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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第8章 今川上洛編「風雲急を告げる」
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第108話 1533-34年「ふなずし」◆

 天文2 (1533)年。

 浅井家を近江から叩き出し、北畠家と共同で伊勢の長野氏を滅ぼした六角定頼は、間違いなく近畿で最も強大な力を持つ存在である。

 背後の越前朝倉氏は幕府方、若狭武田氏も彼らと対立するも幕府には忠実。美濃土岐氏もようやく頼芸が守護の地位を確立しつつあり、彼は幕府に歩調を合わせるつもりだ。後顧の憂いはない。

 対浅井戦の傷を癒した定頼は、嫡男・六角義賢の元服式を執り行って自家の安定を確かにし、そのうえで、こじれた上方情勢をいい加減安定させようと積極的に動き始めていた。


「大内から遣明船の再開につきて相談があったか。なるほど、そろそろ10年か。」


 六角定頼が、腹心で主に外交を担う進藤貞治の報告に答えた。

 10年というのは寧波の乱から10年ということで、日本の朝貢は10年に1回とされている。


「内談衆方々は前管領殿(細川道永)がお持ちであった符を与えてはどうかと。」

「大樹(足利義晴)はいかが思うておられる?」

「わかりませぬ。どうも虫気(腹痛)で臥せっておられて。されど、内談衆のみにて勝手にかようなこと持ち出してきましょうか?8人衆で意見もまとまっておるようにございまするし。」

「であらば御内意か。」


 寧波の乱で大内側の使節と対立した細川側の使節は数年間、寧波に留め置かれ、1道(1枚)きりの勘合符を与えられて享禄末期に帰国した。そして、道永の死でその勘合符は将軍の手に渡っていた。

 普通は皇帝代替わり後の最初の朝貢で100道が渡されるが、日本船は寧波で騒動を起こしたため、ひとまず次の交渉のために1道だけ与えられたのであり、この符以外では受け入れてもらえない。

 細川方の遣明船を用立ててきた堺は符なしで毎年のように交易できる琉球に夢中で、幕府と疎遠になっている。管領細川氏の跡目も不確かな今や、交易を再び幕府の主導で行う好機だった。

 ただし、それは管領候補に躍り出た細川六郎に遣明船に関する実権を与えないということでもある。


「大樹は相変わらず六郎を好かぬか。」

「あるいは大内からの助力を重く見ておられるのでは?」

「ふむ。大内も大宰大弐の職が得られぬとなって、幕府との仲を気にしておるようであるしな。」


 北九州で大友氏と少弐氏と戦う大内氏は、太宰大弐職を得て大義名分とし討伐に弾みをつけようとしたが、後奈良天皇は献金と引き換えに官職を与えることに難色を示し、話は流れていた。

 そこで、若き大内義隆は幕府との連携を強化して再び奏請してもらおうと動いていたのだ。


「琉球との商いが始まったのも気がかりなのやもしれませぬ。」

「薩摩も鈴木の横槍に文句を伝えてきたな。慣例やぶりだ、と。島津は大永の遣明船も支援しておったし、九州は畢竟、明の産物を独り占めしたいということであろう。」

「島津はわかりませぬが、大内は寧波の騒動に先代殿(義興)が相当ご立腹であられたと聞こゆるところ、『六郎殿が京兆家(管領細川家)当主となる前に』というのもございましょう。」


 これまでは日本勢と琉球のやり取りは基本、島津氏を介していたが、島津氏の内紛に付け込む形で鈴木家が交易を始めたため、苦情が出ていた。

 一方、大内氏は、寧波の乱は細川のせいで迷惑を被ったと怒っていた。

 彼らとしては、新しい勘合符を持って先に寧波で明政府と交渉を始めたのに、古い勘合符を持った細川船が後から来て横入りしたせいで騒動になり、取引ができなかったという認識である。

 他方、足利義晴と細川六郎を融和させて体制を安定させたい定頼からすれば、大内の遣明船を認めてしまえば、自身が支援する六郎を蔑ろにすることになってしまう。


「そう言われると、我らは大内に便宜を図ってはならぬわけだが。」

「致し方ございますまい。六郎殿と和解していただく代わりということで、なにとぞ。」

「堺からは再び琉球への船が出たそうだな。町が燃えても繰り出すとは侮れぬ。大内を繋ぎとめ、明との伝手を保っておくことは必要か。うむ、内談衆には『よきご思案』と返事をしておこう。」

