第120話 1534年「弥右衛門」◇◆
遠江国にほど近い、三河国の海側にある東観音寺。
この寺を中心に鈴木家は防御陣地を張り巡らせ、各所からかき集めた兵1000と騎兵200に守らせている。総大将は今橋城を失った牧野田蔵信成。彼は汚名返上に燃えていた。
牧野の高い戦意もあって、加藤虎景・生駒家宗率いる騎馬隊は当初は積極攻勢に出ていた。彼らで目くらましをしている間に後方で陣地を構築するためである。
しかし、今川方の警戒は念入りで、やがて騎馬隊は潜伏拠点を放棄して後方に下がることになる。
数に劣る鈴木方が二川のように閉じこもるつもりだと考えた今川軍は、防備が中途半端な今のうちに突破しようと強攻に出た。
攻め手の今川軍は4000。
本坂峠の鈴木兵や奥遠江の不穏分子に備えて浜名湖北岸の刑部城に兵2000を貼り付け、二川北陣地に2000、南陣地に5000を置き、残りを根こそぎぶつけた形だ。
犠牲を厭わない猛攻を受けて第一の防御線は突破され、味方が次の防衛線に逃げ込めるよう殿を務めた大岡伝蔵なる物頭以下80余名が同数の敵兵を道連れに死に絶えた。
2か月を超える攻防に鬱憤の溜まっていた今川方はその死体を辱め、守備方に見せつけた。
端から後詰の期待もなく決死の覚悟である守備方は戦意を失うどころかかえって怒り狂い、柵の一部を壊すまでして騎馬隊が無理やり外に出て、敵軍に突撃を仕掛けた。
今川方は相手を誘き出したのはしてやったりだったが、騎馬突撃は想定外で混乱。
騎馬隊の将・加藤虎景は一通り荒らすと手早く戻って柵を直し、閉じこもった。
その後、地元の渥美太郎兵衛友元の踏ん張りもあって数日は耐え、やがて二川で処理した敵死体から集めた武具で陣夫を兵に仕立てて200を補充すると、なんとか持ち直していた。
それでも内心で焦る牧野と加藤は、主君から顕彰され、信頼はできないものの堺から連れてきた雑兵500と降将・鵜殿長存の兵100の後詰が用意できたと知ると、少し心にゆとりを得た。
一方、万を超えて兵を送り出している今川軍。
兵糧の消費は激しく、秋の収穫期が近づきつつある。
焦るのは鈴木家だけではなかった。
◇
「田蔵殿!沖に数百の船を見たとの知らせが!」
加藤駿河守虎景の怒声に牧野田蔵信成は臓腑がひしゃげるほど驚いた。
「なんだと!?今川か!?」
「東より来たるとのことなれば間違いなく!」
「ううむ、船か……。いかがいたす?」
牧野は突然のことで考えがまとまらず、知恵者の加藤に問いを返した。
「とにもかくにも、知らせねばなりますまい。まずは鷹見新城の殿のもとにございまする。されど、船数百に乗り込みたる兵は数千もありましょう。殿の御下知を待っておっては、この兵はどこぞの浜に降り、陣城を裏手より襲うなり、内地を劫掠するなり、ほしいままにござる。」
「では……。いやしかし、陸揚げを防ごうには……。そうか、水軍衆に知らせるのであるな?」
「いかにも左様にて。されど、いま水軍衆は知多の先、羽豆岬に集まるとの由。これを渥美の先に進めるよう頼むには、今橋かいずこかより船で知多に渡らねばなりませぬ。」
水軍への連絡は、渥美半島を抜けてその先端から知多へ渡ることもできなくもないが、そのためには戸田家の支配地域を抜けなければならない。
万一使者が途中で討たれては困るため、今橋方面を回るのがよいだろう。
「間に合うか?」
「なればこそ、殿の御下知を待っておられぬのでござる。」
