第126話 1534年「虚報」
「伊庭が死んだっ!?まことのまことであるかっ!?少しの偽りも許さぬぞっ!!」
鈴木重勝は岡崎の宇津忠茂が遣わした使者・大原善大夫正継に駆け寄って、これを突き飛ばす勢いで問い詰めた。
「そ、それがしは、報せを受けてすぐに岡崎を出立いたしたほどに、そのう……。」
「であらば、まだわからぬ!いずれにせよ、かようなたわけた話がまかり通るほど尾張はおかしなことになっておる!三河は舎弟に任するで、ここはそれがしが出る!支度せよっ!!」
大原がもたらしたのは「美濃土岐氏の軍勢数千が鈴木家宿将・伊庭貞説の守る尾張北部の楽田城を攻め、伊庭が戦死した」という凶報だった。
2刻(4時間)かけて馬を乗り継いできた大原は疲労困憊であり、気色ばむ重勝の放った殺気に中てられてしどろもどろに答えるとすっかり腑抜けてしまった。
重勝はこれを捨て置き、側掛(馬廻)を大声で呼び集めながら武器庫に駆けていく。
護衛の阿寺平七は、呆然と突っ立ったままの近習・菅沼新八郎の襟をひっつかんで主君に続いた。
◇
今川との約定で二川から引き揚げてきていた500の兵を引っ張り出した重勝は、宇津忠俊が応援に寄越した物頭・八国甚六郎を連れて夜通し東海道を西へ進み、朝には岡崎に到着した。
「左衛門五郎!兵は連れてきたが物頭が足りぬ!融通せい!」
「手配いたしまする!」
城門で出迎える宇津左衛門五郎忠茂に対し、重勝は到着早々に尾張入りの軍勢の増強を命じた。
宇津が、僚将にして腹心の坂部又十郎正家に目配せをすると、坂部は城内へ駆けて行った。
「それと言うまでもなけれど、吉良から目を離すな。不穏なる者あらば、問答無益にて討て!」
「すでに左近殿(大給松平乗正)に兵を付けて送っておりまする。」
「よし!」
岡崎が動揺せずによく備えているとわかると、重勝は馬を降り、地べたに尻をつけて休む。
そして、聞きたくてうずうずしていた伊庭出羽守貞説の安否を尋ねた。
「それで!伊庭はっ!?」
「出羽守殿は大森まで下がられ申したが、ご健在との由。」
「であろう!」と大声で叫んだ重勝は、
「いかにもそうであろう!思うた通りよ!」と安堵した様子で何度も繰り返した。
「されど、酒井左衛門殿(忠親)、ご嫡男殿お討ち死にとの――」
「さ、酒井が!?しかも嫡男まで!どうしたらかようなことがありうるというのだ!いや待て、あそこは分家があったか……。」
「殿、お気を確かに。詳しくは儂もわかり申さぬものの、何か姦計があったようで。また、左衛門尉の家には幼いながら次男がおりまするし、雅楽頭家には万千代が元服間近にございまする。」
「姦計?出羽の膝元で?奇怪な……。しかし、左様ぞ、万千代がおった。我らで一向門徒の手より助け出したな。それに、酒井は将監も信誉入道もおるか。」
「左様にございまする。どうぞ落ち着かれませ。」
重勝は宇津に宥められてなんとか不安を制したが、酒井家が壊滅した事実は変わらない。
宇津・青山に並ぶ西三河勢の筆頭家門である酒井氏は左衛門尉家と雅楽頭家に分かれるが、雅楽頭家は対松平戦中に万千代(酒井正親)ひとりを残して全滅しており、現状、両家ともに成人の家督継承候補者がいない状況となってしまった。
酒井将監忠尚は戦死した忠親の弟だが、鈴木の官吏のような立場にあって本家との縁は薄い。この兄弟の父に寺社奉行・酒井信誉入道もいるが、彼は先ごろ隠居願を出している。
信誉はこの戦の後には、協力して寺社関係に対処してきた下野出身の伊勢神宮取次・永山道損とそろって勇退することになっており、後任はそれぞれ青山忠教と阿知和玄鉄の予定だ。
この青山は分家の当主で、本家の忠門・重成兄弟が幼かったため家督を代行してきたが、兄弟が元服したため出家する取り決めだった。
