第129話 1534年「犬山会議」◆
東美濃を防衛していた三河鈴木家の裏をかいて美濃守護・土岐頼芸は北尾張に侵攻した。
これを危機と見た鈴木重勝は慌てて東三河から移動してきて防備につき、多くの犠牲を払いながらなんとか美濃兵を東美濃の多治見と可児に押し返した。
美濃兵5000に対して、東では木曽家当主・義在や山本菅助らが兵800を率いて守り、南では重勝が直々に兵3200で防備についた。
そこへ突如として姿を現した在京今川軍1500。
彼らの動きは土岐家も関知しておらず、それぞれで様子見をしつつ、もう一戦するのか、このまま和睦するのか、人々は固唾をのんで今川家の動きを見守っていた。
◇
「菅助!なんともよいところで助けに来てくれた!」
鈴木重勝は北尾張・羽黒城にやってきた山本菅助の姿を認めると、喜色を乗せて呼びかけた。
「刑部少輔様、我が義兄より苦しいところと聞いており申したほどに、いつかは援軍を出そうと右馬助様(小笠原長高)と相談しておったところでして。」
菅助の義兄というのは、しばらく前に重勝と会ったときにそのくたびれた様子を心配して彼が置いていった妻の兄、島津五郎三郎忠績のことである。
菅助は続けて隣の優し気な人相の武将を紹介する。
「刑部少輔様は木曽殿と会うのは初めてにございましょう。」
「弾正小弼にござる。先には郡主と街道のこと、まことにかたじけなく。」
「いやなんのなんの。信濃に頼もしきお味方あってこそ当家の今があると思うておりまする。」
重勝は先に堺政権に対し、木曽義在に木曽郡と恵那郡の主の地位を与えるよう働きかけていた。
また、彼は宿次過書奉行職をわたくししているため、その地位を濫用して木曽家が整備した塩尻から大井までの街道につき過書発行の特権を与え、大井宿から尾張瀬戸や三河足助を経て東海道に出る荷の関銭免除を約束していたのだ。
「それにしても、伊庭殿はなんとも惜しいこととなり申した。」
「これも『ゆく川の流れ』というもの。あとは遺る者を厚く遇するのみ。」
菅助は重勝らしからぬ思い切った言い方に内心で首をかしげたが、気落ちしていないならよいことなのだろうとそのまま話を続ける。
「刑部少輔様のことにござる。伊庭のお家はきっと栄えることにございましょう。しかし、その前にはくだんの今川にござる。」
「左様。何がしたいのかよくわからぬが、ともかく『遠江か甲斐まで通せ』『いったん和睦せよ』だとか言ってきよった。」
「『犬山にて会合せん』というのは刑部少輔様の?」
「いや、美濃の又代からの話だ。」
「長井新九郎ですな。切れ者と聞き申す。」
木曽義在が口をはさんだ。
「うむ。しかもかの者の周りでは長井の者の相次いで死ぬと聞く。加えて今川も得体が知れぬし、ここでそれがしがのこのこ会合に顔を出せば首だけになるやもしれぬ。」
「そこでそれがしというわけでござる。」
阿吽の呼吸で菅助が名乗りを上げる。
とはいえ、木曽には不安が残る。
「しかし、菅助殿だけ出向いたからといって何事もなく済むでしょうか。手も足りぬのでは?」
「それがしのことはご心配召されるな。今時分にそれがしを害したとて我が殿を怒らせるだけ。長井がまことに切れ者ならば、なおのこと左様なことはいたすまいて。」
「それにもちろん当家からは西郷を出すし、それがしも犬山の佐々殿と朝比奈の義兄殿(朝比奈親徳)に文を送るで、菅助はこれらをうまく使ってくれ。」
「今川といえば、甲斐ではすでに仕込みをしており申すゆえ、朝比奈殿を相手とするにあたっては、そちらからも揺さぶりをかけてもよいやもしれませぬぞ。」
菅助は何かを見透かしたようなしたり顔で言った。
