第125話 1534年「磔」◇
細川国慶。
彼はもともと、細川道永(高国)の弟かつ後継者の晴国に与していた。
摂津国衆・三宅国村が本願寺に吹き込まれて細川晴元の陣営に転向するにあたって晴国を暗殺すると、国慶は反晴元の牙城である堺に逃れた。
そのため、彼はすっかり地盤を失っており、今や裸一貫からの再出発。
堺方の諸家の間を渡り歩いて口八丁手八丁でなんとか勢力を盛り返そうと頑張っているところであり、手始めに客将として鈴木家に転がり込み、松永久秀を与力とするに至っていた。
「――でありますれば、いまこそ一向門徒・法華門徒の名主に還住を許し、以てこれに公事を求むるの口実とするがよかろうと思案するところにござる!」
「ふうむ、なかなかうまい手のようだ。されども、京と睨み合ういま時分に両門徒衆に嫌われては困る。大坂奉行の右馬助殿(細川氏綱)も『余計なことを!』と怒るやもしれぬ。」
「そこはこう、あれをあれして。それがしにお任せくだされば、なんとかいたしまする!」
国慶の直談判を受けたのは河内半国守護・畠山在氏。
手持ちの将兵がほぼない国慶は、何をするにも手数が足りず、在氏に被官衆を借りに来ていた。
在氏は国慶の物言いを胡散臭く思ったが、河内を折半する紀伊畠山稙長を「河内一国を狙う野心あり」と疑っており、なんとか力をつけたいと焦っていた。
そのため、在氏は国慶に被官衆への紹介状を持たせた。
国慶は精力的に働き、河内国八尾などにおいて、天文の大乱で暴れ回って干されていた一向宗・法華宗の者が元の住処に帰るのを後押しした。
もちろん、ただではない。
代わりに詫び金を徴収し、爾後も堺幕府に年貢を支払う契約を結ばせた。
当然、本願寺や法華宗は文句を言ったが、国慶を支える松永久秀が奔走して、本願寺には堺を焼き討ちした詫びがまだであることをなじり、法華宗には鈴木家と堺商人の財で復興した町に勝手に住み着いていることをチクチクとやって黙らせた。
さらに、流れに便乗した畠山在氏は自らも被官・吉益匡弼をそそのかし、落ち目の石清水八幡宮が持つ摂津国三津寺荘を押領した。
在氏に代わって八幡宮の使者に応対した国慶は、これをけんもほろろに追い返した。
◇
「弾正よ、ご苦労であった。しかし、あの者、やり手というかなんというか。」
細川氏綱は、国慶の後始末に奔走した松永をねぎらった。
「いやはや、本願寺は内々にて争うようにて思いのほか楽でございましたれど、法華の方は三好殿の口利きなくば危うきところにござい申した。」
「うむ、あの若当主はなかなかできた人物のようだ。」
その松永が三好云々と言ったのは、法華宗を宥めるにあたってかの宗門の庇護者たる三好家に力添えを乞うたことを指している。
「ところでついでに、そなたの存念を聞きたき事柄あり。玄蕃頭(細川国慶)が今度は備中がどうのと言ってきておるのだ。確かに前管領殿(細川道永)の往にし今、備中は狙い目やもしれぬが。」
細川道永は備中を勢力下においており、守護は国慶の旧主君たる故・晴国だったが、両者が亡くなった今、かの国では庄為資なる国人が勢力を著しく伸ばしていた。
庄は、自領の反乱を鎮めた尼子氏と結んで、備中国内の幕府方・上野氏を滅ぼしたばかりであり、国慶はこれに目をつけたのだ。
「狙い目とはいえ、兵を出すにはちと遠くてございましょう。」
「然り。それゆえ先の守護補任よろしく、かの地の細川家から適当な者をそれがしの養子にとり、これを半国守護にでも任じて庄なる者を守護代にしてしまおうというのだ。」
「ほう。残る半国は尼子に、というわけですな。それで、いざというときには備中より上方へ兵を出さしむというわけでしょうか。」
「うむ。されど、懸念もある。庄をよしとすれば、尼子を利することになり、大内が嫌がるやもしれぬのだ。あれを怒らせるは益無し。」
「ふうむ……。」
松永は思案する。
大内氏は一応は尼子氏と停戦しているとはいえ、遣明船も再開され、太宰大弐にもなって北九州征伐にも弾みがつくとなれば、そのうち気が大きくなって再び尼子と対決するだろう。
