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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第10章 獲麟編「愚者と憤怒と悔恨」
134/173

第122話 1534年「納銭」◆

 天文3 (1534)年。

 管領・細川道永の敗死とその後の堺公方陣営での内紛、そしてそれに一向門徒と法華門徒の蜂起が加わって、前年までの上方はすべてが無秩序に呑み込まれていた。

 無秩序は飢饉と疫病を生み、京周辺では盆地ゆえの格別の大暑でたいそう生きづらい様子である。

 そんな中、堺の足利義維をあっさりと捨てて将軍・足利義晴の陣営に転向した細川六郎は、三好政長・木沢長政・遊佐長教・茨木長隆らを従えて在京していた。


「左京よ、おぬしが臥せるとは珍しいな。」


 細川六郎(右京大夫・右京兆)は木沢左京亮長政のもとを訪ねていた。


「右京兆様、わざわざの見舞いかたじけなくてございまする。されど、ご心配召されますな。日照りに少しやられただけにございますれば。」

「うむ、心配しておらぬで、早くよくなるがよい。」

「……左様でございまするか。明日にもおそばに参りたく存じまする。」

「結構。ときに、左京。今川殿が公方様から一字もろうたが、いかに思う?」

「そうですな……。」


 先般、足利義晴は三条家の姫をそれぞれ嫁に迎えて義兄弟となった今川氏輝と細川六郎に一字を与えて、彼らは今川義輝と細川晴元を名乗るようになっていた。

 晴元がわざわざ病床の木沢のもとを訪ねたのは、これについて出回っている噂が気になって仕方なかったからだ。

 なんでも、義晴は「晴」の字はあちこちの者に気軽に偏諱しているが「義」はなかなか珍しいから、氏輝あらため義輝に大いに心を寄せている、とかいうのだ。

 木沢はズキズキと痛む頭で何とかうまい言い訳を思案する。


「そうですなあ……。右京兆様とこたび義兄弟となられた今川殿は、奥方の齢でいえば兄となりまする。定めし、御名の一字目を兄へ、二字目を弟へとお分けになられたのでしょう。」

「ふむ、まことか?」

「その他に何がございましょう。」

「ならばよし。ではな、あとに評定が控えておる。」

「……それはそれは(せわ)しきところ、ありがたきことにございまする。」


 お気に入りの木沢の説明に納得した晴元は、波々伯部元継の先導で幕臣の集まる室町第へ向かった。


 ◇


 評定の間で他の幕臣と話をしていた三好政長を見つけると晴元は声をかけた。


「弾正殿はまだ戻られぬか?」

「今しばらくというところかと。聞くところでは、浅井は再び越前に逃れたとか。『大内の遣明船のこと、くれぐれもよしなに』とのことにございまする。」


 弾正とは六角定頼のことである。

 晴元の妻となった三条の姫は定頼の猶子となってから嫁いできた。そのため、彼は彼なりに定頼のことを気にしていた。

 その定頼は浅井家の蜂起の対処で近江に戻っている。

 とはいえ、蜂起はすでに鎮圧されている。首魁の浅井亮政が同志とともに戦場で花と散ると、婿養子・田屋明政は京極氏を頼って臣従し、反六角の者たちは長子・浅井久政を担いで越前へ逃げた。

 それゆえ、浅井家の問題は今となっては口実であり、実際は人間関係の問題か、定頼は京には寄り付きたくないらしく、近江に引き籠っていた。


「さても皆々様、よい時分となりましたところ、談合を始めんとぞ思いまするが。」


 数えで81歳の大舘常興が声を発した。


「うむ、そうしよう。それで、はじめは何を扱うか?」


 自分が管領職についているつもりの晴元は場を仕切ろうとする。

 それに答えたのは、奉行人・松田盛秀だった。


「まずは何よりも勘定のことにございまする。これまで苦労した甲斐があり申して、今月はすでに500貫文の納銭があり申した。このままいけば、先年のような有様にはなりませぬ。」


 天文初年の大乱は幕府財政を破綻させており、大事な収入源の一つである京の酒屋役・土倉役は月に100貫文も集まらないようなこともあった。

 これに加えて、京に常駐する今川上洛軍2000も食わせていかねばらず、幕府の財政再建は急務だった。そのため、ここのところは将軍直々の意向で幕臣たちは金策に邁進していた。


 何とか確保しているのは、義晴の嫁姉・南御所殿が尼門跡となっている宝鏡寺大慈院に納められる白布座からの公事(上納)や、近頃の戦乱で当主を喪った将軍家ゆかりの日野家が持つ利権がある。

