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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第9章 決裂編「やたけ心は張り詰めて」
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第114話 1534年「口車」◆

 今橋城の御殿では、本多縫殿助正忠が唇の端を不自然に吊り上げたような笑みを浮かべて、城主・牧野田蔵信成の妻に詰め寄っている。

 牧野田蔵は二連木城に入って二川の対今川防衛線の策源地を整えているところで、本多もこれに同行していたが、理由をでっちあげて今橋に帰り、仲間とともに空き巣を占拠したのだ。


「大人しくしておれば、命まではとらぬ。」

「我が夫に命を助けられてこの仕打ち!恥を知りなさい!」

「そうやってわめいて儂が喜ぶとでも思うてか?儂の手はすぐにもそなたの息の首に届こうものを。」


 本多の落ちくぼんだ眼窩には心の見えない瞳が鈍く光っている。本多に腕をつかまれて顔を覗き込まれると、牧野の妻はその不気味なさまに驚き、息をのんで黙ってしまった。


「なあに、(牧野)田蔵殿も鈴木なぞ見限ってしまえばよい。今川からはここ今橋を任せると言われておるから、奥方らは所替えとなるが、いま降ればそう悪しき扱いとはなるまい。

 別で動いておる戸田殿とは()()境でもめるやもしれぬが、近くに采地がほしくば取り成してやってもよい。ともかく田蔵殿に文を書き遣れ。『早う降りませ』とな。」


 本多はかつて豊川下流の伊奈城の主だったが、鈴木家に難癖をつけられて攻められ、殺される寸前に姻戚関係のあった牧野家に引き取られて今橋城で働いていた。

 彼は表向きは牧野田蔵に大いに感謝していたが、内心は違ったようだ。暮らしに不自由はなかったはずだが、いやむしろそれがよくなかったのか。

 本多の身柄を引き取ったことは牧野家が鈴木家に従属するきっかけとなった事件だったため、そんな彼が何不自由なく過ごしているのは、かえって周囲の人間に妙な気を起こさせることになってしまった。そんな環境に10年。本多はすっかり歪んでいた。


 鈴木家の間者対策は決して不十分ということはなかったが、完璧もあり得ない。牧野氏の領地は東海道と海に接していて、人も物も情報も集まる場所である。当然、他国の手が入りやすかった。

 立地としては隣の戸田氏の領地も同じだが、鈴木家は牧野家を残し戸田家を潰した。人の恨みはなかなか消えないものである。

 また、鈴木家の領内経営はうまくいっているように見えるが、大多数が以前よりはいくらか豊かで幸せになったとはいえ、そのやり方を嫌ったり領内で生じる不均衡に不満を覚えたりする者もいる。

 商業関連では沿岸部の牧野氏が優遇され、領内の開発では山間部や東三河の豊川中流域が優先されていて、同じ東三河でも渥美半島とは差があった。開発の波は時が経てば半島にも届くというのに、納得できない者は少なくなかった。

 他に、一向一揆後に村に戻らなかった者、他国や吉良領からの流民で鈴木家の保護を得られなかった者、鈴木家による村の管理や警邏を息苦しく感じる者、戦場での略奪の快楽が忘れられない者、こうした者らはいわば裏社会を作っていた。

 本多自身はそのうちの一向門徒くずれと付き合うようになっており、彼らを介して駿河の松平宗家に仕える本多氏と縁を繋ぎ直していた。


「本多殿、二連木を攻めておる七郎殿(戸田宣成)から『目くらましは十分であろう。我らはこれより田原をとる』との言付けがござった。」

「うむ?ああ、(野々山)新兵衛殿か。そうか、戸田殿には世話になったな。」


 息子だけは何とか守りたい牧野の妻はしおらしくなって夫宛の手紙を書く準備をしていたが、それを感情のない視線で眺めていた本多は、野々山新兵衛政兼に声をかけられて我に返った。

 野々山は戸田旧臣で、戸田家が鈴木家に取り潰された際に牧野家に拾われていた。


「決起の合図はなかったものの、この機は逃すべからず。これで今橋と田原を押さえておれば、あとは今川の後詰を待っておるだけで勝ちは転がり込んでこよう。」


 ◇


 渥美半島の覇者だった戸田氏。住民の信望は厚く、戸田方として戦場に出たのを覚えている者も少なくない。戸田氏が蜂起するならば、血の気の多い者が集まってくるのはおかしなことではなかった。