「お手間を頂戴しまする。」


 実のところ、町は燃えたが堺商人の財産は大部分が海上に運び出されて無事であり、傍から見るほど被害は大きくない。だからこそ復興も速やかなわけだが、幕府方には与り知らぬことだった。


「それで、くだんの御内書はその後いかがした。返事はあったか?」

「大舘殿(晴光)によれば、出羽殿(鈴木重直)から『今川をして人質を返さしむるよう口添えしてほしい』との文があったとか。」

「なに?あの随分な御内書への返事がそれだけか?奇妙な」と、定頼は右手で顎をひねって思案する。

「刑部(重勝)は文を好むと聞くし、折衝こそあやつの得手であろう。あの御内書は、我らが賊を討っておる間に、幕臣連中が留守居の今川と勝手をしよったもの。あの中身で受け入れるはずもない。ごねてくると思うておったが。」


 主従して首をかしげて思案するが、先に考えをまとめたのは進藤だった。


「あれは鈴木が拒むのを見越して今川が戦の口実を用意したものではございませぬか?鈴木もそれをわかって人質を返すよう求めておるのでしょう。」

「ふうむ」定頼は顎をねじりながら考えて、「そうか、戦う気か……」と一応は納得した様子。

 とはいえ疑問も残るところで、定頼は進藤にさらに尋ねる。

「されど、今川が討伐せんとて、畿内がこれでは我らは助力できぬぞ。それに2000の兵もしばらく戻さぬという約束である。帰国願いの類につきては聞いておるか?」

「いえ。されど、今川がそれらを承知しておらぬはずもございますまい。勝つ算段はあるのでは?」

「左様か。」

「いずれにせよ、上方の騒乱を長引かせるわけにはまいりませぬ。お許しいただきますれば、それがしの方で尾州畠山(紀伊守護家)を揺さぶってみまするが。」

「尾州家を押さえれば、八郎のもとに残るは丹波衆と一向門徒か。」


 畿内を荒らしまわる一向門徒に対し、法華門徒が一揆を結んで対抗し、定頼と六郎はこれに加勢していたが、細川道永の弟・八郎晴国が旧道永派・反六郎派を糾合して蜂起し、本願寺と結んでいた。

 八郎に蜂起を決心させたのは長年、道永を支えてきた細川国慶。

 彼の呼び掛けに応じたのは、六郎の暴挙に呆れて丹波に引っ込んでいた守護代・内藤国貞や波多野秀忠のほか、一貫して道永を支えてきた紀伊守護・畠山稙長もそうだった。

 彼は北畠家と同じく、道永の死により近江幕府内で発言力を落としており、さらには、道永に従って戦死した弟・細川晴宣が持っていた和泉上守護職を、幕府があっさり六郎配下の細川元常に与えたことに失望していた。さらに、稙長は別の弟を本願寺に入れており、この動きは必然だった。

 しかし、八郎の目論見は外れ、それ以外の反六郎派は和泉でまとまりつつあり、しかも、その拠点の堺は琉球に船を出すほど勢力を維持していたため、思うように味方が集まらなかった。


 その様子を見極めた定頼は「負けぬ」との確信を得ると、その次の段階を思い浮かべ、

「今川を京に入れる」と言った。

「民部大輔殿(今川氏輝)のお加減は?」

「今は問題ない。しかし、『ふなずし』が合わなんだとはな。京を押さえた後には、狸でも贈ってやるとしよう。もっとたくさん食って精をつけ、早く跡継ぎをこさえてもらわねばならぬしな。」


 先ごろ、今川氏輝は三条公頼の長女と祝言をあげた。

 その際にはたいそうな御馳走が用意されたが、その中には特上の「鮒寿司」もあった。

 しかし、慣れない異国の地で「幕府に、公家に、鈴木家に」と交渉事で気疲れしていたせいか、すっかり食が細くなっていた氏輝は、こうした御馳走でかえって体調を崩していたのである。

