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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第8章 今川上洛編「風雲急を告げる」
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第105話 1531-32年「知多郡主」◆

 堺の中心部から少し外れたところにある鈴木屋敷では、在堺雑掌の中条常隆が上方や尾張の情勢を確認していた。


「殿の文では、熱田を焼き討ちし、その北に付城をこさえて古渡を切り離し囲んだとの由。とはいえ、信秀方の前田党や佐久間党がよく戦い、一気に西の庄内川まで進むとまではいかなんだようにて。

 一方の清洲は岩倉を攻めておるが『信秀の後詰が厄介ゆえ、きちんと熱田の方で信秀を引きつけよ』と矢の催促なのだとか。熊谷次郎左(直安)に尾張の下方(貞経)をつけて手伝いに送るそうな。」

「当家はうまくいっておるものの、清洲は攻め切れておらぬというところでしょうか。信秀も岩倉の救援を重く見ておるか、あるいは清洲を先に滅ぼしたいのやもしれませぬな。」


 中条の発言を受けたのは和泉・紀伊に根を張る鈴木勢のための軍師役を務める根来金谷斎である。

 もともと金谷斎は、和泉国の鈴木勢にとって背後を守る大事な同盟相手となる根来寺との交渉役をこなしていたが、こちらは関係が安定してきていた。

 そのため、根来の道場にすっかり居ついた松下長則を取次に残し、自身は堺に出て、目まぐるしく変わる上方の情勢を分析して中条に助言する役割を担うようになっていた。


 鈴木家は2500の兵を集め、船で花井氏の守る大高城に兵糧を運び入れる形で効率的に軍を維持していた。

 しかし、織田信秀は熱田に砦を作って古渡城の平手政秀と連携して防御に徹しており、守りにすべてをかけた相手を攻め切るのは非常に骨が折れた。

 そのため、鈴木家の軍師である伊庭貞説と宇津忠茂は協議して、織田兵を野戦で釣り出している間に水軍で熱田を焼き、彼らが熱田に拠って守れないようにしようとした。

 水軍は短時間で早く町を焼くためになけなしの火薬を使って町の半分以上を延焼させたが、背後を取られることになった前田仲利・利昌、そして佐久間四兄弟らは、浮足立つことなく古渡まで退却し籠城。

 鈴木家は大混乱の熱田を押さえて古渡を東・南から囲むように付城をもうけ、さらにその北西の日置城を落とし、那古野今川家に属する大秋氏と接して古渡を完全に孤立させることに成功した。


「知多も含め尾張の東半分を得るに至っておるから、これを守って新田を開くなどしていけば、石高にして10万か15万か、それほどになると殿は見積もっておいでだ」と中条が金谷斎に伝えた。

「つまり、今川とほとんど並び立つ、と。であらば、長く戦を続けるよりは、ともかく早く東尾張を安らかにし、民を動かして収量を増すことの方が大事となりましょうか。」

「どうであろうか。とはいえ、追い詰めておるはずの信秀は実にしぶとく、何か裏があるに違いない。いったいどこからあれほどの兵を集めてくるのか。熱田と岩倉とで3000だか4000だかの兵がおるとか?」

「おそらくは伊勢からと思われまするが、あるいは美濃や近江ということもあるやも。」

「いずれにせよ、近江幕府が後ろにおると見た方がよいのであろうか?」

「それがしはそのように思いまする。」

「さにあらば、長く戦を続けるのは心配だのう。」


 織田信秀は伊勢の長島と桑名を押さえており、北勢には他に六角定頼と北畠晴具の従属勢力がひしめいている。六角も北畠も近江幕府の重鎮であり、伊勢から兵を引き出しているならば、これらに背後を脅かされない確約があるということである。

 あるいは、さらに直接的に援兵を得ているかもしれない。その場合、今川上洛軍に協力するなど親幕府の姿勢を見せている美濃の土岐頼芸が織田に兵を融通している可能性もないわけでもない。


