第104話 1531年「将棋」◆
三河鈴木家が尾張守護代・清洲織田家と那古野今川家と同盟して西尾張の岩倉織田家・勝幡織田家(織田信秀家)と開戦すると、上方だけでなく駿府の今川家も関心を寄せた。
そしてその関心は、当然ながらだいたいが疑念を含んだものであり、その矛先は駿府に人質として出されている鈴木重勝の嫡男・勝太郎輝重(瑞宝丸)に向かった。
人質を出して誠意を見せたと思った途端に勝手に尾張攻めとはどういう了見か。当主が近江で将軍に供奉している中で、容易く身動きが取れないというのも今川家中を苛立たせることになった。
鈴木勝太郎は精神をすり減らしながら、しかし諸将に付け入る隙を見せずに如才なく立ち回り、鈴木に邪心はないと弁解しながら、なんとか大過なく過ごしていた。
というよりも、両家の軋轢の様子や鈴木家の人質たちに害をなすような振る舞いは勝太郎の耳目には隠されているだけで、数十人からなる人質団は当然、様々な嫌がらせにあっていた。
とはいえ、今川家の側も、表立って人質を悪し様に扱っては鈴木家に隙を見せることになるため、あまりあからさまなことはそもそもできないし、そうならないよう上層部は家臣の統制に苦慮している。
とりわけ、三河を追い出されてから恨み骨髄の駿河松平家が人質団に接触するのは徹底して避けられた。また、甲斐国に転封された福島氏も最初こそ挨拶があったが、今川家中で内々に何かやり取りがあったか、以降は音沙汰がない。
双方ともに気の休まることのない中、人質団と接触があるのは、留守居組中枢の瀬名陸奥守・九英承菊の手の者のほかは、人質たちの受け入れ先である重勝の義父・朝比奈俊永の一族くらいであった。
俊永の嫡男・親徳は上洛軍に選抜されて不在であり、家を守るのはだいぶ老いが進んできた俊永のみだが、彼にとっては勝太郎は孫であり、まだ4歳の親徳の長男とともに大事にしてくれている。
それでも緊迫感のある日々を過ごすうちに、勝太郎はときどき体調を崩すようになっていた。
◇
今川家が誇る賢僧・九英承菊は少し前に過労で倒れたが、今は回復していた。
しかし、政務の多くは他の武将に委ね、今はもっぱら、上方の問題について手紙で相談を受け、寿桂尼が上洛して欠けた分を補って諸家の利害を調整し、そして、まだ嫡男のない当主・氏輝の後継者になるかもしれない四弟・彦五郎の教育を担っていた。
承菊が養育を担当していたもうひとり、氏輝の三番目の異母弟・芳菊丸は、先ごろ京の建仁寺に入って得度し、栴岳承芳を名乗っている。駿河と京に後継者候補を分けておき、万一に備えたのだ。
「――なかなか興味深きお話でございました。『六韜』でしょうか。長門殿(鈴木重勝)は確かな傅役をおつけのようで。」
感心した様子で承菊は鈴木勝太郎に言う。
鈴木重勝の自称は今は「刑部大輔」であるが、今川家はこれを認めず、かつて今川氏親が名乗りを許した「長門守」に呼称を統一するようになっていた。主従関係を強調するためである。
「差し支えなければ、どなたの教えを受けたのかお聞きしても?」
勝太郎は数え13歳にしてすでにひとかどの武将並みに様々な知識を有している。
承菊に任せて養育を行わせるつもりでいた今川家としては当てが外れ、勝太郎の扱いをどうするか決めるべく、今はその教養の程度を見極めようと話し合いが持たれていた。
「父は取り立てて傅役を決めておらず、このお話は小笠原殿(長高)よりのものにございまする。それがしとしては連歌と式目をよく学びたきところ、和尚殿にお暇ござればお導きくださいますよう。」
承菊はその返事を聞くと、勝太郎が統治者として必要な教養を自ら見極めていることに対してさらに感心し「ううむ」と唸った。