阿知和は答志島を守備する松平重吉の弟で、重吉の忠誠を固めるために組まれた人事だが、神宮取次、すなわち伊勢御師のまとめ役の務めを果たすことが期待されている。
いずれにせよ、酒井左衛門尉父子の死は、自立して数百の兵を指揮できる将家が当面機能不全になったということであり、これは深刻な問題だった。
「ううむ、酒井の穴はこの500の兵で埋まろう。されど将が足りぬ。おぬしのせがれを東から一人連れてきたらばよかったか。そうだ、ここらに神谷のせがれがおったはず。」
神谷というのは駿府で雑掌の任に就いている喜左衛門のことである。
「助兵衛吉久にございまするな。神谷は一族も多く、なるほどよきご思案。また、岡崎にはそれがしの手勢に大原左近右衛門(惟宗)、小荷駄をよく切り盛りし申した大須賀(正綱)もありまする。これにお連れの八国でなんとか足りましょう。」
「500を統べるに足る者は――」
「この中では大原か大須賀か……。」
宇津の悩む風なのを見て、重勝はどちらも文句なしの器量とは言えぬのだと判断して命ずる。
「であらば折半させよ。どちらか先に支度の整いし方とともにそれがしは大森に入る。」
「承り申した。」
◇
大森は知多を除いた東尾張の中ほどにあって、鈴木家の尾張支配の拠点であり、十分な防備が整った城である。
城外には北尾張から追い立てられて逃げて来たらしい者たちがたむろし、元々の守備隊の炊き出しを受けている。
「出羽(伊庭貞説)はおらぬのか?」
「川の向こうに足がかりを残しておこうということにございましょうか。熱田を疎かにするわけにまいらず、手が足りておりませなんだところ、三河よりの500あらば上条と吉田の2城で美濃勢を迎え討つことができましょう。」
答えたのは尾張の備えを任されている西郷正員だが、会話がかみ合わない。
重勝が聞きたいのは伊庭の所在であるが、西郷は重勝がすでに事のあらましを知っていると勘違いしているようだ。西郷も北尾張失陥に酒井隊壊滅で心が乱れているのだろう。
「ともかく急ぎ兵を集めて尾張に入ったゆえ、おぬしが何を言うておるか皆目わからぬ。」
「ああ、左様でございましたか。ええと、出羽守殿は北の上条城におられまする。しかしさても、どこから話したものやら――」
◇
東尾張は伊勢湾・熱田方面を熊谷直安麾下の知多勢1000が守り、その後背にある大森城に西郷正員麾下の予備戦力500、そして最北の楽田城に伊庭貞説麾下の500が入っていた。
熊谷には水野・永見・中条ら尾三国境の者らが、西郷には青山・酒井の両将らが、伊庭には林・小坂・下方・岡田・落合ら地元の土豪が属する。
これとは別で、尾張・美濃・三河の境目になる小里城には小里氏・三宅氏らの1000が入って、東美濃の明智城に集まる守護・土岐氏の軍勢に備えていた。
そして数か月前に鈴木家の銃筒に驚いていったん退却した守護軍は、これを恥とみなして大いに憤り、いよいよ本腰を入れて討伐軍の準備していた。
そんな中、楽田城には、犬山城を守る尾張守護斯波家被官・佐々成宗からの使者がやってきていた。
「――かくして、明智家は仕える守護家、いやむしろ又代・長井家の求めによく応えて無私の奉公を重ね、ために、まことに窮乏しておるとか。」
佐々の小舅にあたる使者・堀場氏兼はそう言って伊庭貞説の様子を伺うが、伊庭は首を横に振り、跡継ぎの半三貞保(服部保長)も静かに座すばかりで、答えたのは配下の九里采女正だった。
「銭はまからぬとお伝え願いたし。」
「まあ、そうでございましょうな。」
銃筒で狙撃されて死んだ明智家当主の光綱の弟・次左衛門光久は鈴木家の捕虜となっており、明智家は犬山を介してこっそり人質返還交渉を行っていた。
明智家と姻戚関係にある守護又代・長井新九郎は、捕虜を取られた彼らの忠誠を試しているのか、その居城を守護軍の駐留先に定め、軍勢を養うために明智荘の多くの人・物を使い潰していた。