「ううむ」と中条は唸った。

 上方の諸勢力と交渉して本国の動きを悪く受け取られないように支えるのが彼の仕事だったが、こうして反鈴木の動きが実際に形になっているとなって、徒労感を覚えたのだ。

「殿のお母上は、尼御台様に近づきすぎてしまったか、なかなか当家のためには動いてはくれぬ。佐竹(基親)と大舘殿(晴光)も味方とは言い切れぬ。我らの声は確かに幕府に届いておるとは思うのだが、どこまで受け入れられておるか。」


 鈴木家当主・重勝の母、恵柿尼(旧名・あき)は今川家当主・氏輝の母である寿桂尼に近侍しており、彼女を介した在近江の今川家とのやり取りは非常に重要だったが、うまく意思疎通ができなくなっている。

 ほかにも重勝の前妻・つねの兄である朝比奈親徳も今川上洛軍に加わっているが、あからさまに鈴木の肩を持つような振る舞いはできないと弁解があった。

 とはいえ、幕臣にはすでにいくつか伝手ができていて、将軍の近くまで鈴木の声が届くようにはなってきている。むしろ、今川家よりも幕臣の方が話し相手としてはやりやすいほどだった。


「義弟殿(鈴木重直)がすでに貝塚に入られて、すぐにもこちらに来られるという話でしたが?」

「明日か明後日にはな。吉田侍従様(兼満)も、連歌師の……武野だったか、京に伝手があるとかいう者も一緒ということだ。」


 朝廷、近江幕府、今川上洛軍、そのほかにも和泉・紀伊・瀬戸内・琉球派遣船団などに関する諸勢力と連絡を取る必要がある。

 いちいち本国に確認を取らずに自身の名義で判を捺すことのできる者ということで、鈴木重勝が義兄弟の契りを結んで信頼を寄せている重直が堺に入ることになっていた。

 その助言役として、三河で療養していた重勝の相談役・吉田兼満が――まだ復調したとは言えないものの――これに随行し、さらに、不調の吉田を、連歌師・宗長に師事した武野新五郎(後の紹鷗)が補佐する。


「ともかく、義弟殿らも合わせて今度はより大きく動けるであろう。そして、三河の殿をお支えするのだ。我々はここ、堺からな。」


 気合を入れ直した中条は、その後、寂しくなってきた総髪(そうがみ)をきれいな月代(さかやき)に整え、近江入りの支度を始めた。


 ◇


「坂東屋(富松氏久)を保護して送ってくるとは、今この時分においてはありがたいことだ。」


 幕臣長老・大舘常興は、度重なる戦や将軍の動座などで逼迫する財政を思って、前管領・細川道永の御用商人として財源・人脈の確保に尽力した坂東屋が管領と運命を共にせずに再出仕するのを喜んだ。

 この商人は摂津で崩壊した幕府軍とともにあったが、管領が三好軍に執拗に追われて自害したのに対し、牢人や雑兵を集めて尾張に流していた鈴木家に捕捉され、保護されていた。

 そして、幕府との本格交渉に乗り出した中条常隆が初手で友好姿勢を見せるために身柄を返したのだ。

 もちろん、坂東屋自身からは礼金という名の身代金をたっぷりいただいた後であるが。


「それにしても見ましたかな。あの中条がずいぶんと立派な衣を着ておって。よくここまで持ち直したと言うべきか。」


 細川高久が言った。

 細川は大舘とともに、将軍・足利義晴が組み立てた内談衆という組織を構成する1人である。

 中条常隆は、もとは将軍に近侍する奉公衆の一族の出であったが、供奉できないほど三河の所領維持が大変になって長らく中央に姿を現していなかった。

 それが今や立派な出で立ちで、しかし幕府とは袂を分かって挨拶に来るようになったのを、細川は複雑な表情で受け止めた。


「鈴木の力は侮れぬのでしょうな。そうでなくば、今川もあそこまで警戒せぬでしょう」と内談衆の1人、本郷光泰が唸る。

「それがしの方で取り次ぎ申したが、今川からは吉良荘の借財につき『どうにかならぬか』と相談がございました。吉良左兵衛佐殿(義堯)から減免を訴えたのに鈴木がつっぱねたとか」と荒川氏隆が言う。

