第113話 1534年「二川の陣城」◆
松平重吉らが志摩国答志島をめぐる北畠家との戦の支度を整えるために評定の間を去った後、諸将は一服して休憩をはさんだが、みな不安が拭えず、場の空気は張り詰めたままだった。
その中で、松平信長がこらえきれずに問いかけた。
「殿、志摩はこれでよいとして、熊野は?」
「新八郎。」
重勝は熊野に一族が移った菅沼党の代表として、菅沼新八郎定村に話を振った。
若い菅沼新八郎は評定の場の勢いにあてられて緊張しつつ答える。
「はい。左京殿(長篠元直)が道に沿って大木を切り落としたとかで国司軍は引き返しており、熊野勢は今は休めておるとか。火矢を防ぐべく生木で陣城を直して再び守りを固めておると文にあり申した。」
「伊賀(鳥居忠吉)も『何としても守る』の一点張り。」
「なるほど、伊賀殿ならばそう申されるでしょう。」
重勝が憂いで眉をひそめてちらりと鷹見を見ると、彼はそのように応じた。
重勝は気になるようで思案気にさらに言う。
「先の一向門徒と法華門徒の大戦で流れた足軽を集めれば後詰になるか……。」
すると、鈴木重直の配下で奉行の鈴木重吉が口を挟んだ。
「殿、西紀伊の一族は助力してくれませぬか?」
「雑賀の者たちか。かの地の同族はどうも一向宗らしく、当家はそこまで気にせぬのだが、向こうがなあ。しかも、佐大夫とかいう棟梁が本願寺門主に近づいておるそうでな。引き抜けぬだろう。」
「左様にございまするか……。」
鈴木重吉は肩を落とした。
重勝はさらなる雑兵の当てを挙げる。
「堺の者らからは大友と大内とが豊後で戦いよると報せがあったし、安房でも里見家で騒動があったと聞く。落ち延びた武者を集められればよいが……。」
「そのう、申し上げにくいのですが。」
そこで重勝の元小姓で倉奉行の冨永資広が声を上げた。
重勝に視線で先を促され冨永は話を続ける。
「堺から文がありまして、どうも他家の間者らしき者が増えておるとのこと。松永と宇喜多翁が気づいたとか。」
冨永は三河の銭勘定を司る立場上、堺との連絡係になっていた。
松永は松永久秀。新進気鋭の若武者で、町衆や堺公方方諸家との折衝を担当している。
宇喜多翁は元は浦上家の能臣で入道名を常玖という。庶流の浮田家に奪われた本領を取り戻すべく、願いを幼い孫に託しながら、仕方なく鈴木家にその支援を頼んでいた。
「間者か……。三好、細川、畠山らの手の者ではなく?」
「それもございまするが、どうも別らしいとのことで。」
「つまり雑兵を増やしすぎれば間者が入り込むというのだな?」
「杞憂であればよいのですが。」
この堺に入り込んだ間者は、鈴木家が美濃守護・土岐氏を追い返した際の噂が広まって事情を調べるべく送り込まれた者たちだった。特に美濃の隣りで情勢を注視していた六角の手の者である。
六角定頼は本願寺と法華宗を一挙に討ってその勢力を大きく削ったが、その背後の北近江で浅井亮政が蜂起したために、身動きが取れないでいる。
これには虚を突かれたものの、浅井家は時宜を優先したため、数年前の戦で負った大打撃から立ち直っているわけではなく、脅威ではない。
むしろ、定頼としては先に浅井を叩いてから他事を進めたかったのに、隣の美濃土岐氏が鈴木家と戦端を開いてしまったのが誤算だった。しかも苦戦しているというし、浅井が片付けば次は美濃の支援だろう。
そういうわけで、定頼は美濃を探らせていたのだ。
火矢と違って音が鳴り、飛んでくるのは飛礫。そういった話に、鈴木家が琉球との交易に心血を注いでいるのを重ね合わせると、鈴木家が琉球から何か新兵器を手に入れたと推測するのは簡単だった。
また、文正元 (1466)年に琉球の使節がそのような武器を将軍に披露して見せたという記録にたどり着くと、いよいよ確信を得るに至った。
その武器のせいで土岐の軍勢が小勢に敗れたのであれば、これ以上、鈴木家の琉球との交易を自由にさせておいてはならない。定頼は堺への介入を強めることを決意していた。
