第132話 1534年「くわばら」
遠淡海の北端の都築の地にて、昼から薄暗い曇り空とそれを映した黒い湖面との狭間に数十の死体が並んでいた。雲の向こうから届く淡い光は彼らの背を撫で、その死相を隠している。
物静かな彼らを前にした奥平家の新当主・監物貞勝は、風に乗って聞こえる男どもが家屋を荒らす物音や女の悲鳴を嫌でも意識せざるを得なかった。
「いよいよご決断せらるるは頼もしかれども、となればお世継ぎは順天丸殿か。元服やご正室の話は出ておるのだろうか、もとに今度、聞いておかねばならぬな。」
主君の側室となっている妹を思い浮かべながら、貞勝は独り言ちた。
ついに主君・鈴木重勝は遠江乱入を決断した。そうなれば今川もさらに敵意を強める。これはすなわち、駿府に留め置かれている人質を諦めるということだ。
鈴木家中の多くの者たちが口にはせずとも、そのように理解していた。
これまで、さんざんに人質奪還を主張し、主君の嫡男を取り戻すのだと息巻いていた三河侍も、口ではそう言いながらも本心ではなかったか、すでに諦めていたか、乱入となると異議を挟まず主君の決断をあっぱれと称賛している。
主君が長男の命を本当は諦めていないとしても、臣下の関心はすでに次男の順天丸に移っていた。
「しかし、この地を治めよとは、殿もなかなかご無理を仰せだ。」
奥平貞勝は湖北三ケ日の攻め手大将であり、東海道を守る二川の守備兵や秋の刈り取りを終えた三河農民ら3000の兵を連れている。作付けの人手を削って集めたなけなしの数だ。
貞勝は重勝から内々に遠淡海(浜名湖)北岸への転封を打診されていた。石高としては倍増という話で、元来、遠州に飛び地を持っていたこともあり、奥平家は移封に前向きだった。
とはいえ、この遠江攻めは今川への恨みつらみを隠さずにぶつけるかのごとき様相を呈しており、農村の荒廃と住民の敵意は後にしこりを残すことだろう。
ひときわ苛烈だったのは吉良荘から来た貧民500。彼らは餓鬼がごとく荒々しく暴れまわり、村々で持ち帰りうるだけの穀物を懐に入れて、抱えかねる分はその場で貪り食っていた。
それにつられてか、他の三河兵も「嫁取り」「名子取り」と称して村々で男女を連れ去り、小荷駄も各所の倉を暴いて、あたかも最初から自分のものだったかのように傍若無人に米穀を持ち去った。
村々に残るは鳥についばまれる骸ばかりであり、生き残った者たちは東あるいは南へと着の身着のままの旅路に就き、許されなかった侍はそこで柱にぶら下がっている。
最後まで抵抗を示した浜名氏は無残にも族滅の憂き目にあい、女子供は磔にこそならなかったものの、体は土の下で恨みとともに己が首を抱えている。
はじめは、対岸の民を脅すためか「首を小舟に載せて湖に流せ」との命令が重勝から発せられたとかいう話だったが、文もなくば妹から聞く主君の人柄との乖離も著しく、血に酔った使番がどこかで伝え間違えたのだろうと、貞勝は実行しなかった。
吉良氏に側室を出した後藤何某の親族のうち日比沢の後藤氏は、もともと鈴木家と通じていたのに土壇場で内通をためらい、鈴木家に味方した本坂の後藤氏の嘆願もむなしく世に跡を残すことはなかった。
かろうじて家名を伝えるのを許された都築氏も残るは女児1人。いま彼女は鈴木家中松下氏の遠縁・松下藤六郎なる地侍に預けられており、その名跡は、鈴木家に決められる未来の婿がやがて継ぐだろう。
「殿、秋葉城の宮内右衛門尉は刑部様(鈴木重勝)のお許しで引馬まで落ちるとのこと。」
「ううむ、左様か。三郎殿は口惜しいやもしれぬが、いまは時と勢いが大事。何とかこらえてうまく国衆をまとめてもらわねばな。あとはともかくも中尾生城か。」
遠江でも山方の奥地にある秋葉城は親今川の天野氏惣領・宮内右衛門尉が詰めており、その西の中尾生城は国人の監視として今川忠臣・匂坂六郎五郎長能が守っていた。