堺方としては今は余裕がないから両者の争いには巻き込まれたくない。
「それがしに思いつくのは、尼子のことは知らぬふりで、大内に『左馬頭様に嫁を』とでも頼むことばかりにございまするなあ。」
「嫁取りか……。」
確かに堺方は棟梁の足利義維以下、諸将で正室をとっていない者が多い。かくいう氏綱もだ。
氏綱は「そのあたりで探ってみるか」と独り言ち、帰路につく松永を見送った。
◇
細川氏綱は故・細川道永の養子だったことを理由に、足利義維に頼んで己を備中守護にしてもらった。適当な一族の者が備中で見つからなかったためである。そして、さっそく庄を守護代に任じた。
そのうえで、堺政権は友好姿勢を見せるために大内義隆に嫁取りを打診した。
足利義晴政権に親しい義隆は当然この話を断るだろう。
堺政権の誰もがそう考えていたが、しかし義隆は己の姉妹を政権の顔である足利義維と、細川持隆あるいは氏綱に嫁がせることに合意した。
「よいではないか、讃岐守。大内の女ならば、余の室にふさわしい。」
「はあ、それはそうなのでございまするが……。」
「それともそなた、よもや余と相婿となるが不満か?」
「滅相もございませぬ。」
足利義維は細川讃岐守持隆に対し、上機嫌でたわむれを言った。
しかし、持隆が煮え切らないのは、ことがただの婚姻では済まないからだ。
備中の東に勢力を持つ赤松政村は、大内に使者が送られたのを聞きつけると、堺方に通婚を求めた。
彼は前管領を滅ぼした張本人であり、なおかつ国内で浦上氏と対立し、美作国で尼子氏と接している。領国の安定のために、さらに東の摂津に侵入する堺方と縁を保っておきたいのだろう。
しかしこれらの動きは、おおいに尼子氏を刺激することになった。
備中の支配を狙う尼子氏からすれば、堺方が庄氏を懐柔し大内氏・赤松氏を味方につけて備中国の支配を確保しようとしているようにしか見えないからだ。
大内・赤松にどのような思惑があったにしろ、堺方は知らぬ間に反尼子に仕立て上げられてしまったわけである。
義維の座所・金蓮寺を辞した細川持隆は、阿波兵が駐屯する海船政所へ向かって歩いていると、道中の馬場で三好利長の姿を見つけ、これに話しかけた。
自身の婚姻よりも尼子のことが気になる持隆は、あれこれ利長に零した。
「――かくなっては、どうやら備中にて戦もやむなしと見ておかねばならぬ。」
主君の話を聞いた利長は、まずは結婚を祝いつつ、この婚姻が、自身が掲げる目標である摂津国攻略の妨げになるかもしれないということで、嘆息して言った。
「玄蕃頭殿(国慶)には困ったものにございまするな。」
「まあ、うむ……。いや、よく働き目利きもなかなかのものと思わるるほどに、かの者の不始末とは言えぬところなれど……。
いや、それよりも、先にはあれほど守護補任に噛みついてきよったにもかかわらず、こたびの備中守護につきては柳原公方に動きのないのは怪しい。」
柳原公方とは将軍・足利義晴のことである。
彼は荒廃する室町第の少し北の柳原に御所を造営して政務を行っているが、その彼を堺方では近頃「室町殿」と呼ばないことで世に不満を訴えていた。
それはともかく、予想外の流れに混乱した堺方は、この柳原御所の動きを見極めようといったん立ち止まり、また、京の人々も好き勝手する堺政権に対し幕府がどう出るか注視している。
幕府の動きはしかしながらなぜか鈍く、これといって反応はなかった。
それから少しして、くだんの細川国慶は堺方諸将を集めた。
国慶は津田経長なる者を手下に持つが、その一族で伏見に住む北村伊賀入道から報せが入ったのだ。
「方々、柳原に動きがあり申したぞ!関を守っておった今川の兵をひとところに集めるとの由!」
それを聞いた堺方諸将はすぐさま幕府が戦支度を始めたと断じ、場の空気は一気に張り詰めた。
◇
鷹見新城内に設けられた武将向けの的場において、鈴木重勝は弓を射ながら奉書掛の宇津忠員から報告を受けて、口頭で指示を返していた。