「安房は間に今川が挟まるが、九州の方の兵ならば問題はなかろう。上方の兵でも紀伊に入れるならばまだなんとか。三河と尾張には近づけぬが無難であろうが……」と重勝は逡巡している。
「されど、今川が攻め寄せるとなれば、どうしても兵が足りぬのでは?特に三河の兵を全て東に持っていくとなれば、尾張が危のうございまする」と尾張を担当する宇津は懸念を述べた。
「ううむ……」重勝は目をつむって唸っている。
「美濃が兵を集めておりまする」と宇津は畳みかける。
「厄介である。伊庭からそれがしにも文があった」と重勝は理解を示した。
伊庭貞説は養子の伊庭貞保(服部保長)らを連れて濃尾国境に近い楽田城に入って、あたりの慰撫と東濃の小里城・高山城に籠る友軍の支援に努めている。
彼の報告では、美濃守護は最初とはうってかわって熱心に兵を集めているという。先の負け方が悪いように噂になってしまっており、むきになっているのだ。
「尾張の兵はやはりそうたやすくは集められませぬか?」
兄・熊谷直安から尾張の統治が難しいと聞いている元小姓で奉行職の熊谷正直が口をはさむ。
「そうなのだ。三河とはすべてが違う。大森のまわりの土豪は手懐けておるゆえ、かの者らを介して村々から兵を呼ぶことができるが、新たに得た地にてはなかなか」と宇津が渋い声を上げた。
「知多はうまくいっておる方か」と重勝が問う。
「はい、知多は水野をはじめ諸家が臣従しておりますれば、かの者らを介して兵を集めておりまする。
これらに囲まれたる水野本家や久松家の収公(没収)の地でも、地侍や村の者らは大人しく当家の命に服しておりまする。
されど、熱田の周りや大森より北は、織田方の佐久間党などと深く縁を結んでおったゆえ――」
「そう素直にいかぬであろうな」と重勝が言葉を拾ってため息をついた。
「左様にございまする。村々を宥めすかし、あるいは脅して回らねばなりませぬ。知多の500、大森の500に、ようやっと500が加わるかどうかにございましょうか。」
「三河兵はなるたけ東に戻したいが、この1500は使い勝手がなあ。
見せかけになるが、織田はわざわざ焼けた熱田まで出張っては来るまいて、尾張兵1000でよかろう。美濃も嵩増しで尾張兵500を入れるとして……。
今の小里の守りは?」
「三宅殿・遠山殿の兵が小里に合流してもまだ500に届いておりませぬ。三河兵をあと500はほしいところにございまする。」
三河兵は訓練を施された組頭に率いられ武装を支給されていて、指揮系統が明瞭な諸将の下に配属される。将と兵の組み合わせが変わっても、彼らはうまく戦うことができる。
しかし、国人らを介して集められた兵は装備も能力も不均質で、村や武家ごとのまとまりが崩れてはうまく働かなくなるため、集団を分割したり合体させたりするのが難しい。
これら召集兵は三河兵と同等の戦力には数えられず、しかもその配置や運用には余計な手間がかかるため、諸将もあまり使いたいとは思っていなかった。
「いったん東三河で戦が始まってしまえば兵を西に回すのは難しくなるで、2500足らずで1年か2年か持たせねばならぬが――」重勝は不安げである。
「いえ!伊庭殿と父(宇津忠茂)がおりますれば何とかなるとは思いまするが!」
せっかく重い腰をあげて戦に前向きになった主君を再び不安にしてはいけないと、宇津は声を張った。
「おぬしはもっと後詰を送るべきと思うか?」
重勝はふと目が合った分部光定に問いかけた。
分部は伊勢長野家の流れで、北畠家の猛攻を1年以上耐えた後、海に逃げて三河に仕官した人物である。近頃は手駒の足りない重勝が東三河の防備を整えるにあたり重宝していた。
「……送れませぬ。今でも東の兵は6000が上限。対する今川は2万か、ともすれば3万にござるとか?」
「3万……。」
諸将の何人かは思わずといった風に声を漏らした。
遠江20万石、駿河15万石、甲斐20万石。総じて50万石を超える今の今川家は、甲斐が不安定で上洛軍2000を出しているとはいえ、隣国に出兵する程度なら2万は出せる。後先顧みぬなら3万もありえた。
