第116話 1534年「疲れ」◇
「ふむ、細谷郷の方は村人だけを隠したということか。」
馬上から田畑を見渡した各和伊予入道が呟く。
今川軍総大将・朝比奈泰能の命を受けて、各和伊予入道は本陣のある三遠国境の原村跡地から南の細谷郷へ、その盟友の孕石又六郎は北の雲谷村へ、それぞれ数十の手勢を率いて物見に出ていた。
細谷郷には人の気配はないが、原村と異なり田畑に作物は残っているし、家屋も崩れていない。
「備中守殿(朝比奈泰能)の言うように、鈴木も時に余裕がない中、二川のあたりのみ格別に手配りしておったということか。」
「父上、さらに進みて南回りで三河に入れぬか見てはいかがでしょう?」
嫡男の各和又三郎元樹が馬を寄せながら声をかけてきた。
又三郎は戦局打開への期待と、この物見での戦功をできるだけ大きくしたいという野心も抱えていた。
「いや、深入りはしとうない。それに、南回りで行くにしろ、軍が兵を分けるとなれば原村に集まる兵が増えてからでなくば、今度は本陣が手薄となる。それまではせいぜい苅田して――」
そこまで言ったところで各和入道は村の方から煙が上がっているのに気づいた。
「おい、あれを見よ!伏兵か!?」
「なんと!ともかく正体を確かめねば。父上!」
「うむ、見に行かん!」
数十の兵で煙の根元へと急ぐ各和勢。
たどり着いてみれば、すでに煙を上げた何者かは遠くに馬上の後ろ姿を残すだけとなっていた。
「いかん、これは狼煙ぞ!」
「いかにも狼煙にござろうが、しかし、いかなるわけで?鈴木の後詰か何かがここに来るということにござるか?あるいは南に砦でもありて、我らの攻め寄せるを知りて守りを固めよるとか?」
息子にそう言われると、入道もよくわからない。
「ううむ……。いや、ともかくいったん退くぞ。苅田に来た兵を伏撃する算段やもしれん。」
各和勢は北の本軍へ向かって転進し始めたが、その後ろを騎馬の駆ける音が追いかけてきた。
振り向いた各和勢の目に入ってきたのは、彼らと同数ほどの騎馬武者の集団だった。徒歩の兵は混じっていない。あたりの道はよく踏み固められているから、騎馬の速度が活きていた。
歩卒が大半の各和勢もいつもよりは速く駆けていたが、なにぶん整った道であったから、各和勢がそこを通って逃げることは鈴木方に予想されていた。
騎馬集団は迷いなく駆けてくる。
「父上!逃げきれませぬ!敵が速すぎまする!」
「ええい、致し方あるまい!者ども迎え撃て!」
兵は槍を構え、武者は弓を手に持つ。
「やい、おぬしら何者ぞ!」
入道は誰何したが、相手は返事もせずにいきなり矢を射かけてきた。
「問答無用かっ!」
敵方は全員が弓持ちらしく、矢戦ではかなわない。
「者ども進め!」
矢の間合いでは埒が明かぬと見て各和入道は前に出るよう兵に声をかけるが、次々放たれる矢に傷ついた兵たちは怖気づき、全く頼りにならなかった。
敵は「逃がさぬ」とばかりに十数騎がこちらの背後に回り込むそぶりである。
「もはやこれまでか。」
各和家は全滅した。
◇
「その入道はひどいけがなのか。」
「治らぬわけではあらぬようでございまする。」
「左様か。しかし、治してやる余裕も食わせてやる余裕もない。元気な嫡男だけ残してあとは殺せ。」
「ははっ。」
重勝は元気なく淡々と命令した。
各和の嫡男を残したのは、自分の嫡男で駿府で人質となっている勝太郎(瑞宝丸)と交換をするための手駒を増やしたいからだ。
一方で、彼に活気がないのは今川との戦のせいというよりは、先ごろ数え3歳になる双子の娘、松子と鶴子のうち、鶴子が突然死したからだった。
原因はわからず、朝、乳母が気づいたときには死んでいた。寝ている間に息を詰まらせたか、食べ合わせでも悪かったか、それまでにどこか怪我でもしていたか、何か悪い病を拾ってきたか。
重勝の生まれた足助の知り合いである乳母とその夫は自害しようとしたが、重勝はそれをとめて松子を大事に見てやってほしいと頼んだばかりだった。
「それから、駿河守と蔵人にはさしあたり感状を出す。」
加藤駿河守虎景と生駒蔵人家宗は各和勢を討った騎馬隊の将である。
