第119話 1534年「甘い付文」
甲斐国の疫病は春に始まった。
前年秋の収穫から時が経って食糧の貯えが尽き、人々が弱ってきたために発生したものだ。
上方で疫病が流行っているのも同じ理由で、近江と堺の間の争いに一向門徒と法華門徒が加わって大乱となり、収穫や食料の備蓄が不足したからだろう。
一方の鈴木家は、堺の町の復興資材を持ち出した分を対価に、堺商人に食料を買い集めさせていた。商人らは己の価値を存分に示したから、上方では当面大戦は避けられるだろう。
「兵糧は関東から集められぬかと思うておったが。」
「相場が高くなっておったようで、思うたほどには集まりませなんだ。」
瀬名陸奥守と九英承菊がこっそりと立ち話をしている。
「御屋形様(今川氏輝)のお下知をすぐに得られぬのがもどかしいわ。」
「せめて尼御台様(寿桂尼)にお戻りいただくようお頼みいたしましょうか。」
当主の今川氏輝とその母・寿桂尼が京にいて幕政で重きをなしているのは天下の誉ではあったが、駿河本国としては、重要事項の決定などがいちいち手間であった。
しかも、しばしばそこには幕府の思惑が差し挟まれることもある。今も鈴木家を西方から圧迫する美濃土岐氏の援軍に今川上洛軍を送るかどうかで揉めている。
もちろん、駿河は駿河で話を進めており、その際には正嫡の氏輝弟・今川彦五郎の名義で決め事がなされているのだが、みな歯に物が詰まったかのような気分であった。
「ふむ……。」
瀬名としては寿桂尼に戻ってこられるよりは若輩の彦五郎の方が御しやすいため、何とも答えかねて話題を変える。
「いやそれより、北条に手伝いを求むるにつきては、御屋形様の書状は得られたか?」
「はい、そちらはなんとか。婚儀の方も公方様からお祝いいただく運びとなり申した。」
北条家は、敵対する関東上杉氏に味方していた甲斐武田氏が滅んだことで、余裕があった。
南関東で力を伸ばしていた北条氏綱と小弓公方・足利義明は対立するに至り、そのどちらにつくかで房総の千葉・里見・真里谷の諸氏は不安定になっていた。
その中で、氏綱は下総国の千葉昌胤と婚姻同盟を結び、庶流の真里谷信隆・里見義堯を支援して家督を得さしめ、安房国と上総国にまで勢力を伸ばしていた。
北条氏綱は今回の今川家の騒動に際し、嫡男・氏康と今川氏輝の妹との婚姻を取り付けて今川家との同盟を再確認し、小弓公方を攻め滅ぼすべく力を蓄えているところだ。
「うむ。しかし……。いや、そうよな。……御坊、無理はするなよ。」
東三河の国人蜂起はほぼ失敗した。兵の動員も間に合っていなかった。
しかし、その失敗は承菊のせいなのか?そうではないだろう。
この者は今だって休みなく働いているし、次なる策の支度もしているではないか。
口を開くと零れてしまいそうな理不尽な不満を飲み下し、瀬名陸奥守は言葉少なに立ち去った。
◇
織田家の紐付きの戸田家残党が東三河で蜂起したことで、九英承菊が仕込んでいた牧野家中の本多氏、その西の鵜殿氏と吉良氏の蜂起が不完全な形で連鎖し、今川家は鈴木家とぐずぐずと開戦した。
その前に鈴木家は原村に陣を置いて今川兵が国境から奥に入ってこないようにしつつ、その内側で開戦に備えて二川を要塞化していた。
今川方はその動きは承知していたものの、これほどややこしい陣地が短期間でできているとは思わず、遠江に集めた兵は3000ほど。互いに長期戦を覚悟していたから、自分たちも国境に築城していて、原村の鈴木兵1000を追い散らすまではいかなかった。
遠征用の糧秣の備蓄のためにさらに2000の兵を使い、これら5000をまとめて今橋城の後詰に送り出したが、進軍は停止。追加で遠江兵2000を送り出しても埒が明かず、ようやく三浦上野介を総大将に駿河兵6000と甲斐兵5000が西へ旅立った。
総勢18000、うち小荷駄は5000。