「されど、御下知なしに勝手するは……。」
「己が身と戦の勝敗、どちらを取られまするかっ!?」
「っ!」
加藤の気迫に牧野はたじろぐ。
しかし、その二択は今の牧野には酷だった。
彼は不慮のことで今橋城と領主の地位を失ったばかり。勝手をするというのはすなわち軍令違反であり、それで何かあっては家の取り潰しとなりかねない。二の足を踏むのも仕方のないことだった。
しかし、元は甲斐牢人の加藤にそんなことは関係ない。
それに、すべてをなげうつ覚悟で固めている二川を抜かれれば保っている均衡は一気に崩れ、何の防備もない内地では戦勝で勢いづくだろう今川軍を止められない。
加藤は進んで負け戦に身を投じるつもりはさらさらなかった。
「……貴殿は前線に出ておられた。」
「なにを?」
「よいですな、貴殿はここにはおられなかった。」
有無を言わせず加藤は牧野のもとを去った。
◇
「おぬしは鷹見新城へ!今川の船数百が沖を西へ進んでおること、知多の水軍を動かすことを知らせよ。おぬしは今橋かいずこかへ至りて知多へ渡り、水軍を渥美の先へ導け!」
加藤は配下の騎馬武者に命じると、副将の生駒蔵人家宗を見やって言う。
「蔵人殿、まことによいのか?」
「無論にござる。この身、果てんとて、くだんの兵らの浜揚げを邪魔して進ぜよう。」
加藤の騎馬隊200は半島の先まで通ずる伊勢街道を駆け、沖の船団に並走してこれを見失わないよう目視し続け、上陸地点を突き止めるつもりだった。
その先で再び使番を出して増援を請い、上陸を少しでも妨害するのだ。
「うむ!それがしはよき友を得た!貴殿とともに戦えたは何より喜ぶべきことぞ!いざ者ども!今川のくそたれどもに死出の船旅をくれてやらん!」
◇
鈴木弥右衛門は知多を目指して馬を駆る。
その姿は股引一丁に太刀一本と旗指物を背に括りつけただけ。
いまはひたすら早く移動せねばならぬし、内地を駆けるには鎧で身を守る必要はないのだ。
呼吸のおかしくなってきた馬の様子に心を痛めながらもその腹を蹴り続ける。
「持ってくれ、すぐそこまでの辛抱ぞ!」
馬を全速力で駆けさせて四半刻(30分)で今橋城下の町が見えてきた。
弥右衛門は馬に呼び掛けながら雑然とした城の周りに飛び込んだ。
「どけどけ!道を空けよ!」
大音声を発しながら旗を振り回し、道行く人々を分け進んでいく。
「危ないぞぉ!」
「避けろぉ!道、空けろぉ!」
明らかに緊急の使者である弥右衛門に、人々は声を掛け合って道を空ける。
関を守る番衆も気づき、関を抜けるために順番待ちをする人々を脇にどけた。
「止まれぃ!止まれぃ!」
「おう!替え馬を頼むぞ!」
「よほどの急ぎと見ゆる。どこからだ?」
「東観音寺よ。知多へ向かわねばならん。」
「おい、そいつは弥右衛門じゃあないか?」
騒ぎを聞きつけ様子を見に来た兵が口をはさんだ。
一応、弥右衛門の身元を訝しんでいたらしい番兵は、知り合いがいるということで安心して、門を全開にする。
「おぬし、知り合いか?ならば身元は確かか。ついでだ、おぬし馬をここへ。」
「話が早くて助かるわ。」
◇
「そこな船守!それがしを一番に渡せ!」
弥右衛門が川べりに至ると、舟を待っている者たちを威圧してどかす。
そして、公営の渡守をどやしつけて渡河の支度をさせた。
その間、自身は川に頭を突っ込んでほてりを冷まし、竹筒から水を飲んだ。
「お武家さま!馬は船に乗せたで!」
「うむ!」
