたどっていく。
天子は、親を愛するように万民を愛すべし。
諸侯は、上位者でも驕ることなく礼節を大事にせよ。
卿大夫は、徳行にかなわないことは敢えて行わない。
承菊はそれぞれを今川彦五郎、吉良三郎、鈴木勝太郎に向けて伝える気持ちで講釈を終えた。
いや、彼の念頭にはそれぞれの父である今川氏親、吉良義堯、鈴木重勝があるのだろう。
訓戒とも祈願ともとれるような彼の言葉は、はたしてどれほど伝わったのか。
承菊の苦手意識が認知をゆがめるのか、能面のような薄気味悪い笑顔を貼り付けた吉良義堯は、大いに感心した風にたびたび頷きながら承菊のもとへと近づいてきて言った。
「禅師の教えはここにある若人の蒙を啓き、銘々はやがて赫々たる名声を世に知らしめよう。」
「愚禿の言葉にそれほどの力はございませぬほどに、諸人が先々においてお三方を徳望すると相成りますれば、それは実に方々のよく身を修めたるがゆえと言うばかりでしょう。」
「ホホホホホ、言いよるのう。」
承菊が言葉の意味を測りかねるうちに、吉良義堯は「さてもさても」と言って手をこすり合わせながら人々に呼び掛ける。
「身を慎めとお叱りちょうだいしたばかりのところなれど、そうは言うても新年、そして元服の喜ばしき祝いのひととき。そこで、我ら吉良家より皆々に甘味を振る舞いたくてござる。さあさあ、召し上がれ。」
義堯が言い終えるや否や、女衆が栗金飩を運んできた。
義堯はにこやかに言う。
「彦五郎殿がたいそうお好みと聞いたがゆえに、たくさんこさえておるでのう。」
それを聞いた彦五郎は喜びで顔をほころばせたが、承菊は難しい顔をしている。
義堯は承菊の懸念を正しく読み取って答えた。
「もちろん御毒見をしてもろうて結構。当家でもすでにやっておるがな。いや、儂が今ここで喰ろうて進ぜよう。」
義堯はそう言うと、近くに置いていたお気に入りの若い侍女から皿をひったくって大口いっぱいに栗金飩を頬張った。
「これで儂が倒れねば、方々、存分に食するがよかろう。水飴をたっぷりと使うておるで、豪奢の味がしよるぞ。」
曲がりなりにも上位者の義堯にこうまでされては承菊も嫌とは言えない。
今川家からは急ぎ酒・煮昆布・酢味噌が振る舞われ、四半刻も過ぎて義堯の様子に変わりがないことから、栗金飩も食され始めた。
「甘い!左衛門佐殿、大儀!」
彦五郎が好物の栗金飩を用意してくれた義堯に自分なりにせいいっぱい感謝を伝えようとしたその言葉は、場を凍り付かせた。
元々、兄・今川義輝(氏輝)が健全ならば、ひとまずは奉行などの仕事を担うはずだった彦五郎は、当主たるにふさわしい教育をあまり受けていなかった。
その彼の口を突いて出てきた物言いは、家臣に対するかのごとくであり、そして、義堯はそのような言葉を向けてよい相手ではなかった。
「……ははあ!彦五郎殿にお喜びいただけて儂も満足にござるぞ!」
義堯は咄嗟のことで初めは口を開けてパクパクしたが、激昂することもなく取り繕った。
承菊は喉の奥にせり上がってきた焼き付くような酸っぱさを必死に飲み下しつつ、彼の思う義堯という人物にはあるまじきほど意外な振る舞いに、思わず合掌して拝んだ。
◇
瞬時にして殺気のごとき緊張に支配された空気は、なんとか弛緩していく。
しかしながら、しばらくすると今度は別の異変が生じ始めた。
最初におかしな振る舞いをしたのは鈴木勝太郎だった。
彼は吐き気を我慢するかのように口に手を当て、顔から血の気を失って震えはじめ、やがてこらえきれずにえずき始めたのだ。
承菊はそれが何を意味するかすぐに悟って、立ち上がって介抱しようと思ったが、下腹に力を込めて腰を持ち上げた瞬間、己が胃袋も大いに痙攣し、吐き気に支配されて動くに動けなくなった。
「毒!毒ぞ!御屋形様、いますぐ口の物を吐き出しなされ!」
彦五郎の側に控えていた関口刑部大輔氏縁が声を上げ、主君に食い物を吐き出すよう促しつつ、その背中を乱暴に叩いてすでに食べた分も吐かせようとしている。
とはいえ、背中を叩いただけで嘔吐するわけもない。
彦五郎は「痛い!痛い!」と泣きながら叫ぶ。