その支度に奔走したのが九英承菊以下の奉行連中だった。
「ほほほ、和尚殿はお疲れのご様子。」
吉良家当主の左兵衛佐義堯が扇子で口元を隠して目だけで笑いながら承菊に声をかけた。
「これは左兵衛佐様。」
「甘味を食すがよいぞ。」
そばの侍女がそそと近づいてきて、承菊の掌にふわりと紙を敷き、漆塗りの小箱から出した団子を置いた。
「三河からの最後の甘葛で作らせた。」
「……。」
「喰わぬのか?」
「……いただきまする。」
承菊は団子を口に詰め込んだ。何の味もしない。
「で、あれはいつ縊り殺すのかのう?」
あれ、とはもちろん鈴木重勝の嫡男・勝太郎のことである。
「……あれは奥の手にございますれば。」
「奥の手、のう。」
笑みを崩さずに吉良義堯は一言だけ返すと、息子を伴って立ち去った。
承菊は禿頭に汗が浮かんだかのような錯覚に囚われ、頭巾でこれを拭った。
勝太郎ら三河の人質たちについては、鵜殿家の当主や各和家の嫡男、吉良本家の家臣で三河に残っていた者たちなどの身柄と交換で引き渡すよう、鈴木重勝から何度も要請が来ている。
上方の付き合いのある諸勢力からも、配慮を求める声が届いていた。
承菊は勝太郎と交流を続けるうちに、重勝が元々は本当に今川家・北条家と連合して家運を開くつもりだったこと、本人も梟雄というより奉行肌の人柄であることを理解すると、己が今川家中の鈴木憎しの雰囲気にのまれて人物評を誤ったことを後悔していた。
そして、今や両家の関係が決定的に壊れてしまっているのも理解していた。
しかしである。逆にいえば、両家を繋ぎとめるのはもはやこの勝太郎しかない。
これを殺してしまえば、ことによると一切の交渉ができなくなるだろう。
重勝の文には、承菊をして、そう思わせるだけの必死さがにじみ出ていた。
「吉良様のお怒りはもっともなれど、今更あれを殺したところで。」
むしろ、戦況が膠着する中では、このまま和睦ということもあるかもしれない。
彼ら人質団の返還を条件に渥美を求めることができれば十分だ。
それで重勝には隠居を求め、勝太郎を新当主として、これを介して三河を支配する。
二川では、すでに数度の総攻めでも梅田川南の陣地は抜けず、北は徐々に押し込みつつあるが、当方の死傷者は1000を超えると聞く。遠江兵の間では策の失敗を噂する声もあるとのことだが、そう思われても仕方ない。
しかし、策をも軍勢をもはねのけてみせた鈴木の力を、こうなっては今川家中も認めざるを得ぬだろう。そうして今度こそ実力に見合った同盟関係を結び直そう。
承菊の疲れた頭には、そんな理想の未来がちらつき始めていた。
彼はふと我に返ると、団子を受け止めた懐紙が手の中でくしゃくしゃになっているのに気づいた。そして、それを見ながら己の甘い見通しを鼻で笑った。
しかし、彼は気づいていなかった。希望的な見立ての背後で、自分が無意識に勝太郎の死を忌避していることに。彼はこの若者に情が移り始めていた。
◇
「父上、三河のことは――」
「三郎。そんなつまらぬことは口に出すな。」
吉良義堯は、嫡男・三郎義郷の言葉を遮る。
三郎は後藤氏の側室から生まれた男子で、これを嫡男と呼ぶのには「今は」という留保が付く。
「しかし、勝太郎めは――」
「あの坊主は、あれを決して殺さぬ。」
義堯はそれだけ言って団子を口に入れた。
吉良家はずっと腫れ物だった。
とはいえ、駿府に来た当初は先代当主・今川氏親がまだ存命で、彼は近江幕府との関係を重視していたから、公方と定期的にお目見えして挨拶する間柄の吉良家は外交上、必要な駒だった。
しかし今や、今川家の当主自らが在京して幕政の中枢に加わっている。
そして、今度は三河の荘園が失われた。
これでは本当に陰で言われているような「家柄だけ」になってしまう。
それに比べてあの勝太郎が「奥の手」だと?