そのせいで困窮した明智家は、内通を疑われないよう犬山城代の佐々に仲介してもらって、身代金の支払い猶予や減額の要請を鈴木家に申し入れていたのである。
「家督は?」と伊庭が一言尋ねると、九里がすかさず補足して言う。
「明智家の家督はどうなっておりまするか?」
「いや、聞いておりませぬな。」
「いまは先代の一関斎殿が仕切っておられるのでしたな。」
「左様にござる。」
堀場の答えに伊庭は考えを巡らせる。
長井新九郎は外様ながら美濃で成り上がり、無理やり長井の名跡を継いだ奸人である。
長井の所領を得たとしても国内の地盤は不確か。ゆえに明智から嫁をとってこれを被官にでもしようとしたのだろうが、その明智が揺らいでいる。嫁との間に明智の血を引く男子があれば、これに明智の家督を与えて押領する好機である。
難しい顔をして白のまじった鬚をいじる義父の様子に、明智家の問題が深刻なのを悟った伊庭半三は、それに代わって堀場に告げた。
「義父上は明智家に不審ありと見ておられまする。」
「いやはや、出羽守殿のご慧眼には恐れ入りまする。実はですな――」
◇
伊庭貞説は犬山城に来ていた。
佐々と堀場の見守る中で、明智光安は平伏して伊庭に願いを述べた。
「出羽守殿におかれましては、なにとぞ当家の復領にお力添えいただきたく。これを成したる暁には、ご主君の鈴木刑部少輔殿に一族総出でお仕え申し上げまする。」
これに対して伊庭は一つ頷いたが、平伏している明智にはそれは見えない。
しばらく意味のない沈黙が流れると、伊庭の視線に気づいた九里采女正が慌てて言う。
「明智殿、面をお上げくだされ。聞けば、長井よりずいぶん無体な仕打ちを受けたとか。」
光安は悔し涙をかみしめて嗚咽を漏らしている。
結局、明智家と長井家は決裂した。
明智一関斎が家督を光安に一時的に継がせる許可を守護・土岐頼芸に求めたところ、長井新九郎に肩入れしている頼芸はこれを拒否した。
故・明智光綱が家督を継いだ際に、光安が相続権放棄を示して「柿田」を名乗ったから、というのが相続不可の理由とされた。
そして、頼芸は一関斎の娘と長井新九郎の間に生まれた幼子に明智家の家督を継がせるよう命じた。
これに不服の一関斎は、光安以下の身内を夜の闇に紛れて明智長山城から逃がし、守護と又代の横暴を非難して諫死したのであった。
伊庭は光安をしばらく眺めると、一言だけ発した。
「参られよ。」
二度と戻ることのない近江の故郷を思ったか、三河に落ち延び重勝に仕官したのを思い出したか。主君を注視する九里采女正であっても、彼の無表情からはその心の内を伺い知ることはできなかった。
◇
もともと深田の中にポツンと本丸があるだけの単郭城だった楽田城は、鈴木家の支配下に入ると増強されて、今や南北に出城を備え、ぬかるみの周りにさらに空堀や柵を持つようになっていた。
500の兵は三分の一が本丸に、三分の一が南北の出城に、残りが城の周りの掘っ立て小屋に分かれて暮らしている。
事が起こったのは明智家が移り住んでほんの数日後の深夜だった。
「火事だぁ!火事だぁ!」
多くの兵が寝泊まりしている城外の簡易長屋で次々と火事が起こった。
深く眠っていた者たちは煙に巻かれてそのまま二度と目を覚ますこともなく、異変に気づいた者たちが火消しに駆け回る頃には、すでに3棟が煙炎に呑まれていた。
「壊せ!壊せ!燃え移らせるな!」
本丸居館で寝起きしていた伊庭半三は義父に代わって城内の兵を連れて陣頭指揮を執り、城外の長屋を次々に打ち壊していく。
「けが人は南の曲輪へ!手透きの者は明智の者を探せ!片端から捕らえよ!火付人はその中におる!」
明らかに放火であった。
真っ先に疑われたのは明智家の面々であったが、彼らも何が起きたのかわかっていない様子で、一団を率いる光安の呼びかけで素直にお縄についていく。
