表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国の鈴木さん  作者: capellini
第8章 今川上洛編「風雲急を告げる」
116/173

第107話 1532年「代行」◆

 近江国、坂本。

 ここより南の園城寺に滞留して対幕府交渉にあたっていた鈴木重直・吉田兼満・武野新五郎らは、突如として現れた一向衆から逃れて比叡山のお膝元である坂本に逃げ延びていた。

 訳も分からず逃げてきて、叡山の僧兵に守られてようやく人心地ついたところで、今度は堺全焼の知らせが入ってきた。


「堺がっ!うっ、うぐぅ……。」

「お、おい、どうした、侍従殿っ!誰かっ、医者を呼べっ!」


 鈴木重勝と義兄弟の契りを交わした弟分である鈴木重直は、目の前で胸を押さえて倒れた従三位侍従・吉田兼満のそばに駆け寄りながら大声をあげた。

 堺の全焼の知らせに衝撃を受けた吉田は急性頻脈を起こして倒れた。もともと体調がよくなく、度重なる心労で心の臓がすっかり弱っていたのだ。叡山の僧侶の介抱を受けたが、もう長くはない。


「いかがはせん……。堺とも京とも離されてしもうた。中条殿は無事であろうか……。」

「出羽掾殿(鈴木重直)、せめて京に移りませんと。幸い叡山を越えれば京はすぐですぞ。」


 一向宗の暴徒は和泉北部・河内北部・摂津・山城を中心に、近江国南部や大和国北部まで広がっている。和泉と近江は完全に遮断されていて、堺の味方の様子は何もわからない。

 吉田や彼を補佐する武野新五郎は京に持つ縁を使って外交に役立てていたが、今やそれもできない。

 武野は入洛をしきりに勧めるが、一向衆が京を襲撃するという噂もあり、重直は難色を示した。


 もどかしいまま数日が過ぎ、やがてそこへ幕府から使者が来た。

 やってきたのは取次の大舘晴光本人。

 そわそわとしており、あまり長居はしたくなさそうだ。


「こたびはとんでもない仕儀になり申したなあ。」

「……いや、まことに。」


 大舘本人がわざわざ淡海(琵琶湖)を越えてやってきたことに、重直は強い警戒心を覚えて言葉少なに応対する。


「こちら、御内書と父(大舘常興)からの副状にございまする。」

「……謹んで拝見いたしまする。」


 重直は書状を読みはじめ、読み終わるころにはすっかり血の気が引いていた。

 大舘は書かれた内容を知るだけに居心地が悪そうだが、己の仕事として口頭での補足が必要か尋ねる。


「なにか尋ねたきこと、ありますかな?」

「……。」

「ありませぬか。まあ、これは義兄殿(鈴木重勝)でなくば、どうとも言えぬところでしょうな。それがしも忙しなき身ゆえ、特になければこれにて。」

「……。」


 大舘が去った後、武野は固まったままの重直に何度も声をかけたが、重直はうんともすんとも言わず、やがて「柘植の手の者はおるか」と小声で尋ねた。


「はい、ここに。」

「伊賀へは抜けられるか?」

「ううむ、容易ではありませぬが、何とかなるとは思いまする。」

「では頼む。……新五郎、そなたは京に残り、上方の様子を知らせてほしい。」

「はい、承知つかまつり申した。吉田殿は?」

「京か三河か、選んでいただこう。おそらく終の棲家となろうゆえ。」


 結局、吉田は三河を選んだため、重直はわずかな供にかわるがわる吉田を背負わせて伊賀の険しい山道を抜け、伊勢を経てなんとか三河に帰国した。

 吉田は三河の親しい人々の顔を見て気が緩んだのか、到着後すぐに息を引き取った。


 ◇


 鈴木重勝と重直は沈痛な面持ちで対面していた。


「侍従殿までも……。柴屋軒殿(宗長)も外記殿(中原康友)も夏の暑さには耐えられなかった。次々と友が旅立っていく……。」


 宗長と中原康友は暑気で体調を崩してそのまま帰らぬ人となっていた。寿命であった。

 夢の中で人生を1周分経験している鈴木重勝は、若く血気盛んな者よりも、年長の物腰の柔らかな者と懇意になることが多いが、それはすなわち友を見送ることも多いということである。