加藤は甲斐から流れてきた軍略家で二川の防衛線を作る上でよく働いたため、一隊の長に抜擢されていた。蔵人家宗は鈴木家で騎馬の世話を担ってきた生駒家の2代目だ。
「孕石何某の方は石川殿と小尾殿から首桶が届いており申す。」
「(石川)又四郎と(小尾)周防守にも感状を出しておこう。」
今度は別の使者が口上を述べた後に、石川と小尾の功を報告した。
熊谷備中守実長が軍目付として武功を一括で記録しているから、重勝への報告は形式的なものである。戦果とそれに対する称賛を示し、人々の噂の方向を絞って不安の声を覆い隠すために行われている。
これらの使者が何を話すかも、それに対して重勝がどう答えるかも、予めだいたい決まっていた。
こうしてお披露目が終わると、重臣たちは別で集まって評定を始めた。
「北は逃げた兵の口から今川本軍に話が伝わるで、これよりは伏撃の他も工夫せねばな。」
二川の防衛線は東西に走る梅田川をまたいで南北に広がっているが、その北側に潜入した孕石隊は、二川北東の雲谷村を過ぎたあたりで、この地に鎮座する巨岩の下を通ったところ林に潜んでいた伏兵に討たれた。
雲谷村も国境の原村と同じく焦土となっていたが、今川軍は原村を使えるようにするので精一杯でこちらには人を置いておらず、あたりの様子に詳しくなかった。
重勝は今川方にばれてはならないという理由から強化できなかった船形山砦に代わって、そこから南に山中の間道を引いて北防衛線への進入路をふさぐところにもう一つ砦を用意させていた。
これは森の中に隠されており、守備には甲斐国で山城攻めの妙を見せた小尾周防守がついていた。
石川は船形山砦を焼き払うと小尾に合流しており、うまく連携して孕石を討ったのだった。
「とはいえ、出だしは順調ということでございまするな?」
「いかにも。この調子であれば、秋の収穫まで守り抜き、次はこちらから動くこともできよう。」
奉行の冨永資広が場の空気を換えるように一声を発し、それに軍師役の宇津忠俊が答えた。
今川方の格の高い将を2人討ち取り、兵は400近くを削った。
これは、1回の戦で、しかも軽く当たっただけというような小手調べの段階で得られる戦果ではなかった。そのため、正直なところ、諸将は喜ぶというよりもやや困惑していた。
削った分は殺した数であり、普通の会戦であれば敵兵を逃げ散らすものだから、戦死者がこれだけ出るというのはなかなかの大戦でなければならない。
それだけの死者を出したのは、前線指揮官たちに重勝が直々に敵兵を削るという戦法の意義を説いて回り、出くわした兵をできる限り殺すよう頼んでいたからだった。
そのために重勝は陣城の造りにも兵の武装にも口を出したが、二川の最前線に張り付く甲斐衆の長坂左衛門虎房・曽雌対馬守定能や、分部与三左衛門光恒といった新参の武者はこれを口うるさいとは思わずに、むしろその熱意に奮い立ち、よく守っていた。
重勝は二川一帯でどんどん陣地を広げており、その中のあちこちの詰所に戦法を言い含めた将を配置していた。拡大の一途の陣城には最終的にこの方面を守る兵5000がすべて入ることになっており、彼らは前線を徐々に放棄しながら後詰なしにひたすら守り続けることになっている。
普通は堅固な山城で守りを固め、それが攻められている間に用意した後詰の軍で敵と野戦するわけだが、この戦場では合戦は基本的に起こらないように計画されていた。
守備方の総大将は田峯の菅沼大膳亮定広であったが、彼は重勝の計画を貫くある種の覚悟に怖気づき、そしてその結果が日に300の死体という形で眼前に示されると総大将を務める自信を失っていた。
心に迷いの生じた定広に代わって総大将となったのは、重勝の弟・鈴木重直だった。
重直は定広の嫡男・定継を副将に取り立てて菅沼勢の掌握に努め、直接の配下である西三河鈴木家の諸将を励ましているが、最前線を守る勇猛な者たちが息切れし始めるまでに、彼らをそれに代わりうる存在に育てていくことが求められている。
「二川の陣地はよく支度してあるゆえ、越後守殿(鈴木重直)であらばさほどの心配はない。北も小尾殿が抜かれても次なる陣地があるところ、何とかなるでしょう。」