「それにつきては鈴木から証文の写しが出されておる。見るからに、利子は祠堂銭並み。これであれば徳政を命ずることはできぬ」と故実に通じる大舘常興が応じる。

「左様、それがしの方でも三河に問い合わせたところ『証文の中身はまことのもので、治水さえうまくいけば返しきれる』と聞いており申す。鈴木はこれを(かた)に押領などはしておらぬで、(荒川)三河守からも上がりが滞ることはないと聞き申す。」


 荒川氏隆が言った。彼の一族は三河の荒川村に由来する足利庶流である。

 一族惣領の荒川三河守はこれまで途切れ途切れであった三河からの上納が、規模は小さくなったものの継続されていることに満足しており、不必要に鈴木家を怒らせない方がいいと氏隆に申し入れていた。

 一方の氏隆は吉良本家や今川家の取次をしているから、どちらの立場に立つべきか迷いがあり、これまでもどっちつかずの発言を繰り返している。


「鈴木は『吉良家からそんな訴えはない』と突っぱねておりまするが、足利御一家の吉良殿が治水に難儀しておるのは事実ゆえ、さしあたり1箇年の利子免除でどうかとの由。」


 大舘常興の子、晴光の言である。

 常興は鈴木家の取次の役目を息子に譲っており、晴光が鈴木家からの妥協案を伝えた。

 内談衆の他の3人、朽木稙綱・摂津元造・海老名高助らも「まあ妥当だろう」という感じの雰囲気であるから、常興は「では、かくのごとく大樹に進言いたそう」と会合を締めくくった。


 ◇


 吉良家借財騒動は、吉良本家が今川家の従属下にあることと、所領は鈴木家の支配下にあることを世間に知らしめ、吉良家の権威を低下させただけに終わった。

 しかし、今川家は次なる相談を内談衆に持ち掛け、その内容が中条に伝えられた。


「大舘殿(晴光)からは、唐傘袋・毛氈鞍覆の使用を許し、尾張の知行地は新たに置く尾張半国守護に返上せよとのこと。」


 唐傘袋・毛氈鞍覆は幕府が守護代の地位を認めた者に許す装いであり、この下知は、要するに三河守護代の地位を認める代わりに尾張の所領を手放せという話である。

 召し上げられた所領は新設の尾張半国守護のものとなるが、それが今川家の手に渡ることは間違いない。今川家は尾張守護職を賜った先例があり、今の守護・斯波家は統治能力が疑問視されている。その結果としての半国守護という措置だった。

 また同時に、これまでさんざんに紀伊・和泉の扱いをめぐって鈴木と今川は上方でやり合ってきたため、そのことは掘り返さないということも暗に示されている。


「ずいぶんな話だな。」


 中条常隆から話を聞いた鈴木重直は驚いた。

 重直は冷や水を浴びせかけられたかのような思いで背中に嫌な汗が浮かんできたのを感じたが、中条は涼しい顔をしており、「なるほど、この程度のやり取りは茶飯事なのか」と妙に納得した。

 「上方での交渉が大変なのだ」と常々義兄から聞いていたが、こんなに無造作に鈴木家全体にかかわる大きな話をしているとは思っていなかった。

 鈴木家の中枢以外では、従属諸家の上層部はその結果を伝え聞くだけであり、国人層でいえば、そのようなやり取りがあることすらほとんど知らないだろう。

 人・物・銭のやり取りは頻繁で忙しなく、中条らはこうして日々自家の立場が悪くならないようになんとかせき止めてくれていたのだ。


「これはいわば矢合わせにござる。これに答えの矢を返すわけでござるが、これで戦は決まりませぬ。難しいのはあちらをあまり怒らせずに、向こうの言い分を削って、できれば引っ込めさせるということ。幕臣方々には今川が無茶を言うており、鈴木はよく我慢しておると見てもらうのがよいのです。」

