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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第10章 獲麟編「愚者と憤怒と悔恨」
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第124話 1534年「別門塾」

 京の三条西屋敷には幾人かの客の姿があった。

 暑気で体調を崩した高齢の逍遥院(三条西実隆)の見舞いのためだ。

 しかし、集まった公家たちは見舞いそっちのけで何やら不満を垂れ流している。

 その中でもひときわ憤りを隠せないのは、三条西公条のいとこで武家伝奏にして頭弁(左中弁蔵人頭)の広橋兼秀と、その熱を受けた少納言・高辻長雅である。


「まさに事の外にておじゃる(けしからん)!」

「仰天を通り越してもはや呆れるでおじゃる!環翠軒殿もそう思われましょう?」


 公家たちの憤りは、根本は幕府が分裂して南北朝の悪夢を思い出したからだが、もともと恐怖や不安だった感情が憤りに変わったのは別の事情による。

 その事情とは、南北の幕府から官位を求める執奏が次々に宮中に届いて献金合戦となり、賄賂と密約のはびこる中で多くの武家に官位が配られることになったというものである。

 京の幕府はなぜか今川義輝(旧名・氏輝)の加階をことさら急ぎつつ、堺方が幕府を介さずに朝廷に叙位任官を執奏することに「そこまでするか!」と驚いて強烈な敵意を向け、これを邪魔すべく朝廷内をかき乱した。

 一方の堺方は、相手を「御敵」呼ばわりしておいて何かしらやり返されると考えていなかったらしい幕府の鈍さに呆れながら、献金合戦に応じて表向き5000貫文を献上した。賄賂も含めればもう2、3000貫文は散財したと思われる。

 これに乗っかった土佐一条房冬も、1000貫文を納めて左近衛大将となった。

 幕府は急ぎ大内氏・今川氏・北条氏らに上納を命じ、数千貫文をかき集めた。

 それにより大内義隆は念願の太宰大弐となり、北九州侵攻の追い風を得た。

 将軍・義晴は父を超えて正三位となり、今川義輝は父に並んで従四位上に昇った。


 一方の堺方諸将は「栄爵府」と揶揄されるほど軒並み従五位下となった。

 「栄爵」というのは従五位下を指す古い言葉で、売位を連想させるものである。

 とはいえこうなったのは、棟梁に担ぐ足利義維を堺方諸将が位階で上回るわけにはいかなかったからだった。義維は今回、正五位上に昇ったが、申請時点では従五位上・左馬頭だったのだ。

 そのため、もともと従五位下・尾張守だった旗下筆頭の畠山稙長は変動なしで、まだ数え13歳の三好利長だけが若輩ゆえに従六位下・伊賀守となったほかは、以下の通りにみな従五位下となった。

 阿波細川持隆は讃岐守。

 典厩家の通字を名乗らなかった摂津細川氏綱は、しかし典厩家代々の右馬助。

 和泉細川九郎は父の名乗りにあやかって民部少輔。

 鈴木家の交渉代理人たる細川国慶は玄蕃頭。

 河内畠山在氏は右衛門佐。

 そして、三河鈴木重勝は名乗りの刑部大輔にちなんで刑部少輔。


 南北幕府の決裂に目をつむれば、朝廷は「儲かってよかった」という話で済むはずだったのだが、あからさまな売官に強い不快感を示したのが後奈良天皇だった。

 この年に入って、朝廷では関白を即位礼の故実に通ずる二条尹房に交代させるなど、後奈良天皇の即位式の準備を進めてきたが、この献金で一気に財源の問題が解決した。

 公家たちは喜んですぐにも式を行おうとしたが、彼の認識ではこれは汚い銭であり、それで己の大事な即位式を賄いたくなどない!と催行を拒否した。

 これには義晴方・近衛家も義維方・九条家も陣営の別なく驚き、今はあれやこれやと天皇を宥めすかしているところである。

 他の公家たちが憤っている風なのは、何となく主上の意向に合わせてのことだった。


「主上のお心はわかるでおじゃるが、かようなこと今更でおじゃるし、貢献に官職を以て報ゆるは正道をはずれておるわけでもなし。むしろ拙僧には幕府を介さずして武家の執奏を容れるは習いにそぐわぬように思うでおじゃるが……。」