 定頼は調理を担当した包丁人に切腹を命じたが、氏輝は寛恕を求めて徳を示した。

 情勢が落ち着けば、細川六郎も、定頼が養女にした三条公頼の次女と祝言をあげることになっており、幕政における六角家の地位は一段と高まるだろう。


 ◇


 細川八郎晴国陣営は、近江一国70万石を領する六角定頼方の大軍勢を前に息切れ気味であり、法華門徒の容赦ない攻撃で疲弊していた本願寺では、抗戦派と和睦派が内部対立するに至っていた。

 抗戦派の下間(しもつま)頼秀・頼盛の兄弟は、門主・証如を手元に監禁してまで戦いを続けた。


「こたびの門徒の暴挙は下間の扇動!お上人様(証如)のご意志にはござらぬ!かのお方をお救いし、いまこそ我らが宗門を我らの手によりて正道へと戻さん!」


 紀伊国から真宗教徒を率いて大坂御坊に合流していた鈴木佐太夫はこうして決起し、証如の大叔父・実従や下間頼慶の支持を得て下間兄弟の追放に動いた。

 しかし、法華衆からすれば、知ったことではない。あと少しで宿敵・本願寺を完膚なきまでに叩き潰すことができるのだ。しかも、法華側には一向門徒の襲撃で財産や家族を失った者たちも加わっており、争いは熾烈を極めた。

 そんな中、証如は六角定頼・細川六郎軍との単独講和を成し遂げる。畿内の一向門徒の総破門を条件に、両軍は本願寺救援を約束し、突如として法華衆の背後に襲い掛かった。


 これと時を同じくして、京において本願寺系の寺院を打ち壊して自検断(裁判・警察権)を行使するまで勢力を強めていた法華町衆を排除する企みも進んでいた。

 今川氏輝の義兄である中御門宣綱や懇意の山科言継らが主導して今川軍2000を招き入れ、その武力を背後に、出陣して数の減っていた法華町衆を追い出したのだ。

 六角定頼は本願寺にしろ法華宗にしろ、門徒群衆が京を差配するなど端から認めていなかった。

 この裏切りに、2万人を数えた法華一揆勢も打ち破られて散り散りとなり、人々は本圀寺14世・日助の指導で一路、堺を目指して逃げ、末寺の成就寺を再建して住み着いた。


 ◇


 流されるままに反近江幕府勢力の重鎮となりつつある鈴木家。

 しかし、三河の指導部は、上方情勢そっちのけで尾張にのみ目を向けていた。

 なんとか義兄・重勝を休ませて回復させたい当主代行・鈴木重直は、ひとりでは各所広くに目配りするのは困難だったため、自分でもできそうな尾張のことだけ扱うことにしたのだ。


「刑部殿(重勝)はまだ元気がないか。」


 気遣わしげに呟いたのは、奥平家の先代当主・奥平道閑入道(旧名・貞昌)。数え83歳。

 重直は義兄と懇意のこの老人を相談役に呼び出したのだ。


「というよりも、休もうにも休めぬようで……。お方様が側についておられるのでござるが、諸事につき『己が知らぬ』ということの方が気がかりに見ゆるとか」と鷹見修理亮が応じる。

「働き熱心なのはよいのじゃがのう……。真に休むには、三河を離れどこか遠くを旅するでもせねばならぬのじゃろうかのう」と隠居した身の奥平が重勝の気持ちに理解を示した。

「……そうかもしれませぬな」と、鷹見は少し反応に困った風な様子である。


 そこへ、堺からの手紙を読み終えて考えをまとめてきた鈴木重直が一座に合流した。


「近衛様(稙家)に代わり九条様(稙通)が関白になったそうな。当家には何の報せもなかったが。」

「急な話だったのやも?いずれにせよ、奇妙にございまする」と鷹見修理亮が言う。

「九条の荘園は貴家で面倒を見ておるのじゃろう?せっかくの伝手。なにかに使えればよいのじゃが。」

「九条様は堺におられるし、武野を京に残してき申したが、その武野のもとへ人を送るのも容易くない。しばらくはどうにもならぬと思うが……。」

 外のことはよくわからない奥平は、重直の言に接して、

「左様か、残念じゃのう」と言うしかなかった。


 実のところ、この人事は、京での法華門徒の横暴を嫌った朝廷が、本願寺教団中枢と親しい九条を関白に据えて、法華宗を抑止するとともに京を一向衆の攻撃の標的にさせない目的で行われた。

