表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国の鈴木さん  作者: capellini
第10章 獲麟編「愚者と憤怒と悔恨」
135/173

第123話 1534年「南北幕府」◆

 三河国鷹見新城の常御殿・茶の間。

 鈴木家と今川家、両家の拮抗は三河に凪をもたらした。

 夏の夕凪を思わせる息苦しさの中、鈴木重勝に呼び集められた三河と堺の重要人物たちは密談を始めるところだった。


「まったく厄介なことになったでおじゃるな、光雲殿。」

「いやはや、堺の地下人が騒ぎに騒ぎよって、『なんとかしてくれ』と愁訴いみじく多く、大変にござる。」


 三河に下向している徳大寺実通が、堺からやってきた細川尹賢に話しかけた。

 細川は2年前に幕府方により暗殺されかかったところを鈴木家に救助され、そのときの心労で出家し、今は「光雲」を号して家督は息子の次郎(後の細川氏綱)に譲っていた。


「まことに。よもや堺船の打ち払い勝手を命ずるとは。」

「島津あたりがこれを真に受けば、どうなることやら。無下なり(あまりにひどい)……。」


 2人の会話に相槌を打ったのは、鈴木家宿老で半隠居の熊谷備中守実長と、鈴木家の財務元締め・大畑定近である。

 彼らが額を寄せ合って「ひどい、ひどい」と嘆いているのは、先ごろ幕府が出した堺船の交易を妨げる内容のお触れについてだった。


 鈴木家は陸では今川家と土岐家を食い止め、海では北畠家と北条家を打ち払った。

 これを見て驚いた幕府は、その力の源が堺から琉球に出ている交易――特にそれにより明から何らかの強力な武器を手に入れたこと――にあると踏んで、妨害工作に出た。

 しかし、北陸方面ならともかく、幕府は南海側で自前の船団を持つでもなく、そもそも手駒になりそうな勢力も持たないため、自力でどうにかする手段がない。


 そこで考えついたのが、私貿易禁止の命令だった。

 幕府は洛中に出入りする商人に向けて高札で

「幕府の許可を得ずに異国と交易してはならない」

「堺の異国通商船に出資してはならない」

 と通達し、なおかつ壁書で

「幕府の許可を得ずに異国と交易した場合、その船は海難救助の保護対象にならないし、これを誤って攻撃してしまった場合も損害を弁済する必要はない」

 という条目を定めた。


 特に問題なのは壁書による幕府法だった。

 壁書は文字通り壁に掲げて公告された法令である。

 反幕府でおいそれとは京に入っていけない鈴木家にその内容を伝えてくれたのは、連歌会や茶会を開き唐物・瀬戸物の茶器を売買して文化活動にいそしむ武野紹鴎ゆかりの公家や、つかず離れずの越後長尾氏の在京雑掌・神余氏だった。

 この法令はなかなか強烈である。

 例えば、琉球をめぐって鈴木家との関係が悪化している島津氏がこの条目を知って堺船を攻撃しても、堺方は損害賠償の訴訟を起こすことができない。

 いわば私掠御免というわけだ。


 沈鬱な一同を少しでも和まそうと、熊谷は手ずから茶をたてていく。


「弾正、そなたは茶を好むと(武野)紹鴎より聞いておる。それがしのごとき田舎の仕立てでは不調法もあるやもしれぬが、ここは大目に見てくれ。」


 熊谷が声をかけたのは、分を弁えて黙っていた松永弾正久秀。

 松永は鈴木重勝に目をかけられて大きな交渉権限を与えられ、堺で諸事周旋の身だった。

 熊谷は主君が気にする彼の人となりをそれとなく観察していた。

 同席している鈴木家惣奉行・鷹見修理亮も同じような視線を向けている。


「いえ、それがしなど大したものではござり申さぬ。それに、茶は一服して気が休まればそれでよいのでありましょう。」

「うむうむ、よいことを言う。」


 口ではそう言う松永だが、彼は実のところ武野紹鴎に引きずられて茶会に何度も顔を出すうちに茶器に対して並々ならぬ執着を持つようになってきている。

 新参者で土豪の出でしかない松永が優雅に落ち着いた受け答えを見せると、熊谷と鷹見は彼に対する内心の評価を高めた。

 このやり取りを傍で見ているのは、在・和泉国貝塚の鱸家の助言役・根来金谷斎の嫡男で、在所から苗字をとった貝塚三郎景長。彼は松永の補佐役だが、こちらは緊張で顔がこわばっている。