慌てて育児を終えたくらいの齢の女どもが寄ってきて関口を押しのけ、「吐きませ、御屋形様!」と言って胃のあたりを圧迫し始めた。
今川家新当主の様子を尻目に場は阿鼻叫喚。
勝太郎もいくらかすでに吐いたようだが、付家老の安藤太郎左衛門はそれよりも何よりもこの場にいることを好まず、彼の体を抱えて部屋から出ていくそぶりである。
毒はすべての皿に盛られていたのではないらしく、必ずしも全員がえずいているわけではない。
義堯は嘔吐する息子のそばでなんともなさそうであるし、今川家中の者も半分は元気そうだ。
義堯はひとしきり息子の嘔吐するのを見届けると、おもむろに懐刀を取り出し、そばでうろたえていたお気に入りの侍女の首を切り裂いた。
「まったく、どやつもこやつも……。毒見役はうぬの交わりたるかの男であったな。ちょうどよい、もろとも成敗してくれん。」
流血の噴き上がる中、いよいよ人々の混乱はとどまるところを知らない。
女どもの甲高い悲鳴を耳の奥で遠く聞きながら、吐瀉物にまみれ意識が薄れゆく承菊禅師の瞳には、義堯の顔に浮かんだ異相ばかりが強く焼き付いていた。
◇
「お目覚めになられ申した!」
若侍の低くも高くもない叫び声と慌ただしく床板を踏み鳴らす音が承菊の脳天を揺さぶる。
「彦五郎様は……。」
かすれた声で賢僧は第一に主君の心配をしたが、意識が戻ってくるとたちまち吐き気と腹痛にさいなまれ、彼は続いて「厠へ……」と弱々しく声を発した。
しかし、周りに誰もいないのか、彼の声が聞こえないのか、起き上がろうとしても体に力が入らない承菊禅師に手助けが入ることはなかった。
毒のせいか体の制御が効かずに、やむなく彼は粗相してしまうが、そこでようやく部屋の外にいた者たちが禅師の様子に気づいて介抱を始めた。
医師は、彼の脈が異様に早くなっており、命の灯が消えかかっていると述べた。
とはいえ、今の承菊には体を休めている余裕などない。
己のものでないかのように鈍く動かない体を気合で動かし、彼は状況の把握に努めた。
瀬名陸奥守の次男で鈴木家人質団の取次を務めていた若年の瀬名親永が説明する。
「彦五郎様は毒を受けておられなかったようにござれど、毒を吐かせようと腹と背をひどく押しましたほどに、具合を悪くしておられまする。毒は鴆毒にやあらんとのことで。」
鴆毒は万死の猛毒である。
それが己の体内に入ったとなれば、自分はもう長くない。
しかし、承菊はそれよりも何よりも大事なことを尋ねた。
「では、彦五郎様は?」
「御無事にございまする。」
ほっとした様子の承菊だが、瀬名の次男坊がその後に挙げていく中毒者の名を聞いて表情を曇らせた。
承菊が聞く限り、見境なく毒が盛られたようであった。
すでに数人が死んだとのことだが、それ以上に後に続く瀬名の言葉に承菊は気を引き締めた。
「吉良左衛門佐様は自家の毒見役とその女の仕業と見てこれを成敗したとの由。また、かの毒見役は三河譜代にして、水飴は松平の献上したる麦米から作ったとのことなれば、和尚様の臥したる間に諸人『松平討つべし』となり申して――」
「松平とな。」
「いかにも、左衛門佐様は松平のはかりごとと断じておられ申した。」
吉良左衛門佐義堯は、「鈴木の嫡男と己が嫡男が狙われたは、今川と三河の仲を後戻りできぬまでに引き裂き、三河との和睦を阻まんとしたがゆえ」と述べたという。
瀬名親永の説明に、しかしながら承菊は違和感が拭えない。
何に違和感を覚えているのか。はっきりしない頭で考えるうちに、瀬名の説明は先へ進んでしまう。
「されども、松平の手の者らは討伐の動きを早くも察して、いったん北へ逃げがてら朝比奈丹波殿の亭を襲い申した。また、甲斐衆の火付けして回り、今宿と葛山亭あたりが燃えておりまする。やつばらめは、そのうちに有東の無人斎(武田信虎)を拾うて、今は八幡山城に籠りておりまする。」
「待て待て。話についていかれぬ。」
承菊禅師が細かく聞き返しながら整理すると、彼が倒れている間の事の運びはどうやら次のようなものであるようだ。
読書始の後の宴席で毒が盛られると、鈴木家の人質たちは朝比奈俊永の家に逃げ込んだ。