先に行われた加冠の儀で堂々たる姿を見せつけたことで、承菊は鈴木父子に対する警戒心を一段と引き上げていたが、勝太郎の所作や教養を見たことで一周回って鈴木家の次代を親今川に染め上げ家中に取り込むことを考えるようになっている。
「式目といえば、長門殿は当家の目録(今川仮名目録)を基に、式目の解説の書をつくりて家中で使わせておると聞き申す。すでに手引きを受けておられるのでは?」
「当家は父が足助から分家してより年月の浅き家。足利ご一門、今川のお家にて伝わるご裁許の先例を学ぶことできますれば、宝となりまする。
そうなれば、それがしが父の後を継ぎて後には三河の平らかなるはさらにも約束され、幕府を共に支え奉る上で、手を取り合いて道を歩むことができまする。」
「勝太郎殿が御屋形様や尼御台様に倣いて文治に深くお心を寄せておられるのはまことに頼もしきこと。幕府を支える当家の一員として志をともにせんがために式目を学ぶのは、御屋形様もお許しになるでしょう。」
承菊は勝太郎の裏の意図の透けて見えるような物言いに、苦笑してやんわりと窘めた。
勝太郎は今川家に伝わる裁判の知識を学びたいと述べたが、それは統治技術を盗むことである。そのうえ、鈴木家は今川家ではなく幕府に直属すると仄めかしており、なかなか過激だった――承菊は今川家中でまともに話ができる数少ない相手であるがために単に口が滑っただけかもしれないが。
それに対して承菊は、式目を学ぶとしても、それは氏輝の慈悲によるものであり、鈴木家は幕府に直属する今川家の配下であると言い返したのだ。
「では、武の鍛錬につきては瀬名殿にお任せするとして、文の方はそのようにいたしましょう。さても、拙僧はお父上のことを少し伺いたく思いまする。」
承菊がいきなりそんなことを言いだしたので、勝太郎は怪訝な表情を隠せずに、三河からの人質のとりまとめ役の1人である坂部外記勝宗の方を見やった。
坂部は、鈴木家の次代軍師・宇津忠俊の小舅で、勝太郎と承菊の話の間、部屋の入口に控えていた。
勝太郎にはもうひとり家老役が付いていて、名を安藤太郎左衛門家重といった。松平氏敗北後に加入した三河安藤家の次代当主である。
いま、安藤は朝比奈俊永の屋敷で残りの人質団を指揮している。
人質団には、財務を司る大畑定近の嫡男・七右衛門政近や、熟練物頭の林光衡の嫡男・次郎兵衛尉光清といった元服したての若衆のほか、在駿雑掌の神谷父子、騎馬武者・足軽30が含まれ、1兵団をなしていた。
「いざとなれば彼らで1部隊を作って今川家のために戦う」という意思表示である。
承菊は答えに窮する勝太郎に追加の言葉を投げかける。
「大した話ではございませぬ。普段はどのように過ごしておられるのか、何をお好みか、そのような簡単なことにございまする。思えば、拙僧は長門殿とは1度しか会ったことがなく、お人柄がいまいちわかりかねるのです。」
「普段……」悩む勝太郎はパッと思いついたことを口にした。
「まずもって父はよく働かれまする。『何かせねば心配で仕方ないのだ』と言っておられて、母が止めねば朝から晩まで何事かをされておりまする。また、怒ること少なく、戦嫌いでございまする」そう言うと、勝太郎は少し目をつむり、瞼の裏に父の姿を思い浮かべる。
「あとは、寒がりで、いささか銭渋りでございまする。当家は家中の者に禄を与えておりまするが、由なき手当を与えることを嫌って必ず分限帳を自ら調べておりまする。
『不公平はいかん』とのことなれど、あれは銭渋りなだけでは、とそれがしは思いまする。それでいて、死した兵の手当や医院・学校に与える銭はそれがしから見て椀飯振舞のような……。
好みは……茶と甘味と薬でございましょうか。茶は堺などでもてはやされる緑の葉の茶ではなく、それを炒ったものを好まれまする。