「さて、坊はいかがする。苦味が強いで、飲みやすき()()()茶にしておくか?」

「いえ、抹茶をちょうだいしまする。」


 熊谷は一見すると場違いな子供に猫なで声をかけた。

 彼こそは宇喜多八郎。

 祖父・常玖入道が病を得たため、老人たっての希望で数え6歳の八郎は松永を後見人として元服し、祖父が結んだ旧領復帰の契約の名義人更新をするため三河に挨拶にきていた。

 するとそこへ割って入る声。


「備中(熊谷)、もう元服したのだ。いとけなしとて、それはなかろう。」

「おお、殿。いやはや、左様でござれども。」


 鈴木重勝が紙束を手に遅れてやってきて、茶の間に入りしなに熊谷に声をかけたのだ。


「さても方々。挨拶は先に済ませたところ、さっそく本題といきたくてござる。事の次第はご存知として、それがしがかくなる談義の場を整えた由は、左馬頭様(足利義維)にいっそうの奮起を求めたいということにある。」


 車座の一同のそばに近づきながらこう言った重勝は、鷹見にちょいちょいと手で合図をして詰めさせ、その横に割り込んで座った。


「そのためには我らで政府を整えねばならぬ。されど、それがしは三河を離れるわけにはいかぬ。ゆえに、弾正(松永久秀)と光雲殿に頼まんとしておるわけだ。」

「殿、いささか話が飛んでおりまする。ここはそれがしが――」


 大問題を前にして焦る重勝は、またもやあれこれ頭の中で考え過ぎて話が飛躍しており、そんな主君を見かねて鷹見が口をはさんだ。


 そもそもが、琉球を介した交易はかなりの綱渡りである。

 琉球王国は明とも足利幕府とも縁を保っているから、準備中と大々的に噂される大内氏の遣明船が再開されれば、両者の顔色を窺う琉球自体も、幕府の許可を得ていない堺船の入港を拒否するか、ひどければ攻撃してくるかもしれない。

 実際、重勝はあずかり知らぬところであるが、この頃、琉球は王の代替わりに際して明と冊封関係を結び直すために使者のやり取りをし、幕府に向けて結果を報告する使者を送ったところだった。

 鈴木家が琉球との私貿易に漕ぎつけたのも、ここ数年間、明が宮廷内の混乱で冊封関係の更新を見送ってきたために、琉球側が監視の目を盗んで鈴木家を受け入れただけに過ぎない。


 そんな中でも交易を続けていくには、最低限、堺商人が乗り気であってくれねばならない。

 しかし、海難で浜に打ち上げられた船の積み荷を横領されたり海賊行為で直接に積み荷を強奪されたりしても訴える先がないというのは、交易船の支度に大いに支障が出るだろう。

 そこで重勝はまず、小笠原水軍が沿岸航行にこだわらなくても海図と方位磁針を使った航法に慣れてきたから、交易自体のやり方を変えてもいいのではないか、と思案した。

 沿岸を航行しないならば、南海に面する諸家の海賊衆の攻撃もそうは受けることもない。

 とはいえ、この航法でも海難にあった船が浜に漂着することはあり得る。難破船の荷をめぐる訴訟ができないのは問題だ。


 ではどうするか。考えた重勝の結論はこうである。

 すなわち、いっそのこと自分で訴訟機関を作ってしまえばいいのだ。

 どのみち、訴訟の結果を執行することは現幕府にもできない。幕府の裁決を受けた現地勢力が武力で己の利益を押し通すことになる。であれば、堺公方が訴訟を受け付けてその裁決を堺方諸家で執行するようにしてしまえばよい。

