第106話 1532年「天文」◆
細川尹賢はここ数か月、和泉国貝塚の鈴木屋敷に潜伏しており、堺から会いに来た息子・次郎(氏綱)を出迎えていた。
尹賢は管領・細川道永の従弟かつ側近だったが、政権を支える丹波重臣・香西元盛を讒言して丹波勢を堺方に走らせ、ここ数年の対立関係を深刻化させた元凶である。
「もう何度も申しておりますが、いやはや父上、よくぞご無事で。」
「うむ、もはや追手もかかっておらぬようだな。しかし、摂津は手放すしかないか……。」
摂津に拠点のあった尹賢は苦々しげに答えた。
道永の勢力が弱まったここ数年、尹賢は鈴木家の仲介で細川六郎(晴元)の堺方に転向していた。
しかし、堺方は道永を滅ぼしてすぐに内部の不和を露呈し、六郎は尹賢に刺客を送った。
次郎は道永の養子になっていたため、六郎は「尹賢が息子・次郎に管領の地位を得させようとするのではないか」と疑ったのだ。
六郎にそのように思いこませたのは御前衆の細川可竹軒、三好政長、木沢長政らだった。
数え13歳で堺方の旗頭に担ぎ上げられた六郎は、常に彼らを介して情勢を知り、彼らの助言を受けてきた。彼らは各々の利害を抱えて憶測まがいの事柄を吹き込み続け、六郎の外界に対する認識はすっかり歪んでしまっていたのである。
それはともかく、刺客から逃れて淀川で立ち往生していた尹賢は、この暗殺騒動が近江幕府軍大敗の直後だったおかげで、敗残兵を集めて雇ったり尾張へ送ったりしていた鈴木家の網に引っかかり、保護されたのである。
「しばらくは鈴木の厄介になるとして、近江となんとかヨリを戻せればよいが。されども、当てにしていた九郎がかような野心を持っておったとはな。」
九郎というのは尹賢の甥で和泉守護の細川九郎勝基である。
彼の姉は近衛稙家の妻であり、九郎自身も近江幕府に任じられた正式な守護であるから、その筋で尹賢は近江幕府に復帰できないかと思ったのだが、九郎は九郎で独自に動いており、望み薄だった。
これまで和泉には上下の半国守護が任命されていたが、先に近江幕府管領・細川道永が大敗して自害したときに上和泉守護も一緒に討ち死にしたため、九郎は今のところ唯一の和泉守護だった。
そのため、彼は欲を出し、鈴木家からの支援を得て、上和泉守護の権益をわたくししようと動き始めていたのだ。
「近江も当分は動けぬでしょうから、あるいは六郎めと仲の悪い三好との縁は繋いでもよいように思いまするが。」
「ううむ、ひとまず三好筑前(元長)にそなたの室を求めてみるか。そなたを管領殿の後継ぎに、と動くこともできぬわけではないが、まだ機が熟しておらぬな。」
管領に浦上村宗そして2万もの大軍を失った近江幕府、一方で内紛に忙しい堺公方勢力。
見通しの立たない中、半死半生の憂き目にあった尹賢は少し及び腰であった。
「ひとまずは九郎と鈴木とを頼りに、ここ和泉で機を待ちましょう」と次郎は落ち着いた様子である。
「鈴木かあ、儂が助かったのも、かの手の者が手広くやっておったからであるわけだが。河野と宇喜多だったか、伊予や備前の者も集めておるとかいうな。」
河野というのは伊予国の牢人・河野但馬守通重で、宇喜多というのは備前豊原荘あたりに地盤を持つ浦上家臣・宇喜多能家のことである。
前者は牢人として堺に流れ着き、後者は細川道永に属して討ち死にした浦上村宗の子飼いの武将で、落ち武者として逃げていたのを鈴木家に保護された。
「宇喜多」という苗字に反応した鈴木重勝が能家に仕官をねだったせいで、能家はなかなか備前に戻れず、辟易して代わりに一族の浮田国定を推挙した。
能家は、備前にいる嫡男・興家に浮田家の移住に関する交渉を任せたが、興家は廃嫡されかかるほど暗愚であったため、浮田家を邪険に扱って怒らせ、小競り合いとなった。
