第131話 1534-35年「逆臣」◆
「守護殿はけがもなし。(津島)天王社にてお休みいただくこととしよう。よくやった、彦右衛門、十郎。恩賞は追って渡すで、ひとまずは休むとよい。」
「ははっ!」
織田信秀は勝幡で坂井彦右衛門とその一族の十郎を出迎え、彼らが下がった後、ひとり考える。
本当は弟・孫三郎信光の手配で、守護代側に守護を弑逆させて一気に両陣営を崩すつもりであったが、うまくいかなかったらしい。まあよい、こちらの手元に守護があれば、清州は立ち行かぬ。
土岐氏の動きはいきなりだったが、おかげで鈴木は清洲に肩入れする余力もなく、その隙に清洲勢に追い散らされた岩倉の与十郎(織田寛近)の臣従を取り付けた。与十郎は岩倉伊勢守家の柱であるから、中島・葉栗の2郡(尾張北西)の支配も進むであろう。
守護がおらねば国主の道も開けたものを。いや、それは高望み。鈴木が今川にかかり切りのうちに西尾張を平らげねば、その先も何もない。
思案に暮れるうちに、青山与三右衛門が美濃守護又代・長井家臣の成田左京亮の訪れを告げた。
「清洲の動きを封じられたはお見事にござい申した。(美濃)守護様もお喜びになるでしょう。」
「まずは清洲を押さえねば鈴木に手を出すは難しいこと、よくよくお伝えくだされ。」
「公方様のお望みで当家と鈴木はいったんの和議となり申したほどに、そのうちになにとぞ支度を整えられますよう。」
成田は長井新九郎規秀の使いで、美濃勢が鈴木領・北尾張に侵攻するにあたって清洲織田家の動きを封じるよう信秀に共闘の打診をしてきていた。
もっとも、土岐氏の北尾張侵攻は事前通告がなく、特に何かしたというほどでもなかったが、その機に乗じて信秀は岩倉織田家の解体を進めることができ、結果的に清洲はその動きに釘付けだったから、双方得をしたことになる。
役目を果たした成田は、かくして別れを告げると、信秀が守護を手中に収めたという朗報を手に美濃に帰っていった。
一方の信秀は、その後も休む間がなかった。
崩壊した岩倉織田家の吸収に伴い、岩倉重臣・織田与十郎の取次で次々と訪れる者たちと面会したり、林八郎左衛門通安・新九郎秀貞の父子の手配で続々と臣従してくる土豪の所領を安堵したり。
とはいえ、岩倉方の有力者の中でも稲田氏・山内氏・堀尾氏は岩倉織田家・広高の擁立による家中の維持を望んで中立的な立場にあり、信秀はこれらの懐柔にも心を砕いていた。
また、守護を保護したことで、その被官らが清洲織田家から距離をとり始めていた。信友が己の勢威と思っていたものは、結局、彼がお荷物と思っていた守護を抱えていたからこそであった。
清洲方で犬山城代の佐々氏はおそらく鈴木氏との縁を頼りに城を自分のものとし、鈴木領内に孤立する柴田氏は自立。これに対し、丹羽郡の丹羽氏は信秀に通ずると内約していた。
清洲を離れて守護の後を追う者も出てきており、これは信秀の弟・信光が受け付けていた。その中には、与力として信秀に付けられていた矢野善十郎勝倫や、鈴木家重臣・鷹見修理亮の娘をもらった簗田出羽守などの姿もあった。
「出羽守殿は奥方の実家を頼るかと思うており申した。」
「さようなお言葉は心外なり。それがしはあくまで主君のもとに馳せ参じたまで。」
「そうですぞ、弾正忠殿(織田信秀)。出羽殿は惑いの中でも条理を取られた。定まらぬ世にあればこそ、これなおさら『よし』と見ねばなりませぬぞ。」
「これはお恥ずかしい。出羽守殿には料簡もなきことを申した。」
「いやなに。しかし、清洲はどうなるのであろう。」
簗田は信秀の詫びを軽く流して問うた。
答えるのは矢野。
「藤左衛門(織田寛故)は踏ん張っておるが。それがしが誘っても梃子でも動かぬは潔しともいえ、されど弾正忠殿、おぬし、かの者にいったい何をしたのか。頑なに『三郎(信秀)は好かん』と言うぞ。」
「うむまあ……若気の至りと申すか。」
「ともかく、いくら藤左衛門がおったとて、なにやら若守護代は守護館を御所巻よろしく囲むとも聞くで――」