どうもおかしいと半三が思ったあたりで、北の曲輪に詰めていた尾張衆・下方貞経が駆けてきた。
「半三殿!見たまえ、あれなるは松明の灯り!敵襲にござる!」
「なにっ!?火事にかまけて近づくを見落としたか!おぬしは兵を取りまとめ、北の曲輪を守れ!それがしはともかく義父殿のもとへ――」
「半三様!一大事、一大事!!」
するとそこへ配下の足軽・愛智源助が槍を片手につんのめるようにしてやってきた。
「何ごとぞ!」
「ここで口にするは憚られ申す!ともかく本丸へ!」
源助が有無を言わさず伊庭半三を引っ張っていく。
本丸の入口は九里の手の者が固めていて、内部には直参の者しか入れなくされていた。
その異常な様子に、半三は炎に焼かれてカラカラに乾いた喉をごくりと鳴らした。
そして、居館に入ると、半三がそこで見たものは――
「ち、義父上……。」
腹から血を流し苦しい息の伊庭貞説の姿だった。
「げ、下手人はそれがしが討ち果たし申した。」
源助は震える声でズタズタになった老人の死体を槍で指した。
彼には知る由もないが、貞説に重傷を負わせたこの男は、本来、明智家の家督を継いでいるはずだった頼明なる人物だった。
彼はここ何十年か兄の一関斎と所領や家督をめぐって争ってきたが、他の明智家の面々同様に長井新九郎に搾取されており、一関斎が自害するにあたって光安ら一派との和解と協力を約束させていた。
しかし、すでに頼明は新九郎に嫡男・定明を人質にとられており、また、兄の一族との遺恨も直ちに水に流せるものでもなく、新九郎の命で偽りの降伏をせざるを得なかったのだった。
手勢に付け火をさせている間に、混乱した本丸に侵入し、消火やけが人の相手などで人が出払っていて手薄になっていた居館で凶行に及んだのである。
頼明の死体を呆然と見ていた伊庭半三に、いつの間にかそばに来ていた九里采女正が声をかける。
「半三様。」
「采女!」
伊庭半三ははっと我に帰った。
「一通り手当はいたしたものの、どこまでもつかはなんとも。」
采女は貞説の容態について悲観的なことを言った。
なにしろ貞説も、もう耳順(60歳)。傷から立ち直る生気があるかはわからなかった。
「なんと……。いや、待て、今はともかく敵のこと。おそらくは土岐が攻めてきておる。それがしが軍配をとって迎え討たねば。しかし、このありさまで守り切れるか……。」
火事の死傷者は数十人は下らない。逃散した者もいるのではないか。
手早く騒動を収めたが、すでに敵は眼前に迫っており防御を固める時間はない。
一方で、この大悪人の手勢が兵の中にまだ隠れ潜んでいたとしても、彼らが迫り来る軍勢に呼応して再び悪さをするのは、さすがにもう無理だろう。兵たちも警戒を強めている。その意味では、ともかく本丸に人を集めて籠る分には、やってやれないこともない。
しかし、問題は士気である。
「うぅ。」
悩む半三の耳に義父のうめき声が聞こえた。
義父は何といっても東三河鈴木家古参の宿将。
これが動けない、あるいは最悪、死亡したと知れたら、一城どころか尾三全軍の士気にかかわる。
いくら跡継ぎの自分が采配を引き継ぐといっても、自分は新参者。まだこれといって武功もない。かえって不安が広がるかもしれない。
「義父上、ここは退きまする。そして、義父上には生きていてもらわねばなりませぬぞ。」
半三の言葉を聞いた貞説は、脂汗の浮かぶ顔を義息へと向け、小さく頷いた。
「源助、おぬし、背丈が近いな。義父上の甲冑を着て馬に乗れ。」
「え、それがしが?」
「采女、義父上は籠でお連れできるか?」
「籠は、ないでしょうな。なれどご安心召されよ。それがしが背負ってでもお連れし申す。」
采女に頷きを返した半三は、すぐに居館を出て主だった物頭を集めた。
そして、城をそのまま敵の手に渡さぬよう、出がけに建物を燃やして回った。