 もはや鈴木家は堺公方と一蓮托生。いつまでもこれを敬遠していては得るものも得られず、幕府がこちらを敵視するならばその権威を認めていても益はない。


「――というわけでござる。」

「うむ、というわけなのだ。」


 突飛にも思える話に一同が黙ってしまう。

 その中で徳大寺は嫌悪感を隠せずに疑問を口にした。


「そは……南北朝や応仁の大乱をまたもや引き起こすということにおじゃる?」

「ふうむ、戦乱を引き起こすかと問わるれば、否と答えることになりましょうな。なにしろ、すでに永正よりこのかた云十年は争乱続き。幕府がひとまとまりだったこともありはしませぬ。」


 徳大寺は重勝から向けられた視線に射すくめられたような恐怖感を覚えた。


「そも、堺公方様を左馬頭に任じられたは主上にてあれば、『これを次なる大樹に』と認めておられるわけでございましょう。公家方々はいかに思うておられるのでしょうや?」

「い、いやあ、どうでおじゃろうなあ……。」


 確かに慣習的には左馬頭は次期将軍に与えられる官職である。

 徳大寺が気まずく目をそらすのを見て重勝は畳みかける。


「こたび京の大樹は近衛の姫とご成婚となり、嫡男の生まるる段とならば、次の大樹たる左馬頭様を蔑ろにするは必定。生まれ来たる甥御との跡目争いとなりましょう。」


 義晴と義維は異母兄弟。義維にとって義晴の子は甥になる。

 重勝はよくあるお家騒動の構図がもうじき成立すると言っているのだ。


「されど、すでに左馬頭様が大樹としての器量を示しておらばどうでしょう。いったん定まりし(ついで)をいたずらに乱すまいと方々は思うのではありますまいか。」

「むむむ……。」

「ということを権大納言様は宮中の方々にお伝えくださればと思いまする。」

「……むむ。」


 いまの状況を作った責任の一端は朝廷にもある。

 一度決めた序列をきちんと守らない方が世を乱すことになるのではないか。

 朝廷の無責任を暗に批判する重勝に、徳大寺は恨めしい目を向けるが、重勝はそれを正面から受け止める。徳大寺は根負けしてうつむいた。

 その様子を見ていた細川光雲(尹賢)は気まずげだが、刺客まで送られた自分や子の居場所がもはや足利義晴政権にはないのがわかっているから、ともかく具体的な計画を聞いてみようと先を尋ねる。


「……さまで言わるれば、すでに目算はあるのよのう?」

「委細申しましょう。」


 重勝は何やら役職らしきものがごちゃごちゃと書き込まれた手元の紙束を広げた。


 ◇


 堺公方が「幕府」を整備した。

 その驚くべき知らせはたちまち上方を席巻した。

 言語道断!南北朝・応仁の再来!

 公家たちの日記には似たり寄ったりな驚愕の言葉が並び、朝廷は怖気に支配されて狂乱に陥り、義晴政権は彼らをなだめるのに多大な労力を要することになった。

 もちろん、足利義維のもとで整えられた政権は将軍が開いた政府ではないため「幕府」ではなく、堺方も「幕府僭称」の誹りを受けぬよう適当に新しく作った職名を使っている。

 しかしながら、世間の認識としては堺方が作ったのは幕府だった。


 左馬頭・足利義維の開いた家政機関は「管領」の代わりに「執事」を置いて細川持隆を任じた。持隆は人事権を司る「公人奉行」、訴訟最終裁決権を持つ「引付頭人」の役目を兼務する。