簗田と矢野から清洲で生じた騒動の詳細を聞くにつれ、彼らに合わせて表向きは深刻そうな顔を作る信秀は、しかし、内心では笑いをこらえるのに必死であった。
簗田と矢野の話によれば――
◇
「やい、大膳!どうしてくれるのだ!かくなっては――」
「落ち着いてくだされ!左様に声を荒げておるだけでは何もよくはなりませぬ!それがしは諸々の手配があり申すゆえ、いったんお暇いたす、御免!」
「え、おい、大膳!こら待て、行くな!それがし一人で……どうせよと……。」
次期守護代・織田信友の声に少しも耳を貸さずに、起きた出来事を報告だけすると坂井大膳は勢いよく駆けて行った。信友の言葉尻はむなしく喧騒の中に飲み込まれる。
やがて、何をするでもなく呆然としていた信友のもとには、大膳の鬼気迫る様につられて殺気だった臣下たちが続々と集まってきて、坂井彦右衛門ら謀反者の治罰と那古野弥五郎の敵討ちを訴える。
「若守護代様!してやられたままでは、いけませぬぞ!かようなときにこそ、力を見せねばなりませぬ!」とは坂井甚介の言。
「そ、そうであろうか。いや、そう、そうよな!」
「敵を討つにも謀反人の後を追うにも、まずは若武衛様の行方を突き止めねばなりませぬが、それよりも先に、前の武衛様に若様の御身を取り戻すとお誓い申し上げるのがよろしいかと!」
慌ただしく動き回る大膳から、信友の周りのことについて後を任された河尻与一が建策した。
河尻の物言いは、何をすればよいかわからず不安だった信友の心に深く染み入った。
「おお、与一よ、大儀である!そうよ、それこそまさにそれがしがやらねばならぬこと!」
かくして信友は手勢を連れて先代守護・斯波義達とその妻子のいる屋敷を取り囲み、攫われた斯波義統を取り戻すことを誓い、それまで義達たちの身柄を保護させてほしいと懇願した。
しかしながら、もともと守護代方によい感情を持っていない義達は難色を示し、「まずはその方の義父の言を伝えよ」と信友を相手にしなかった。
追い詰められて情緒の乱れる信友は「己が誓いを立てると申しておるのに、いかにも不遜!」と激高し、同じく気が立っている手勢に向かって「少々手荒でもかまわぬ!」と言って館へ押し入り、守護一家との対話に漕ぎつけようとした。
いよいよ恐怖した義達は、先に那古野弥五郎を討ち取った森刑部丞らを頼りに、己も武器を取って侵入者の前に立ちふさがる。
一方、義達はせめて子はなんとか逃がそうとこれを毛利十郎に託した。
するとそこへ、遅ればせながら守護代・織田達勝の配下の織田光清と赤林対馬守が駆けつける。
「待て、待てい!」
「双方、武器を下ろせい!」
彼らが割って入り信友方ともめている隙に、毛利は数人で館の外壁を外してその隙間から義達の子らを連れて逃げ出した。
しばらく抵抗を続けていた義達は、家人から息子たちが館を脱出したと知らされると武装を解き、降伏した。
◇
清洲織田家の求心力は地に落ち、配下の離反は止まらない。
ほくそ笑む信秀であるが、下級の足軽などは続々と彼のもとに移ってくる一方で、思いのほか有力者たちは信秀を頼ることはなかった。
信秀の母の兄弟にあたる織田藤左衛門寛故や坂井摂津守・坂井大膳らが奔走しているからだろうか。
信秀は盛んに噂を流す。
曰く、
「無知蒙昧の信友は恣にならぬ守護を弑そうとしてし損ない、不徳も恥もさらした」だの、
「愚かにも仕留め損ねた守護を自ら助け出すと騒ぎ、慌てて前守護を囲って謀反をなかったことにしようとしてこれを攻め滅ぼした」だの。
信秀は、岩倉織田家の重臣らとは、とりあえず織田広高を彼らの頭目として認めて従属的な同盟を受け入れさせることで関係を安定させ、年が明けるとすぐに――あるいはこれまでの確執からすれば満を持して――清洲に軍勢を差し向けた。
城下の将兵の住まいは多くが打ち捨てられ、それらは忍び入った盗人によってさらに損なわれており、町はいつ火事が起きてもおかしくないほどの荒れようである。
「お待ち申しておりました。」
閑散とした城内に残っていたのは、清洲織田家老臣の林九郎勝次と坂井摂津守。