彼は三河で重勝と主君・小笠原長高とで兵法談義をしたのを懐かしみながら、重勝が『六韜』の教えに則り今川家を肥大させて自壊を促したのだと思ってこう言ったのだった。
一方、何も知らない重勝は興味深そうに返事をする。
「ほう、甲斐とな。」
「何が起きようとも『小笠原は甲斐今川家の背を脅かさぬ』と約しており申す。」
「ほうほう。」
重勝は思惟の海に沈みつつ相槌を打った。
菅助は甲斐今川家が駿河今川家に謀反を起こしかねないとみて、いざというときに足踏みしないように後押しをしたらしい。
信濃では何かそういった兆候をすでにつかんでいるということなのか?その場合は駿府の人質団の救出を甲斐今川家に頼んでおくべきだろうか。
「いざとなれば、ご嫡男殿は甲斐衆と合流なさればよいかと。」
「かたじけない。」
菅助も考えるところは同じ。
あくまで捕らぬ狸の皮算用に過ぎないが、何も見通しがないよりはましだろう。
ひとしきりあれやこれやと意見を交わすと、菅助は西郷正員の部隊に守られて犬山城へ向かった。
◇
犬山城の広間に集まったのは11人。
城代は尾張守護斯波家・被官、佐々与五右衛門成宗。
斯波家は各勢力と敵対するほどでもない立場ということで、犬山が会合の場所に選ばれた。
美濃土岐家からは守護又代・長井新九郎と美濃軍副将・揖斐周防守光親。
駿河今川家からは朝比奈丹波守親徳・岡部左京進親綱・浅井小四郎政敏。
三河鈴木家からは西郷弾正左衛門正員と護衛の林光利・岡田与九郎。
そして、信濃小笠原家からは山本菅助と西郡(大井)式部少輔虎成。
「いかでもいかでも当家の兵を通してくれ!それで万事うまくいくのだ!」
「貴殿がこちらの立場にあれば『よし』といかぬのがわからぬでもありますまい。」
岡部と菅助がさっきからずっと言い合っていて話は何も進んでいない。
「そこをどうにかならぬか!」
「そのためにも、先に和睦が結ばれねばなりませぬ。」
「刑部少輔殿はすでに和睦を断っておろう。」
「断ったとは聞いておりませぬ。ご嫡男の身柄が先だとお伝えしたはずでは?」
「兵を通せば、この岡部、己が首をかけてでも勝太郎殿の御身柄はお返しいたし申す!」
「そう言われても、それこそ質でも取らねば信じられませぬ。であればこそ、先に質を手放したまえと言うておりまする。でありましょう、西郷殿?」
話を振られた西郷は一つ頷いて怒りをにじませて答えた。
「当家の今川に置く信は、もはや寸分も残っており申さぬ。」
「ご嫡男をお返しするにしても、まずは我らが駿府にたどり着かねばならぬ!もちろん三河を通せとは申さぬが、なんとか美濃から信濃を抜けて甲斐に入ることかなわぬか!?」
「そのあたりの理屈がよくわかり申さぬが、そうであってもまずは美濃のことで和議を結ばねば、信濃をお通りいただくわけには。」
「では、和議を結ぶがよかろう!」
菅助は「その邪魔になっているのが今川軍なのだが」と内心でぼやく。
すると、一瞬の会話の途切れに長井新九郎が口をはさんできた。
「いえ、こたびは貴家が『どうしても』と申すほどに会合を持った次第にして、そも我らは和議を結ぶとは言うておりませぬぞ。」
「なに!?犬山で和睦の相談をするとお決めになられたのは守護様であろう!?」
「和睦とは申しておりませぬな。」
新九郎はのらりくらりと言う。
美濃勢としては、今川軍1500が後詰になってくれるならば三河に対して数的に有利になるし、こうして時間を稼いでいればさらなる兵を西美濃から引っ張ってこられるから、和睦を急いではいないのだ。
「ふむ、美濃守護様と和を結ぶとなれば我が主たる小笠原右馬助様は今川兵の通行をお認めになるやも。されど、東美濃がこのありさまでは、内に敵方の兵を迎え入れるわけには……。」