 日野家の生き残り・日野晴光は、義晴側近の摂津元造の養女を娶って完全に幕府の保護下にあり、彼らの諸役収入を幕府が()()()()したのだった。

 それから、京へと至る道々に置かれた七口の関の収入。今川兵を直轄軍のようにこき使える今のうちに、奉行人たちは細川晴元陣営の高畠長信と木沢長政をまとめ役にして関の管理も強化していた。


「典厩殿からは西岡の方も滞りないとの由、伺っておりまする。あとは宇治のあたりをうまく押さえらるれば。」


 奉行人・飯尾堯連が細川右馬頭(典厩)晴賢からの書状を大舘に手渡しながら言った。

 典厩家は晴賢と堺公方陣営についている細川尹賢とで分裂しているが、暗殺されかかった尹賢が幕府と決別すると、足利義晴は晴賢に典厩家の家督を認めて御供衆としていた。

 その晴賢は、将軍の信任を受けて西岡十一箇郷という、かつては幕府直属だった地の支配回復のために送り出されていた。


「さにあらば、典厩殿にはお戻りいただくのがよい。公方様のおそばにおってこその御供衆であろう。西岡は茨木にでも任せればよかろう。」


 晴元が口をはさんだ。

 茨木とは摂津国衆で晴元被官の茨木長隆のことである。


 しかし、奉行人連中は西岡の利権はなんとしても手元に確保しておきたかった。なぜなら、この地の塩商人の座である塩合物西座からの上納を確保したいからだった。

 西座の本所は西園寺家・東坊城家だが、京に兵2000を置く幕府の圧力は強く、座は幕府直納の立場にされていた。東坊城家は洛中の六人百姓塩座の本所でもあるが、こちらも幕府直納になった。

 今川家と歩調を合わせる山科家も割を食っており、特権的な魚商人である粟津橋本供御人から山科家への上納も幕府に取り上げられた。

 これらの調整は三淵晴員に割り当てられていて、さらに三淵は西岡で油取引の新市を開催させ、中小の油商人に取引と通行に関する特権を与えていた。


 要するに西岡はここのところの幕府の経済政策の根幹にかかわっていた。

 そのため、奉行人たちは晴元の発言を受けて「面倒なことを言い出したぞ」という思いを共有し、瞬時にちらちらと目配せし合って、結局、治部貞兼が声を上げた。


「あいや、お待ちを。茨木殿には八幡宮のことお頼みいたしたく。また、叡山のこともございますれば、そちらもうまく執り成しいただきたきところにございまする。」


 治部は石清水八幡宮との折衝を行っているが、近頃は八幡宮や比叡山との関係が厄介なことになっていた。そのため、晴元の側で泥をかぶってくれるなら、仕事を任せるのもやぶさかではなかった。


「であるか。」


 晴元の不満そうな声に、三好政長がすかさず耳打ちする。


「よいのではないでしょうか、右京兆様。八幡宮・叡山との間を取り次ぐとなれば、幕政の大事に深くかかわることになりまする。これは半端な者には任せられませぬ。右京兆様のお目の届くところで茨木殿がお役目を果たすこそ一番にございましょう。」

「であるか。」


 三好は満足そうな晴元の声を聴いて安堵した。

 三好としては、この2つの大寺社との関係に口を挟めるのならば、実利が大きいと算段していた。


 幕府の急進的な財源確保は石清水八幡宮・比叡山延暦寺との間に緊張関係をもたらしていた。

 八幡宮との対立は第一に油の取引をめぐってのものだった。

 八幡宮の神人は大山崎油座を運営しており、西岡の油市は彼らの特権を損ねることになる。

 幕府は八幡信仰を大事にしてきて八幡宮との関係も特に重視してきたが、件の油座は中小商人の参入で落ち目であり、背に腹は代えられなくなった幕府はついにこれを切り捨てることにしたのだ。

 とはいえ、両者の関係が決裂したのは偶然の産物だった。

 きっかけは河内国交野郡楠葉で山科家が持っていた淀川の関銭収入を幕府が直納化したことだった。収入は今川軍の給養にあてられ、山科家には今川家が遠駿で代替収入を用意する予定だった。

 これを見ていた八幡宮は、彼らからすれば暴走としか言えない幕府の動きに危機感を強め、楠葉周辺に持っていた特権や支配地の確認と関銭免除を幕府に求めた。

 問題はここからだ。

 八幡宮内にある善法律寺という寺が問題の土地の支配権は本来は自分たちのものだと主張し、幕府はその訴えを容れた。八幡宮もそこで終わっていればよかったものを、一向宗・法華宗の大乱を見て何か思うところがあったのか、強訴に出てしまった。

 しかし、時期が悪かった。大乱後、細川晴元陣営の諸将は手持無沙汰だったから、嬉々としてこれを叩き潰した。そして、いよいよ大山崎油座の特権は幕府により停止されたのである。