そこに「主君・村宗の庇護が失われ能家という有能な当主がいない今のうちに」と思った浦上家中の競合相手・島村一党が加勢したため、興家はあえなく殺され、数え4歳の遺児・八郎は能家の次弟に保護されて和泉国に送られてきた。
鈴木家としては、宇喜多には備前の湊を押さえる西大寺とのつなぎ役になってもらうことを期待したが、欲張って仕官を求めて失敗する羽目になっていた。
一方、河野を介した伊予の海賊・今岡氏とのつながりは、伊予まで勢力を持つ堺商人・三宅氏の縁と重なって確かなものとなった。
鈴木家は、細川道永への賄賂と引き換えに、彼の傘下だった能島村上党と誼を通じて瀬戸内海に進出していたが、彼らは今や堺方に鞍替えしており、別の繋がりを必要としていたのだ。
「かの家は琉球にまで船を出しておれば、邪魔だても多かろうも、利益に与ろうとする者を抱え込むことでうまくやっておるとか。」
「琉球か……。そういえば、島津を名乗る者がここ貝塚まで来ておったが、どうなったのであろうな」と尹賢は呟いた。
琉球と上方の取次を行ってきた島津氏が家中分裂でその役目をはたせない今、鈴木家はその隙間に入り込み取引をほとんど独占している。
明との交易は細川氏の代理で堺商人が行ってきたが、鈴木の琉球船団もそれと同じように細川の名の下に行うことになるだろうか。
享禄2 (1529)年に派遣された第2回琉球派遣船団が先年末に無事に帰還したことは、鈴木家がこの事業を継続することができると世間に示した。それは果たしてどのような影響をもたらすのか。
◇
島津氏を名乗った一見すると子連れの夫婦に見える奇妙な者たちが琉球派遣船団に乗り込んだのは、種子島でのことだった。
船団を出迎えた種子島恵時から、
「不憫な母子がおるのだが、以前、貴家の者が琉球に向かったときに縁ができたそうな。その者は信濃の人だというが、先には窮した相良の一族も引き受けたと聞く。こたびも引き受けられぬか。」
と打診があった。
その夫婦らしき者らは確かに縁があったという人物からの文を大事に持っていたため、判断に困った船団の者たちは、彼らが「戻る先もない」というから、とりあえず船に乗せてきた。
和泉国貝塚に至ると、「扱いをどうするにせよ、まずは三河に行ってお伺いを立てるしかない」ということで、「彼らを送る」との名目で仕立てられた硝石の秘密輸送船で、この子連れの夫婦らしき者たちは急ぎ三河に運ばれた。
彼らと奥の間で対面した鈴木重勝は興味深そうに幼児を見ながら言う。
「なるほど、そなたらが縁を結んだと言うておるのは、信濃の小笠原家で家老を務める山本菅助という者だ。九州を見聞したのち、明の湊に入って見事それがしの望みを果たしてくれた、知恵も勇気も比類なき大人物である。」
「山本殿でござるか。」
この者たちは、実のところ夫婦ではなく、幼子を連れた母親と、心配で付き添ってきた彼女の次兄であった。次兄の名は島津五郎三郎忠績といい、重勝に返事をしたのもこの者である。
菅助は薩摩国坊津の湊から肥後の方へ舟で向かう途中、彼女たちが隠れ住んでいた阿多の寺で1泊し、その寺で世話になっていた娘と出会って互いに惹かれ合って一夜を共にしたという。
「左様。かの者は三河で生まれ、各地で兵法を学び小笠原の軍学を修めた稀代の軍師である。」
それを聞いた五郎三郎は安心したようで、妹の方を見やった。
妹は子の父親を傑物と信じていたようだが、五郎三郎は話した記憶すら定かでない相手である。
一家の面々は、一時は心配したり、恨みに思ったりしたものだが、残された文はよく整った上級武家のそれであったから、一縷の望みにかけたのだった。
というのも、この妹は産後、精神的に不安定になっていて、彼らの母・天津尼は支えとなる夫を見繕おうとするも、うまくいかなかった。
