第12話 1515年「長篠」
三河国加茂郡足助荘真弓山城。
「田峯城攻めか。道をよくよく考えねばな。」
甚三郎の文を読んだ父・鈴木忠親は、田峯菅沼氏の牽制のために軍勢を出すことを承知した。
そして、これを機に家督を嫡男の雅楽助重政に譲り、この度の大将も彼に任せることとした。
「我が息・雅楽助重政には田峯攻めの大将を任せ、儂はそれを見届けて隠居いたす。家督は雅楽助に継がせるゆえ、皆の衆これをよく助けよ。」
「戦支度ぞ!者どもはこれよりそれがしに従うべし、よかろうな!」
重政は大いに気張って戦支度を整え始めた。
◇
重政は当初、甚三郎の共同出兵の提案に渋い顔を隠さなかった。歳の離れた弟が、分家の分際で本家の跡取りである自分を差し置いて勝手に戦を起こそうとし、そのための手配をしていることに苛立ったのだ。
「費えを出すというが、まことに出せるのか?
そもそもが家を分けたにもかかわらず早々に我らの力を頼るとは、なんともあさましきことよ。」
「待ちなされ、雅楽助。げほげほ、当家に甚三郎が偽りを申してまで事に及ぶはあるまい。
また、こたび田峯を落とすは無理なれど、甚三郎が東で力をつけた後には、げほげほ、代わって当家が田峯を得るがために力を尽くすと言うておる。先を見よ。」
忠親の弟でいまや床に臥せっている小民部丞は重政の説得に努めた。
重政に出兵を約束させるために、戦後に忠親が隠居し重政が家督を相続するという条件を出したのは、小民部丞だった。
彼の目から見ても、老齢でありながら家督を譲らずに末子を贔屓している忠親のありようはよくないように見えており、妥当な結果だった。
◇
一方で、重政の子・千代丸は甚三郎から送られた自分あての文を素直に喜び、小民部丞に読んでもらっていた。
「それで!続きは何とある?兄者は鳳来寺まで出でていかがしたのか!」
「げほげほ、甚三郎は風土を探りにでかけたようじゃ。はたしてそこまで攻めるつもりかはわからぬが、ごほっ、地の利は大事。千代丸も人も土地も周りをよくよく知らねばならぬぞ、げほげほ。」
小民部丞は千代丸の傅役のようなことをしていたが、もはや余命幾許もないと思われた。
「さて、甚三郎は鳳来の麓の大野の淵龍寺に至り、ごほっ、大野の城が元は鈴木何某の城なりと聞いたそうじゃ。」
「ほう、そうなのか!それは取り返さねばいかぬな!」
「そうじゃな。げほげほ、戦は理なからば神仏のご加護を得られぬものじゃ。甚三郎はそのことよく心得ておる。こたびは冨永の家を戻し、大野の城を取り返す。そういうことじゃな、げほげほ。
そして……なんじゃ、甚三郎のやつ、鳳来寺を開かれた利修仙人の湯に浸かったなどと書きやりておる、げほげほ。」
「いいなあ、兄者だけ。」
病床の小民部丞を見舞っていた忠親は、甚三郎の生き生きとした様を聞いて、これを外に出した自らの判断が正しかったと確信した。
しかし同時に、重政が甚三郎の補佐を受けて勇躍するという未来を夢想しては、自分の生きているうちに見ることはかなうまい、とやるせなくも思った。
というのも、忠親も近頃は体調不良を覚える日が増えてきていたからだ。
忠親が隠居を受け容れたのは、自身の寿命を自覚してのことだったが、それだけではなく、この出兵によって我が子・重政の力を家中に知らしめ、相続を安定して行うためでもあった。
しかし、父のそうした配慮に気が回らない重政は、ようやく父を退かせることができたと喜び、父に長年仕える口うるさい旧臣から距離を取り、戦の準備においても子飼いの配下を優遇していた。