 彼ら地元民としては、戸田氏の手勢に素行の悪そうな者が多いのは気がかりだったが。


「『機を逃すな』とか言うて唆してはみたが、やあら、今橋はうまくやりおおせたか。こちらは織田殿の銭で300集めてあるも、あちらはさらに小勢と聞いておったで、いかほどのものかと思うておったが、本多はなかなか剛の者であったようだな。」

「いかにもそのようで、叔父上。鈴木も田原より今橋を先に取り返そうとしましょう。あちらがどうなろうと知らねど、せめて今川の後詰の来るまで耐えて、我らの方に敵を流さざらなん(ないでほしいなあ)。」


 戸田宣成は手勢300を連れて半島を南西に向けて進む道中、甥の戸田光忠と話していた。

 宣成は、かつて鈴木家と戦い尾張の織田信秀に引き抜かれた戸田政光の弟である。鈴木家の尾張侵攻を食い止めたい信秀の命で、鈴木家の後背を脅かすべく渥美半島にひそかに戻ってきていた。

 それに随行したのが、政光の次男・光忠だった。


「鈴木はずいぶんと守りを固めておったし、二連木がこれならば、それより手の入っておる今橋の城もそれなりに持つやもしれん。しかし、であらばこそ田原攻めは苦労しようて。

 しかも、兄上(戸田政光)からは織田殿も随分と焦っておったと聞くし、本多は今川の後詰がいつ来るか知らなんだ。本当に織田と今川は結んでおるのか?敵中で孤立するは勘弁ぞ。」


 二連木城攻めをしてみて、宣成は自分たちが支配していたころよりも城の防備が強固になっているのを実感したし、織田と今川の連携も不備があるように見えて、苦り切った表情で言った。


「織田殿の口車に乗せられたと?されど、まこと今橋にては本多殿らが内応を企てており申した。今川の手が入っておったのは確かでありましょう。

 いずれにせよ、それがしの調べでは、鈴木の海賊どもはしばらく前に田原から出たきり戻ってきておりませぬ。田原がいくら固かろうと、人がおらぬならば落とせぬわけもなし!」

「ご安心召されよ、七郎殿(宣成)。それがしの手の者も城内におりまする。」


 これまでそれなりに苦労してきた宣成は、甥・光忠の楽観的な物言いに納得がいっていないようだが、そこに口をはさむ者がいた。一族の多米氏光である。

 彼はかつて鎌倉街道を使って遠江から三河に入るときに入り口となる多米の地に住み、関銭を得ていた。しかし、国境を管理したい鈴木家が直轄の関所を置いたため、氏光は財源を失い鈴木家に禄をもらって雇われることになった。

 彼らからすれば我慢して仕方なく雇われてやったというのに、鈴木家ではかつて激しく敵対した「戸田」の苗字を名乗るのは居心地が悪く、多米戸田氏は苗字を「多米」に改める羽目になった。

 それらは表には出ないしこりとなっており、多米は面従腹背で日々を過ごしていたのだった。


 一方、手の者というのは半島付け根の大崎に住む「伊庭氏」のことである。

 同族かは定かでないものの同苗の近江伊庭氏が鈴木家で家臣筆頭の地位まで上り詰めると、彼らはおこぼれに与ろうとして近づいたが、当時元気だった故・九里老人にはたき出されて恨んでいた。

 海沿いの者ということで田原の水軍拠点に配属された彼らはその一件で肩身が狭くなり、伊庭を名乗るのを止めて地名を取って苗字を「大崎」に改めた。

 両者は地元も近く改姓したのも同じということで縁を結んでいたのだ。


「ほう?それは聞いておらなんだ。」

「失礼ながら、貴殿らの周りの者らは信の置けぬ者ばかり。はかりごとの肝を言うてしまえば、どこから漏れるかわからぬところ、仕方なきことでござった。」

「ふん、おおかた、こたびの企みが不首尾となっても、おぬしらは元の鞘におさまろうという魂胆でおったのでは?」

「もしそうでござったら、貴殿らはとっくに首から上だけになりて刑部殿(鈴木重勝)の前に並んでおったであろうな。」


 手下がそこらの荒くれ者ばかりでは少々頼りなくもあって、宣成は氏光と接触していた。

 鈴木家に仕える彼を味方に引き入れるのは一種の博打だったが、そのおかげで鈴木家の内情がわかりやすくなり、警邏を避ける際など潜伏がだいぶ楽になったから、口では詰るようなことを言う宣成も氏光をそれなりに信頼していた。