「堺では雪庭殿(阿佐井野宗瑞)も(三河屋)鉄斎も中条殿も……。森五郎兵衛によれば、中条殿は己が身を捨てて反六郎(細川晴元)でまとまる道を残そうとしたそうだが、これでは……。」


 森五郎兵衛は、堺の鈴木屋敷で中条とその腹心の丸根美作守らによって主に外交方面に関して鍛えられていた若衆である。

 重直が義兄の言葉を引き継いで呟く。


「……よもや、幕府が六郎と和睦してしまうとは。」

「空いた管領の座を六郎に渡してしまえば、幕府としては労せず堺方を取り込むことができる。確かにそうである。そうではあるが、しかし六郎め、左馬頭様(足利義維)を担ぎ、筑前殿(三好元長)の助力を受けておいてこの仕打ちとは。」


 重勝は手元の将軍・足利義晴からの御内書と大舘常興の副状に視線を向けながら口早に嘆く。

 近江幕府は細川六郎と電撃的に和睦した。それを知らせたのが大舘の副状である。

 和睦の名目は、将軍・義晴が畿内を荒らしまわる一向門徒を「御敵」に認定したため、これを討伐すべく連携するということだが、そもそもすべて六郎が仕出かした不始末である。

 一方、六郎と敵対した今は亡き三好元長・畠山義堯らの残党を抱えて和泉で頑張っている鈴木家は、蚊帳の外だった。それどころか、幕府が六郎を取り込むと決めたからには、彼と敵対する側にいる鈴木家は、何らかの形で和睦せぬ限り、袂を分かつことになる。

 これでは中条の死も、これまでの対幕府交渉も、すべて水の泡である。

 しかも、大舘の書状からは、幕府が堺の全焼を重く捉えていることも垣間見えた。


「堺を失ったことで、当家に先はないと見ておるようだ、幕府は。いや、堺なくして琉球との商いは無理と思うたのであろう。入ってくると思うておった抽分銭がもはや見込みなしとなれば、今川と鈴木で秤にかけて今川、ということか。」

「されど、すでに次の琉球船も支度をはじめておられるのでしょう?」

「幕府は知らなかったのであろう。町がすっかりなくなったのだ。船も商いの材料も全く損なわれてはおらぬなどとは思うまい。」

「では、そのこと伝えて考え直していただくわけには?」


 重直が一縷の希望にすがって提案したが、重勝はかぶりを振ってうつむいたまま答えた。


「……もうそれがしは疲れた」重勝は独り言を吐き続ける。

「幕府にも話の通ずる者たちはおるのだ、信頼できるのだと思うておった矢先のこれよ。それに筑前殿(三好元長)の末期を見よ、いかに主従の絆の虚しきことか。

 いや、これが足利の血の定めということなのか?公方のみならず、細川も、そして、今川も。そういうものなのだろうか……。」

「……。」


 重直は義兄が不穏なことを考えているのを察知したが、何も言えなかった。

 細川と今川は足利支流であり、重勝は元長の最期に己の未来を見てしまったのだった。

「どうしてこうなった、どうしてこうなった」と苦し気な重勝。

 彼がそのように思うのは、将軍からの御内書の中身が理由である。

 そこに書いてあったのは、鈴木家には「三河のみ」の知行を認めるという、これまでの交渉努力をすべてひっくり返す内容だったのだ。


 大舘書状には誤解のないように詳しい内容が補足されていた。

 和泉国では、細川六郎陣営は前々上守護・細川元常の復権を承認していたが、近江幕府はこれを追認し、旧道永派の下守護・細川勝基の排除を決めた。六郎への配慮のだしに使われたのだ。