鷹見修理亮が現状を述べた。
熊谷実長の娘婿で若手武官筆頭の松平信長がそれを聞いて尋ねる。
「かくおっしゃるからには、南はさにあらずと?」
「南には手が回っておりませぬ。」
分部光定が正直に伝える。
光定は光恒の兄であり、重勝の手足となって防備を整えるのに尽力してきた人物である。
「南は騎馬のみで動いておるのでしたな。タネがわかろうとも、あれにはそう易々と応ずること能わずとそれがしには思われまするが。」
兄・熊谷直安が騎馬隊を統括してきたことからその威力をよく知っている熊谷正直が意見を述べた。
騎馬隊は海の方の東観音寺を本拠地に200騎ほどしかないが、細谷郷の近くに輪番で数十の分隊を潜ませていて、村で見張りの者が狼煙を上げればすぐに駆け付けるようになっていた。
もし敵の数が多くて数十では対応できなくとも、半刻(30分)で200騎が集結できるようになっているから、よほどのことがない限り簡単に全滅はしない見通しだ。
「されど、そのうちに細谷郷にも敵兵が入り、数千もの兵が集まるようになれば太刀打ちできず、今川兵はやがて三河に入り込むでしょう。かの地には道がありまする。」
鷹見は、そうなると今までのように計画的に農村から人と作物を回収していくことはもはやできなくなることを懸念していた。
特に二川の南に敵の進軍路ができてしまうと、渥美半島と鈴木家本拠地の豊川流域が切り離されてしまう。ただでさえ戸田の残党が入り込んで混乱している渥美半島が丸ごと今川家の支配下に入ってしまうのではないか。
「道とは、あの伊勢に向かう道にございまするか?」
冨永資広が尋ねた。
伊勢への道とは、渥美半島外側の沿岸部、その崖上を通る道のことである。
冨永は奉行として商取引に深くかかわる都合、道や航路に詳しくなってきていた。
この地には渥美の出身者はいないため、冨永の他にはピンと来ている者は少ない。
「いかにも。細谷を抜かれた後、この道をたどるか、あるいは二川を脇目に、いかでかは西に出て海を目指すならば、今川軍は容易く田原の戸田に合流することができましょう。やつばらには、進めば兵を養う地があるのでござる。」
「それがしには今川が二川をそのままにしてまで三河入りを目指すとは思えぬ。あるいは万一、渥美の方まで今川が入り込んでは、そちらを守ることはかなわぬよ。」
鷹見の懸念は重勝も共有していた。
しかし、彼は二川が健在なまま今川軍が三河湾方面に進軍することは(海路はともかく)陸路が寸断されかねないため、ないと判断していた。
そして、渥美半島の防衛に関しては、もう諦めていた。
今回の戦のためにあちこちの様子を調べ、こうして実際に防備を整えていくうちに、重勝は守るべき範囲が広すぎることを知った。切り捨てねば、すべてを失いかねない。
半島内部まで入り込まれないよう手を尽くしてはいるものの、すでに戸田家の蜂起は想定外で後手に回っている。仮に今川軍が戸田家と連絡をつけるとなったら、できるのは二川から西に伸びる梅田川沿いを固め、自家の本拠地にだけは一歩たりとも踏み入らせぬことのみ。そう思っていた。
「っ!殿っ!殿がかように仰せでは!」
「修理亮殿!なにも殿は端から諦めておるのではござらぬ。されど、そこまで今川が入っておっては、我らはその北で守りを固めるほかなく、南はいかにせんとて守れはしませぬ。そうせぬための策は我らで思案しておるところゆえ、左様にお怒りにならぬことでござるよ。」
宇津は、普段は穏やかな鷹見が珍しく声を荒げているのに驚き、その策というのを説明した。
梅田川沿いの雉子山城や大崎城を強化して敵兵を食い止めるつもりであるし、そこまで今川軍が攻めてくるなら、道中のすべての村を焼き捨てて敵の兵站に負担をかけて逆襲の機を狙うのだ、と。
軍事面で重勝の相談に付きっ切りで乗っている宇津は、彼の苦悩を間近で見てきた。そうする中で、今川軍の攻撃をしのぎ切るのがどれだけ大変なのかを突き付けられていた。
重勝はとりわけ慎重で不安症な気質があったが、彼だけでなく、家中や領民の間でも不安の声が聞こえている。