「まあよい、田原につけばわかること。」


 怒って腰のものに手をやりかけた甥を制しつつ、宣成は氏光に言い放った。


 ◇


「松平殿!松平殿!」

「なにごとか!」


 東三河嵩山城の牧場で兵や荷駄の用意していた松平二郎右衛門重吉のもとに、切羽詰まった様子の柘植市助宗能が駆けてきた。市助は隻腕の御用奉行(忍者頭)・柘植喜楽斎の息子である。


「今橋と二連木にて謀反!」

「なんと!」と、いったんは驚いた松平であったが、すぐに、

「この時分に謀反か。仕組まれておったな」と続けた。


 それを聞いた市助はぐっと悔しそうな表情をしたが、使番としての役目を優先して言う。


「林殿と分部殿で物見に出て、できればそのまま攻めまする。二川からも人が来るやもしれませぬが――」

「うむ、二川は二連木を挟んで向こう。間を飛ばしてやり取りせんと工夫するより前に、さっさと二連木を取り戻すが一番であろうな。」

「いかにも。それに、二川にはこの機に今川が攻めて来ましょう。かの地より後ろは我らで何とかしたきところ。」


 状況の説明を終えると、市助は本題の松平隊の動きについて伝える。


「ともかく、貴殿は林殿らとともに西へ向かい、前芝湊が使えぬようならば、御馬湊が使えるかお調べくだされ。」


 前芝湊は豊川の西の河口にあり、今橋城の外港のようなもので、それより少し内陸の伊奈城が鈴木家の直轄になってから特に整備された湊である。嵩山からは今橋の向こう側となる。

 御馬湊はさらにその西、音羽川河口の古い湊である。


「道中が安全とあらば新城から荷駄を向かわせまする。稲生殿には西三河で船を集めてきてもろうて、湊にて落ち合うことになりましょう。」


 市助の言に、稲生肥前守は供の者を連れて伝馬用の駿馬にまたがり、この場を後にした。

 湊の管理をしている稲垣半六郎は、急ぎの移動になるのを見越して軍馬を集めさせ、足の速い徒歩の兵も集めるよう近場の組頭に言い渡した。

 使番としての役目はこれで果たした市助であるが、まだ聞いてほしいことがあるらしく、松平をつかまえたまま少し口ごもるようにして言う。


「面目ございませぬ。我らの手落ちにございまする。」


 柘植父子が任されている御用奉行は間者をとりまとめる組織である。

 彼らは本拠地の三河と古巣の伊賀を拠点に、情報収集や他家の間者に対する警戒を行ってきた。

 ここしばらくは上方情勢を注視してきて、先ごろ伊賀に逃げてきた本願寺の蓮淳を仕留めるという手柄をあげたが、そのゴタゴタに人手が取られて一時的に本国の警戒がおろそかになっていた。

 柘植父子はそのせいで今回の謀反に至ったのだと思い、自責の念に駆られていたのだ。


「起きてしもうたからには、悔いても仕方なし。この謀反の裏にいかなる()()()()のあったか、いま貴殿らはこれを調べるが仕事であろう。」

「……いかにもにござる。しかし、二郎右衛門殿は落ち着いておられまするな。」

「それがしは今の殿をご主君と定め、志摩にて敵を討ち滅ぼせとの命をたまわったからには、そのことしか考えておらぬだけ。ひとつことに囚われたる無骨者よ。」


 家臣団の素行調査も行っている市助は、松平重吉のことは「鈴木家が松平家と戦ったときに、降伏するとなってもさらにごねた頑固者」と聞き知っていたから、なるほどそういうものか、と妙に納得した。

 一方、市助の話が終わったと見た松平は、即座に話を切り上げようとする。


「林殿と分部殿の支度がすぐ済むならば待つが、さもなくば、それがしはそろそろ発つぞ。」

「ええっ!いや、お二方をお待ちいただき――」

「ならぬ。湊を見に行くだけならば今の手勢で十分よ。むしろ、道中に敵がおったらば使いを出すで、我らが物見をしてしんぜよう。謀反などしたる慮外者も、よもやかくも早く寄せて来たる兵らがあるとは思うまい。さほど危うきこともなかろう。」