 一方の河内国・紀伊国については守護・畠山稙長の知行権を確認したが、同時に河内守護代として木沢長政の地位も確認し、旧道永派の幕府重鎮・稙長と六郎腹心の木沢にどっちつかずの配慮を示した。

 そしてもちろん、尾張の所領は今川家のものとなるだろう。

 おそらくは、三好方を援けた鈴木家は敗者として扱われたのだ。そして、敗者として本拠地以外を没収して、没収地と所縁のある勝った方の諸家に分配する。

 幕府はあくまで鈴木と今川の戦の審判を務める気分なのだろう。それが公平かはともかく、少なくとも幕府にとっては勝った陣営で自らに都合の良い相手を優遇しただけのこと。それだけだった。


「どこまで本気なのか、足元を見て当家から詫びを入れてくるのを待っておるのか。駆け引きとしても、かような事柄を伝えてきよるというだけで、もはやそれがしは心を許せぬ。」


 重勝はおもむろに懐から出した手帳を開き、2人の赤子の似せ絵を無表情にみつめる。

 これは先日、側室の奥平もとが生んだ双子の女児を描いたもので、近頃自らの周りに死の影がまとわりつくのを不安に思った重勝が、「生」を描いて彼女たちを現世に繋ぎとめ、またその活力に自らもあやかろうとしたのである。

 そして、彼はぶつぶつと何事かを続けると、そのまま脱力し、力ないうめき声のようなものを残した。重直がかろうじて聞き取れたのは「幕府、相手たりえず」という言葉だけだった。


 ◇


 鈴木重直は義兄を心配して自らが当主代行となることを訴え、奉行の会合で内々に承認された。

 鷹見修理亮に補佐され、紀伊国熊野の鳥居忠吉からも支持を得て、重直は秘密裏に重勝の仕事を一部で肩代わりすることになった。


 重直が最初に行ったのは、重勝の長女・勝子と小笠原長高嫡男・彦太郎の祝言をあげることだった。

 背後を守る同盟の確認のために、あるいは、鈴木家が滅亡しても血脈が残るように、いろいろな意味で万一に備えての措置だった。

 また、幕府との関係が途絶えることを予期して、鈴木家が管理する所領からの上がりで生計を立てていた幕臣の佐竹基親と荒川三河守らには致仕が求められた。

 佐竹は拒否して和泉国の所領を鈴木に没収されたが、荒川氏は応諾し、足利義維に仕えて泉南の鈴木領に逃げていた荒川維国に合流した。


 他方、幕府は、鈴木など眼中にないというのか、一向一揆にしか関心を向けていなかった。

 仏敵のごとく名指しされて死んだ三好元長は法華宗の「殉教者」であり、法華門徒は一向一揆の暴動を「法難」と訴えて蜂起。山城国を押さえて和泉・河内・摂津・大和の一向門徒に対抗した。

 法華門徒には六角定頼と細川六郎が共同で加勢し、証如がいる大坂御坊がまず襲われ、証如は山科本願寺に逃げ、祖父の蓮淳は近江顕証寺に逃げた。

 先に顕証寺が落ち、蓮淳は伊勢を目指して南に落ちたが、道中の伊賀で何者かに暗殺された。

 六角・細川六郎・法華衆の連合軍は続いて山科本願寺を焼き討ちし、証如は大叔父・実従とともに再び大坂御坊の地に移って諦めずに防戦の構えである。


 この間、鈴木家は、被害がひどくて細川六郎ですら放置していた堺の跡地に人を送って、紀伊国熊野の材木を運び込んで急速に町を再建していった。

 鈴木家としては完全に敵対したと思っている近江幕府方の諸勢力から熊野と和泉を守るべく、三河からなけなしの兵500をそれぞれの地に運び入れている。

 堺公方・足利義維は、側近だった畠山維広や荒川維国に堺へ復帰するよう励まされたが、気力が振るわず阿波から出てこなかった。


「念仏寺(開口神社)と顕本寺は修築し終え申した。顕本寺の方はこれまで通り御大名様方々にてお使いくだされ。」


 浜嶋鉄斎から三河屋大番頭と堺の会合衆の地位を引き継いだ松本七郎次郎元吉が、鈴木重勝の甥にあたり在和泉国鈴木家の長である鱸肥後守永重に話しかけた。

 あたりに打ち捨てられていた数多の遺体は、夏の熱気で数日の間にひどいことになっていた。人々を指揮してこれらを埋葬した松本と鱸は、それからしばらく経ってもまだ気分が悪そうである。