「二川から南に陣城を伸ばしておるのであるな。」
「これにつきては、それがしが。」
話に入ってきたのは、林光衡。
林は鈴木家でも指折りの熟練者で重勝が全幅の信頼を以て小兵団の指揮を任せられる相手である。
「落合川に沿って台地がござって、これを土塁で盛り立てて南からはたやすく迂回できぬようにしておりまする。」
「今川は邪魔だてしてきておるが、寄せ手は数千には至らぬのであろう?」
「まだ1000かそこらかと。二川の防備はすでに整いつつござるし、船形山砦の石川殿と合わせて、東海道を外れて南に出てくる兵があれば、これに横撃を加えることができておりますれば、なんとか。」
石川というのは戦勝手次第を認められた石川又四郎のことで、彼は尾張の守備に飽きて三河に帰ってきていた。
重勝は今川を刺激しないで三遠国境を守るために、しばらく前に石川に命じて廃城の船形山砦をひそかに拠点化させていたのである。
「陣城の方は、1万の民で急ぎ作っておりますれば、なかなかの速さでございまするぞ、殿。民はこれで己らの田畑が守られることをわかっておりまするし、仲間の兵が少しでも死なぬのならば、と熱心にござる!」
奉行の熊谷正直が主君を励ますかのように胸を張って言った。
「これほどの民をうまく動かしておるのは講のおかげか、奉行衆の熟練のなせる業なのか。いずれにせよ、このまま時をかければ、こちらの守りは確かに硬くなりまする」と林光衡。
「農事はそれでなんとかなっておるのよな?」
重勝が問うと、諸奉行は少し居心地が悪そうであったが、鷹見修理亮が断りを入れる。
「何の差しさわりもないとはいきませぬが。」
「そうよな、詮なきことを言うた」と重勝は詫びた。
鈴木家は東三河で用水路やため池の建設を行い開墾を進めている。しかし、そうして開かれた農地は、結局のところ人手がなければ何も生み出さない。
戦となれば、人手だけでなく農耕用の馬も荷運びなどに駆り出され、もともと農作業はほぼすべて人力ではあるが、さらに馬という強力な労働力が使えなくなる。
鈴木家では、貧民を使った農場の直接経営や兵士不在時の農地管理を奉行が采配し、農作業の効率化を図っているが、結局は人の頭数が大事なのであり、他国に比べて長期出兵が容易ではあるものの、問題がないわけではないのだ。
「とはいえ、本坂峠を1000、二川を5000で守るのであれば、1年は陣城も兵糧も心配ご無用かと」と分部が林と目配せしつつ補足した。
遠江から三河に攻め込むには、本坂通と東海道がある。
本坂峠の守備のかなめが嵩山城で、重勝はこの城に詰めていた。
幕府による「御敵」宣言の後、重勝は峠に奥平家の若き当主・九八郎貞勝を送って大々的に防備を固めている。今川に従順な遠江の浜名氏が妨害しようと兵を集めたが、鈴木家に親しい後藤氏や奥山氏が出兵を拒否したため、こちらは睨み合いが続いている。
一方、今川家が侵攻するならば、開けた海側の東海道が中心となるはず。
これまでは相互に刺激せぬよう、国境には砦の一つもなかったが、今や国境最寄りの二川の宿場が丸々陣城に再構築されつつある。指揮を執るのは田峯菅沼家当主の大膳亮定広で、与力には西三河鈴木家の兵力と、加藤虎景を中心とする旧武田家臣団が付いている。
これに対抗して今川家は国境に近い遠淡海(浜名湖)西岸の妙立寺・本興寺を接収して防備を施している。遠駿の兵力が集められれば、ここが兵站拠点となるものと思われた。
とはいえ、今川家が自国内に拠点を作るだけで満足するわけがない。三河を監視するための浜名湖西岸・宇津山城に入っている朝比奈の分家は、二川の陣城づくりを邪魔するために、たびたび二川に攻めてきていた。
最初こそ船形山に潜んでいた石川又四郎の一党が攻めてきた朝比奈氏の軍勢を奇襲して大打撃を与えたものの、その後は勝ち負けのつかない小競り合いが続いている。