この兄妹は、今まさに島津宗家当主の座をかけて薩摩で争う島津貴久の従兄妹にあたるが、親族が敵味方に分かれた際に味方する相手を見誤り、祖父・父を次々喪い没落していた。そのため、そもそもあまり良縁に恵まれなかったのだ。
当の娘も菅助を慕っていたため、思い切って「契った相手を頼ってはどうか」となったそうだ。
母子を船団に乗せた種子島恵時は、自らの妻の兄・島津実久に味方して没落したこの兄妹一家を憐れみ、その縁で彼女たちを種子島に受け入れ、船団の帰国に合わせて取り成したのだった。
「その子が菅助との間の?」重勝が尋ねる。
か細く「はい」と答えた娘の後に、
「はい、まさか子ができるとは思うておりませなんだ」と五郎三郎が返事をした。
やがて、重勝から連絡を受けた菅助はとるものもとりあえず信濃から母子を迎えに来た。
一方の三河鈴木家中は、厄介ごとまみれの最近にあって、降ってわいた珍しい事件に、お祭り騒ぎであった。
しかし、重勝はその間もやっと届いた追加の硝石から火薬をいかに速くたくさん作るか、琉球との関係をめぐって小競り合いが増えてきた島津氏との関係をどうするかばかり考えていた。
そして、やがてさんざん騒がれた後に、菅助らが信濃に帰るというので重勝は改めて面会した。
「なんとも珍しきことなれど、わざわざおぬしを追いかけてここまで来たのだ。けなげな話である。これぞ不思議の宿縁、大事にしたいものだな。」
「いやはや、まことに仰せのごとくにて。とにもかくにもお騒がせいたし申した」と頭を下げる菅助であるが、数年来の気がかりが嬉しい形で解決したため、その顔は自然と朗らかである。
「久やもとも楽しげであったから、そう言わずともよいぞ。信濃でおぬしが家をなしてその知略を次代につなぐのならば、これもまた実に喜ばしい。」
重勝の側室・奥平もとはそろそろお産で不安を覚えており、また、彼女の世話をしながら家政も回している正室・松平久も気疲れしていたから、この珍事は彼女たちの気分転換になっていた。
「ありがたきお言葉にございまする。」
「しかし、久しいな、菅助。右馬助殿(小笠原長高)も息災かな?」
「はい、殿は例によって文句をたれておられまするが、いよいよ府中攻めというところかと。」
府中には小笠原長高の弟・長棟がいる。長高は父から家督を譲ってもらえずに三河鈴木家に寄宿してきたが、その支援を受けて南信濃を確保して、いよいよ長棟を攻めようというところだった。
「そうか、今は当家は余裕がないゆえ手伝うことはできぬが。」
「いえいえ、殿は刑部様(重勝)にたいそう感謝しておられまする。何かあればいつでも助太刀するとのこと。」
「であらば、そなたにはここに残ってそれがしを手伝ってほしいところではあるが。」
「いや、その……。」
「気にするな、戯言だ。」
菅助は重勝の覇気のなさに不安を覚えて、とりあえず義兄になる島津五郎三郎を重勝のもとに残し、南海事情について助言をするよう頼み置いた。
◇
時を同じくして、上方ではついに堺方の内紛が一触即発の段階に至っていた。
堺方で最も強力な軍事力を持つ三好元長は、先の幕府軍に対する大勝も己の力があってこそと考えていたが、主君の細川六郎からは功績に見合った報酬が得られていなかった。
それどころか、派閥の領袖である細川六郎には、元長からすれば家臣筋に当たる一族の三好政長が親しく仕えていて、直臣・陪臣の序を乱していた。
さらに、政長は浦上氏に暗殺された柳本賢治と結んでいたが、柳本党は京の支配を任されて政権内で優遇されており、元長はこのことも不満だった。
というのも、京を含む山城国の守護代に任じられているのはほかならぬ元長であり、彼からすれば柳本は横入りしているようなものだったから。
そこで元長は、享禄5 (1532)年の年始に、柳本氏に滅ぼされて元長に属するようになっていた摂津伊丹氏の敵討ちと称して、弟・康長を使って柳本党をまとめる神二郎を滅ぼした。