「今まではうまくやってきておると思うてよろしいか?」

「はい、殿はそのあたりをうまくやってこられて、何事も曖昧なまま三河・尾張・紀伊・和泉と所領を広げてこられました。実のところ、そもそも鈴木が今川に完全に従属しておるわけではないことは、少なからぬ数の幕臣方々、特に公家方々がご承知くださっておりまする。」


 鈴木重直は「なるほど」とため息をついた。

 自家の立場がかなり綱渡りなのを改めて知った思いだった。


「これまでは特段のお許しもなしに勝手に所領を広げてきたわけであるが、もはやそれがかなわぬ世情となったと理解すればよいのか?」

「そうですな、要するにそういうことでしょう。先の今川の御屋形様の頃は、それで何とかなっておりました。当の御屋形様が我らにお心を向けてくださっておりましたし、かのお家自体も今より『足元定かならず』だったのでございまする。

 されど、何だか知らぬ間に大きくなっておった鈴木家を、今代の今川御家中はなんとか型にはめて、実力以外のところで上下を比べたい、比べて『鈴木は下』と定めたい、そういうことにございまする。」

「そう聞くと、その型にはまらぬ方がよいのではないか?」

「はまらぬということは『今川を戦で黙らせる、幕府もいらぬ』ということになりまする。おそらく殿もそのようにできたら一番とお考えでしょう。されど、そこまでの実力があるのか。」

「幕府もいらぬ、か。」


 重直は、今川を突っぱねることが幕府を否定することになるという中条の物言いは飛躍し過ぎでよくわからなかった。おそらく中条も、自分で考えたというよりは重勝とのやり取りでそのように思うようになったのだろう。

 いったい義兄の頭の中はどうなっているのか。鈴木家惣領の座を譲ったころよりも、見えている先がさらに大きく乖離してきてしまっているのを感じて、重直は再びため息をついた。


 ◇


「鈴木家からは、先の下知への返事ではありませぬが、別で大事を告げてき申した。」

 大舘晴光がそう言って鈴木家からの文を見せた。

 それを見た本郷光泰が「思わず」といった様子で、 

「琉球との商いにつき、これまでは道永殿のお許しでやっておったのを、代わって内談衆方々にお許しいただき、抽分銭を納める」と内容を声に出し、自分の出した言葉に自分で驚いていた。

 抽分銭は収益の1割を納める税のことで、主に堺商人が遣明船の収益について払ってきたものだ。

 言葉の出てこない一座の者たちを代表して、

「先の今川の相談は再考すべきやもしれぬ」と大舘常興は一言述べた。


 先の今川家からの要請は、当主・氏輝に甲斐・三河の守護職と尾張半国守護職、侍所の頭人の職を求めるというのが骨子で、六角定頼の口添えを得たものだった。

 その対価として、両尾張守護の間で和解をし、不安定な尾張を安定させ、そのうえで尾張からの収入の一部を幕府に献上すること、そして、上洛まで軍勢を帰国させないことなどが約束された。

 そうしてみると、琉球貿易からの上納金は、今川家から提示された利益や支援に匹敵するのではないか。幕臣たちの頭の中の天秤の傾きは大きく変わったのである。


「鈴木に三河守護を、というのも考えねばなりませぬな」と荒川が言う。

「確かに、鈴木が守護代となれば守護たる今川に横槍を入れられてしまうか。

 ……三河守護は道永殿がそのお子に与えんとしてそのままになっておったゆえ、弟御の安房守(細川晴国)か猶子の次郎(細川氏綱)が相続するというのもありではないか。」


 摂津元造が案をひねり出す。

 彼は神宮方頭人として伊勢神宮とのやり取りを担当しており、鈴木家については神宮から話が入ってきていて、北畠との間をうまく取り成したことなどからあまり否定的ではなかった。


 一方、三河守護を今川以外に与えるというのに敏感に反応したのは朽木稙綱である。

 北近江の自領から数百の兵を引っ張ってきている朽木は、幕府直轄軍の中核を担っており、近江幕府の軍事面を常々気にしていて、人一倍、六角家・今川家の軍事力を重視していた。


