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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第10章 獲麟編「愚者と憤怒と悔恨」
139/173

第127話 1534話「大悟」◇

 美濃守護又代・長井新九郎によって迫害を受けた明智家は三河鈴木家のもとへ逃げ込むよう誘導され、それに紛れ込んだ間者により鈴木家宿将・伊庭貞説は命を落とした。

 この偽降伏の計に乗じて美濃土岐軍およそ5000は一夜にして北尾張に入り込み、退却した伊庭党によって焼かれた楽田城を中心に、その北の梶原氏の羽黒城、南の落合氏の上末城、南東の西尾氏の大草城を抵抗なく占拠した。

 彼らはいま、占領した城の周囲で収穫期の田をこれみよがしに荒らしているが、おそらく明日には南へと進軍することだろう。


 ◇


 大森城、広間。

 伊庭貞説を失い、そして、その死を隠しておかねばならない。

 伊庭党は頭目の死を悟られぬよう、大森北の上条城に籠って他の勢力を寄せ付けない。

 彼らが動けないとなっては、この局面で適切に指揮を執れるのは真実を知る唯一己のみ。

 しかし、不思議と苦しくはない。心細くもない。恐れもない。

 妻が死に、娘も死に、父とも友とも呼べる者たちが次々と死に、残るは指折り数えるほど。

 これぞ無常。これが捨とかいう心なるか。よもやこれが身心脱落か。いや、きっとそれもまやかし。己ごときの到達できる極地ではないだろう。

 凪いだ心で鈴木重勝は諸将に呼び掛けた。


「我らに足らぬは時なり。これをいかにして稼ぐかにすべてがかかっておる。」


 急戦ゆえに、三河勢が相手方に伍する兵数を集めるにはあと数日かかる。

 現有戦力は上条城に籠る伊庭党数十のほかは、この大森に1300ほどである。

 せめてあと2000はないと勝負にならない。


「されど、数日を越えて手こずってはならぬし、東三河から兵を引き抜きすぎてもいかぬ。これを好機と見て遠江が寄せてくるやもしれぬゆえな。」


 諸将も難しい顔で「そうだ、そうだ」と納得している。

 重勝も一つ頷いて諸将と思いを分かち合う。


「いかにも厄介なれど、敵方の出しうる兵はこの数千ですべてであろう。この兵は可児に集まる軍勢に相違なく、てっきり小里を目指すものと思うておったが、欺かれたはまことに痛恨。」


 尾張攻めならば各務野の守護所・枝広館や川手城に兵を集め、犬山あたりで木曽川を渡って攻め来るはずだから、可児川の北に集まる兵力は小里を落とすためのものと想定されていた。

 しかし、それは目くらましであり、美濃勢は裏をかいて、わざわざ善師野の峠を越えて楽田城を奇襲したのである。


「さにあらば、小里の兵1000にただ見物させておくはありえぬ。これを遊軍として用い、然るべきときに敵軍に横槍入れてみせんとぞ思うに、されど、それまで2日は耐えねばならぬ。

 また、すでに古渡の次郎左衛門(熊谷直安)にも使いを出したで、今晩には織田の様子が知れよう。うまくすれば、そちらからも兵を得られるやもしれぬ。」


 織田信秀は熱田の鈴木兵が介入してくるのを嫌って長期かつ大規模の出兵を避けてきたから、清洲織田家と信秀家の戦いは小競り合いの繰り返しだった。

 その中で、鈴木は鈴木で単独では力不足の清洲からの援軍要請を断って守備に徹してきたため、清洲織田家は独力で岩倉城の攻略を目指していたが、ようやくこれを制圧するに至っていた。

 しかし、清洲方の疲弊は深刻で、一方の信秀は最低限の短期出兵で城攻め中の清洲の妨害を重ねただけであり、まだ余力があった。

 しかも、その隙に信秀はじわじわと尾張北西部の国衆とわたりをつけており、本拠を失った岩倉の織田伊勢守家を保護下に置く形になって、かえって勢力を増していた。

 つまり、いつ信秀が動き出してもおかしくない状況だった。

 いや、それだけではない。

 伊勢の北畠氏もいつ動いてもおかしくない。

 せっかく志摩国・答志島から呼び戻す予定だった松平重吉には、しばらく島暮らしを続けてもらわねばならないだろう。


「古渡からいくらか兵を入れても1500かそこら。明後日に小里の兵数百が合わさったとて2000と少々。敵の半分にも届かぬ。ゆえに、さらに三河から兵を呼び寄せねばならぬ。どれほど送ってよこすかは舎弟(鈴木重直)次第なるも、500か1000は固かろう。これでようやくやり返しうる兵力となる。」


 重勝は諸将に過不足なく見通しを示した。彼はこういうところで嘘は言わないから、大森の守将・西郷正員ら主君の人柄をそれなりに知る者は、この見立ては確かだと判断した。


「三河の兵は今川に気取られぬよう慎重に動かさねばならぬで、来るまでに2日では済まぬ。」


 そう言って重勝は、西郷らに聞き取って城砦の分布を書き起こした大地図の上に刀の鞘先を落とし、庄内川に沿って動かす。


挿絵(By みてみん)