これに対し、細川六郎は激怒して元長と決別。
一方、堺方の重鎮の河内守護・畠山義堯も、元長と同じく、家臣の木沢長政が細川六郎に近侍して主君たる己と同格の地位に至ろうとしているのが不満で仕方なく、元長と組んで木沢の飯盛山城を攻めた。
かくして堺方は細川六郎・三好政長・木沢長政と三好元長・畠山義堯とで分かれて武力衝突に至ったのである。
「おじいさま、いかがいたしましょうか、細川殿は門徒の助力を求めておりますが。」
本願寺門主の年若い証如が母方の祖父である蓮淳に尋ねた。
蓮淳はこれまで実質的な教団指導者としてふるまってきた。
大永年間には三河や伊勢でやや勢力を落としたものの、その後、三河とは和平に至り、加賀の反抗勢力やそれに与した朝倉氏・畠山氏・富樫氏を打ち破って加賀の直接支配を確立して、その指導力は再び比類なきものになっていた。
「そうですな、我らはもとより幕府よりも堺の公方殿(足利義維)と誼を通じてまいりましたが、近江の管領殿もはかなくなり、堺殿がこれを機に京にお入りになれば、いよいよ将軍位を賜ることでしょう。しからば、次の管領は六郎殿のほかにはおりますまい。
また、堺殿が開府するとして、そこで三好筑前(元長)が大きな顔をしておるのは、我らにとって好ましくありませぬ。かの者は法華の門徒。なにかと我らの邪魔をしてくることでしょう。
我らが六郎殿を後押しし、なおかつ筑前を排すれば、畿内での我らの立場は一層確かなものとなるでしょう。」
「では?」祖父を信頼する証如はその言に納得して続きを促す。
「六郎殿の見立てでは、兵数さえあればなんとかなるとの由。衆徒に呼び掛けてみましょう。ただし、これはあくまで宗門の未来のため。法華門徒の三好を阿波に押し返すことこそ本義となりましょう。」
かくして、証如の呼びかけで畿内各地で一向門徒が蜂起。
細川六郎の要請に応えて、数万の一向門徒が飯盛山城・木沢長政の救援に押し寄せ、城攻め中の元長配下の重臣・三好一秀は敗死、畠山義堯は南河内に追い立てられて自刃した。
そして、門徒の大軍は矛先を元長のいる堺に向けた。
「なにをやっておられるのですか!逃げますよ!」
三河屋大番頭・浜嶋鉄斎が野遠屋・阿佐井野宗瑞のもとに駆けてきた。
本願寺が法華宗の三好元長を討つことを大義に掲げていること、そして、実際に河内で三好方の軍勢が壊滅したことを聞いた堺の町では、人々が半狂乱になって逃げまどっていた。
急遽集められた数万の一向門徒を養える食糧など当然用意されておらず、彼らは蝗害のように畿内の村々を吞み込みながら堺へ迫っている。
堺の人々は「一向門徒は琉球からの富を狙っているのだ」とまことしやかに噂し合い、沖合の船にはありったけの財宝が運び込まれ、船に乗り切れなかった商家の奉公人たちは陸路で南へ走った。
「もう馬も足りておりませんし、船には人も物も乗り切れません。そもそも湊には舟がひしめき速やかに動くこともままなりません。わたくしの足では今更どうにもならないでしょう。」
穏やかな様子の宗瑞に、鉄斎は大きなため息をついて諦念を示した。
「……大事なものはすでに運び出されましたか?」
「無論です。わたくしとしては版木が一番大事ですが、たいていのものはいち早く船に積ませました。多くの若い衆も先に逃がしました。
それよりあなたこそ、こんなところで油を売っている場合ではないでしょう。」
「いえ、手前も後始末は十分に済ましております。心残りは雪庭殿だけでございまする。」
それを聞いた宗瑞は「まったく、会合衆の1人という自覚が足りておりませんよ」と述べたが、声音はどことなくうれしげであった。