「うむ、よくやってくれた。まずは……碑でも建てるか。」

「かつての三河の御霊会のごとく、諸事落ち着きし後には、ここ堺でもよく供養をいたしましょう。」

「うむ……。そういえば、大和の金春座から大蔵なる者が移ってきておる。大和もひどい有様だそうだ。復興祝いに能を頼んでもよいやもしれぬな」と、鱸はしみじみと言って少し呆けていたが、気を取り直して続けた。

「ところで、開口神社は会合衆で使うであろうが、奉行所としても使わせてほしい。森五郎兵衛――今は豊後守であったか――この者と、宇喜多、松永らがそちらに行くであろう。

 落ち着けば、守護殿(細川九郎)や典厩(てんきゅう)殿(細川尹賢)から代官が来るやもしれぬが、どうなるかはわからぬ。」

「承知つかまつり申した。」

「では、それがしは堀や壁の方を見てくる。」


 言葉少なに分かれた松本が神社に戻ると、そこには大店の主やその配下の番頭たちが待っていた。

 阿佐井野、池永、三宅、武野ら三河屋と歩みを共にするのを選んだ堺の豪商に加え、三河屋からは小西、高三、梶原、(めしの)といった番頭たちが集まって町の再建を指導している。

 熱心な真宗教徒の菊屋などは報復で滅ぼされたが、同じ門徒でも三宅氏は改宗して難を逃れた。

 そのほかにも中小の商人が戻りつつあるが、鈴木家の支援を受けて大規模に再建を主導する三河屋が当然、一団の中心になっていた。


「鱸殿からは何かございましたかな。」

「いや、特には。ここを奉行所としても使いたいとだけ。再建にあたって我らも奉行の方々と頻繁にやり取りするであろうから、ちょうど良いということでしょうな。」

「左様で。」


 尋ねた池永左京亮がほっとしたように息をついた。

 堺再建にあたって、鈴木家は2分(20%)の低利で材木や食料を貸し付けているが、商人たちは「甘いエサで釣って何かとんでもないことを命じられるのでは」と不安に思っていたのだ。

 そのことを承知している松本は言葉を続ける。


「銭を無駄にしている余裕がないのを三河はわかっておられる。ひとまずは鈴木家で諸々用立てるゆえ、琉球の品を高く売りさばきつつ、秋の収穫後に安く米を集め、それで返せばよいとの由。」

「三河の方々は道理がわかっておられる。しかし、これだけの大戦。米はいくらでもためておいてよいでしょうな」と池永が感謝を込めて述べると、近くに来ていた三宅主計入道が割って入った。

「それがしは、その際には瀬戸内より米をかき集めてまいる所存なれど、恥ずかしながらそちらの薬種を元手にさせていただきたい。」


 三宅入道は、東瀬戸内に勢力を持つ材木屋を本業とする豪商だが、この調子では一帯が木材不足になって仕入れが滞ると見越して別の元手も用意したかったのだ。


「薬種は小西と高三の領分なれば、かの者らに話をつけておきましょう。」

「かたじけない」礼を言った三宅は忙しそうに立ち去った。

 その後ろ姿を見ながら、池永はもう一つ用件を述べる。

「それと、住吉社から社殿の修築依頼と、念仏寺の賽銭は住吉のものだとまたもや文句が来ており申すが、いかがいたそう?」


 何十年か前、住吉社は管轄下にあった念仏寺(開口神社)の修築積立金から借財をし、その際に賽銭収入を質とした。その後、度重なる戦災で返済できなくなって質が流れたのであるが、納得いかずにぐちぐち文句をたれていたのだ。