両者は残る者たちの助命を確認すると、見事に切腹して果てた。
一方の前守護・斯波義達、守護代・織田達勝、その後継者の織田信友らは信秀の大軍勢を見るや、鈴木家支配下の那古野城へ移っていた。
かくして宿願の西尾張統一を実質的に成し遂げた信秀は清洲城と城下町を再建すべく精力的に働いたが、町に商人が訪れるたびに家中ではおかしな噂がはびこるようになっていった。
曰く、
「若守護をかどわかすべく陰謀を仕掛けたのは信秀であり、信友はそれに気づいて止めに入ったがしくじった。現に、守護は信秀のもとで閉籠されている」だの、
「信友が悪事をなしたとしても名君たる守護代・達勝のもとに信秀が守護を返せばよいだけのこと。これを送り返さず清洲を攻略せんというならば、すべては信秀の陰謀である」だの。
信秀が慌てて商人をつかまえて問い詰めると、こうした噂は上方で聞こえるという。
これまで商人の扱いは平手政秀や大橋氏に任せていたが、前者は死に、後者は三河に走ったことで、信秀家と商人たちの縁は薄まっており、噂を知るのが遅れたのだろう。
一方で鈴木は早々に清洲織田家と前守護・義達の支援を打ち出し、信秀のことを盛んに「逆臣」として触れ回っているという。
「上方か……。この噂も鈴木であろうな。」
信秀は城内の高所から川向こうの鈴木領を遠く見やりながら嘆息した。
渇望していたはずのその景色は、今やすっかり色あせてしまっていた。
鈴木と敵対する信秀は、鈴木が加担する堺とは対立しており、上方とやり取りするには伊勢の桑名を介し近江の六角氏を窓口としていた。
とはいえ、かの家は露骨にこちらを下に見ているし、向こうから何かをもたらしてくれるというようなこともないから、信秀の中ではさほど重きを置くべき相手ではなかった。
そこに大きな差があったのだろう。
鈴木は今川との対立を抱えながらも上方ですでに地歩を固めていた。
おそらく、鈴木はいち早く堺や京で「今回の騒動は織田信秀による守護略取を発端とする」と広めたのだろう。
もともと室町将軍が正式に任じた守護家の斯波氏とその正式な守護代・織田大和守家に反抗する信秀は、幕府によく思われていなかった。それは六角家の態度が物語っていた。
そしてこたびのことで信秀に対する幕臣の心象はさらに悪化した。信秀も対外関係を軽んじていたわけではない。今も美濃守護又代・長井氏と誼を通じている。
しかし、それでは足りなかったのだ。
鈴木は今川と対立し、幕府と対立しても、何とかやっていけるように準備していたのだ。
「西尾張に攻め入るでもなしに、と思うておったが、そうか、そういうことであったか。」
鈴木は今川の方ばかりを見ていたのではなかった。
あれだけ無茶をしておいて、周囲を今川方の大名に囲まれながら、孤立していないのだ。
それに引き換え自家はどうか。
伊勢国司の北畠家は当家が桑名郡を押さえているのをよく思っておらず、これを黙認する六角家の手前、文句を言う程度で済んでいるが、到底味方ではない。
美濃は互いに都合がよいから争っていないだけ。しかも、美濃守護・土岐頼芸は斯波義統を正しき場所に戻した暁には、彼と改めて同盟を結ぶと言ってきかない。
なるほど、周りに敵はいないが、味方もいない。
これから何をするにもすべて独力となるだろう。
「東の柴田と北の佐々は鈴木に属した。手中にあるは伊勢桑名・葉栗・中島・海東・海西の5郡に、丹羽家のおるあたり。春日井郡の西やらを加えて見ても6郡かそこら。」
信濃の助けはあれど、鈴木はほぼ独力で東西の敵に対処してきた。
それでも、鈴木が遠江を攻めるならば、背後を襲ってまだ何とかできたはずだ。
しかし、今川は年始の変事で、押され気味だった遠江をもはや守り切れぬと聞く。
「これぞ天運か。いや、人事を尽くし、待っておったのであろうな。」
聞けば、鈴木重勝は文亀3 (1503)年の生まれという。己より数年長く生きているだけ。ましてや向こうは一国人からの成り上がり。それがこうも追うに難き差となるとは。
やはり、己の上に何者かがおるというのは、どうにもやりづらいということなのであろう。