 広橋と高辻から「環翠軒殿」と呼びかけられた漢学の泰斗・清原宣賢の答えは煮え切らない。

 清原は鈴木家の外交掛・吉田兼満の叔父であり、彼の養子として自分の子を押し込んだ人物だ。

 幕府・堺方のどちらかに偏って批判するでもない清原の言に、屋敷の主の三条西公条と飛鳥井雅綱と話していた内蔵頭・山科言継は、顔は三条西に向けつつ耳だけ清原の方にそばだてる。


「あるいは守護補任は大樹の司るところなれば、堺方のなしたるは度し難きことにておじゃれど、先の壁書は道理にかなっておらぬとも見え、なんともはや。」


 堺公方の守護補任は実のところ実態に即している。しかし、京の幕府はこれを認めては、己を「次期幕府」とか言っている堺方の理屈まで受け入れてしまうことになりかねないため猛反発。

 河内守護として畠山弥九郎なる人物を引っ張り出し、紀伊守護に補任するために現任・畠山稙長の弟を呼び出す手配をした。

 さらに、和泉守護は元上守護・細川元常、三河守護は今川義輝、阿波守護は細川晴元と、対抗人事を打ち出した。


 出家して政治の一線から退いた清原は、こうした動きを一歩引いて見ていた。

 彼の娘は将軍・義晴の妾だったが、将軍が近衛家と正式に婚姻を結ぶにあたって幕臣・三淵氏に下げ渡された。甥・吉田兼満も彼とわだかまりの深かった兄・卜部兼永も死去している。

 今となっては鈴木家を拒絶する必要も薄まってきた。

 むしろ、自身の子である吉田吉賢(僧名・牧庵等貴)が三河で名医として頭角を現すようになると、彼からの文を読んで、三河のよく治まるさまを認めてすらいる。

 それゆえ清原は法律の大家として「南北幕府、どちらも難あり」と述べるにとどめた。

 そこに割り込んできたのは山科である。


「いかにも、堺船は(せん)国(タイ)と香木やら鉛やらの商いをしておると聞いておじゃれば、幕府の懸念する明国との付き合いはなかろうて。」

「明銭はどうでおじゃる?あれこそは明と商いしたる証におじゃろう!」


 広橋がそう反論するが、山科は受け流して話を逸らす。


「あれは琉球より得るとぞ聞きておじゃる。それに、このまま大内の博多より船のいずるようになれば、もうアレもできぬのでおじゃるぞ!」

「むう、それはそうでおじゃる……。」


 アレというのは堺船への出資である。公家の中でも堺船に小口の出資をして得られる配当を生計の足しにしている家は少なくないのだ。

 もともと朝廷の金策に深く携わり、先には義晴政権のために多くの経済的特権を譲り渡した山科は、銭のことでは神経質である。


 そうこうするうちに、三条西家の次代・実世(実枝)と、その父と祖父に重用された富小路家の次代・氏直にいざなわれて、武野紹鴎がやってきた。

 逍遥院(三条西実隆)の見舞い名目で、彼と親しく鈴木家の外交僧でもある紹鴎をつかまえてあれこれ問いただすのが集まった者たちの目的だったのだ。

 武野の隣には九条稙通の名代として弟・花山院家輔の姿もある。


「皆々様におかれましては、遅参まことにかたじけなくてございまする。いやはや、関白殿下(二条尹房)のお召しに応えて、前関白殿下(九条稙通)と殿上丞(てんじょうのじょう)殿((すすき)以緒)との遺恨停止(ちょうじ)の祝いの品を吟味してござい申したゆえ。」


 薄以緒はかつて九条家と刃傷沙汰を起こした唐橋家の出であるが、関白・二条尹房と九条前関白、その背後の堺幕府の圧に負けて和解する運びとなっていた。

 この薄は殿上丞、すなわち六位蔵人として昇殿を許された式部大丞の立場にあるが、何を隠そう娘が後奈良天皇の掌侍たる新内侍である。

 今回の献金騒動の中でなし崩し的に堺方との「伝奏」役になった九条は、盟友・二条関白が在任の間に内裏での勢力を盛り返そうと、後奈良天皇から近衛家ともども等しく不興を買ったのを逆手にとり、これを説得するという名目で一気に朝廷中枢への進出を図っていた。