 足利義維は足利義晴と、細川持隆は細川晴元とそれぞれ兄弟であるから、この政権はいかにも足利義晴政権への当てつけであると人々に噂された。


 そして義維は、義晴とは別で勝手に守護補任を行い始めた。

 尹賢流・典厩家の新当主・細川次郎は新たに名を「氏綱」とし、「摂津守護」となった。

 氏綱の支配下には、堺方が押領した摂津・将軍御料所や尹賢旧領、そして義維直轄の堺の町が収まり、彼は「大坂奉行」を兼務して本願寺との交渉を担った。


 他の政権重鎮は次の通りに守護職を得た。

 細川持隆は「阿波守護」に加え「讃岐守護」に任じられる。

 三好利長(長慶)は持隆のもとで「阿波守護代」。

 下和泉守護・細川九郎勝基は単独の「和泉守護」。

 領国支配ができていないが、畠山在氏は「河内半国守護」。

 そして、「紀伊・越中守護」と「河内半国守護」の畠山稙長。


 この稙長、畿内で大戦力を握る存在であるが、鈴木家や河内畠山家と微妙な関係にある。

 そのため、彼に対する配慮は大きく、律令風の響きを持つ「右軍監(ぐんげん)」なる役職を与えられて、政権内最上位の軍事指揮権を認められた。

 次席「左軍監」は、阿波から大兵力を出す三好家に配慮して、三好利長に与えられた。


 そして、政権確立の発起人である鈴木重勝は「三河守護」「尾張国知多・山田郡守護」に補任され、麾下の鳥居忠吉は「熊野別当」を名乗ることが許された。

 鈴木家の口利きで、これと親しい小笠原長高は「信濃守護」、同盟相手の諏訪頼重は「信濃国諏訪郡守護」、木曾義在は「美濃国恵那郡・信濃国木曽郡守護」を名乗ることとなった。


 さらには、足利義晴政権が財政難に苦しむ一方で、足利義維政権は年1万5000貫文以上の安定した予算を組むことが取り決められた。

 収入の内訳は、堺の地下人から年5000貫文および異国交易船1隻あたり1000貫文の奉書形式による商免状発行料を徴収。三河・和泉から2000貫文、阿波・紀伊から1000貫文、摂津から500貫文の上納が義務づけられ、日々の業務に加えて紀伊畠山・阿波三好の軍勢の補給にあてられる。

 商免状の1000貫文は、従来の遣明船1隻あたり3、4000貫文の抽分銭に対してかなり安価で、この政権の異国との通商への前向きな姿勢が表れていた。


 混迷の中で堺を守り切って政権の基盤を整え、なおかつ東方で独力で幕府方諸家を相手にする鈴木家には、紀伊畠山氏に次いで相応の配慮があった。

 鈴木家は「堺町奉行」職を手放す代わりに東国・琉球方面に関する権益の要求を押し通し、琉球交易を監督する「唐船奉行」と堺から東海道までの関銭がらみの特権を司る「宿次過書奉行」の人事権を確保した。兵力を出さない鈴木家は、代わりにこの収入から堺政権に追加で2000貫文を上納する。

 また、堺で実務を担う松永久秀は家格が低いため、土佐守護代の家系である細川国慶が客将として代理に立てられた。国慶は、細川道永(高国)の弟・細川晴国を担いで蜂起したが、これが先ごろ暗殺されて落ち延びてきた人物である。


 この幕府もどきは、それらしき役職を有するが、その実、全くの見せかけ。

 三河の密談からほんの十数日で組まれた実績の伴わないものでしかない。

 しかし、足利義維股肱の畠山維広や熟練の斎藤基速を中心とする数十人の奉行人たちは、己が幕府に実をもたらすのだと張り切っている。

 また、堺方が守護補任に手を出したのは初めてのことだった。こればかりは京の幕府も絶対に捨て置けない。さらに訴訟受付や諸勢力への知行安堵が行われていけば、この先どうなるのか。

 人々が関心を寄せるのは当然のことだった。

【注意】細川尹賢の子・細川次郎の名乗りが氏綱になった経緯は不明です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[一言] たしか三河に本領があって堺方に合流してた荒川?さんも頑張ってるんだろうなー。
[良い点] はぁ〜、細川氏綱ってそういう経緯でその名前になったのか! 典厩家の通字にも「氏」はないし六角氏綱や北条とも縁が無いのに、どこからその名前が来たのかとずっと疑問だったんですよね
[一言] 金があるから宮中に工作仕掛けれるね。適当な理由つけて献金すれば無視できない。三河田舎武士でなく足利としての金は重さが違う。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