「もう諦めろとしか……。いや、そう言ってしまっては角が立つか。我らで借財を立て替え、さらに住吉社の修築の費えも借銭に重ねて、それで返せなくば寺そのものを諦めさせましょう。寺は会合衆のものとするのです。」

「ううむ……、まあ今後を考えればその方が手間がないか。3年ほど様子を見るとしよう。」

「ところで左京殿(池永)に相談がござる。それがしとしては、なんとか秋の風で船団を南海へ送り出し、我らの健在を世間に示したい。野分(台風)の時期なるも、これをせねば足元を見られて我ら一同、大きな損を抱えましょう。多少無理があってもどうにかならぬものでしょうか?」

「ううむ、まあ琉球は鈴木様の肝いりでござれば、なんとかせねばなりますまい。」


 なんだかんだ相談を受け、人に指示を出す三河屋大番頭は、すっかり会合衆の長になっていた。

 町の再建が三河屋と背後の鈴木家の持ち出しに多くを頼っているのはもちろん、その復興を後押しすることになる琉球派遣船団も彼らの主導であることが、その理由だろう。

 とはいえ、それだけではない。利を優先する商人といえども、先の堺炎上の際に他家の荷も引き受けて大番頭自らが身を挺して人々が逃げる時間を稼いだ三河屋に対し、感謝と敬意の念を抱いているのだ。


「あとは、奉行所はひとまず鈴木家から人が入るとのことなれど、来たかな?」

「あれでは?」と池永が指をさす。

 その指の先では、三宅入道が積み上げられた材木のところであれこれ指図していたが、そこへ小袖に股引きの随分と簡素な格好の武者たちがやってきていた。

 先頭には頭巾をかぶった者、後ろには老境で禿頭の人物と青年2人が続いていた。

 三宅が振り返って松本らの方を指さし、先頭の者が片手をあげて合図をしてきた。

 松本と池永は彼らのもとに小走りで近づいた。


「三河屋の、先には随分と世話になった。」


 声をかけたのは根来金谷斎。

 堺から脱出するにあたり三河屋の助力は不可欠であり、そのことの礼を述べた形だ。


「それとそちらは池永殿であるな。拙僧は金谷斎、鱸殿の……御伽坊主といったところか。こちらは、宇喜多殿に松永殿。森豊後のことは存じておるのであったな。」

「常玖(宇喜多能家)と申す」と宇喜多は短く挨拶した。口数が少ないのは、鈴木家に仕官することになった経緯に含むところがあるからだろう。

「松永弾正忠(久秀)にござる。鈴木家は新参も働きやすいと聞いてまいった。」

「松永殿は鱸殿の祐筆なれば、その縁で貴殿らとかかわることになるであろう」と金谷斎が補足する。

「三河屋七郎次郎にございまする。いきなり肥後守様(鱸永重)の祐筆となりますと、まさしくお望みは叶ったということですな。今後ともよしなに。」

「さて、さっそくなれど、土佐から文がござってな」と金谷斎がてきぱきと伝える。

「土佐にございまするか。一条様で?」

「左様、材木に蓄えあるゆえ、用立てようとのことだ。」

「ありがたきことにて。」

「その代わりに、一条様には熊野より大船を2艘ばかり贈る。今度の琉球への船団には土佐でこれらが合流することになる。」


 連絡を寄こしたのは堺と琉球の交易に入り込む隙を伺っていた土佐の一条房家だった。

 土佐には琉球派遣船団の寄港地がいくつかあるが、中でも一条家の下田や宿毛の湊は重要だった。

 一条家は船団の寄港だけでもそれなりに利を得ていたが、自家の船を同行させたいと望み、そのために外海を長距離航行できる大型船を欲していた。

 そこで、一条は当初、窮地に陥ったように見える鈴木家に、材木を対価に船大工を求める文を出した。しかし、造船は当主・鈴木重勝の肝いりであり、代行の鈴木重直には簡単には許可を出せず、結局、現物を贈ることでいったん落ち着いたのである。