鈴木家が守りの戦をするのは宇利城の戦いを除けばほとんど初めてのことで、それ以外は、重勝やその近臣たちの目利きとお膳立てにより、勝てる攻め戦ばかりだった。
しかも、戦場となる東三河は特にこの10年間は平和そのもので、その目と鼻の先に急にむき出しの血生臭さが押し付けられたことになる。
今回の敵はなんだかんだ言って旧主家。相手は3か国を束ねるということもあって、実力はどうあれ、気持ちの面で格上を相手にしているという圧迫感が強かった。
しかも、今川家を三河から追い出しただけでは勝ちとは言えない。では、今川家を滅ぼすまで攻め立てねばならぬのか。敵は尾張にも伊勢にも美濃にもいるというのに。
この戦に勝つとは、どこまで戦い続ければよいことになるのか。何をすれば勝ちになるのか。
漠然とした不安と恐怖を抱えながら、人々は終わりなくひたむきに励んでいるが、蓄積した疲労は心を蝕みつつあった。
防備の手配は特に作事などを取りまとめる鷹見に過大な負荷がかかっている。
彼が粉骨砕身で働いたことで、予想外の今橋城陥落に続けて今川軍がなし崩しで攻めてくることになっても、一歩先んじて動員を完了し一通り陣地を完成させることができたのだ。
しかし、まだ戦は始まったばかり。仕事はむしろこれからが本番である。
終わりの見えない中で、鷹見も心が疲れていた。
「あいや、すまぬ。殿におかれましても、声を荒げたは不徳の限り。お許しくだされ。」
「気にしておらぬ。それがしの物言いが悪かった。どうせだ、この機におぬしの存念をすべて述べてしまってはいかん。」
口ではそう謝った鷹見だったが、態度は硬いままだ。
重勝には、近頃の仕事の疲れと娘の死で諸々の配慮が行き届いていない自覚があったし、鷹見の不満にも心当たりがあって、このように述べた。
「……であらば、申し上げまする――」
というのも、今回の戦の方針をめぐって、重勝と鷹見は考え方が違っていたのだ。
重勝は三河の民や食料が今川の手に渡らぬように、撤退するときは焦土戦法をとることにしており、井戸を汚染することも厭わない。そして、敵に対しては農民兵をできるだけ損ねて戦意を挫くというのを徹底していた。
これは「ここまでして負けたら、もうどうしようもない」という気持ちで考えられたものだった。しかし、そのための無茶を受け止めるだけの地力は十分に育てた。そういう見立てである。
一方、鷹見は奉行として、それほど苛烈な戦法をとることに疑問があった。
村を追い立てられることになる民は鈴木家に対してよい感情を持たないだろうから、それらを戦なり作事なりでうまく使うことは果たしでできるのか。
そもそも数千、いや万に上る民を内地に受け入れるとして、そのための住まいはどうするのか。戦の片手間に用意できるような話ではなく、それで避難者の間で疫病でも流行れば目も当てられない。
今川を首尾よく追い返したとて、取り戻した失地がまともになるのはどれだけの労力と時間を必要とするのか。遠江に逆侵攻をかけるとて、それほど兵を殺してはかの地は強固に抵抗するのではないか。
「わかる、わかるぞ。おぬしの言うことは、すべてわかる。しかし、わかりはすれどもな……。」
どうして2人は意見がかみ合わないのか。
根本のところは単なる考え方の違いで済む話ではなかった。
重勝は必死でできることをしているが、やってもやっても不安はなくならない。むしろ、他にすべきことはなにか、穴はないか、忘れはないか、と気がかりばかりである。
彼はおびえている。もはや今川家がどうこうではない。己に求められること、己のなしたことがもたらす結果、すなわち責任なるものを前に、彼は怖気づいているのだ。
その一方で鷹見の言は、今川を追い返し反攻に移ることを前提にしているし、重勝が言うような苛烈な戦法をとらなくても負けないのではないかという希望に基づくものだ。
これはひとえに鷹見が重勝を心から信じているからである。
しかし、その信頼が深ければ深いほど、主君の責任は増す。
そして、その主君には信じる先がないのだ。
「いや、違うか。それは、わかったふりよな。易きに流れておったかのう。」
宇津は主君に代わって評定の解散を告げた。