「門徒連中は三好殿の身柄を引き渡したところで満足するはずがありません。あるいは、琉球の品々を狙っているとかいう話もあるようですが、どのみち食料を求めて町屋や倉を片端から打ち壊していくことでしょう。」
「そうでしょうなあ。」
「町は壊れても作り直せます。しかし、そのためには人手と財がいります。沖合で右往左往しておる船々、町の外で当てもなく駆けておる者たち、これらが逃げ切れるだけの時間を稼ぐことが、真の意味で町を守ることになるのです。」
「それがしとしては、雪庭殿が生き延びることの方が大事と思いますがねえ。」
「わたくしはもう十分長生きしました。それよりもあなたですよ。」
「こういうところは頑固ですからね、雪庭殿は。自分もお供しますよ。」
「三河屋の大番頭ともあろう人がそんなことではいけません。船にいくらか隙間はあるでしょう。早く行ってお乗りなさい。」
さすがの宗瑞も焦りがあるのか、早口で浜嶋に逃げるよう促すが、浜嶋は鷹揚に首を振って言う。
「大番頭、それがしには過ぎた立場であり申した。身の丈を超えた大商いをさせてもらってきて『出来すぎではなかったか』と近頃は思うておったところです。これもみな、最初に雪庭殿に字引を用立ててもらったからこその話。
今や一人娘も松本の倅(松本元秀)に嫁がせ、心残りもありません。そしてなにより、今の三河屋には後を任せられる者らがたくさんおります。もうよいのです。」
宗瑞は浜嶋の人好きのする笑顔を見て、先ほどの彼と同じように大きくため息をついた。
◇
「おのれ、六郎!かくも性根が歪んでおったとはな!我が死なば末代まで呪うてやろうぞ!」
憤懣やるかたない三好元長。
そのまま憤死しそうな勢いで額に青筋を浮かべている元長であるが、それでいて状況を冷静に見極めており、己の首を獲るまでは六郎が攻勢を止めることはないと確信していた。
ここで彼が逃げてしまっては、一向門徒たちは勢いそのままに上方の三好方の諸勢力を殲滅して回るだろう。阿波にも至れば、自家は滅亡しかねない。
しかし、彼がここで死ねば、一向門徒は法華宗の元長を討伐するという大義を失うことになる。
つまり、元長はここで死なねばならなかった。
主君の覚悟を内々に聞いた腹心の篠原長政はさめざめと泣き、すでに嫡男の千熊丸(長慶)と足利義維を船に乗せて脱出させる手配を整えたところである。
「筑前守殿(元長)、この度は大変なことになりましたな。」
場違いなほどのんきに声をかけてきたのは、鈴木家の在堺雑掌・中条常隆である。
中条は、日根野九郎左衛門の嫡男・徳太郎を略式で元服させたうえで末期養子にとって名跡を継がせ、中条常就と名乗らせて泉南の鈴木家勢力圏に落としていた。
日根野は、軍師役の根来金谷斎の助言を得ながら、堺の鈴木屋敷や三河屋の関係者たちを集めて町を脱出しており、生き延びれば幼い次男を育てて家督相続に間に合わせられようということで、すぐにも元服が可能で中条家の家督を継ぎうる年長の徳太郎が養子に出たのである。
「ふん、ずいぶんと余裕があるようだ。」
「まあもう、こうなってはどうしようもありませぬゆえ。それに戦に出るのは、それがし、もう何年か振りのことにて、何から手を付けてよいかすら忘れてしまい申した。」
「……どうやら我は貴様のことを見誤っておったようだ。」
中条の妙な胆の据わり具合に、元長は呆れ半分、感心半分といった口調である。彼は、かつて中条やその配下の丸根美作守の様子を見て「平凡でつまらない」と評したことを思い出していた。
「どうやら門徒どもは当家の財も目当てとのこと。びた一文くれてやるつもりはござらねども、『理不尽な目に遭うた』と文句を言えるだけの確かな害を受けておくことが先々に通ずるのでござる。」
「そんな理由で命を捨てるのか、貴様は。」