「又代殿!なにとぞ、守護様に和睦を結ぶようお頼み願いたい!」
「されど、我ら美濃衆は全く戦い足りており申さぬし、和議を結びたいのは鈴木殿の方でしょう。むしろ、貴家が三河を攻めるならば、当家は喜んで助太刀いたすが。」
長井の切り返しに岡部は言葉に詰まる。
「いや、すでに双方長く兵を出しておるで、ここらでいったん休みとしようと話がついてはおるのだ。貴殿がそのように言うてくれるはまことに心強きことなれど……。」
「いやはや、まことに和議を求めておられるのでしょう。かような形で密談を見せつけて、なるほど、『いま和議を結ばねば三河を東西で挟み撃ちしてくれよう!』と脅されるわけですな。岡部殿はとんだ策士であられる。」
「い、いや!そういうわけではないのだ!」
「なるほど。」
西郷が一言零すと、岡部はこめかみを引きつらせる。
「これではやはり貴家の兵を美濃守護様との和議なしに信濃に引き込むわけにはまいりませぬな。」
菅助のため息交じりの言い方に、岡部は激昂寸前。顔は真っ赤である。
そばに控える浅井も口こそ挟まないが、岡部の動きに合わせて「ちょっと待ってくれ!」とでも言うように無意識に手を突き出している。
残る朝比奈は難しい顔をして目をつぶっているように見える。
菅助がやっているのは時間稼ぎだ。長井も同じだから、両者は妙に息があっている。
菅助としては、今川軍と美濃土岐軍が合流してしまうと三河・信濃軍の兵力が不利になるから、両者には簡単にまとまってほしくなく、利害が相反するような方向へ話を導いていた。
長引けば両軍は合流して強行突破に出るかもしれないが、岡部はどうも自らが戦うことはあまり望んでいないようである。
それに、先の北尾張失陥は奇襲を受けたがゆえの危難だったのであり、来るとわかって支度をしておけば、少々の兵数の不利はさほど問題ではなかった。
むしろ、今川はやけに急いでいるため、焦らせば戦場でもボロが出て崩れるかもしれないし、交渉するにしても破格の条件が引き出せるかもしれない。
重勝から聞いた話では、遠江の今川軍はおそらく兵糧不足から戦える状態でなくなってきてきているし、西を守り切れば三河は少なくとも向こう2、3年はその遠江に攻め入り続ける用意があるとのことだから、時間をかけることは何も損にはならないはずだ。
「これでは話が進みませぬな。方々、いったん分かれて話し合うとしましょう。」
長井の声掛けに菅助だけが返事をしたが、西郷が無言で立ち上がると、美濃方の副将・揖斐もこの場を去るそぶりを見せ、城代の佐々はそれぞれをもてなすために中間や小者に案内を命じた。
◇
翌日も翌々日も岡部と浅井は熱心に菅助と長井新九郎の説得を試みたが成果はない。
そもそも今川と鈴木の和睦の条件交渉は散々行われてきたが、三河は自国の東端を少々くれてやる程度は気にしない。渥美半島に入り込んだ戸田家は織田信秀の紐付きだから、それについて今川が何を言おうとも取り合わない。鈴木家が求めるのは人質の返還だけなのだ。
しかしその部分で譲歩できないのはむしろ今川家中枢。ゆえに岡部はなんとか美濃方を説き伏せねばならない。そうして北尾張で和睦して信濃を通りたいのだ。
もっとも西の六角家、北の朝倉家と結んでいる土岐家は、勢力を伸ばすには北尾張しかない。今川と戦う鈴木は苦境にあるはずだから、もう一戦してこの守りの壁を抜けば、すぐにも北尾張は落ちるだろう。長井に吹き込まれた守護・土岐頼芸はそう信じていた。
そんな中で、重勝から文をもらった朝比奈親徳は返事を出せずにいた。