続けて小便をしていた弥右衛門はその声に、下腹にふん!と力を入れて残りを一気に出し切って適当に後始末をすると、舟に駆け乗って馬をなでた。
対岸につくと弥右衛門は再び馬上の人となった。
「御馬湊で船に乗り換えるか。いや、かの湊に馬があれば取り替えてさらに西の湊を使うがよいか。なれど、湊に馬があるとも限らぬ。伝馬があるのは御油宿か……。」
弥右衛門は西へ向かいながら先を思う。
船は船体が大きいほど遅くなるが、多くの漕ぎ手を乗せることができ、さらに風や潮の向きもあってややこしい。
とはいえ、普通に移動するときは半刻(約1時間)で1里半(約6km)、急げば3里(約12km)は進むかもしれない。しかも、馬と違って休みはほとんどいらない。
一方、弥右衛門は四半刻(約30分)で3里ばかり進んできた。だいぶ速いが、ただし、馬はつぶれてしまう。
弥右衛門は海沿いを進んで御馬湊で船に乗り換えるのと、内陸の東海道沿いの御油宿で伝馬を借り受けて再び海側へ戻ってさらに西の湊へ行くのと、どちらが早いか考えたが――
「ええい!わからぬ!わからぬが、馬の方が速かろう!ここは御油を目指さん!」
船をよく知らない弥右衛門にすれば、馬の方が速いに決まっている。
彼は目的地を変えて、御油宿を目指した。
確実に軍馬が使えるなら、それが一番だと思ったのだ。
しかし、御油は思っていたより遠く、そして、馬も思っていたよりよくなかった。
結果、今橋で借りてきた伝馬は途中で息を切らしてしまう。
「詮方なし!ぬしは先の渡しへ戻りて待っておれ!」
弥右衛門は動けなくなった馬から降り、これを後に残して走ることにした。
しかし、ここで放り出したらこの馬は盗人の手に落ちてしまうかもしれない。
「おお、そうだ、これをこうして――」
馬を惜しんだ弥右衛門は、己の旗指物を馬に括りつけた。
「これで盗まれまい。よし!では、行くとするか!」
いよいよ股引一丁に太刀のみ。
弥右衛門は御油宿へ向けて駆けだした。
◇
御油宿にやってきた弥右衛門は大声で道行く人々を追い散らしながら番衆詰所へ向かう。
「おい足軽!止まれ!いかがした!」
「東観音寺の使いぞ!それがしは加藤遠江守殿の寄騎、鈴木弥右衛門!疾く馬を貸せ!」
「東観音寺?加藤?書状なりなんなりはあるか!?」
「む?」
言われてみれば、そんなものは受け取っていなかった。
これは加藤の失態である。外様の彼は鈴木家のこういうところに慣れておらず、仕事で必要なことがあっても普段は奉行衆が補ってくれていたから、気が回っていなかった。
しかし、弥右衛門は己の使命が崇高なものと信じていたし、走り通しでやってきて酸欠で頭が回っていないから、全く悪びれずに言い返す。
「ない!見ればわかろう!しかし、今橋はこれで通った!そんなことより、一大事ぞ!」
「ダメだ、ダメだ、使番というには馬に旗どころか鎧もないではないか!」
「全部置いてきた!いいから馬を貸せ!」
宿の番兵は己をふてぶてしい馬泥棒か何かと思っているのか。
弥右衛門は目の前の男の頭の固さに気がおかしくなりそうだった。
こうなればこいつを殺してでも馬を奪うしかないか。
押し問答をしていると、その上役が出てきた。
「何ごとぞ。賊か?」
「民部丞様!こやつ、東観音寺の使番を名乗りますれども、あかしを何も持たぬとかで――」
「そこなお奉行殿!それがしは東観音寺よりの使い!一大事なのだ!馬を寄こせ!」
弥右衛門も焦っていて、何一つ説明しないまま、馬を寄こせと喚き散らす。