 かなり急な話で、九条も何の準備もできずに関白になったため、彼に関白としての振る舞いを期待するなら、本当は鈴木家の支援こそが必要だったのだが。


「それより、備荒(飢饉対策)を第一にせねばならぬとか。」

「はい、堺の町衆はかなりの米麦を集めておりまする。先の貸付の返済で三河の蓄えは再び十分となり申したが、今や新たに買い集めんとすればとんでもない高値になっておるとか。」


 奉行の酒井忠尚が報告した。

 重直は鷹見に問いかける。


「ではあまり兵は動かせぬか?」

「あまり好もしくはございませぬ」とは酒井の言。

「ううむ……、いかでかは(なんとかして)尾張を片付けんとぞ思うが。」

「先には古渡も落ち、そしてこたび水野も落ちた今や、そこまで無理をせずともよいように思いまするが……」と鷹見も消極的だ。


 古渡城は織田信秀方の平手政秀が詰め、前田党・佐久間党が逃げ込んで長らく頑強に抵抗していた。

 鈴木家が知多に手間取っている間に、信秀は強行軍で兵糧をたびたび運び入れ、数か月もの間、籠城を続けさせたのだ。しかし、先年春には開城、平手の生害と引き換えに前田らは勝幡へ撤退した。


 また、水野家も、重臣・中山氏が離反し、新海淳尚ら知多土豪が蜂起して追い詰められていたが、同盟相手の久松家が鈴木家に滅ぼされたのが決定打となり、降伏交渉が始まっていた。

 交渉をまとめたのは、鈴木家の騎馬隊を率いる熊谷次郎左衛門直安。

 彼は先には清洲方に援軍として送られていたが、滞陣が長期になったため、設楽清広と新参の三河国人からなる兵団と交代して東尾張に戻っていた。


 重勝の思惑よりは水野家の力が保たれることになったが、宗家当主・忠政と嫡男・信元が切腹、次子以降は出家となり、家督は平島城主・水野成清に移った。

 平島城は鈴木方の花井氏に完全に囲まれていたため、成清は早くに降伏しており、血縁の面でも忠政の娘婿で、かつ父は忠政の庶兄であるから、順当な措置だった。

 その他、刈谷の水野近守と常滑の水野大和守は、謀反を起こした中山重時とともに、所領返上のうえで十分な禄をもらって鈴木家中でそれぞれ家を興すこととなった。

 熊谷次郎左は忠政の娘を娶り、水野旧臣と知多土豪を与力とすることになった。


「いやいやいや、であればこそ畳みかけるのがよかろう!戦は勢いじゃ!」と奥平入道が唾を飛ばしながら吠え、直後に咳き込んだ。

 それを横目に重直はあたかも懇願するかのように、

「兄上が元気になるまでに尾張を落ち着け、気を配る相手を減らしておきたいのだ」と鷹見に言う。

「……わかり申した。まだ東国からならいくらか米や麦も集められましょう。兵事そのものにつきては、それがしは詳しくござらぬゆえ、伊庭殿か宇津殿に諮るのがよろしいでしょう。」


 重直から織田信秀を屈服させる一手を求められた伊庭と宇津は、重勝がここぞというときのために打っておいた布石を活用することにした。


 ◇


「大至急!至急の報せ!津島大橋殿、一族で町を離れたとの由!」

「なにっ、大橋が!?」


 勝幡城の信秀は津島からの急使を受けてうろたえた。

 大橋氏は木曽三川中下流域で勢力を持つ有力氏族である。

 一族をまとめる和泉守定安は、鈴木家の奉行・長田広正の兄であり、「信秀、勝利の見込みなし」との説得を受けて家財を船に運び入れて夜逃げしたのだ。

 岩倉城の防衛のために清洲西方にいた弟・川口帯刀宗定も、これと示し合わせて出奔した。

 信秀はすぐに津島や岩倉方面の混乱を収めるために人を送ったが、そうこうするうちに今度は尾張北部で変事が生じた。


「楽田の城が落ち、犬山が包囲されておるとな!?鈴木め、熱田と知多でのろのろとやっておったは、こちらの油断を誘うためであったか。」


 鈴木家の動きが鈍かったのは清洲・今川・幕府の顔色を窺っていたからだが、信秀に知る由もない。

 楽田城は岩倉織田家当主・広高の直轄で、当初こそ数百の守備兵が置かれていたが、岩倉周辺での攻防が激化すると兵は引き抜かれていた。

 しかし、ある日、鈴木方の大森城から北上してきた300の兵が突如として楽田城の眼前に現れ、城内に詰めていた楽田村住人・梶川平九郎が故・九里浄椿との約束通りに開門し、あっけなく陥落。