老いによる衰えを強く自覚する忠親は「自分の亡き後、重政と甚三郎はうまくやっていけるのか」と言い知れぬ不安に襲われるのであった。
◇
「急げ急げ、夜闇に紛れて長篠に乗り込むぞ!川には落ちるな!かようなところにて落ちては怪我どころでは済まぬぞ!」
甚三郎の臣・鳥居父子は、足助・吉田・宇利で予め示し合わせていた期日になると、日暮れ頃に長篠に向けて進軍した。
彼らの目標は、長篠から田峯への援軍要請の使者を通さないよう封鎖することだった。
父子が率いるは小弓衆と吉田の農民たち、総勢100足らず。
小弓衆とは、その名の通り、小弓の扱いに習熟した若衆のことで、この小弓は甚三郎が足助にいた頃に特別に工夫して作ったものだ。
その弓は焼いた竹を藤弦で固めて作られていて、体のできていない若者が主に狩りのために山林で使用することを念頭に、取り回しやすいように作ってあった。
射程はともかく、貫通力は大弓に比べてもそれほど見劣りするわけではなかった。
この一団は黄柳川に沿って、この川と豊川支流の宇連川が合流する地点に向かって西進する。
「よし、筏を運べ!」
山林の開ける手前のあたりには、味方の見張りが隠しておいた筏を守っており、一団はこれを宇連川に浮かべて人は流されないようにしがみつき、荷も濡れないようにしながら、素早く渡河した。
その後は筏も回収して運び、日中に先行して潜伏していた平七・平八が一団を長篠城に向き合う位置にある大通寺に招き入れ、これを占拠。
防御陣地とすべく、深夜の内に寺の壁板や戸板を剥がし、筏を崩した材木や持ってきた諸々の材料や竹楯などと組み合わせて柵を築いた。
翌朝、異変に気付いた長篠菅沼氏の老将・新九郎元成が慌てて城に入り兵を集め始めたが、鳥居父子はそのために出てきた者を討ち取ったり追い返したりして、兵が集まらないよう邪魔をした。
さらに翌日、いくらかの兵をまとめて攻めてきた新九郎勢を、吉田鈴木勢は柵をうまく使って押し返し、柵の前で攻めあぐねる敵に向けて、寺の屋根から小弓衆が矢を射かけると菅沼方は撤退した。
「源右衛門兄者、この踏み鋤、よく役に立つのう!」
「あまり長持ちはせぬがなあ!」
平七と平八が元気に鳥居源右衛門に話しかけた。
大通寺の鈴木方は、このような小競り合いを繰り返しながら、敵が来ない隙に綻んだ柵を修理したり、壁の外の土を掘り返して堀を作って足場を悪くしたり、その土で土塁をつくったりして陣地の防御力を上げていった。
その時にはこの踏み鋤が役に立った。
踏み鋤は幅が広い割に丈が短く先が尖っていて、地面に刺して足で押し込み、てこの原理で体重をかけると、浅くはあるが容易に土を掘り起こすことができるものだった。
踏み込みを浅くすることで板と柄の接合部分への圧力がかかりにくいようにして少しでも壊れにくいよう工夫がしてあった。
小弓衆も農民兵も、吉田での開墾や溜池の作成で使い慣れており、作業は順調に進んだ。
こうして防備を固める一方、源七郎は一隊を率いて外に出て巡回し、長篠城から援軍を求めて外に出る者を見張って追い討ち、応援のために村々から城に集まろうとする者を散らすということを続けた。
「食料はあと10日分ほど。すべては野田がいつ落ちるか。」
甚三郎からは食料が尽きそうになればこの地は放棄して吉田に逃げるよう厳命されていた。
この地が守れずとも、10日近く長篠勢を引き付け、田峯からの援軍がないか監視しておくだけで、作戦は成功なのである。
源七郎はそれをよく心得ていたため、敵に囲まれても嫡男・源右衛門や小弓衆らを気遣う心の余裕を持つことができ、辛抱強く籠城を続けるのだった。