「答志島の松平殿より帰国願いが来ておりまする。」
松平とは、志摩沖の答志島の守備に就いている松平二郎右衛門重吉のことである。
「……忘れておった。北畠は船戦を諦めたように見ゆるほどに、かの者を遊ばせておくは惜しい。ひとまず三河に戻し、時きたらば遠江攻めを任するか……。いや、先に戸田を片付けねばな。」
「では、呼び戻されまするか?」
「うむ。」
宇津はそれを聞いて属僚の菅沼定氏に奉書の作成を指示した。
「その戸田にございまするが、渥美郡大津住人の彦坂重清なる者、戸田方の兵を追い払うによく働きてござるとの由。備中守殿より小切紙のお願いございまする。」
将兵の武功を一括管理する熊谷備中守実長が、雉子山で渥美半島方面の防衛を監督する次男・熊谷正直からの推薦を受けて、彦坂なる者への感状交付を上申してきた。
重勝は「よし」と一言答え、宇津はあらかじめ用意してあった感状に印判を捺した。
「次は、赤羽根にてはかなくなりし生駒蔵人につき、加賀入道より『嫡孫いまだ幼く、家督を継ぐに足りず、美濃の一族より養子をとりて中継ぎとしたい』とのこと。」
「美濃か。東が片付けば手を出すことになるな。」
故・生駒蔵人家宗は、父・加賀入道豊政とともに馬奉行としてよく仕え、先に今川・北条・里見の水軍の上陸を妨げるにあたって大功があった。
重勝はその死に200貫文の見舞金で報いたが、家督を継ぐ者がいなければ家が続かない。そのため、入道は血縁の美濃土田氏から養子をとる許可を申請してきたのだ。
美濃土岐氏は今川が片付けば戦うべき相手である。その地に縁のある者を今のうちに抱えておくことは益があるだろう。
「よもや身辺不確かなる者を呼び寄せはしまいが、『嫡孫の長じてくだんの中継ぎと家督争いとならば改易』と予め告げておけ。」
「備中守殿よりお伝えいただくようにしましょう。」
「ああ、それと。」
「何かございましたか?」
重勝が構えていた弓をいったん下ろす気配があったので、宇津も手元の紙から顔を上げて問うた。
「生駒は残念なこととなったが、一方の加藤のことよ。」
「はて、加藤の?そういえば、怪我より復帰したと聞きまするが。」
加藤とは生駒とともに騎馬隊を連れて今川の水軍と戦った武田旧臣である。
「なしたる功は何よりも大。上役の牧野(田蔵信成)が動いたならば『将の戦目利きの妙』で済んだ話。されど、その下の加藤が相談せずに隊を動かしたは、さすがに咎めねばならぬ。あれでは牧野の顔が立たぬし、それがしが戦勝手を認めたは(石川)又四郎のみぞ。」
「ははあ、なるほど。」
「それに、騎馬隊が当座使い物にならぬのもなあ。」
「生駒殿ももはやおられず、減った数を増やすのは確かに容易くはないでしょう。」
失敗して牧野に咎めがいかないよう加藤があえて独断に走ったのを、重勝は知らない。そのため重勝は、加藤が牧野を軽視して勝手をしたと思っている。
さらに規模が大きくなるだろう自軍の先々を思うに、軍令違反はきちんと罰する必要があった。
「やはり備中(熊谷実長)には『禄の加増はなし。罰金と差し引きでいくらかの恩賞となるようにとどめよ』と伝えてくれるか。」
「承り申した。」
「1000の軍を率いる才のあるやもしれぬで、いったん伊庭の下につけてみるもよいか。」
宇津は自身の返事に続いた主君の呟きに何とも答えを発しかねて黙っている。
無口過ぎる伊庭貞説の与力は人を選ぶ仕事である。伊庭を含めた周囲の様子をよく観察して自力で慎重に状況を判断する必要があるから、もし配置替えとなれば加藤は苦労することだろう。
「何はともあれ、よくないのは駿府よ!」
そう言うなり放った矢が的の端に当たってはじかれると、重勝はさらにいら立ちを募らせた。
赤羽根の戦いにより、当分は膠着状況が打開される見通しがなくなったため、今川家としては秋の収穫を前に三遠国境の大軍をいったん撤退させたいところだった。