 兵はその日のうちにさらに北上して犬山城に取り付き、翌日には続々と南から援軍が来て、瞬く間に犬山城は800の兵で囲まれてしまった。

 犬山には平時は岩倉織田家の重臣・織田寛近が詰めていたが、今は彼も岩倉防衛に駆り出されており、信秀の父で隠居の身である織田信定がわずかな手勢で守るのみだった。


「犬山は遠すぎる。明け渡すほかない。もう駄目なのか……」悔し気な信秀は、しかし諦めない。

「いや、まだだ。六角は『今川が鈴木攻めを決めた』と見ておる。まだ手がないでもない。も少し引き延ばすのだ。さすれば必ずや……。」


 ◇


 鈴木家が尾張支配を固めようとしているのは衆目一致。これには今川家も焦った。

 とはいえ、今川にとって幸いなことに、織田信秀もまだ降伏の意思はなく、清洲織田家も岩倉織田家の所領を削ってから、あるいはいっそ家を取り潰すまで攻め立てようと考えており、両家とも鈴木家の要請を蹴って戦を続けている。


「このまま悠長に手をこまねいておっては尾張をすべて奪われるぞ!あやつら、御内書に従う気なぞさらさらないわ!」と瀬名陸奥守は怒鳴り散らし、

「人質を殺せ!あれだけ数がおるのだ、見せしめに1人2人殺せ!」と血走った目で訴えた。

「……人質を殺すとなれば、いざ開戦し、その後に当家の勝ちと定めて和睦する際に差し障りまする。軽々にすべきことではございませぬ」と九英承菊が反対する。

 しかし、瀬名の怒りは収まらず、

「何のための人質か!そんな弱腰でどうする!」と九英を叱責した。


 鈴木家の扱いをめぐって、今川家中は幕府を介した交渉の成果に一喜一憂してきたが、先の強気の御内書を将軍から引き出すことができて、外交においては決定的な優位を得たと確信していた。

 しかし、いつまでたっても鈴木家からは詫びを入れてくる気配がない。

 幕府はあくまで今川家と鈴木家の仲介をしている気分でいるため、上方で「宗教戦争」が勃発するとそちらにかかりきりになって、両家の交渉のことは放置している。

 今川家からすれば、そのままうやむやになることなど許されない。

 今川はあれやこれやと工夫してようやく御内書を得たが、本来、そんな手間をかけずとも今川は圧倒的に格上である。だのに、鈴木はその努力の成果すら無視してきた!つけあがらせてはならぬ!


 今川家中の諸将の意見は、武力による成敗へと急速に傾きつつあった。

 しかも、自力で長期の戦を行えないような中小領主の方が戦に乗り気なのも異常だった。きっと甲斐一国を勝ち取ったという直近の記憶が自信につながっているのだろう。

 豊かな、いや鈴木家が豊かにした三河と、その先の尾張を獲りさえすれば、どうとでもなる。そのような楽観論がまかり通っているのだ。


「……今少しお待ちくだされ。三河は甲斐よりもおそらく手ごわくてございまする。その甲斐ですら、相模や信濃の助力を得たのです。三河を攻めるにせよ、当家独りでは万全ではございませぬ。」