熊谷備中殿(実長)と近頃は武野(新五郎)とかいう連歌師が茶器づくりを好んでやっておられて、父ともあれこれ話しておるのは聞いたことがありまするな。」
勝太郎は父に倣って企み事に励んでいるが根は素直で、問われたそのままに答えを返しており、見かねて坂部が止めに入ろうかと思ったところで話が途切れた。
一方の承菊は、思い描いていた重勝の人物像と勝太郎の話との乖離がひどくて首を傾げている。
承菊にとって鈴木重勝は全き奸人で、与力に付いた熊谷家を乗っ取り、本家・足助鈴木の嫡男である兄を滅ぼし、敵対した松平宗家の当主一族を暗殺した大悪党である。
もっと我が強かったり豪胆だったり、何かしら癖が強いような感じを予想していた。
鈴木家との付き合い方を考えるうえで重勝という人間をどのように理解するかは大事であるから、承菊がさらに問いかけようとしたところで、部屋の外に控えていた瀬名親永が「承菊様、そろそろ」と声をかけ「鈴木殿にも吉良殿が御用とか」と言った。
この瀬名家の若武者は今川家重臣・瀬名陸奥守氏貞の次男で、鈴木家の人質団の取次役を任されている。
「おお、これは失礼いたした。陸奥殿をお待たせしてはいけませぬ。それでは拙僧はここらで。」
承菊は慌ただしく別れを告げると、瀬名親永に付いて移動し、瀬名陸奥守のもとへ向かった。
承菊を出迎えた瀬名陸奥守は、しかめっ面でいきなり承菊に問いかけた。
「嫡男を出して来よるとはいかにも扱いづらく、いちいち全てが厄介なものだ、鈴木重勝というのは。あれの息とよく会っておると聞くが、和尚は本気で手懐けるつもりか?和尚は今まで三河が危ないと何度も言うておったであろう。」
「かの家は、そも数年で滅ぼしうるほど小さな家ではなく、見定めたところ次代もよく育っておりますれば、時をかけても三河を当家が得るのは容易くありませぬ。
一方、勝太郎は九条の嫁を迎えるとはいえ、調べれば姫はまだ赤子とか。側室をあてがい、三河から切り離して正しき道理を諭し続ければ、いくら賢しかろうとも10年もあればものの見方も変わってきましょう。三河を抑え込むのにどちらが早いのか、そういう話にございまする。」
承菊のその物言いに、瀬名は故・今川氏親が重勝を「殺すか、取り込むか」と評価したのを思い出して不快感を強めた。瀬名はそのころから一貫して鈴木を押し込め滅ぼすべきと思ってきたからだ。
氏親が取り込むことを選んでから20年足らずで鈴木家は三河一国を超える勢力を持つようになった。その点で瀬名は自分の危機感は正しいと思っているが、確かに、両家は決定的な対立には至らず、今川家は鈴木家から財や兵を得て、甲斐一国を獲得し、上洛することができている。
今も承菊が氏親と同じ結論に至ろうとしている。結果だけ見れば鈴木の存在は今川にとって害にはならずに益になっているようにも見えるが、結局、先君の選択は正しかったというのか。
「されども、その10年がどうなるかこそ大事である。」
「いかにもご懸念は正しきこと。こたびの尾張の騒動を『勝手』ととがめることもできまするが、三河が清洲と結んでおったというのが厄介にございまする。
守護代の武威は不確かなようにございまするが、いざとなれば鈴木は織田の相争うに任せたまま自らは遠江に攻めかかりましょう。そうさせぬには工夫がいりまする。」
承菊は鈴木家が全力を東に向けてくるのを嫌っているようだ。
「勝太郎の当家への不信を増さずにいかに三河の力を削ぐか。
ひとつは、御屋形様と三条の方のご成婚。惜しむらくは摂家の姫を得られなんだことにございまするが、三条様は親王別当にてあらせられますれば、朝廷とのつながりは長く保たれましょう。」
承菊は、勝太郎が九条の姫と婚約したのを重く受け止め、氏輝の妻を高貴な家から迎えることを強く推進していた。