また、今回の戦いで直接に鈴木家と干戈を交えて捕虜を取られた北条家は、ようやく鈴木・今川の仲介に入る気になった。
そのため、鈴木家が散々求めてきた人質返還の交渉が進む見通しになっていたのだ。
しかし、それでも双方の求めるものの違いが大きく、交渉は難航していた。
そもそも鈴木家は今川が息切れした時点で反攻に移るつもりだから和睦を必要としていない。
それどころか、京の公方ではないものの、堺の公方から三河守護に任じられたことは諸将にとっては慶事。士気雄壮にして、打倒今川の風潮はむしろこれまでよりも強まっている。
だからこそ三河の将兵は人質を返してほしい。主君の嫡男を見殺しにしたと世間にみなされずに、気兼ねなく今川を攻めたいのだ。
一方、そうであればなおさら今川は人質を返したくない。
そもそも今川は人質の交換よりも一時的な和睦を求めている。
鵜殿・各和・庵原といった将と数百の兵を捕虜にとられているにもかかわらず、今川家はその返還をさほど重視していなかった。
むしろ、鈴木家が尾張・伊勢・美濃に敵を抱えていることから、西で自由に動くために東での休戦が必要だろうと強気に出て、休戦の保障として人質返還はその後でなければ認められないというのだ。
間に入った北条は、双方が非常に強情であるから匙を投げかけた。
鈴木重勝は「話が進まないならば、捕虜の兵を月に100人ずつ船上で磔にして遠江に流す!」とまで言い始め、水軍を北条領・伊豆大島に派遣して掠奪を行った。
北条氏綱は、鈴木家の水軍が八丈島にまでやってきたとの知らせを受けると、自家の将・福島上総介の身柄返還を条件に鈴木家との単独和平に切り替えて交渉を進め始めた。
そして、実際に重勝が二川で30人の今川兵を磔にすると、駿府重臣団は、せっかく厭戦気分で和睦を受け入れる向きになった家中が捕虜の殺害に憤って継戦を求め始めるのを強く危惧した。
さらには、北条家から「自家が三河と和睦した場合は今後の兵糧の支援はできない」と通達され、今川家は重い腰を上げて条件交渉に応じた。
これが赤羽根の戦いからしばらくの間に起ったことである。
双方はまず前線の兵のうち鈴木方500、今川方1000を帰村させる形で歩み寄りを見せた。
しかし、そこから先は遅々たる進みだった。なにしろ、話し合うべき事柄は多岐にわたる。
人質の返還、特にその時期について。
三河国内における今川の占領地の扱いと国境の画定。
伊豆大島・八丈島の寄港地での三河屋の損害に対する賠償。
渥美半島に入り込んだ戸田氏、尾張今川家、遠江で鈴木家の救援を求める国人らの処遇。
和平の期間や、何らかの賠償金をどちらかが負担するのかどうか。
今川家・北条家に認められてきた東海道の使用権や沿岸航行権。
そして、今川家に対する鈴木家の立場、つまり形式的な従属を続けるかどうか。
ところが、あるときから今川家は条件を緩め始めた。
重勝は「兵糧の窮乏ゆえ」と見て、今度は逆に交渉を引き延ばしにかかった。
物見やら何やらからは、今川方はすでに遠江からいくらか兵を駿河方面に戻しており、もはや当初の半分もいないとの報告すらもあった。
前線の諸将が逆撃を仕掛けたがっているのは重勝も承知しているから「いかにも誇大」とこれを切り捨てたが、「とはいえずいぶん逼迫した様子」と思って遠江乱入の手筈は整えた。
阿寺や柘植の手の者たちは、甲斐・信濃方面から熊野山伏や大井夫人(武田信虎室)の協力を得つつ駿府の人質団と接触を保ってきたが、近頃は特に警備が厳しくなかなか難しい。
こうした者たちを使っての救出作戦も計画はしてみるものの、露見すれば逃げる先もなく援軍もない中では人質の全滅もあり得る。
何よりも早く人質を!
しかし、家中では「人質を諦めるべきだ」とする声まで聞こえはじめ、御用奉行・柘植喜楽斎はその噂が主君の耳に入らぬよう暗躍しだす始末。
そこに入り来たるは、幕府が今川兵を御所に集めるとの知らせ。
京も堺も三河もみな訝しく思う中、動きがあったのはまたもや美濃だった。