「ふむ、東観音寺とな。おぬし、かの地より来れば、その総大将の名くらい知っておろう。言うてみよ。」
「我らが御大将は、牧野田蔵信成様ぞ!」
「よし。おい、馬を支度してやれ。」
「ええっ!」
「田蔵殿に何かあったのであろう。いいから馬を持て来よ。」
この民部丞なる上役は、何を隠そう牧野の別家当主・牧野貞成である。
彼は鷹見修理亮の妻の兄弟にして、長らく御油で町奉行をしてきた。
先ごろ不幸にも所領召し上げの憂き目にあった同族に何かあったというならば、便宜を図ってやるくらい、やぶさかでなかった。
「お奉行様!まったくもってかたじけない!」
「気にするな。それよりおぬし、飯と水は十分か。まだ役目があるのであろう。」
「水を!水をいただきたい!」
連れてこられた馬の癖を馬丁から聞きながら弥右衛門は水をがぶがぶと飲み、竹筒にも水を満たすと南へ向けて駆け、平坂街道に出て海が見えてくると西へ向かった。
◇
やがて馬が走れなくなる。
「ここはいずこぞ。伝馬は近くにはなかろうが、海沿いなれば湊はあろうな。」
彼が馬を乗り捨てたのは鵜殿領の犬飼湊の近く。
とにかく海沿いを西へ駆けると湊らしき場所が見えてきた。
「しめた、舟がある!おい、そこの者ら!舟を貸してくれ!知多へ向かわねばならんのだ!」
弥右衛門は漁民に声をかけた。
漁民はふんどし一丁で、3人がだべっていた。
「はあ?いきなり何こいとるだ?」
「三河に落ち武者なんぞ、珍しいじゃんな。どこから来た?」
「それがしは落ち武者なぞにはあらず!牧野田蔵様の旗下、加藤遠江守殿の命を受けて知多へ使いの任をおびておるのだ!一大事なのだ!」
「牧野?鈴木の足軽か?」
「いかにも、それがしは我が殿と同族の鈴木弥右衛門と申す!なあ、おぬしら、舟を扱うか?それがしを乗せて知多へ行ってはくれぬか?まっこと、この通り!」
弥右衛門は必死で頭を下げる。
すると3人目の漁民が居心地悪そうに言う。
「なあ、御武家さまがこうまでしておるのだ。それに、鵜殿の新しい殿様も触れを出しとっただら?鈴木には気を遣わねえと。」
「しっかし、なあんで俺らあが。」
「そうだ、御武家さまよう、弥右衛門どんよう、舟なら他もあるで――」
「時がないのだ!そうだ、この太刀をくれてやるで、なんとか頼む!これは伝来のものでな、おそらくは300、いや400、待て待て500文は下らぬはず――」
「くれんのか!?」
「500文!それをはよう言いん!」
弥右衛門は右手で太刀を差し出しながら言ったが、1人目の漁民は太刀をひったくるようにして受け取り、きたないふんどしの腰紐に差し挟むと、大喜びで駆けて行く。
2人目の漁民は分け前を気にしながら、3人目は大慌てでその後に続いて舟の支度に向かった。
弥右衛門は突き出した右手を寂しげに元の位置に戻し、漁民の腰にある己の太刀を未練がましく目で追いながら、彼らについていった。大丈夫、このお役目で褒美をいただけば。
彼が海に出たのは東観音寺を出てから1刻少々(2時間)が経ったころ。
小舟に乗った弥右衛門は、櫂を漕ぐ漁民を急かしながら、知多半島の先端・羽豆岬に集まる船団に近づいていく。
船団は志摩に出向くためにいつでも準備万端で、接舷攻撃用の兵の代わりに焙烙玉と弓の上手を積むだけだから軽く、大船中心で速度が出ないとはいえ遅くはない。
それでも今川方の船団の動きに追いつけるかどうかはわからない。
一刻を争うとはまさにこのことだった。