「こちらは砂糖羊羹にございまする。遅参の詫びに皆々様でお召し上がりくだされ。」


 遅れてきたというのに満面の笑みの武野紹鴎は、琉球交易で仕入れた砂糖を使って作られた菓子の派手な包みを開ける。

 集まっていた公家たちの視線はおのずと甘味に流れた。

 その隙に武野は人知れず、さっきからずっと無言でいた参議・高倉永家に目配せをした。

 高倉はくだんの新内侍の養父であり、九条と薄の和解について事前に相談を受けていたが、彼の妻は幕府重鎮・伊勢氏。幕府分裂の難局を絶妙な舵取りで切り抜けようとしていた。


 これと歩調を合わせるのは三条西家。特に、鈴木家に寄寓した故・吉田兼満の娘を妻とする実世が、いとこの九条稙通の動向に気を配っている。

 山科は芸事を介して実世の父と親しく、様子を見に来たようだ。

 東国と独自の縁を持つ飛鳥井も彼らの振る舞いに何かを察したのか、先にも彼らと何事か話し合っていたようである。


 要するに、この会合の出席者は、清原・広橋・高辻以外は、なんだかんだ堺方と縁を持つか、その動向に関心を持っていた。

 あたかも三条西家が武野を呼び出した形に見えるこの会合は、実のところ、九条と武野が整えた場だった。その狙いは、朝廷の文書仕事における権威を有し少納言職と結びつく清原と高辻の者たち、そして弁官局における反鈴木筆頭・広橋家の調略であった。

 弁官局は朝廷の文書実務を扱う部署だが、これが天文期に入って混乱していた。長である左大史を交代で務めるはずの大宮伊治・壬生于恒がそろって仕事を全うしなくなってしまったのだ。

 鈴木家は外記局との縁を保ってきたが、こうなると俄然、弁官局掌握の見込みも高まってくる。


 高倉はおもむろに口を開いた。


「聞いておじゃるか?いま、熊野では智珪尼・清順尼なる師弟が堺公方の命で久しく絶えたる正遷宮(伊勢神宮本殿の遷座)のために勧進を始めたという。また、堺はこたびの大乱にて落命し今なお苦しむであろう民草を癒すべく、相国寺の施餓鬼も援けるとか。」


 この智珪尼・清順尼の話は飛鳥井が知っていた。

 なにしろ智珪尼の師である故・守悦尼は飛鳥井の出である。

 そのため、「実によいことでおじゃる」と飛鳥井は相槌を打った。

 高倉はそれに頷き、さらに話を続ける。


「公方の分かるるは関東にても例のあることなれど、堺の公方は昌平を求むる志ありと麿は思うでおじゃる。なんとかこれを再び一つにすべく、麿らで力を合わせるわけにはいかぬでおじゃろうか。」


 花山院はうんうん頷き、飛鳥井につられた三条西公条も何やら納得した様子。

 渋面の広橋と高辻が清原を見やると、瞑目した清原は思惟を吐露する。


「拙僧の心はそこまでの思いに至るにはまだ支度ができておらぬが、一つ気がかりがあるでおじゃる。堺公方は幕府をしつらえるとともに、恵林院に財物を贈ったと聞く。」


 恵林院は、足利将軍家ゆかりの相国寺に属する小寺院で、足利義稙の院号を冠する。

 この恵林院には清原の子・周清が属しており、息子からこの寄進をいち早く聞いた清原はその意味をずっと考えてきた。

 足利将軍家が相国寺に寄進してこれを敬うのはごく普通のことだが、堺幕府を整えた義維が最初に寄進した相手が恵林院というのはどうにも意味深長だったからだ。


「恵林院すなわち前大樹(足利義稙)は今出川殿(足利義視)のお子。ご両人はここ50年の騒乱と深く結びつきておじゃる。堺公方、いやその側を固めたる者どもは、おそらくは『その轍を踏むかどうか』と人々に問うておるのでおじゃろう。」


 清原の言葉に、高辻と広橋の2人は憤る前に抱いていた元来の恐怖の念を思い出す。

 そうであった、南北朝あるいは応仁の乱の再来!