九条家と近い二条家、二条家と近い一条家・鷹司家を除いて、承菊は近江にいる寿桂尼に「近衛の姫を娶れないか」と相談したが、当主・近衛尚通の長女・次女はすでに30歳を超え、三女は管領・細川道永の仲介で将軍・足利義晴と婚約しており、三条の姫との結婚は得られる中で最上だった。
姫の父・三条公頼は正二位権大納言で、後奈良天皇の後を継ぐ方仁親王の家政を司る役目を任されている。親王に代替わりしてからも、今川は上方で影響力を持ち続けられるだろう。
「されどこれはすぐにどうこうという話ではございませぬ。そこで、もひとつ、御屋形様・尼御台様が上洛しておりますれば、幕府の力を使いましょう。」
「そちらは話が進んでおるのか?」
「六角殿の顔を立てねばなりませぬが、この際においては些細なこと。それさえ方々がご承知くだされば、というところかと。」
今川が幕府内部で六角の風下に立つのを嫌がる者は多い。将軍・足利義晴も自らが大大名の意向に振り回されるのを嫌っていて、今川は一門といっても地方の大大名。すんなり話が通るわけではない。
「和尚のように割り切れぬ者も多いであろうからなあ。」
「それとは別に、吉良殿の筋からも、ひとつうまくいかぬかと思うところがございまする。」
「ふむ、ともかくなんでもやってみるしかあるまいな。」
「まことに。」
「あとは?」
「あとは秘中の策、これを使えば否が応でも後戻りはできませぬ。『いよいよ』となりまする。陸奥殿には知っておいていただくべきやもしれませぬな。策というのは――」
◇
「ほほほ、勝太郎殿は、象戯には慣れてこられましたかな。」
「先ごろ見たところでは、そちらのご家老(坂部)に勝っておられましたぞ、父上。」
吉良左兵衛佐義堯は、勝太郎と同時期に元服した息子の三郎義郷とともに鈴木勝太郎を出迎えた。
勝太郎の父・重勝は12目92駒の中将棋は「ややこしくてかなわん」と好まず、「象も豹も日本にはおらん」と言って駒42枚あるいは46枚の小将棋から「酔象」と「猛豹」を除けて40枚で遊ぶのが主だったため、勝太郎は吉良氏のもとで初めて中将棋を学んだ。
勝太郎からすれば、駒を獲ったら捨ててしまう「取捨て」の中将棋よりも持ち駒が使える小将棋が好みだったが、教養を示せてご満悦の吉良父子に取り入る手段として中将棋を習っているのである。
「ほほほ、であらば、そろそろ勝ち負けを考えてもよかろうのう。」
「それがしが負け越しましても、東条殿(吉良持広)のことはどうにかなるとは思えませぬが……。」
「そなたが父に口添えするというだけでよいのよ。何か賭けねばしまりがなかろう?」
「はあ、そういうものでございましょうか。」
賭けとは、三河の吉良家が鈴木家に負っている莫大な借財について値引きしてほしいという話である。
吉良義堯は三河の荘園で人買いが出るほど困窮者が増えていると聞くが、この貸付は最安の祠堂銭並の利率であるから踏み倒すのは外聞が悪い。そのため、交渉で負からないかと考えたのだ。
賭けというからには勝太郎の方にも勝てば得られるものがある。鈴木家に三河守護か守護職を賜れるように吉良家が幕府に働きかけるというのだ。
ただの将棋の賭けにしてはずいぶんと大きな話だが、とはいえ、どちらの話も成立の見込みは乏しく、義堯の戯れであった。あるいは、交渉開始のきっかけになれば、というくらいのものである。
「そうでありました。こちら、お方様(後藤氏)が香をお好みということで、自ら混ぜられるのがよいだろうと父母より贈り物ございまする。」
そう言って勝太郎は、香を作るときに混ぜ込む貝殻である甲香や、麝香、丁子、甘葛煎などをひとそろい献上した。
「おお!そなたの父は荘園に押し入るようなこともなく弁えておるようだ。このまま今川とも住み分けてうまくやってもろうて、余らは在京というのが一番なように思えるのだがのう。