信秀は「重勝の立身は守護・守護代といった上に立つ者がいない三河でこそ可能だった」という以前からの持論を思い返し、納得した。
「一手遅かったか。」
もともといち早く、そして何かにつけて重勝の邪魔をしていた信秀は、重勝を誰よりも一番に警戒していたと言っても過言ではない。それはつまり、かの者を認めていたということ。
清洲・岩倉織田家の屈服、守護の押し込め、西尾張の獲得。
本懐を遂げた信秀は、その次を見ていなかった。その次が見えなかった。
◇
時は少し戻って天文3 (1534)年の冬。
東三河・嵩山城にて。
「刑部少輔殿(鈴木重勝)においては、こたびの力添え、誠かたじけなく。恩に着る。」
たびたびの騒動で疲れた風の織田信友は、東三河にわざわざ出向いて鈴木重勝に面会を申し込み、自ら頭を下げていた。彼としては、ここまでのことは生まれてこの方したことがない。
「いや、なんのなんの。大和守殿(織田達勝)の御継嗣ともなれば、これから長く付き合う友となるであろう御人。いかな、これを助けぬという話はあり申さぬ。」
重勝は早口で信友が期待したよりもあっさりとした答えを返した。
その言葉を聞いた信友は、己のへりくだるかのような振る舞いに対して重勝が何も反応を示さないことにかえって自尊心を傷つけられ、さらに己のことを達勝のおまけくらいにしか見ていない重勝の内心を垣間見て、苛立ちを覚えた。
それでも信友は我慢した。我慢して重勝の手際の良さを褒めた。
信友が義父にいくら守護に対する叛意はなかったと主張しても信じてもらえず、廃嫡すら仄めかされたように。腹心のはずの坂井大膳もいつの間にか己の側に寄り付かなくなっていたように。清洲から離反者が相次ぐうちに城中に残る者の視線が冷ややかになっていったように。
誰もが信友に一切の悪意のなかったことを信じなくなっていった中で、重勝だけが己を信じて窮地を救う一手を打ってくれた。信友はそのことには本当に感謝していたのだ。
「堺にて信秀めの悪事を暴く噂を流すとは、この彦五郎、感服し申したぞ。おかげで信秀めは公方様のご機嫌を損ねることと相成ったとか。」
「かような、いわば水掛け論になりかねぬことにおいては、いずくの何人に話を通すかでいかようにも変わり申すでな。信秀の手も尾張の外まではたやすく伸びぬところ、うまくいって誠によかった。かの者の勢いも大いに削がれよう。」
重勝の返答を聞いた信友は直感した。
重勝は己の無実を信じていたのではない。
見る見るうちに信友の顔から血の気が引いていき、その体は小刻みに震え出す。
自分の発言に対し何か返事がくるものと思っていた重勝は、それなりに離れたところから見る限りは石のように硬直したままの信友の姿に違和感を覚えた。
しかし、書き物を好んで少し目が悪くなっていた彼は信友の体の小さな異変がよく見えなかった。
そして、特にこれといった用件もない挨拶を受けているほどの余裕は、今の彼には本当に全くほんのわずかにもなかったため、これ以上話がないのなら、と忙し気に別れを告げた。
「これよりは当家が貴家の後押しをするで、ご安心召されよ。もっとも、今はそれがしも遠江のことで手いっぱいゆえ、しばし時をもらうことになるが、ひとまずはこの東三河でごゆるりと過ごしたまえ。その後には那古野にお送り申そう。」
◇
その後、織田信友は那古野で蜂起した。
すでに遠江に討ち入っていた重勝はまたもや尾張が乱れるかと焦ったが、信友の乱は即日鎮圧された。死にきれなかった信友は落ち延び、重勝が流した噂で「信友が守護救出に尽力した」と信じてくれているはずの室町を目指した。
何だか知らないが、信友が出奔して後継者不在となった織田達勝は清洲復帰の熱を維持できず、重勝に信秀との和睦調停を求め、自身は隠居すると申し出た。
もっとも、当の重勝はくだんの年始の今川家の騒動でそれどころではなく、織田家の仕置きはしばらく先に持ち越されることになる。
【史実】長井家臣・成田左京亮は『言継卿記』によれば1533年に実際に信秀の側にいたようです。




