第10話 1515年「駿府」
甚三郎は出立に先んじて浜嶋を駿府に送り、いくらか準備を整えると、鳥居源七郎らを伴って宇利の東の峠を越えた。
井伊氏の勢力圏に入って彼らに挨拶をすると、情勢不安の遠淡海(浜名湖)周辺を避け、内陸を回って掛川に至り、ここで数日滞在した後、城主・朝比奈氏の案内を受けて駿府にたどり着いた。
今川氏親の本拠である駿府は、甚三郎一行がその栄えように驚いた掛川よりもはるかに栄えており、甚三郎に大きな衝撃を与えた。
岡崎の町をよく知っていた源七郎でさえも、今川の力を見せつけられた思いであった。
「掛川の人出にも驚いたが、駿府はなんともはや。」
「まことに。松平はかように栄える今川を追い返したわけでござるか。」
「うむ、それゆえそれがしは松平を一際警戒しておる。とはいえ、源七郎。松平家中は家督がどうのと定まらぬらしい。これは好機、我らはこの間に東三河で力をつけねば!」
町の活気に中てられて浮足立っていた甚三郎も、今川館に入っていよいよ今川氏親に挨拶をする段になると、緊張で頬がひくついていた。
◇
甚三郎らはとっておきの贈物を用意しており、目録とともに事前に渡してあった。
目録を受け取った者らは、当初、何が贈られたのかよくわからず、若いながらも今川氏親の側近を務める瀬名陸奥守がわざわざ判断することになった。
その彼も、その贈物が貴重なのだろうということまでしかわからず、氏親に相談しにやってきた。
「お屋形様。鈴木何某とやら、ずいぶんと珍しきものを持ち込んだようにございまする。」
「ふむ、三河の一国人にその方が驚くほどの物を持ち込むことができるとは思えぬが、いかほどのものか。」
「それが、『字鏡集』とかいう書物の写しでございました。」
「じきょうしゅう……?いかなる由来かの。」
「それがしも全くわかりませぬが、柴屋軒様か、お方様ならば何かご存知やもしれませぬ。」
「うむ、上方で手に入れたのであろうからのう。どれ、室には後で見せるとして、ともかく宗長に見せてみるとするか。」
室とは氏親の正室の中御門権大納言宣胤の女のことで、嫡男の竜王丸を生んだばかりだった。
一方の宗長とは、著名な連歌師の宗祇の弟子にして、氏親の父の代から長らく仕えている外交僧である。号を柴屋軒といった。
瀬名陸奥守は近侍に目配せして彼を呼びに行かせた。
「およびと伺いました。おや、お屋形様は何の書をお読みですかな?」
老僧は部屋に入ってくると、目ざとく件の字書を見つけた。
「三河の者が持ってきたのよ。その方に見てほしくてな。」
「どれ、拝見しましょう。……ふむ。」
「いかがでしょうか、柴屋軒様。いかなる由来かおわかりですか?」
焦れたように瀬名陸奥守が尋ねた。
「ふむふむ……。これを写した者は、前書きにて由来を述べておりますな。写したのは鈴木重勝なる者で、ほう、和泉は堺の阿佐井野宗瑞殿の伝手で入手したそうにございます。そして……左様、承久の大乱の頃でございましょう、菅原の大蔵卿の編まれた唐文字の字書でございますな。
くくっ、ただ、この筆写師、おかしなことに、『浅学菲才の自らはこれを自在に使う能わず、さりとて容易に使う能わば、その時にはすでに入用ならざるべし』と申しております。要するに、未熟者ゆえ難しすぎるが、難しくなくなる頃には字書なしで済むだろう、ということですな。これは学問するがために途中までを写したようで、続きはこれから写すようですな。」
「ふははっ、難しかったか。」
氏親はおかしそうに笑った。
「はい、そのようで。」
「くくっ、これだけのものをわざわざ手に入れて難しかったことがわかったと。それは残念でしたな。」
陸奥守もくすくすと笑って、筆写師について一言付け加えた。
「その重勝というのはこれを持ってきた三河鈴木の分家の当主のことでしょう。」
「なんとも正直な奴のようだな。」
氏親はそのような印象を抱いたようだ。
一方で宗長は感心していた。
「ほう、分家当主でこれだけ学があるとは、鈴木家はよき師でも招いたのですかな。」
「うむ?学があるのか?」
「はい。この前書き、かくも剽げた物言いでしたが、文章自体はきちんとした書かれ様です。文字もよく整っており、よく学問を修めておるのがわかります。」
「左様ですか。この者、『丈はあれど顔は幼し』と案内した者は申しておりました。まだ若いのでは?」
陸奥守は伝え聞く印象が年嵩の者に対する言い様ではなかったため、気になって口を挟んだ。
「若くしてこれならば才があるのでしょう。当主でなければ出家させて学僧とするもよかろうやもしれませぬが。」
「ほほう、宗長がそうまで言うからには俄然興味がわいてきおったわ。どれ、面を見てやるとするか。」