しかし、見せている兵はあちらもこちらも1000か2000ほど。互いにまだ時宜でないということなのか。いずれにせよ、重勝は今川家ではまだ大戦の支度が整っていないとみて、あの手この手で人質を返すよう申し入れているところだった。
そして、この二川に後詰を送りだす拠点となるのは二連木城。その防備は、さらにその後背の今橋城を本拠地とする牧野田蔵信成に委ねられていた。
ひとしきり話が出尽くしたところを見計らって、重勝はおもむろに帳面を開いた。
そして、あれこれ口に出しながらそこに算段を書き付け始めた。
「まとめると、志摩の手当てに松平二郎右衛門の500と水軍。
熱田の守り、熊谷ら尾張勢1000。」
鈴木家最古参の熊谷家嫡男・熊谷直安は、先ごろ水野家の婿となっており、その縁で水野旧臣や知多土豪を取りまとめている。
水軍は三河と紀伊の船を全力で戦場で動かすとなると2000人の人手が必要で、攻撃用の戦士も載せるとなるともっと人が必要になる。
重勝はいったん筆を止めて考える。
「美濃は小里・三宅の後詰に伊庭と……。
西郷はこちらに入れるか、これで1500。
陣夫は岡崎と新城に5000。宇津、松平、鷹見。」
陣夫というのは小荷駄や陣城の普請に動員される夫役の担い手であり、いま陣城を作っている1万人の半分がこれにあたる。残り半分はそのまま武装して攻守に使われる。
また、美濃の後詰の候補に挙がったのは西郷正員で、彼は青山忠教・酒井忠親らを配下に尾張攻めを任されていた。
名前の出た宇津は、この場にいる五郎右衛門忠俊の父・忠茂のことで、松平の方は、ここにいる松平信長や、90歳近い大給の松平乗元翁らのことである。
岡崎詰めの将兵は、東西三河・新参古参・松平諸家などの対立の種で派閥に分かれつつあった諸勢力の一部をいっしょくたにして小荷駄に充てたものだった。
一緒にしたことで対立が深まるような場合もあったが、基本的には長期化した尾張攻めの間に一緒に仕事をして融和しつつあった。難事を前にした恐怖心や危機意識でまとまったのだ。
「本坂峠に奥平の1000、東海道に菅沼・牧野の5000。」
そう言いながら、重勝は小姓目付の奥平貞直、田峯菅沼家からの人質である近習の菅沼定村に目をやり、この方面を担当する義弟・鈴木重直と分部光定とも視線を合わせた。
「ふむ、これですべて。……まことにすべてなのよな。余りの兵は全くない。」
もちろん、戦後を考えず、また人をただ集めるだけでいいなら、数はいくらでも増やせる。
しかし、迅速な動員ができ、動員後の食糧生産の計画が整えられていて、武装や食料の手配も十分、なおかつ、部将による統率が行き届く範囲となると、これが限界だった。
一方で、今川家は、というよりも鈴木家が周辺国とは異なる基準を持っているだけで、普通は兵糧の不足は侵攻先で掠奪して賄うことも視野に入れて、まずは集められるだけ人を集めるだろう。
重勝は彼我の戦力差を思って重い吐息を漏らし、ぼやくように言う。
「やはり雑兵の手配を――」
「ご注進!ご注進!」
すると、小姓の篠田少年の先導で、牧野一族の牧野平四郎が鎧姿でがなり声をあげながら、評定の間に駆け込んできた。
「いかがした!疾く申せ!」
重勝が言うか言わぬかのうちに、平四郎はさらに声を張り上げた。
「今橋城にて謀反!二連木城も戸田の兵に攻められておりまする!至急、応援を!」
二川の防衛線の内側での変事。
これはいかん、今川が攻めてくる!いや待て、人質はどうなる!?
重勝は己の全身の血が引いていく音が聞こえた。
【補足】鈴木家の現在の石高は下記の通りで、今川家55万石に海運収入の数万石を足すと、経済規模的には同等です。海運は越後の船道前を基準に計算していますが、当時は日本海流通が主流であることや、堺はいろいろ複雑で関銭収入もないことなどを勘案して、控えめになっています。
三河:25万石(除:吉良家2万5000石、鵜殿家5000石)
尾張:12万石(知多・山田・東愛智・春日井一部)
熊野:5万石(ここまで:42万石)
海運:20万石(5万貫文)
合計:62万石