※南の川が庄内川、北の川が木曽川


「それまでに庄内を越えられては終いぞ。大森より内に入らるれば、味方諸城は内に敵を抱えることとなり、互いに助け合うこと能わず。ゆえに、川向こうの上条城・吉田城にて敵方の渡河を防がねばならぬ。これは決死の守戦となるであろう。」


 重勝の決然とした物言いに諸将は気を引き締めた。


「すでに伊庭党が上条城にて守りを固めておる。そしてまた吉田城にも守備を置かねばならぬ。これを援護するに隊を大森に置いておってはよからず。敵前で渡河するわけにはいかぬでな。そこで、予め庄内の上手に渡し場を用意し、ここに隊を置いて城攻め中の敵を邪魔だてする。」

「吉田の守備は儂にお任せ願いたく。その代わり儂に万一のことござれば――」

「安心するがよい。そなたの子、孫、累代にわたりて厚く遇さんと約束する。」


 集まった者たちの中から一番に声を上げたのは、大森城付近の住人である岡田与七郎重篤。

 彼はすでに老境にあって、命を捨てるのにためらいがなかった。

 岡田家は、居所が近すぎて尾張大森に進出した鈴木家に早くから臣従せざるを得なかったが、なかなか尾張勢の立身は進んでいなかった。その中で与七郎老人は己の命を対価に、命運を託した鈴木家中で自家の格を押し上げようと意図していた。


「与七郎殿の跡を継ぎたる与九郎殿(岡田重頼)もまた文武に通ずる者にございまする。」


 主君が尾張国衆について詳しくないと思った西郷は重勝に助け舟を出した。


「なるほど、しからば、与九郎は本陣に入りそれがしの身を守ってほしい。」

「愚息にはもったいなき誉れにございますれば、これで思い残すことはありませぬ。」

「ひとり御老体にはちと荷が勝ちすぎましょう。それがしも助太刀しますぞ。」

「おお、これは下方殿。殿、助力を願っても?」

「頼もしき限りだ。」


 重勝は西郷にちらっと視線をやった。


「弥三郎殿(下方貞経)は小笠原の流れにて武辺の者。先には男児にも恵まれ、家運の先行き明るくてござる。」

「では、その嫡男を譲り受け我が小姓とし、やがては文武、望みの道を用意しよう。」

「後ほどおそばに参上させまする。」


 重勝は尾張国人の寝返りを警戒して籠城戦を選択しなかったが、闘志をたぎらせる彼らを前に己の猜疑の深さを恥じ、ますます晴れ晴れとした心持で己に向けられた数多の瞳を受け止めた。

 東三河では二川の陣城をめぐり、動きのない鬱々とした戦場で腐っている者たちをひたすら励まして回ったが、そういえば戦場に自らが立つのは久々ではないか。

 三河者も、その瞳の訴えておったところでは、かような血の沸き立つような戦場を求めておった。それを宥めすかし、専守の必要を説いて回った己はいったいどんな顔だっただろうか。

 思えば、先に逝った伊庭も戦となると活力が増したかのようだった。見つめ合う西郷のまなこにも少しの怖気もない。西郷はこんな面構えだったか、顔をちゃんと見たのも久しぶりだ。


「さても、弾正左衛門(西郷)!おぬしはこれまでまことによく尾張方々と通好し、当地の安寧に努めてまいった。かようなおぬしであればこそ、拠って守る砦もない中にあっても敵の討手を捌きて城攻めを妨ぐるの大任を果たしうるとそれがしは思う。」

「身に余るご期待、何とか応えて進ぜましょう。」


 靄が晴れ視界が広がったかのような爽快感と男どものむさ苦しい圧が肌身に鮮やかに感じられる。


「うむ、これより数日の辛抱、いまこそ性根なり。」


 ◇


 重勝は上条城の伊庭党に有無を言わさず補充兵を送り付けた。

 美濃兵を引きつけるのは上条城の伊庭隊100、吉田城の岡田・下方隊100となった。

 また、古渡からは元水野家臣・中山重時が100の兵を連れて応援に来た。

 中山が伝えるところでは、織田信秀に熱田を攻めるそぶりはなく、兵が集まるのはあくまで尾張の北西部で清洲を意識しているのに変わりないとのことだった。

 美濃土岐軍は羽黒・楽田・上末・大草と道中の諸城に守備や小荷駄を置き、4000弱で2城に攻め寄せた。本陣は朝宮白山宮。そこから南東の上条へ1200、南の吉田へ1200の兵が攻め寄せた。


「上条の方は西郷隊の援護が届くで数日は持つやもしれぬが、吉田は厳しかろう。与九郎よ、その方の父には済まぬことをする。」


 重勝は大森に残り、その少し北で庄内川に面した川村城に移り、わずか300の本隊を指揮して見せかけの炊事煙と旗幟を立てて兵数をごまかしながら、新たに側付となった岡田与九郎に声をかけた。