ほどなくして吉良義堯が松平家討伐の声を上げると、年始の挨拶に来ていた駿河松平家中の石川忠成と渡辺氏綱はなぜかすぐにこれを知ったらしく、破れかぶれで仇敵たる鈴木家の嫡男の命を狙った。
渡辺と石川の父は松平家と鈴木家の和睦時に自害しており、駿河に移った者たちは10年にわたり鈴木家に対する恨みを忘れていなかった。
鈴木・朝比奈の手の者は町中で松平党と争うも、多くの中毒者や女子供を抱えており、亭主・朝比奈俊永と鈴木家の雑掌・神谷喜左衛門を殿に残し、数十が北の山方へ退散。
両名の首をとって復讐心を満たした松平勢は、福島彦太郎ら甲斐衆が放火した今川館南の今宿や南東の葛山亭あたりから立ち上る煙を追って仲間を見つけて合流し、東の八幡山城に押し寄せた。
その際には近くの有東の地で幽閉されていた武田無人斎(信虎)の身柄が回収され、籠城の旗頭に担がれた。このまま甲斐からの援軍を待つつもりなのだろう。
「討伐の兵を集めるべく、久野殿は掛川の父(瀬名陸奥守氏貞)のもとへ走り、一宮殿は安倍川の向こうのご領地に戻っておられまする。」
久野は掛川周辺に城を持っており、事情の説明と救援の要請に向かった。
一宮は駿府からすぐの安倍川西岸を守っており、そこから兵を寄こすという。
「館は三浦殿(上野介)、関口殿(氏縁)が守備しておりまするが、ともに毒を受けたる家人の少なくなく、また、町の火消しに人手をとられておるところ、少々心もとなく……。」
「町の火事は4年、いや5年前にもあるほどに、地下人(町人)にも心得ある者少なくあるまい。なんとかこれをうまく使いて――」
そこまで言って一際激しくえずいて苦しそうに胃液を吐いた承菊を見かねて、瀬名親永は彼の背をさすりながらこれを優しく押して横たえさせる。
「和尚様はいまは体を休めねばなりませぬ。久野・一宮のご両人がお戻りになれば万事つつがなく進みましょう。甲斐の援軍などと言うても、かの地には一心忠勤の方々がおりますれば、そう容易くいくわけがありますまい。」
◇
瀬名の見通しが甘いのは、その後に起きた出来事ですぐに明らかになった。
奥御殿で臥せっていた今川彦五郎義国が翌朝、遺体で見つかったのである。
死因は毒ではなく刀傷。奥にも間者が紛れ込んでいて、表が火消しに戦支度にと忙しない隙に、下手人が彦五郎を刺殺したようだ。姿を消したのは、女中と流れの唐人医だった。
吉良義堯の話を聞いた者たちが「毒は吉良家と鈴木家を狙ったもの」と早合点して「もう御屋形様は狙われまい」と内心で気を緩めていたせいもあるだろう。
しかし、事はそう簡単ではない。
互いに異なる様々な思惑が渦巻くとはいえ、今川家と鈴木家の間柄に限って言えば、結局は両家に和睦してほしいかほしくないかのどちらかに大別される。
その和睦してほしくない側の諸勢力が、己の行動が何をもたらすかわからないほどに互いに入り組んで密約を交わすうちに、何を目的とするか誰も知らない間者が入り込み、最悪の凶事をなしたのだ。
誰が何を目的に何をしようとしているのか。誰が誰に命じ、誰が誰の駒なのか。すべてを把握している者はいないのだ。
悪夢はそれで終わらない。
悲嘆にくれる駿府を余所に、甲斐では今川本家から遣わされている三浦元辰ら目付に対して、甲斐守護代で福島氏の血を引く武田氏信が家督相続を求めて反旗を翻し、今川の支配に不満のある甲斐国人らがこれに同心したのである。
彼らは年始の時点で今川本家における不意の代替わりを知り、彦五郎の家督相続を認めるつもりはさらさらなしに、戦支度を秘かに始めていたのだ。
親今川派からあっさりと鞍替えした穴山信友の先導で、福島弥四郎・篠原刑部少輔といった福島党、飯富虎昌ら甲斐国人衆の先発隊は富士川に沿って南下。
道中の住人・井出左近太郎は勢いに負けて謀反に加担し、甲駿国境を守る富士大宮司家の大宮城は甲斐勢に包囲された。
包囲の間、秋の収穫が思ったより少なく春の飢饉を懸念する甲斐勢は駿東郡を荒らし回る。
富士山東の深沢を領する松平家もこれに合流しようとしたが、かの地は親今川の北条家と小山田家に挟まれており、動くに動けない。
西で鈴木家を相手にしながら、当主を立て続けに二度も喪い、家督を主張して蜂起した甲斐今川家とこれに与する武田旧臣を相手に戦う。そんなことはとてもできはしない。