義堯は承菊が鈴木勝太郎を指して言った言葉を思い出し、不快感でその太った体を震わせた。
彼は駿府に来てからどんどん肥えてきていた。太っているのは富裕のあかしだが、彼の場合は置かれた環境に対する極度の不満から過食に陥った結果だった。
嫡男の三郎もその気があり、父ほどではないが太ってきていた。
これと正反対で、駿府での生活で心身の苦労からやせ細っているのが勝太郎だった。
承菊はこれに特別目をかけて面倒を見てきたが、その構いっぷりは当主の同腹の弟・彦五郎に次ぐほどだった。
忙しい承菊の教育を受けられるのは、駿府では彦五郎の他は鈴木勝太郎と吉良三郎だけ。義堯は勝太郎と己が息子が同列に扱われ、それどころか勝太郎の優秀さがもてはやされることが何よりも憎かった。
勝太郎は義堯の内心に気づきもせずに、彼が浮かべる笑みに騙されてせっせと贈物を寄こし、何やら賢しらに振る舞っているつもりのようだが、とんだ愚か者。義堯はこれをほめそやす者たちの気が知れなかった。
義堯は勝太郎を将棋や囲碁で負かしたり、茶会や連歌会に呼び出してまごつくところを見たりしてはほくそ笑んでいた。
かの者は必死で大人ぶっておるだけ。
あんな小賢しいだけの若者のどこが大器というのだ。
過保護な家老連中に守られるひ弱な嫡男。
穂積姓鈴木氏とはいえ、その父・重勝は農民の女の腹から生まれた。
己とは比べるべくもない卑俗な存在。
「それが奥の手?」
思わず口をついて言葉が出てきてしまった。
三郎はむすっと団子を頬張っていた父が突然言葉を発したので、びくりとして肩を震わせた。
義堯はそんな三郎を見ながら、これの将来を思いやる。
彼は彼なりに息子を大事に思っている。それというのも、彼が正室の子ではないからだ。
義堯のもとにはこれまで少なくない者たちが挨拶に来たが、その誰もが上辺だけだった。
そして彼らは常に、正室――すなわち今川氏親と寿桂尼の長女である徳蔵院殿――との間に嫡男が生まれそうかどうかを気にしていた。
吉良の血と今川の血を引く者が次代の吉良家当主となれば、吉良から分かれた今川の血は再び一つとなり、両家の尊卑は曖昧となる。彼らが気にしていたのはそのためだった。
だから、義堯は正室との間に男子をこさえるつもりはなかった。
しかし、共寝を全くしないことは許されない。ここは今川の本拠地で、彼女は現当主の姉。そういう営みがなければ、周りにすぐに知られてしまう。
そんな彼女との間に子供を作らないためにはどうするか。
「これからは甘葛も余所から持ってこさせねばならぬな。」
彼は懐から大事に取ってある付文を取り出した。
吉良氏とともに三河から移った松平氏は、吉良氏が三河復帰の旗頭になるのを夢見てよい関係を築いておこうと、たびたび音物を献上してきていたが、あるとき贈物の下に敷かれていた紙の隅に奇妙な穴があるのに気づいた。
よく見ればそれは四つの菱形だった。
義堯にはそれが何かすぐにわかった。
武田家の家紋である。
こんな奇妙な穴が偶然にできるはずもなく、これは武田家からの何らかの誘いに違いない。
だから義堯はこの家紋が切り抜かれた紙を後生大事にとっていたのだ。
それを見て思う。
正室のための甘葛の用意も松平にやらせてみようか。
そうすればきっと当家の動きは武田家にも伝わる。
さても、この紙が指し示す武田とは、駿府で幽閉されている武田信虎――いや彼はいまは出家して無人斎というのだったか――のことなのか。
瀬名氏のもとで無人斎同様に押し込められている信玄とかいう嫡男の方なのか。
あるいは、甲斐国で今川の子を当主に入れた方なのか。
武田と福島を混ぜ合わせたこの歪な甲斐今川家は、本家当主・今川氏輝の異母弟・武田氏信(元・玄広恵探)を当主に持つが、彼は本家の氏輝が京に出ていくと勝手に国人に対して領知宛行状を発行して一時、騒動になっていた。
それまでは甲斐国の事柄は氏信が取りまとめて駿府に問い合わせ、氏輝の名義で作られた文書が返されていたから、これは国主としての地位を強く示そうとする行動だった。
ほかにも甲斐今川家中と甲斐国人や北条家中との婚姻の許可願いなどもあったと聞こえる。
氏信は、在京の氏輝が甲斐守護で己が守護代なのが気に食わないのだろう。実力を示してそれに見合った地位に就くことを欲しているのかもしれない。
そういう不穏な動きが見られたため、足利将軍から鈴木家が「御敵」と指定されても、駿府は三河攻めに対して腰が重かったのだ。
いや、この武田がどれであれ構わぬ。
松平を介し武田に当家の動きが伝わる。
すると一体どうなるというのか。
義堯は胸が高鳴るのを感じた。