「六角や今川の恨みを買うのは困る。守護は不在のまま鈴木を奉公衆とするのでなんとかならぬか。」

「下手に守護を置くよりはその方がよいやもしれぬ」と荒川も同調する。

「尾張の話が出て初めて抽分銭の話を出してきたということは、鈴木は尾張にこだわっておるということかのう」と常興が切り出した。

「であらば、召し上げではへそを曲げるかもしれませぬか。今川に半国守護を与えてやって、新守護から鈴木に山田郡あたりを宛行(あてがい)させて手打ちとなればいいのですが。」


 六角定頼と通じている海老名高助はずっと渋い顔であるが、場の流れを読んで何も言わない。

 大舘晴光はこのあたりのことを取りまとめ、鈴木家に諮ることとなった。


 ◇


 享禄5 (1532)年。

 これに対する鈴木家の返答は、知多の久松家の族滅であった。

 鈴木家は、清洲織田家を差し置いて勝ちすぎては軋轢がひどくなるから、西尾張への進出をいったんやめていた。その浮いた兵を混迷のさなかの知多に振り分け、足元の実効支配を確実にしようとしたのだ。

 これは、久松家と連携して知多土豪や家中の離反者と争っていた水野家に対しては強力な脅しとなった。

 そして幕府に対しては「今川に尾張の土地は渡さない」という強い意思表示となった。


「鈴木の兵は農事を放っておいて年中働きよる。それがいつまでも続くとは思えぬが、やつばらの兵の扱いに合わせて動いておっては、先にこちらが息切れしてしまう。」


 織田信秀は苦々しげに言った。

 すでに熱田を失い、古渡城が兵糧攻めになっている。東尾張を奪還する見通しは立たなかった。

 幸い岩倉城は落ちる気配もなく、清洲内部の切り崩しも進んでいる。

 半国守護の話を敢えて斯波家中に流し、一見すると今川方と組んだ風の守護代家がいよいよ斯波を捨てて今川の後押しで西尾張を完全に自分のものにしようとしているのだ、そのような噂を広めたのだ。


「清洲はこのままいけば食えるだろう。その際に鈴木が出張ってきては厄介。最悪これと和睦してでも……」と信秀は考え込む。

「どうせ熱田にはこちらから攻められぬのだ。ならば、古渡の平手・前田・佐久間を手駒に戻して、これで西尾張を平らげた方が……。いや、鈴木も今川との間がまずいことになっておるという。もう少し耐えておれば。」


 信秀は手元の密書を見ながら独り言ちた。

 この密書は六角家からのもので、今川家と鈴木家が一触即発というのは六角家からの情報だった。

 信秀は北勢進出後、六角家と連絡を取るようになっており、今回の尾張での騒動に当たって秘密同盟を結んでいた。

 鈴木家が伊勢湾を封鎖するように水軍を展開していることで、六角家お抱えの保内商人の活動に陰りが見えており、彼らを手懐けるためにも六角定頼は伊勢湾への進出を求めていた。

 そこで勝幡織田家からは保内商人に桑名や長島の湊の特権的な使用権が認められ、定頼は伊勢国人に勝幡織田家の徴兵に協力するよう口添えし、幕府でも反鈴木で動くように約束したのだった。


 信秀は考える。

 いま鈴木家と和睦しても極めて不利な条件となる。

 そもそも鈴木が清洲を見捨てて単独講和に応じるかも不明だ。

 一方で今は六角との縁もあるし、むしろ今川と挟み撃ちをするそぶりを見せるだけで不利は一気に覆る。


「斯波家にわからぬように今川家を呼び込む、それしかあるまい。」


 信秀は答えを見つけたと思った。


 ◇


 そうこうするうちに鈴木家は、渋っている風の近江幕府に琉球からの品々をばらまき始めた。

 享禄3年に派遣した船団が先年末に堺に帰ってきたのだ。


「我らの合議では、かくのごとくと相成り申した。大樹にはこれらを以てご判断いただけますれば。」

「うむ、大儀である。」


 将軍・足利義晴は、内談衆の8人組が整理した情報とそれを基に組み立てた意見を聞き取り、思案する。

 鈴木家は確かに琉球と商いをするすべを持っている。これを我が配下に収めれば、動かせる財はかなりのものとなろう。かの家は堺を拠点としており、駿府の今川がとやかく申しても、これは止められぬ。