「ああ、なるほど」と松本は少し考えたが、金谷斎の口ぶりでは断れる話ではないので、

「こたびは堺がこの有様にございますれば、出船の数も減るやもしれぬところ、ちょうどよい話でございましょう」と話を合わせた。

「それから、こうして物を東西に運ばねばならぬでな、船が足りておらぬ。町衆で大工の融通が利かぬか?熊野に移って働いてほしいのだ。」


 金谷斎は一条家の思惑を知って、堺にいる船大工を自家の紐付きにしておこうと考えたようだ。

 海を使って商いをする堺商人にとっては、生命線を握られかねない話ではあるが、松本は池永の目を見て了承の意をくみ取ると、一つ頷いた。

 鈴木家は1000石から1500石ほどの熊野新造なる大型船を増産している。この船は船底の板材の上に棚板を3段立てたもので、外洋の波を受け流せるよう前部の板が頑丈なつくりになっている。

 遣明船の建造技術は堺商人にとって当然大事なものだが、鈴木家はそれに匹敵する大型船を自前で作れる存在であるから、技術に関しては互いに秘匿するような間柄ではなかったのだ。


「左京殿(池永)はどなたかよきお人にお心当たりは?」と松本が尋ねる。

「そうですなあ、板原殿らでしょうか。」


 名の挙がった板原氏は実は真宗教徒で、門徒の襲撃に遭った町衆と軋轢が生じており、池永はこれを機に厄介払いしてしまうことにしたようだ。


「板原は一向門徒では?」池永の意図を察した松本は釘を刺したが、金谷斎はすぐに前向きに答えた。

「ふむ、真宗の者か。まあ、本願寺の命に応じぬと誓わせればよかろう。」


 金谷斎は、主君である鈴木重勝の考え方としては、浄土真宗・本願寺・一向門徒を区別するものと理解しており、それに照らせば、本願寺と一揆衆から切り離された真宗教徒は許容可能だった。

 かくして、熊野には板原次郎左衛門なる者が移された。

 鈴木家や三河屋に堺が依存しているような現状は、亡き阿佐井野宗瑞が望んだ在り方ではなかったし、堺の南北両荘の荘園領主たる細川京兆家――つまり亡き道永の家柄――の支配を無視するものであるが、この流れは引き戻しえないものだった。

【史実】吉田兼満は史実より4年長生きし、中原康友もおそらく長生きし、宗長は寿命通り亡くなりました。

【史実】本願寺の蓮淳は本来、1550年まで存命で教団を指導しますが、本作では伊賀にいた何者からによって暗殺されました。

【史実】大蔵は大蔵大夫道入(入道名)という能楽師で、史実では甲斐で興行して子孫が土着し、大久保長安に繋がります。また、松永久秀は1540年以前に堺で三好家に仕官します。

【史実】念仏寺と住吉社、一条氏と板原氏の話は物語に合わせて細部を改変していますが、似たような出来事がこの頃にありました。熊野新造は後北条氏関連で出てきますが、本作では名前だけ拝借した別物です。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] 松永に宇喜多と、まさかのギリワンギリサンが鈴木家に揃い踏みw でも松永は長慶に仕えてる間は忠臣だったし、宇喜多も人格歪む事件に晒されなければまっすぐ育つかな……?
[良い点] いつもながら丁寧な設定と、登場人物たちの人間くさい生きざまが素晴らしいと思います。 足利にとっては、やはり親戚筋で顔も見える今川の意向を優先したくなりますよね。。。 主人公は足利を警戒し…
[気になる点] 松永弾正忠→もしかして松永久秀ですか? 彼でしたら超ネームドが仕官したことになりますが、このまま内藤宗勝も仕官してくれれば鈴木陣営の勢力UPとともに三好陣営の弱体化になりそう。 [一言…
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