「内々に今川の事情を教えろと言われたとてなあ。(岡部)左京進殿も文のことを知って、それがしから返事して婿殿(重勝)をなんとか心変わりさせよとも言うておるし。」
いかに鈴木と懇ろとはいっても、今川に仕える身としては秘すべきことは秘さねばならない。
それに、老いた父と幼い息子らを駿府に置いてきていて、自身も重勝同様に人質を取られているようなものである。
しかも、譲歩どころか重勝はむしろ強気で、「尾張が落ち着けば次に苦しむのは今川家だ」と脅し、和睦条件を大幅に緩和することや駿河朝比奈家の寝返りを要求している始末。
「どうしたものか……。」
するとそこへ重勝から別の手紙が届いた。
読んでみると驚くべきことが書かれていた。
「なに!?堺方が京へ攻め寄せておるだと!」
重勝はここに至ってようやく堺の味方から「京から今川軍が移動した」と知らされ、同時に、京の戦力が減った隙をついて三好軍・河内畠山軍が東摂津・北河内に攻め入ったとも伝えられた。
それを受けて重勝は「とにもかくにも今川の望み通りにしてやるものか」という心持ちで、東へ向かいたがる今川上洛軍を意に反して帰洛させるべく、京の危機を誇張して伝えたのだ。
彼としては「今川・北畠・土岐と大領の相手をするのは自家ばかり。上方の友邦もしっかり働いて上洛軍の対処を引き受けてくれ」という気持ちもあっただろう。
焦る朝比奈は岡部に相談して重勝に詳細を問い合わせたが、重勝も詳しくは知らない。
続報が届いたのは、さらに数日後。
重勝はすぐに義兄に手紙を出して三好軍の快進撃を伝えた。
「摂津で三好が池田三郎五郎を追い散らし、勢いのままに河内は飯盛山に取り付く、か。」
在京今川軍が関所から御所に移った時点で戦支度を始めていた堺方。
幕府方はまさかその動きが堺方面への攻勢準備とみなされたとは思わず、後手に回っていた。
阿波で兵を増やして摂津を攻めた三好軍は池田城を包囲しつつ、周囲の調略を行った。
同道していた細川氏綱は、自身の養父・細川道永(高国)の妹婿という縁から、北の一蔵城主・塩川政年に合流を促し、細川持隆は三好利長の妹を娶わせる約束で芥川山城・芥川孫十郎の助勢を取り付けた。
この地で一番の義晴・晴元側勢力は茨木城主・茨木長隆だが、彼は在京して政権中枢に参加しており、城主不在の茨木城の動きは鈍い。
敵中に孤立しかねない状況に、池田三郎五郎は荒木氏・吹田氏を伴って、妻の父である三好政長の保護を求めて山城国へ退去した。
これを見届けた三好利長は一族の連盛や孫四郎に伊丹氏を付けて池田城を任せ、敵方の河内における富の基盤である十七箇所の荘園群に向かって東進した。
この地は細川晴元の管理下にあり、側近・三好政長が西の堺方を警戒していくらか砦を作っていたが、三好利長は果敢にも晴元方・三宅城の真南で淀川を渡り、大庭荘を突き抜けて新開池・深野池の向こう、幕府方の重要拠点・飯盛山城を目指した。
飯盛山城は父・三好元長と盟友・畠山義堯が最期の最期に攻めていた城であり、彼らの無念を打ち払うべく、利長の攻略目標は最初からこの城であったのだ。
◇
一方の北尾張・東美濃の問題は少し進展があった。
重勝の揺さぶりによって今川軍が全く戦意を維持できていないため、これを見た美濃守護又代・長井新九郎が和睦に前向きになってきたのだ。
今川軍が後詰として使い物にならなければ、北尾張を攻め切ることは不可能。攻略に十分な兵力を西から引き抜くと、守護職を諦めていない現守護・土岐頼芸の兄・頼武が何か仕出かすかもしれない。
すでに鈴木家の宿将たる伊庭貞説を討ち取ったことで先の敗戦の不名誉を十分に打ち消しており、これ以上粘っても利益はあまり大きくならない。