けが人は捨て置かざるを得なかったが、美濃勢が到着する直前に、なんとか400と数十の兵を保って東の峠を越え、大森方面へと落ち延びた。
◇
鈴木重勝は、大森城から北、庄内川を越えた向こうにある上条城の居館にて、横たえられた伊庭貞説の死体を前にくずおれていた。
「我が主の死はいまだ知られてはおりますまい。」
重勝が来てからどれほどの時間がたったころか。
九里采女正は異臭を隠すために香を焚きながら静かに言った。
「火事を見て駆け付けたる酒井隊が敵と鉢合わせたはまことに痛恨事なれど、左衛門尉殿お討ち死にの噂が重なって、我が主のことをかき消すに至り申した。
酒井殿に加えて我が主までともなれば、将兵の気落ちはいかばかりか。長井何某は我が主の落命を盛んに流言しておれど、我らで気取らせぬように努めてまいり申したゆえ、いまではご健在の噂の方が聞こえておりましょう。」
涙も流れぬほど放心している重勝に、九里は文らしきものを差し出す。
重勝が受け取るそぶりを見せないため、九里は彼の手を取ってこれを持たせた。
「殿、どうぞ我が主の前で惚けておるさまなどお見せくださいますな。」
重勝は九里の言葉を聞くと、ふらふらと立ち上がり、気づけば大森城に戻ってきていた。
握っていた文を開くと、そこには見慣れた貞説の筆跡で、ごく簡単に、半三や九里の面倒を頼む文言、重勝への感謝と武運長久を願う文言が書かれていた。
何の飾り気もない遺言状を重勝は大切にたたんで懐の帳面に挟んでしまい込むと、牢に入れられていた明智光安を呼び出した。
◇
引き立てられた光安は、ひたすら平伏している。
彼の耳には一歩一歩、人の足がゆっくりと床板を踏みしめる音が響く。
床に並べる己の手元に影ができ、目の前に汚れのない足指と袴のすそが見えた。
板がみしりと軋んでふわりと風が立ち、香の残り香と強い汗の臭いがする。
耳元に何かが近づく圧を感じたかと思うと、押し殺したような低い声が囁いた。
「こたびの厄を引き込みたるに、うぬしの過失いかばかりあるか。これはもはや些事なり。されど、その行き着きたる果てに――」
「ぐっ!!」
「それがしは片方の手を失うこととなった。」
光安はひたすら平伏している。
左手が焼けるように熱い。
耳元から圧が消え、袴のすそが視界から消える。
しかし、続くはずの足音がない。
「うぬしらには、失われし我が片手を補うだけの忠勤を求めん。」
床板を踏みしめるような足音とともに、具足武者たちの立てる物音が遠ざかっていく。
やがて、先ほどよりも幾分か軽やかな足音が聞こえてきて、高い声が降りかかってきた。
「か、介抱するでござる。」
「かたじけない。」
青い顔をした近習・菅沼新八郎は、光安の左手を貫いて床板に突き立っている脇差を引き抜き、あふれる血流を手拭いで押しとどめた。
◇
その後、明智一族は岡崎に移送され、しばらく虜囚の身となった後に東三河に配置された。
そのころになって伊庭貞説の死が知れ渡ると、光安は重勝の告げた言葉の意味を理解し、出家して「宗寂」を名乗った。
明智家の家督は、鈴木家で捕虜となっていて一連の騒動に無関係の弟・光久に譲られ、宗寂は一族の家政を司り、禄や褒賞で得た財から、伊庭貞説が葬られた上条城そばの泰岳寺に多くの寄進をした。
一方、長兄の子である彦太郎は僧籍に入れられ、忠誠の証として鈴木家にその身を預けられた。彦太郎あらため玄智少年は庭野学校で学問の道を歩むこととなった。
【注意】明智家はいくつかの流れがあり、1502年に作中の一関斎(明智光安父・光秀祖父)らしき人物が父に勘当されて頼明が相続人となるのは確認できますが、1550年代に斎藤家と戦って美濃を追われる以前は詳細不明です。本作は尾三情勢を受けて美濃も史実と異なる状況になっていますので、ご注意ください。