「それがしは殿に感謝しておりまする。堺に来てからは、それはもう大変なことばかりでござったが、三河におっては何者かもわからぬ小人で終わっておったであろう己が、方々の手練れと渡り合い、ついには琉球とのやり取りまで。これならば、何事かを成し遂げたと言って逝けましょう。」
勝手に満足した様子の中条を見て、先ほどまでは怒りで震えていた元長は急に白けた気分になって、「ふん」と再び不満げに鼻を鳴らすと、配下の兵たちを叱咤激励しにその場を去った。
◇
10万人ともいわれる一向門徒の大群に立ち向かったのは、三好元長配下の阿波衆数百、中条常隆を守る丸根美作守ら数十、三河屋鉄斎を中心とする町衆数百。
彼らは奮戦して人々が少しでも遠くへ避難するための時を稼いだが、ある者らは討ち死にし、ある者らは顕本寺で自害して、数日もたずに悉く果てた。
堺の家屋は数多打ち破られ、されども大した財物を得ることができなかった門徒どもはあちこち付け火して回り、堺の南北両荘は全焼。
これだけ暴れても満足できない門徒は避難民や周囲の住民を襲い、数千ではきかない数の骸が野ざらしとなった。
鈴木家の軍師・根来金谷斎は船上で生き残った人々に呼び掛けて、和泉国南部の鈴木家の支配する貝塚湊にいったん集まるよう仕向け、自衛できるだけのまとまった勢力を作り上げた。
三好千熊丸と足利義維を擁する三好家中枢の人々は合流を拒否して阿波に向かったが、鈴木家の海賊衆と雑兵、和泉守護細川家の郎党、三好軍残兵、河内畠山軍残兵、こうした人々は鈴木家の貝塚城に身を寄せ、その北の岸和田城に住する細川六郎方の松浦守を奇襲で滅ぼして守備を固めた。
一向門徒はタガが外れたように襲撃範囲を広げ、近江国や大和国でも略奪を繰り広げた。
泉南の反一揆勢力のもとには、大和国で一向門徒と戦う興福寺・筒井氏・越智氏・十市氏から連絡が入り、真言宗の根来寺からは鈴木家で傭兵働きをしたことのある佐竹允昌の率いる援軍が送られた。
以前、佐竹とともに鈴木家に雇われていた鈴木佐太夫は「こんなことお上人様がお命じになるはずがない!」と叫んで友である佐竹の制止を振り切って証如が滞陣する大坂御坊に駆け込んだ。
貝塚・岸和田に集まった者たちの中には、細川尹賢・次郎父子、和泉守護・細川勝基、河内守護・畠山義堯の弟・在氏といった有力者も含まれ、人々は協力して無軌道に攻め寄せる群衆を押し返した。
かくして畿内は大混乱に陥った。
あまりの無秩序に近江の将軍・足利義晴は後奈良帝に申し入れて改元を実現。
天下の騒乱が終息するのを願って、元号が享禄から天文に改められた。
急な情勢の変化に伴い、各所の力関係も変わってくる。
堺の町と人を失った鈴木家も、これまでと何も変わらずとはいかないだろう。
【一言】山本菅助の「気がかり」云々は第82話の末尾の話です。古いプロットに基づくエピソードのため、間が空きすぎていて場違い感があるかもしれませんが、伏線回収ということでご理解ください。
【史実】今回だけで多くの人物の運命が変わっています:
・細川尹賢は本来1532年夏に亡くなります。
・細川九郎勝基は管領・道永の死で勢力を落とします。
・鈴木家に仕官した宇喜多能家(常玖)のもとに送られてきた孫の八郎は、謀略や暗殺で名高い宇喜多直家です。彼は史実でも父・興家の死に伴って所領を失いますが、作中ではそれらは数年早まりました。
・足利義維は本来はいったん細川六郎に捕まった後に堺を脱出します。
・中条家は常隆で途絶えますが、本作では史実の日根野弘就が名跡を継ぎました。
・和泉上守護代・松浦守は細川六郎陣営の守護・元常に属して本来は1550年代まで存命です。
・河内の畠山義堯の弟・在氏は史実では木沢長政に担がれて傀儡の守護となります。
・なお、堺炎上は1532年末で襲撃と半年の差があり、また、阿佐井野宗瑞の本当の没日は堺襲撃の前です。これらは物語性を高めるために改変しています。