そう判断した長井は、いま現在の支配地域で国境を画定させる形での和議を土岐頼芸に提案した。
「守護様が土岐川西岸にご満足して和睦を許せば、鈴木は話を受けるだろう」と。
美濃方の意志が固まりつつある中、今度は幕府からの使者が東濃を訪れた。
足利義晴の奉行人である高齢の斎藤基聡と、その補佐の奉公衆・進士国秀である。
「かくて、河内と摂津を取り戻すべく淀と勝竜寺には神五郎殿(三好政長)・伊賀守殿(茨木長隆)が入りて兵を集めておりまする。やがては丹波・近江より大兵力の参集することとなりましょう。
されど、洛中は不安に揺れておりまする。一時の浮沈に心乱すはあさましけれども、それも方々のお戻りになるまでのこと。天下泰平のため、ここはいったん帰洛なさってはいかがか。」
「いや、しかし……。」
斎藤は穏やかな口調で岡部に語り掛けた。
返事に迷う岡部に対し、畳みかけるように進士が言葉を続ける。
「こたびのこと、尊家のみならず帷幄内外あまねく哀惜の尽きるはあり申さぬが、くだんの承菊禅師でしたか、かの方が駿府にある限り、貴殿ら精兵が駆け付けずとも万事滞りなく進むことでしょう。
それに、兵であるからこそ三河も渋るのでござる。我らが駿府に向かって御内書を届けましょう。不料簡の鈴木何某とはいえ、よもや我らをあからさまに害するはありますまいて。
さあさあ、公方様も方々のお戻りをお待ちしておりまするぞ。」
「そうやもしれませぬが……。」
進士が言っているのは、今川兵1500は京に戻って、代わりに彼らが駿府に何としても届けようとしている将軍・足利義晴の御内書を幕府の正式な使者たる斎藤と進士で運ぼうということだ。
さらに彼は「さあさあ御内書を託したまえ」と迫る。
それを横で見ている朝比奈親徳は、進士の強引な様子に、摂津と河内がかなりひどい状況にあることを察した。
幕府はせっかく京に戻ったのだ。財政も好転しかけている。ここで踏みとどまり、何としても山城国に堺方を入れたくない。そのために、さしあたって今川軍を戻し、それで守る間に丹波と近江の兵を動員しようというのだ。相当な力の入れようである。
実際、摂津はともかく、河内の戦況は絶望的だった。
三好利長に居城を追われた池田氏の援軍要請に惑わされ、細川晴元傘下の木沢長政はまんまと摂津に軍勢を差し向け、留守居の三好孫四郎とやり合ったが、これは罠だった。
摂津に幕府軍を引きつけたその隙に、利長は北河内の飯盛山城に取り付いたのである。
もともと、堺方の河内畠山氏・畠山在氏は南部の高屋城で誉田遠江守や保田山城守長宗らを集めて北上していた。しかし、幕府方が立てた畠山弥九郎なる守護がすでに河内国中部の若江城に入っており、これを支える守護代・遊佐長教の影響力もあって十分な兵力が集まらないままの進軍だった。
在氏軍は三好利長と同じく奇襲を仕掛けたにもかかわらず若江城攻めに失敗し、仕方なく南の久宝寺村に陣を敷いていたが、そこで飯盛山城包囲の知らせが入った。
退路を断たれて若江城は俄かに浮足立ち、特に守護の弥九郎自身が不安を隠せず、国衆に動揺が伝わった。さらにはこの機を待っていたかのように紀伊から畠山稙長が大軍を率いて北上した。
国衆の寝返りを警戒した遊佐長教は撤退を決断し、飯盛山の西の十七箇所に散らばる三好政長の配下や、さらに北の交野を押さえる河内国衆・野尻氏との合流を目指して移動を開始した。
しかし、軍勢が深野池と生駒山の間の隘路、野崎のあたりを北上するさなか、北からは三好軍が押し寄せ、さらには南からは急行してきた両畠山軍に挟まれ、幕府方・河内守護軍は壊滅した。