「い、いやあ、どうでござろう?」


 結局、頑固な松平二郎右衛門は、若輩の柘植市助の制止を聞き入れず、彼と稲垣半六郎を含めた10ほどの騎馬武者と50ほどの歩卒で南西へ駆けて行った。


 ◇


 松平の一隊は豊川の公営の渡しを使って素早く西岸へ渡河し、東に膨らむ豊川に沿って動きながら東岸の二連木と今橋の2城を遠目に観察した。これには2刻もかかっていない。


「ううむ、二連木はどうも守り切ったようであるな。敵は攻め切れぬとみてすぐに兵を引いたか。頭目はなかなかの器量と見ゆる。しかし、兵らはいずくに隠れたのか」と呟く松平は少し考え、

「今橋は静か。すでに敵の手に落ちておるとすれば、順当にそちらに合流したか」と自答した。


 二郎右衛門は騎馬武者の1人に「今橋はおそらく陥落していて、二連木を攻めていた兵がいなくなった」という物見の結果を言い含めて引き返させた。

 そして、残っている60人ほどの配下に声をかける。


「では、湊へ参らん。前芝でなく、御馬の方がよかろう。」


 松平は前芝の湊を使うのは危険と判断してさらに西の御馬湊へ向い、1刻半ほどで御馬湊に到着した。

 すでに日暮れであったため、湊の管理人として働いていた奥平家臣の佐脇何某に無理を言って炊き出しをさせ、長屋や倉庫も提供させて、一行はこれを寝床に体を休めた。


「戦船を仕立て、前芝を海から見てまいりまする。」

「うむ、お頼み申す、半六郎殿。」


 翌日、稲垣半六郎は商人の船を2艘水夫ごと奪い、10人ほどの兵を載せて沖に漕ぎ出した。

 湊に残った二郎右衛門は、誰のものであれ倉に置いてある物資はすべて差し押さえ、佐脇にその数量を記録させた。後で補填するのだ。

 商人たちには「前芝は敵の手が届くやもしれず、御馬は水軍の支度をするため数日は使えぬから」と、さらに西の竹谷の湊を使うように指示し、役人や商人に割り当てられている公営の長屋や倉をさらに接収して回る。

 奉行連中が行っている計画的な所領経営に差し障るから、松平は近場の農民を勝手に兵として連れて行くのは控えたが、兵や物資が集まるまで湊でただ待っているのは何とも苛立たしかった。


「答志島には先に兵を入れておかねばならぬというのに、ええい、もどかしいわ。」


 彼のもとには昼過ぎには稲垣が帰ってきて様子を伝えた。


「前芝は押さえられており申した。騒ぎに乗じておる商人やら無頼者やらの仕業やもしれませぬが。船としては小早で6、7というところ。」

「であらば、さほどの数でもあるまいな。林殿と分部殿でうまくやるでござろう。」

「うむ。段取りとしては、ここで焙烙玉などを受け取りて、西から稲生殿が船を廻したる後には、いったん知多の羽豆に向かい、他の水軍衆に合流する、と。よろしくてござるか?」


 稲垣の確認に松平は大きく頷いた。


「この様子が北畠に知らるれば、やつばらめは船を出してこよう。その前に何とか支度を済ませたいが――」


 松平重吉がそのように先行きの不安を述べていると、西から湊を目指して駆けてくる者の姿が目に入った。

 指している旗は丸に一葉葵。五井松平の家紋である。

 五井は、ここ御馬湊の西に徒歩で1刻少々のところで鵜殿領の東隣り。五井松平家の当主は、重吉が先ごろまで嵩山で顔を合わせていた松平信長であるが、彼は鈴木家の仕事で地元を去って久しく、いま五井にいるのはその従弟・松平又八郎である。

 又八郎は、重吉にとって嫁の姉の子、つまり甥である。その父は宇利城で戦死した松平忠定。又八郎は父が出兵直前に仕込んだ子供で、彼の死後に生まれた忘れ形見。そのため、信長にも重吉にも大事にされ、五井で育てられてきた。

 次の新年に元服して出仕する予定だったが、使者を走らすとは何かあったのか。


「おお、これは能見の二郎右衛門殿!こんなところでお会いできるとは!一大事ですぞ、鵜殿が兵をあげてございまする!」

【史実】牧野信成は本来、松平清康に攻められ一族の牧野田兵衛に寝返られて1529年に死にますが、本作では城主として生存しています。このときの攻め手が本多正忠でした。戸田宣成は信成・清康の死後、1537年に田兵衛から今橋城を奪いますが、1541年に今川家に滅ぼされます。

【参考】右の各話に関連する内容があります:第19話(松平忠定)、第34話(松平重吉)、第59話(本多正忠)、第60・103話(戸田氏)、第104話(今川家の謀)、第108話(信秀の謀)。

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