 その何が恐ろしいかといえば、再び京が焼け野原となり困窮のどん底に陥ることである。

 今ですら苦しいのだ。もう一度などとても耐えられない。

 神妙な様子となった2人と向き合い、武野は鈴木家や堺方の置かれた状況を説明し始めた。


 ◇


 自宅に帰った清原環翠軒。

 しばらくして、奇妙な噂が聞こえてきた。

 三河の鈴木刑部少輔重勝が朝廷に

「現任の刑部卿・刑部大輔は誰か、刑部省は今どうなっているか」

 などと問い合わせてきたというのだ。

 噂の出所の若い公家らは「田舎者が無知をさらした」と小ばかにするようだが、清原が気になって三河の医者の息子に尋ねると、どうにも鈴木刑部は律令・公家法の学問所を整えようとしているとか。


「ふむ、くだんの刑部少輔はかつても雅楽の復興に取り組んでおじゃる。西の大内と同じく復古の気概があるのやもしれぬでおじゃるな。」

 清原はそう独り言ちて、くすくすと笑い、

「乱の根源にてありながら、奇妙なことをしよるでおじゃる」と楽しげに言った。


 それとともに、朝廷が裁きの職務を幕府に頼りきりになって公家法が実用から遠ざかってしまったことに今更ながら忸怩たる思いを抱き、老い先短い身、この奇特な行いを手伝おうと素直に思った。

 清原は刑部省の仕事がどうなっているかという純粋な問いには恥ずかしくて答えられなかったが、律令・公家法の観点で式目を注釈した書きかけの自著『式目抄』を三河に送って複写を許した。

 そして、添え状に

「刑部省があったのは皇嘉門、またの名を若犬養門。門側の堂の学問する所、これを『塾』という。学問所を作るならば、かの門にちなみて『別犬養門塾』とするがよかろう。」

 などと書き遣った。


 これを受け取った重勝はたいそう喜び、清原家に鈴木家中門外不出の式目解説(げせつ)の書を礼として返し、その作成に携わった吉田兼満の思い出を綴った文を添えた。

 清原はそれを読むとさめざめと泣き「甥ともっと早くに和解しておけばよかった」と悔やんだ。

 そして、重勝が連絡を取りたがっている刑部卿・勘解由小路在康と刑部大輔・土佐光茂に仲介の文を出し、相国寺恵林院で僧籍にある息子・周清を還俗させて別門塾へ送り出し、公家法の研究に従事させた。


 一方、勘解由小路在康は重勝から「刑部省のことで文のやりとりをできるか」と尋ねられると、現実を知らぬと嘲笑い、兄にして後奈良天皇側近の宮内卿・勘解由小路在富に悪し様に吹き込んだ。

 宮内卿から鈴木重勝の奇行を聞いた天皇は、秩序と混乱を同時に求めるかのごとき三河鈴木家の振る舞いを理解できず、「不可思議」と言って首をかしげた。

 他方、土佐光茂は御用絵師だが、息子が生まれたばかりで銭が入用な上に、和泉国上神谷(にわだに)の絵所領の確保も気がかりだったから、和泉国を完全に支配する堺方との縁は願ったり。

 しかし、この絵師はつい先ごろ近江で足利義晴の依頼を受けたばかり。京の幕府に睨まれては生計が立ち行かない。そのため、「度々は不可なれど、よしなに」とこっそり文を返すにとどめた。


 細々と始まった堺の別犬養門塾。

 聞き及んだ誰もが「いずれ立ち消える」と思ったが、先はわからない。

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― 新着の感想 ―
[一言] 別犬養門塾がこの後法律関係の人材を育てて鈴木家に役立っていくのか、はたまた畿内の優秀な人材を引き寄せるのに役立つのか。楽しみですね。
[良い点] 良作です。 戦国時代初期の面倒くさい感じも良いです。 内容以外だと、地図も頑張ってくれてるのが素晴らしい。 [気になる点] 一般人が知識チートするなら数学だろうと思っていました。 ゼロを知…
[気になる点] 重勝、幕府は見限ったけど朝廷工作はやるのか しかしこれからどうやって幕府を倒すのか というか織田くんどうなってるのか 気になりますね
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