彼らは三好軍が城攻めで動けないとみて、ここで池を西へ渡って十七箇所へつながる三箇城に入ろうとしたのだが、予想に反して、利長は堅固な飯盛山を攻めあぐねると城を放置して劣勢の畠山在氏救援に向かっていたのだ。
結果、河内国衆の遊佐孫次郎英盛・萱振賢継・平若狭守らは討ち取られ、守護・畠山弥九郎と遊佐長教は捕虜となり首を刎ねられた。
河内の北端から援軍に駆け付けた野尻治部丞泰は、飯盛山城代・木沢中務大輔だけを回収して慌てて引き返し、さらに北の淀を目指した。
この惨状に、芥川孫十郎を敗走させるなど摂津で優勢に戦っていた木沢長政も、いったん茨木城に引き返して摂津の拠点の維持に努めることとなった。
◇
今川上洛軍は将軍・足利義晴たっての希望で駿府下向を諦め、京の守備に戻った。
一方、後詰のあてがなくなった美濃守護・土岐頼芸は鈴木家に西多治見を割譲させて和睦した。
そして、頼芸は返す刀で潜伏していた土岐頼武を襲撃した。守護又代・長井新九郎が、頼武の守護代・斎藤帯刀左衛門利茂を寝返らせて潜伏先を突き止めたのだ。
かくして美濃国は頼芸のもとに一統されたが、新九郎の暗躍はとどまることを知らない。
これからわずか数年で「信を得ていた主君・頼武を我欲で売って死なせた守護代」という流言で斎藤利茂の評判を落として謀反へと追い詰め、守護の地位を安定させようと頼芸の弟たちを暗殺するのだ。
もっとも、良かれと思ってのこれらの動きも、頼芸が喜ぶかどうかは別の話である。
また上方では、堺方が河内国の支配権を確立するに至った。
しかし、畠山在氏の苦戦を見た国衆の支持は畠山稙長に集まり、十七箇所の利権を放棄する代わりに稙長は在氏に対して高屋城など南河内の支配権を要求。在氏は受け入れざるを得なかった。
わざわざ在氏の無様を世間に示そうとしたかのような稙長の動きに、在氏は恨み骨髄。
やがて来る「そのとき」を見据え、家政機関の強化も兼ねて、和泉細川家から長曽根右兵衛尉、和泉鱸家から梶与吉郎を与力に迎え、堺方諸勢力との結びつきを強化した。
そして、安定しない北河内の統治のため、忠実な誉田遠江守を筆頭に、兄・義堯の死後に下野していた平豊前入道と小柳家綱を復帰させ、先の敗戦を不思議と生き延びた遊佐長教の被官・走井盛秀を中心に遊佐別流の弾正忠元家のもとで遊佐家を復興させた。
こうして地盤を固めながら、なんとか紀伊畠山家を出し抜くべく、古市公胤など被官の縁が残る大和衆徒・国民の調略に乗り出すが、必然、稙長の関心も大和国に移ることになる。
他方、京の幕府では、結果的に敵を利することになった池田氏と、目の前で三好軍の渡河を許した三宅氏に対する細川晴元の不信は深まり、唯一戦功をあげた木沢氏に対する信頼は増した。
南北幕府は内に不和を抱えつつ、それぞれ兵力を結集して摂津・河内・山城の境界域で睨み合う。
そして、三河鈴木家はこの戦役を以て北畠・今川・土岐に囲まれてもほぼ独力で抗しうることを世間に示した。
さしもの鈴木家といえど兵も連れていない幕府の使者を害するわけにもいかず、鈴木重勝は自らこれを三河へと案内し、遠江に送り出した。
しかしながら、尾張で蠢く陰謀はこれで最後ではなかった。
【コメント】木曽義在の名乗りは、「左京大夫」をもらうはずだった上洛軍を鈴木家・小笠原家に妨害されて送り出せなかったので(第72話)、別物になっています。
摂津・河内の動きは、色々と調べて考えましたが物語的にはナレーションで済ませるべきと判断しました。情報量・史実からの脱線は後書きで説明しきれないほどになってきたので、登場した地名・人名は雰囲気づくりのようなものとお考えいただければと思います。とはいえ、確認したいことやわかりにくいことなど気になることがあれば、ご質問いただけたらと思います。