「そうだ、叡山のことは聞き及んでおる。土倉役がどうのというのであったな。」

「はい、先には洛中洛外の不確かなこと甚だしく、『なんとか納銭を』と思案し申して土倉役の請負を叡山の倉方に任せ申したところ、洛中の土倉衆から文句がございまして。」


 気をよくした晴元が比叡山の話に食いついた。

 奉行人・松田が答えると、晴元は自信をもって宣言した。


「要は銭がきちんと納められておればよいのだから、叡山に任せてしまってよかろう。叡山と地下人(町人)といずれを使うかと問わるれば、叡山に決まっておろう。茨木にもそう伝えておくでな。」

「いえ、それはちとお待ちいただきたく……。」


 これに慌てたのは奉行人連中。

 比叡山延暦寺の扱いについては、将軍・義晴がかなり慎重になっているのだ。

 なにしろ、比叡山はたびたび幕府内部の権力争いに介入してきて手を焼かされてばかり。

 京の北東にある比叡山は、その気になれば親幕府勢力が多く経済的にも支えとなってくれている若狭湾・淡海(琵琶湖)方面から京を切り離しうるから、そんな信用ならない相手に力をつけてもらっては困るのだ。

 しかし、彼らは天文初年の大乱で法華宗を京から追い出す際に協力関係にあったから、今回の財源確保の動きの中でも、むしろ特権の拡大を主張しうる立場にあった。

 幕臣は「洛中洛外酒屋役改条々」と「洛中洛外敷地散財注文改」なる命令を発し、今川兵を連れ回していわば京都周辺の検地を行い、酒屋役・土倉役・地口銭・段銭の徴税立て直しを図っていた。

 とはいえ、なんだかんだ寺社・公家・町人からの反発が強く、請酒(小売り)からの酒屋役徴税の徹底や大敗した真宗・法華宗関係者の免除特権縮減などでお茶を濁すにとどまっていた。

 その中で比叡山配下の土倉・正実坊の躍進は甚だしかった。

 もし正実坊が幕府に納める土倉役を一括請負するとなると、中抜きし放題になるため、洛中の土倉連中はどれだけの負担が降りかかってくるか恐怖し、納税額を増やしてでも幕府直納の立場を守ろうとしていた。