 この川村城は、元は岩倉織田家に親しい岡田時常の居城で、岡田を介して岩倉織田家臣引き抜きを試みてきたが、肝心の岡田が鞍替えを受け入れなかったため、銭を与えてこれを退去させていた。


「父は覚悟の上にござる。武士たる者、死してもなお守らねばならぬときが来ることは、それがしもわかっておりまする。」

「それがしの感謝の全く尋常ならざること、こればかりは知りおきてほしい。」


 重勝は謝ってしまってから「謝られても主君相手、答えに困るか」と思ったが、言葉にしないのはもっとよくないに違いない。


「川のこちらに矢倉を立て、そこから遠矢に射てみるのはどうか。」

「河原は一段低くなっておりますれば、矢倉の高さありても矢はさほど遠くまでは伸びますまい。川べりから城まで100間(約180m)ではきかぬところにござる。」

「ダメか……。」


 そんなことを言っていると、川沿いに展開して味方の様子や渡河してくる敵がいないかを見張っていた者たちから報告が入る。


「ふむ、上条に西郷らが寄せておるか。」


 西郷隊は戦場での押し引きに細やかに対応できるよう、物頭を増やし自律的な小部隊を多数擁している。尾張兵は三河兵ほど練度がないが、その分、物頭の数でどうにか動かそうというわけだ。

 西郷正員と青山忠教の監督のもとで、渡し場の守備に残る神谷助兵衛を除く、林光利・猪子弥兵衛・小坂孫九郎・梶川平九郎・大原惟宗・大須賀正綱・八国詮実・中山重時らが分かれて数十ずつを率いて敵を攪乱する。

 よく統御された小兵団はほとんど落伍者を出すことなく上条城攻め中の美濃兵の背後や側面を脅かし、攻め手大将・各務盛正の指揮は大いに乱れた。

 兵をつり出しては他の隊で叩くといった姑息な戦法で少しずつ出血を強い、攻城戦に集中させない。しかし、味方の損害だけは避けなければならない。数日かけて戦い続けることが本意なのだ。


「上条城の攻め手が苛立てば、本陣と吉田城の攻め手から兵が送られるやもしれぬな。吉田の兵に動きがないか、与九郎よ、おぬしが見てまいれ。動くようならば、渡河してでも攻撃を仕掛ける。」


 重勝はそう言うと、丸太を数本、綱で編んで筏を作らせ、それらを縦に並べてひときわ丈夫な綱でつながせ、渡河の準備を始めた。


「この上を走り抜ければ具足武者でも数十は対岸に渡せよう。これで敵を誘き出し、対岸から矢を射かける。新八郎、おぬしも弓を支度しておけよ。」


 1刻もすると案の定、上条城へ増員が送られ、吉田城の攻め手は少し少なくなった。


「動いたとはいえ、せいぜい100かそこらか。」

「刑部少輔様、その囮役、ぜひともそれがしと弟らにお任せあれ。」

「何を言う、与九郎。それで万一あらば、そなたの父御に顔向けできぬわ。」

「それがしには子もおりますれば。」

「むう。」


 確かに渡河する兵を率いるにふさわしい者はこの貧弱な本隊にはいない。めぼしい者はすべて西郷隊に送ってしまったからだ。

 結局、少しでも父の助けになろうという与九郎の熱意を無下にできず、重勝は与九郎兄弟の出撃を許可した。

 与九郎ら三兄弟は率先して川面に浮かぶ丸木の上を駆け、たちまち対岸に取り付き、城の搦手を目指して駆けて行く。それに続くは30人ほど。

 数人は丸太を渡り切れずに水没したため、重勝は「これで死んではあまりに無念!」と言って綱の先に板切れを括りつけたものを川に投げ込ませる。ふんどし一丁の数人も助けに川に入った。

 そうこうするうちに、城の搦手まで到達した与九郎が城兵を大音声で鼓舞した後、敵兵に追い立てられて川岸に逃げてきた。


「そうれ、来たぞ!存分に矢をくれてやれ!兜武者を狙え!」


 重勝も菅沼新八郎らとともに遠矢を射かける。しかし、矢はまるで当たらない。


「腕がなまっておるな。詮方なし。されど、味方はなんとか逃げたか。大して意味はなかったやもしれぬが、攻め手も我らのここにおることで気を散らすことであろう。」


 与九郎らの帰還がなると、重勝は川岸を離れようとしたが、そのとき、1本の矢が彼のすぐそばをかすめて背後の土に突き立った。


「あわや!敵に弓の上手がおったか、危なかったわ。」


 重勝が矢の飛んできた方を向けば、揚羽蝶の指物が見えた。


「その方の紋、覚えたぞ!首を洗って待っておれ!」

【注意】下方貞経の仮名(弥三郎)は子孫から採った架空のものです。

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― 新着の感想 ―
[良い点] これはワクワクしてきた。鬱々としていた重勝が弾けるのが楽しみです。
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