この地の攻略は鈴木重勝の元小姓・設楽三郎清広が兵1000で任されていた。
本来は設楽隊が先行して井伊谷に入り、奥遠江の親鈴木派を糾合して浜名氏を挟撃する予定であったが、貞勝の率いる兵たちが鬱憤晴らしに苛烈な戦いぶりを見せた結果、攻略順は逆になっていた。
設楽隊は、かつての重勝の本拠地・柿本城から東の炭焼田峠を越えて井伊谷に兵を入れ、奥遠江高根城の奥山能登守の先導で、伊平何某の守る伊平(井平)城を滅ぼした。
しかし、設楽隊は険しい地形ゆえに攻城に手こずり、しかも、その奥の井伊氏や一族の奥山氏らは鈴木氏に降るのを拒否して城に立て籠もる中で、奥遠江の攻略は難航していた。
設楽三郎は工夫して高根城の奥山氏を使い、もっと山奥の道を抜けて井伊氏を迂回して天竜川流域の遠江二俣の住人・松井氏を崩すと、その上流の天野氏との接触を試みた。天野氏の一派はすでにこちらと通じていたからだ。
三郎の采配を称賛しつつ、しかしながら焦れた重勝は浜名氏らに対する厳しい措置を見せつけて秋葉城・天野氏を恫喝し、安全な退路と領民に対する狼藉禁止を条件に退去をもぎ取った。
設楽三郎は主君の介入に思うところがあるものの、挽回を期して国衆の調略に躍起になっている。
◇
「宮内右衛門尉が去ったか。これも松下の吹き込みたる噂なれど。」
老いた小野兵庫助がしわがれた声で零した。
松下とは井伊家に仕える松下蔵人連昌のことで、彼は鈴木家の重臣・松下長尹の娘を娶ったばかりであり、井伊家中の親鈴木派筆頭である。
城に籠る井伊家の家中にこうした噂が入ってくるのは、松下が何らかの手段で鈴木家と連絡を取っているからだろう。
兵庫助に答えるは息子の和泉守。
「松井に続き、ふがいなきことにござる。左衛門佐殿が駿河におったのが惜しまれまする。」
二俣の松井氏は、当主・左衛門佐宗信は親今川だが駿府在番で、この地には老父・貞宗や弟・因幡守、亡き兄の子・宗親、一族・宗保がいた。この宗保が宗親を担いで鈴木に降ってしまったのだ。
松井氏は二俣の匂坂家知行地を加増の上で奥平氏与力として鈴木家中に迎え入れられた。
遠江の国人や農民には苦戦した二川の戦に駆り出された者も少なくなく、そうした者らは三河兵を苦手に思っていた。直接に戦ったのでない者でも「三河兵は強い」と風聞して、望んだ戦運びとならなかった現実を前に、自らを慰めていた。
そんな中での湖北における鈴木兵の暴虐は、弱った心にこたえたのである。
「二俣が鈴木の手に落ちたとあらば、奥の秋葉や中尾生のあたりは信濃勢の討ち入りもありうるところ、降伏もやむなしか。」
「いずれにせよ、やはり分家の信ずるに足らぬは明らかにござる。」
天野氏も松井氏も惣領家と支族との対立で崩壊した形になる。
天野氏は松井氏よりも複雑で、本来の惣領家は犬居城・天野安芸守景泰の系統だったが、今川家との抗争や当主の死去などで秋葉城の分家に惣領の地位が認められることになり、その後も今川が天竜川流域への直接支配を強める中で、現惣領家に対する反乱分子が結託して分派したのだった。
「左様に言うておっては顔に出るぞ。今は内を固め、なんとしても籠城を続けねばならぬ。」
小野和泉守が分家をくさすのは、井伊家でも当主・信濃守直平とその嫡男に対し、次男・直満以下が何かと文句を述べており、惣庶の間で溝があるからだった。
それというのも松下の噂好きのせいだ!和泉守は憤りを込めて言う。
「いっそ松下は誅すべきでは?」
「ごほごほ。信濃守殿の意をえらるればそれもよかろうも、何度も言うが、籠城のさなかにむやみに内々にて争うは避けたきところぞ。」
「それはいかにもなれど、松下はその争いの種となりまする。」
「いや、そうだが……。」
頑なな息子に、老いた兵庫助はうまく口が回らない。