 三好政長がこの取次役で利益を引き出せると判断したのは、この土倉からの賄賂があるからだった。


 しかし、幕府の財政だけ考えるならば、晴元の意見は間違っていない。

 奉行人連中が反論できないでいると、殿中取次の伊勢貞遠が今川義輝(氏輝・民部大輔)の来訪を告げた。


「皆々様、民部大輔殿がお越しになられ申した。」

「おお、遅かったな。なんぞ用でもあったのか?」

「御気分の優れぬゆえと聞いておりまする。」

「御気分、のう。」


 晴元が鼻で笑うようにして吐き捨てると、少しして今川義輝が姿を現した。

 青白い顔に暑気ゆえの赤みと汗を浮かべている。見るからに体調が悪そうだ。

 奉行人連中は面倒な話題が流れた喜びもありつつ、義輝のことを健気に思って好意的に出迎えた。

 一方の晴元は何事かを話しかけようとしたが、伊勢は機先を制して「まもなく上様もおなりになられまする」と告げた。

 晴元は、義晴はお気に入りの今川義輝が来たから評定に同席しようと思ったのではないか、と瞬時に疑い、顔をしかめた。


 ◇


「――では、叡山にはひとまず堂の再建の費えをいくらか贈っておくということで、よろしゅうございまするか。」

「うむ。」


 足利義晴は大舘常興の息子で自身の側近である大舘晴久のまとめに頷いた。

 比叡山は一昔前に焼き討ちされて四王院などの堂が焼けたままだから、その再建費用を用立てる代わりに、結局は継続収入となる徴税請負権を抑制することとなった。


 義晴は評定に大舘晴久ら内談衆という顧問団を引き連れて参加し、彼らの助言を聞いたうえで今川義輝の意見を求め、彼の同意や肯定を得てから裁決に至った。

 この間、話し合いは実に順調だったが、さっきから黙ったままの晴元は不満顔を隠そうともしない。

 見かねて長老の大舘常興が調整を図る。


「上様。南御所様御料所の河内十七箇所のこと、右京兆殿にお任せなさってはいかがでしょう。」

「ふむ、余は播磨守を向かわせてはどうかと思うておったが。」

「播磨守殿は京で方々との間をよく取り持ちておられますれば、これを河内にやってしまうのは惜しくてございまする。」

「左様か。では六郎、頼めるか?」

「御意、承りましてござる。」


 晴元は仰々しく答えた。

 播磨守とは元和泉守護・細川元常で、堺方に和泉の支配権をすべて奪われて在京していた。

 義晴はこれを河内国に派遣して幕府所縁の所領からの収入を確保させようとしたのだが、大舘の機転によりこれは晴元陣営の取り分となった。


「それから、六郎。若狭の年貢未進であるが、その方からも催促できるか?」


 晴元の姉妹は若狭守護・武田大膳大夫元光に嫁いでいる。

 義晴は若狭武田氏の取次・本郷光泰から若狭国内の所領の年貢徴収が滞っているという報告を受けたため、何の気なしに晴元からも督促を頼んだのである。


「それはようございまするが、すでに申しておりまするように、大膳大夫の忠勤は何よりも確かなものにて、丹後もこれに任せますれば、年貢の集まりもよくなりましょう。」

「丹後は一色に任せておるところ、そう易々と守護職を免じるわけにはいかぬ。」


 晴元は前々から、武田元光が幕府に忠実であるから、彼の権限を拡大して、その父・元信と同じく丹後守護に任じて丹後国内の御料所の年貢徴収も任せてはどうかと進言していた。

 それは特段おかしな話ではなかったが、丹後守護には義晴側近の一色氏から出た一色義幸を任じてあり、義晴は気乗りしなかった。

 とはいえ、この話を持ち出せばこういう流れになるのは自明。不注意なのは義晴だった。

 そしてさらに晴元も不必要な一言を続ける。


「されど、紀州はそうなされ申した。」

「……。」


 晴元には義晴の考えがわからない。

 何しろ、先には紀伊守護・畠山稙長の罷免をほのめかす御内書を守護代・遊佐長教に与えているのだ。三河に対してだって思い切ったことを通達している。

 幕府の力を強めたいならば、なぜ有用な手立てを試さないのか。


 そして、義晴も晴元の考えがわからない。

 紀伊と三河はそれで失敗したのだから、次はなおさら気をつけるべきだ。

 よもや紀伊畠山氏が三河鈴木氏や河内畠山氏と和解して堺方に加わるとは思っていなかったし、ましてや鈴木が今川をはねのけるなど全くの予想外だったのだ。

 それに比べて、幕府は北陸情勢に明るいから先行きをそうそう見誤ることはない。

 義晴の見立てでは、一色氏が抵抗して若狭と丹後で戦が始まれば、若狭すら混乱して結局は損をするのは間違いないし、六角定頼からは朝倉が若狭を狙っているとの懸念も聞いている。

 その朝倉も当主と弟の不和があるというから、海沿いは下手につつくとすべての均衡が崩れてしまいかねないのだ。


 義晴が黙ってしまって場は緊張感が増したが、晴元は心底不思議がっている様子である。

 それを見やる大舘翁は、両者ともに困ったものだと白けた気分だった。

 晴元にいろいろと問題があるのは間違いないが、義晴も相手が前管領・細川道永だった頃はこれほど自我を出さなかった。相手が六角定頼でももっと大人しいだろう。

 長じるにつれての変化ということなのか。義晴を幼少期から見てきた翁はしみじみと思いながら、息子に目配せした。父の指示を受けて大舘晴光は話を流しにかかる。


「これはなかなかに判じ難き事柄にござれば、先に遣明船のこと話し合いたきところにございまするが、右京兆様、いかがでしょう。」

「おお、遣明船か。大内のことであるな。(六角)弾正殿も気にしておられた。」

「はい。さらには、どうも堺者が明からひそかに武器を買い付けたとかいう話もあり申して、堺におられた右京兆様におかれましてはお知恵をお借りいたしたく。」

「なに?我は知らぬぞ、そんな話は――」

【注意】今話は幕府の財政などあたかもそれっぽく書いていますが、すべて作中の状況による変更を受けています(天文の乱も細川晴元の幕政参加も本来より数年早まっているなど)。木沢長政の病気、幕臣の協議の仕方、財源を幕府が集積して回るなど、エピソード展開の根本すべてが創作です。一方、山科家の収入源を幕府が奪うとか、晴元政権が徴収請負を延暦寺勢力に任せるなど、細かい要素は実際の話を取り込んでいます。虚実混交にご注意ください。

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[気になる点] お、おぉ なんかめちゃくちゃ頑張って財政とか政治してる感があるんだけど君たちが開戦した対鈴木、そろそろ和平する方向に考えた方がいいんじゃないですかね???(鈴木が許すかは別として) っ…
[良い点] おおお?なんか歴史が圧縮されている……? 天文法華とか三条の姫の輿入れとか浅井亮政の戦死とか、本来ならもう少し後に起きる筈の事が立て続けに消化されている……
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