管領が死んで三河守護がどうなるかわからぬと言うし、余らが職を預かり、今川は守護代、そなたらは又代というのが見栄えがよいがのう。」
吉良義堯は荘園の経営難は気がかりだが、生計が脅かされることがないため、少し欲やら何やらが出てきていた。
駿府で孤立する鈴木家の人質たちは、今川家にとって目の上の高貴なたん瘤で腫れ物扱いの吉良家と縁を繋いで、少しでも立場を安定させようとしている――ように見える。
一方で、上洛した今川家は、これまで長らく在京で将軍にも挨拶を重ねてきた吉良家の後押しに期待しているらしい。
上洛の暁には「甲斐守護・三河守護・侍所頭人を今川氏輝に」という話であったが、管領・細川道永が死んで口約束の相手が消えてしまい、近江と堺の関係も不透明な今や、話が宙ぶらりんになっている。
今川家は上洛したとはいえ、まだ幕政における地歩を固めていないため、我意を通すことままならず、幕府内部の交渉事を進めるのに伝手が欲しいのだ。
他方では、三河の荘園を経営する東条吉良家は、当主・持清が臥せって次の持広に交代したばかり。治水事業に難渋して家政は借財まみれ、領民も困窮している。
駿河にいる三河がらみの勢力といえば松平家もある。この家も帰還の望みを捨てていない。帰還といえば、駿河には甲斐から移された武田信虎とその子らも囚われている。
どこもかしこも危うい。
吉良義堯が余計なことを考えだすのも仕方ないことだろう。
「さても、1番、勝負といこうか。」
吉良父子は将棋の駒を下人に用意させた。
結局、勝負は勝太郎が負け越したため、借財について父に相談してみるということになった。とはいえ、彼にとってそれはあまり重要ではない。父も「吉良家は好きにさせておけ」と言っていた。
ではなぜ吉良家に接触したのか。
狙いは吉良義堯の側室と縁を繋ぐことであった。彼女は後藤氏の出で、その子が嫡男・義郷である。
後藤氏は駿河にも土地をあてがわれているが、本家は東三河本坂峠のすぐ東、遠淡海(浜名湖)の北側に住む。後藤氏は浜名氏の隣人でもあったが、この浜名氏がなかなか鈴木家と誼を通じようとしないため、勝太郎は、かの地の国人の切り崩しに悩んでいる父の手助けとならんと欲したのだ。
この側室から礼状を得た勝太郎は疲れた様子を見せつつも、
「吉良家かくのごとし、後藤家との挨拶の機を得申し候、と」などと口にしながら父に手紙を書き始め、
「運ぶのは平八の手の者に頼めばいいかな?」と付家老の安藤に尋ねた。
「そうですなあ……。後藤家とのやり取りは奥方を介して吉良殿、さらには今川家中にも伝わるやも。駿府の我らが本坂の後藤といかにしてやり取りしたのか、となってはかないませぬし、その件だけで文を書いて堂々と三河に送り、今川の者が盗み見てもよいようにしておきましょう。」
勝太郎は「それもそうだ」と各所の内情を記した密書は別に用意して、この密書は夜闇に潜んでやってきた平八に渡された。
平八とは重勝の旗揚げ時の仲間の1人で、山歩きや狩りなどが得意な忠臣であり、重勝から「阿寺」の苗字を与えられた兄弟の片割れである。
彼の下に熊野御師・一乗坊や大井(武田)信玄との間をつなぐ者たちが一時的に属して、勝太郎を陰から護衛しているのだ。
我が子を思う父のせめてもの計らいであった。
【史実】本話を書いたときには見落としてしましたが、本来は三条公頼が方仁親王別当となったのは1533年です。
【史実】瀬名親永の人物情報は不明瞭ですが、関口家を継いで徳川家康正室・築山殿の父となります。
【史実】東条吉良家の持清は1532年1月に死去します。本家筋の吉良義郷は1538年に代替わり後、初にして最後の将軍への年始の挨拶をします。それまでこちらの吉良家はときどき将軍に挨拶していたようです。