疲れた、と零した兵庫助は息子と別れたが、息子の方は文句を言い足りない風である。
「ここは殿に直談判しかあるまい。」
和泉守はずかずかと井伊直平のもとにやってきて取次もそこそこに訴えた。
「殿!」
「うむ、和泉守か。何事じゃ、騒々しい。」
踏み込んだ先には直平だけでなく彼の末子・河内守直種がいた。
「いま、伊平の名跡をこれに継がそうかと話しておったところじゃ。」
「そんな悠長にしておるときにござろうか!」
「わからぬか、和泉守。」
直平は言葉少なに「こうした先を見た始末や動じない態度が今こそ必要である」と訴えかけようとしたが、あまりにも言葉が少なく、和泉守は真剣に取り合わない。
「それよりも松下のことにござる!」
「『つて』というものがある。外を知る意にても、仲立ちの意にても、これ自ら断ち切っては己を追い詰めることになりかねぬ。」
「だから捨て置けと!?」
「わからぬか。」
それきり黙ってしまった直平を前に、小野和泉守は引き下がるほかなかった。
◇
「ごほごほ。奥山家を迎え入れるか。」
井伊谷城の西、奥山城に詰めていた井伊一族の奥山因幡守親朝が井伊谷城に逃げ込んできた。
鈴木兵は井伊方に見せつけるかのようにあたりで乱暴狼藉を憚らず、奥山氏に従う近隣の農民兵は見るに見かねて城から釣り出されて敗北し、籠城を諦めることになったのだ。
彼らは井伊家への合流を許されて井伊谷城に入ったが、小野兵庫助はこれを必ずしも良いこととは思っておらず、声には苦さがにじんでいた。
息子・和泉守は父の言外の懸念を読み取り答える。
「先に収穫のあったばかり。兵糧はなんとかなりましょう。いざとなれば今川の助けもあり申す。」
そう、井伊家の背後にはまだ遠淡海の東を守る今川方の将兵がいる。
南の湖に突き出た堀江城には近くの大沢氏らが集まっているし、さらに南の引馬には今川方の飯尾氏と落ち延びた天野氏らがいる。
その東、今川重臣で遠江支配の要人・朝比奈泰能が守る掛川城には、駿府から直々に瀬名陸奥守が応援に入って、遠江に討ち入った鈴木勢に対抗してたびたび軍勢を送り出しており、井伊氏は決して孤立したわけではない。
しかし、兵庫助は悲観的に言う。
「なんとも悪辣なことよ。我らが奥山家を受け入れざるを得ぬとわかってのことだ。しかも、三河兵の腹立ちはとどまるを知らぬと聞く。」
二川で見せた規律とは正反対に、遠江で戦う鈴木方の将兵は猛々しい。
それもそのはず。降伏したばかりの遠州人は殺した兵の数や進んだ距離に応じて親族の助命と財産の保全が認められ、三河兵も功績に応じて自分が得た掠奪品の権利が認められることになっているのだ。
吉良兵などはもう半分ほどしか生き残っていないが、中には死ぬまで楽をして暮らせるほどの取り分を認められた者もあり、すでに三河の後詰兵と交代して帰国している。
あまりのことに一部の三河将兵は主君・鈴木重勝がどうかしてしまったのではないかと心配するほどだったが、軍令違反は厳罰。良識ある者ほど君臣の義を重んじて身動きが取れなかった。
◇
遠江国二俣城。
「設楽の者らあはすっかり見えんくなったで。」
「ほんならあとは待つだけや。くれぐれ用心せい。薬の爆ぜて往生なぞ御免蒙る。」
猪助の呼びかけを受けた石川又四郎は手下にきつく言い含め、こそこそと暗闇に隠れた。
城門が開け放たれた二俣城には翌日、中尾生城から様子を見に来た匂坂長能らが入った。
中尾生城は敵中に孤立しながらも、しきりに攻勢に出る瀬名陸奥守の尽力により鈴木家が十分に城攻めに集中できなかったため、守り続けることができていた。
それがここにきて鈴木家は急に包囲を解いて西方に撤退してしまった。
何事か訝しんだ匂坂は、彼らがどこまで去ったのか見に来たのだ。
「ははあ、これは空城のはかりごとに相違あるまい。」