「そこはその方が弄した策で補えるであろう?」

「拙僧はそれだけで事足りるとは断言できませぬが、あとは陸奥守殿のお心次第かと。」


 そのように言われてしまうと瀬名としても即時開戦を主張し続ける気勢がそがれてしまう。

 頭に血が上って瀬名がうまく言葉を見つけられないでいる隙に、九英はすかさず言い募る。


「先ごろまで本願寺は大坂でしぶとく粘っており申したが、いまや和睦し京にも門徒が戻りつつございまする。」

「それがどうしたというのだ?」


 瀬名は、急に関係のない話を始めた九英に訝し気な視線を向けるも、突拍子もない話でさらに気勢を削がれて少し大人しくなった。


「大坂に集まる万の門徒を食わせるだけの穀類、大軍を押し返し続けるだけの武具や壁材を集めるのは、辺りに敵がたくさんおる中ではとても容易いことにはございませぬ。

 そこで一向衆が使ったのが渡辺津なる湊にございまする。船でこれらを運び入れたのでございまする。しかしこの渡辺津、あるのは堺のわずかに北。沖には当然――」

「堺の船が。なるほど、大坂は堺の助けを得ておった、と。町を焼かれた堺方が本願寺を援けておったのは奇妙なれど……、も一度言うが、それが何だというのだ。」

「公方様も御内書をなおざりにされては黙っておられませぬ。しかも、今でこそ和睦し申したが、本願寺は『御敵』にございました。御敵に一味しておったとなれば、次なる御内書の中身は――」


 ◇


 天文3 (1534)年。

 本願寺と近江幕府の和睦により丹波に孤立することになった細川晴国は、暴れ続ける法華門徒と一向門徒の残党を六角軍が鎮圧していく間、打つ手もなく漫然と過ごしていた。

 しかし突然、配下の三宅国村がこれを暗殺し、その首を手柄に京の今川軍に合流した。三宅は晴国と本願寺の間の取次であり、山科本願寺の再建許可を対価に幕府への協力を受け入れた証如の密命を受けていた。

 これにより、丹波勢の内藤氏や波多野氏はもんどりうって細川六郎陣営に転向。

 旧道永派重鎮の細川国慶は落ち延び、道永の養子だった次郎氏綱を担ごうと堺に流れた。


 一方、晴国方の紀伊守護・畠山稙長は、河内で様子を見ながら堺方に合流するか悩んでいた。

 堺方の中心には、彼の尾州畠山家にとって宿敵である総州畠山家(畠山在氏)と、何かと鬱陶しい鈴木家がいるため、すぐに味方になれるような間柄ではないからだ。

 しかし、近江方優勢と見た守護代・遊佐長教が、六角家の進藤貞治の手引きで「稙長の弟・長経を守護にする」との御内書を得て挙兵したため、稙長は紀伊に逃げざるを得なかった。

 紀伊では国衆・湯川光春らが自立を強めていたが、事ここに至っては内々で争っている場合ではないと、熊野別当・鳥居忠吉の仲介で和睦。光春は紀伊守護代に取り立てられ、稙長は堺方に参入した。


 将軍・足利義晴は人々の要請で病身を押して京に復帰し幕政を再開させたが、体調不良ゆえに政務の補佐役を必要とした。そのため、同じ腹痛持ちで温厚な今川氏輝に好意を寄せて重用した。

 一方、これまでよく支えてくれた六角定頼は、越前に潜伏していた浅井亮政が隙をついて北近江で蜂起したため帰国してしまっていた。

 また、近侍するようになった細川六郎・三好政長・木沢長政・遊佐長教らの助言で、義晴は、以前から婚約していた前関白・近衛稙家の妹と結婚し、親堺方の現関白・九条稙通の解任を要請。後奈良天皇の即位式を行うという名目で、式の故実に通ずる二条家の尹房を代わりの関白に再任させた。

 本願寺の討伐と畠山家の当主交代。立て続けに御内書で事を有利に運ぶことができた義晴は、さらに、六郎らの勧めで堺方諸勢力を「御敵」と認定。

 かくして、全国の大名は憚りなく堺方諸家の領国を掠奪なり占領なりできるようになった。

【史実との違い】一連の出来事は1532-36年間の「天文の錯乱」と「天文法華の乱」が作中情勢に応じて姿を変えた形です。大きな違いは、三好が細川六郎と和解しなかった、大内の遣明船(史実では1540年)、法華宗討伐に延暦寺が絡まず京都も被害に遭わなかった、浅井と六角の戦の時期・事情、最後の「御敵」認定、です。歴史が前倒しになったり事情が違ったりする以外、史実で似たような出来事がありました。

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― 新着の感想 ―
この世界でも平手政秀は自害せざるを得ませんでしたか...。まあ古渡で激しく抵抗していたのでやむを得ませんね
[気になる点] やりましたね! ある種の包囲網宣言 これで攻めてきたところには鈴木も攻め込めますね 大義名分いらんで戦争できるとか最高かよ(違う)
[一言] あっ九条があっさり排除されちゃった
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