 鈴木の言い分にもいくらかは理がある。

 斯波は半国守護となれば怒る。当たり前だ。また、鈴木は清洲から山田郡の知行を認められておると言い、知多は尾張の守護権から分かたれた郡であると言う。であらば、わざわざ半国守護を置かずともよい。

 尾張での動きも、かつて先君・今川氏親から後見を任された今川竹王丸の利益のためであり、鈴木の振る舞いで本家の今川は特に何も害を受けていない。

 そこまで考えて、義晴は疑問に思って故実に通じる大舘常興に問いかけた。


「常興、知多郡は尾張守護の差配するところにあらずというのは、どういう理屈であったか。」

「知多はしばらく前まで三河あるいは丹後の一色家が郡主となっており申した。そのことを調べてきたのでしょう。これならば、三河者が尾張の知多を知行し、郡主が大樹に直属することの理屈となりまする。」


 常興はやや感心した風な声音で御下問に答えた。

 頷いた義晴は、一色家からどのような反応があるかを考える。

 一色家は御供衆としては己によく近侍しているが、知多郡主の家柄の義幸は若狭武田元光と抗争中で丹後すらまともに領しておらぬから、知多などもってのほかであり、気にしなくていいだろう。

 常興がこうして内談衆独自の意見を伝えてくるのも珍しい。彼らは近頃は特に六角定頼の顔色を窺ってばかりであったが、琉球の話で、いや贈物か?いずれにせよ、よほど心が動いたと見える。

 このまま六角の意のままに動くのは嫌だ。己が意を通すにも鈴木が直に我らに財を贈るというのは悪くない。六角は今川に肩入れしておるが、吉良を追い落としたこの一門衆にも警戒がいる。彼らは足利義持公により副将軍として遇された先例があるのだ。野心を持たぬはずがない。


「決めた。」

「承りまする」と常興は後で奉書を用意するときのために将軍の発言を書き留めるべく筆を執った。

「今川民部大輔(氏輝)を甲斐・三河の守護に任じ、かの者が鈴木刑部(重勝)を守護代とするのを許す。刑部にはまた知多郡をあてがい、大舘左衛門佐(晴光)を番頭に警固を命ずる。」


 義晴のこの発言の意味するところは鈴木重勝に奉公衆の格を認めるということである。

 三河については鈴木家は今川家の下につくが、知多については将軍直属というわけだ。


「さらに、尾張国山田郡につきては、斯波武衛殿(義統)より今川竹王丸に知行をあてがうよう命じ、鈴木刑部はかの者が元服するまでこれを後見する。」


 下知を聞いた常興は、これならば今川も鈴木も受け入れるに違いなく、万事決着を確信した。

 しかしながら、世の中そううまくはいかぬのであった。

【史実】坂東屋富松氏久は京・摂津を中心とする大商人で、熊野先達でもあり、管領細川氏と伊達稙宗などの奥州諸家の連絡係も務めました。

【史実】足利義晴が将軍親裁を補佐する組織として内談衆(の原型)を整えたのは1536年です。また、荒川氏隆が吉良・今川の取次をしたというのは架空の設定です。

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― 新着の感想 ―
[気になる点] 三河鈴木家はどれくらいなら譲歩できたんですかね?
[良い点] 外交って大変だなぁ(小学生並みの感想 [一言] 武力や経済力ではない、「外交力」という分かりにくいものが、説得力を伴ってしっかり描かれていて、読みながら「なるほどなぁ…」となった。
[良い点] 家格という面では今川には遠く及ばない鈴木家が外交で渡り合えるのを見ると、長年あちらこちらに顔を出し、金や恩をばらまいていた重勝の努力の跡が見えますね。 熱田や知多半島という尾張の経済力の源…
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