あまりに露骨な様子に匂坂は城には入らずにあたりを探して伏兵や鈴木の本隊の位置を確かめたが、鈴木家は井伊谷城の包囲もやめて都築のあたりまで下がっているということだった。
「ふん、退却の時を稼いだにすぎぬか。あるいはまたぞろ尾張で変事でもあったか。はたまた(瀬名)陸奥殿が南でうまくやったか。驚かしおって。」
匂坂は鈴木家のはったりのせいで無駄に時間を使ったことに腹を立てたが、ひとまず主郭陣屋に入って井伊氏との連携のために使いの者にあれこれ言い含め始めた。
するとそのとき、とんでもなく大きな音が耳朶を強打し、床が爆ぜ上がり、瞬く間に陣屋が崩れ、何があったか彼が気づく間もなく、認識主体たる匂坂の精神はこの世から消え去った。
崩れた陣屋は勢い良く燃え上がり、兵たちはたまげて腰を抜かしている。
「崩れてもうた!お城が、お城が崩れてもうたで!」
「か、かみなりさまだに!くわばらくわばら。」
「ともかくも……ええい、いかにせんというのか……。」
◇
「二俣の城が焼け落ちた!匂坂殿も行方知れずとは……。いかなる外術を使うたのやら。」
「みな雷か地震かというが、左様なものはこちらではなかったぞ!」
小野父子は慌てていた。
包囲を解かれて弛緩する空気の井伊谷城はこの凶報に接し、再び籠城の支度を整えようとするも、今度はなかなかうまくいかない。
籠城していた将兵は、鈴木兵に荒らされてしまっただろう在所の様子が気がかりで我先に城を去ってしまっていたのだ。
「しかも、瀬名殿も引き返してしもうた。」
「父上、堀江城の大沢殿のもとにそれがしが行ってまいりましょう。」
「うむ、信濃守殿(井伊直平)には儂から言うておくで、おぬしは支度をして来よ。」
空白となったかに見えた奥遠江の奪還のために、瀬名陸奥守は本軍を率いて掛川を発ったが、「鈴木が二川から湖西に進出して狼藉の限りを尽くしている」との宇津山・朝比奈氏からの報に接して引き返し、引馬の飯尾氏のもとに合流していたのだった。
湖西の妙立寺を作り替えた城は二川攻めの兵站基地となっていたが、ここが襲われたのだ。
守備兵は固く守ったが、本国がすっかり空になったのではと思わせるほどの数の三河兵は、今川兵を城に引き留めつつ周囲の農村を問答無用で劫掠し、農民は東へ逃げていった。
「瀬名が助けてくれる!」との噂を聞いた農民たちは浜名湖西岸の元荒井や今切渡に詰めかけ、鈴木兵の毒牙にかかる前に我先に東岸に渡ろうと乱闘騒ぎが起きている。
いち早く東遠江に逃げ出した農民たちも、引馬に着いたはいいものの「兵に加えて農民までもは面倒見切れぬ」と追い出され、とぼとぼとあてもなく歩くうちに沖に抱き稲の旗・帆を掲げた海賊船を見かけて恐慌に陥り、掛川を目指して移動し始めた。
どうも鈴木家は湖の北と西そして海を使って土地を荒らし今川本軍を釣り出す目論見のようだ。
今川軍が湖北の土地の奪還に兵を起こせば、鈴木兵は湖西に侵入して引馬を窺う。
兵糧の蓄えられた妙立寺城の確保に湖東から増援がくれば、沖の海賊船が退路を断って、鈴木家から提示された禁制の条件を満たすべく湖西の遠州人はやってきた今川兵に襲い掛かる。
二川から本坂へ、本坂から二川へ。狼煙が山々を駆け抜けるたびに今川軍は翻弄される。
にっちもさっちもいかずに無駄に兵と兵糧を損ねる今川方は、これまで鈴木家の抱えてきた憤懣を今度は己が肩代わりすることになった。
もどかしい中、奥遠江は犬居天野氏・奥山氏の支配下に収まり、これに加えて、さらなる狼藉を恐れた湖北東の吉村郷(気賀)の土豪も禁制と引き換えに鈴木家に忠誠を誓い、井伊家は孤立。
あまつさえ、少なくない数の難民を引馬や掛川に抱えている。
瀬名が北に西にと振り回されるままに、長かった天文3 (1534)年は暮れゆき、天文4年が明けようとしていた。
【注意】吉良氏に側室を出した後藤氏の親族関係は詳細不明でしたので適当です。