「甲斐兵、駿東へ乱入」の報で狂乱に陥った今川館では、彦五郎暗殺の下手人が誰の手引きで招き入れられたか責任のなすりつけ合いが始まり、駿府は守備すら満足にできなくなった。
この体たらくを前に、九英承菊は毒によりとめどなく流れ出る水下痢で袈裟のすそを汚し、顔には死相を浮かべながら、諸人を一喝して回った。
それでもなお安西三郎兵衛や朝比奈十郎左衛門ら姿をくらます者も出て落ち着かない。
混乱を鎮めるべく、禅師は泣く泣く彦五郎の側近だった関口氏縁に責任を負って切腹するよう命じ、騒動を決着させた。
承菊はもはや何も食べることができず、水を飲んでは上に下に流し出してしまう壊れた体でありながら、無私の極致で人々を宥め励まし続けた。
服毒した者たちの中には日が経つにつれて回復する者もいたが多くがそのまま帰らぬところ、医師に「体は死んでいるも同然」と言われてもこの僧侶は気力だけで生き続けた。
これを間近で支える人々は、禅師の献身に涙し、そしてまた感奮し、心を束ねて八幡山城の武田・松平勢を追い散らした。
そして勢いのままに、逃げる彼らを北街道に追って興津川に追い詰め、多くを討ち取った。
戦死者には無人斎がかわいがっていた武田次郎のほか、忠烈の臣、横田高松・原虎胤も含まれた。松平家からも石川忠成を逃がす代わりに渡辺氏綱が犠牲となった。
一方、甲斐との境で孤軍奮闘の富士大宮司家も、富士川を挟んで西で粘っていた荻慶徳・清誉父子も、全滅まで戦い尽くした。
しかし、今川重臣にして北条氏綱の弟・葛山氏広は、いち早く駿府を抜け出して兄の保護を受けており、富士川以東には今川家のために働く有力者は乏しく、ほとんど無主か、あるいは甲斐今川家・武田氏信の勢力下に収まるかに見えた。
転げ出るかのように興津川からほぼ単騎で逃げてきた武田無人斎がこれに加わり、彼の檄文で様子を見て動かずにいた室住虎光・小畠虎盛ら甲斐国人も蠢き始めることとなる。
自家有利と見た武田氏信は、武田家督を無人斎に返し、自身は今川家督を継承したと宣言して「今川五郎氏春」を名乗り始めた。
◇
さて、こうして甲斐と駿河で身を削り合う争いが続く中で、忘れ去られた者が――意図的に自らの存在が忘れられるように振る舞った者がいた。
燃え崩れる吉良亭をしばらく見つめていた義堯は「ふんっ」と鼻を鳴らす。
「なにが正四位か。しかもあの愚人が治部大輔とは世も末よ。公方も主上も今川も勝手に淪落するがよい。否、むしろいよいよ廃頽すべきなり。」
言いながら義堯は懐に手をやり、息子の遺髪のありかを確かめると、ちらと傍らの女を見た。
この女は側室の後藤夫人で、その腹は膨れている。義堯の次の子を宿しているのだ。
「あわれ、三郎にはこれを切り抜けるだけの運がなかったか。まあ、あの賢しらな豎子もくたばったであろうし、あの女ともこれにてさらば。」
毒は自分にあたってもおかしくなかった。
しかし、自分は生き延び、息子は夭した。
世の性とは、所詮はこんなものか。
「ああ、いかでかくも心の晴れやかなるか。」
義堯夫妻は付き人らに囲われて秘かに東へ出た。
江尻湊で今川から得た財を対価に商人に舟を用意させると、東国へと落ち延びていった。
屋敷の焼け跡からは多くの人骨が見つかった。女のものとみられる骨も少なくなく、義堯正室たる今川氏親の娘とその侍女たちが煙に巻かれてひとまとまりに死んだものと思われた。
【注意】当時食された「栗金飩」は我々が思い浮かべる「栗金団」とは異なります。鴆毒は詳細不明の毒ですが、本作では鉱物をいぶして作るヒ素系の毒を想定しています。朝比奈俊永亭は架空のもので、朝比奈泰以亭・朝比奈元長亭のあたり、今川館北東の谷津山麓に設定しています。
【史実】作中で「4、5年前の火事」とあるのは1530年の駿府の大火を指します。松平家の使者の1人・石川忠成は清兼の名でも知られます。討ち取られた武田次郎は後の武田信繁です。荻父子は駿河国北松野城を居城としており、本来、父・慶徳は1521年の今川対武田の戦で戦死し、子・清誉は1568年の武田信玄の駿河攻めで戦死します。




