第103話 1531年「佐久間四兄弟」◆
享禄4 (1531)年の夏に管領・細川道永が死に、それと同じころに今川上洛軍が近江に入った。
秋の収穫を待って三河鈴木家の扇動で那古野今川家が清洲織田家に騒動の種を持ち込み、清洲織田家・那古野今川家が勝幡織田家(信秀)と開戦するに至った。
一方、一気に近江幕府を追い詰めようと望んだ三好家からの使者に対して、鈴木重勝は「尾張攻めで幕府の気を引くから上方は自力で頑張ってくれ」と返し、那古野今川家の援護を名目に尾張攻めを開始。知多半島の水野家と織田信秀の勢力下にある熱田の攻略に乗り出した。
◇
東三河は嵩山城。
宇津忠茂・忠俊父子は鈴木重勝に「尾張攻めは任せて休んでくれ」と言ったが、彼が忙しくないはずもなく、精神を摩耗させている最中である。
近江からも駿府からも届く今川家の書状に対してのらりくらりと建前やら何やらを書いて返し、尾張からは最初の頃は毎日、今では数日おきに届く報告を聞いて状況を整理する。
さらには、かつて小笠原長高がいた頃は練兵の拠点として使われていた嵩山城に入り、今川家に不審に思われないよう細心の注意を払って三遠国境の防備を固めるのに頭をひねっていた。
「ええと、本坂峠の方は奥山家を繋ぎとめておきさえすれば、まだ守りやすかろう。問題は東海道か。康友翁の『風土記』によれば船形山なる城跡があるというから、ここを何とか修築して……。」
重勝は床に捨て散らかした紙を拾い上げてあれこれ確認しながら、
「野盗のたぐいのふりをして兵を山中に潜ませるのはどうであろうか。これらを砦に住み着かせるのだ。そうすると、城跡にほど近い普門寺を黙らせておかねばならぬか」などとぶつぶつ言い続けている。
鷹見など鈴木家の主だった人物は今、6000人からの兵を使って尾張攻めを行っている。
その中で、鷹見はこっそり重勝の次男・順天丸を連れて仕事をしており、鈴木家での戦がどういう形で行われるのかを見せてやっていた。なぜこっそりなのかというと、彼らは岡崎を拠点としているが、順天丸はその岡崎への出入りを禁じられているからだ。
鷹見ら奉行連中は、通常業務を最低限の人数で回しながら、尾張国内で城攻めや拠点の防備についている2000程の兵を養うために4000程の小荷駄隊・護衛隊を往還させている。
これらはすべて、数年かけて重勝が中心になって準備してきた計画に基づいており、このまま数年は戦い続けることができるように、兵役に就かない農民は耕地を集団管理することになっていた。
そのため今、東三河の備えに使える人材は乏しかった。
そのことは織り込み済みとはいえ、計画の時点では当の重勝が衰弱しているという条件は考えられていなかったのが問題だった。
彼の手元には、鈴木家に仕えて日が浅い武田旧臣の一部や伊勢から渡ってきた長野氏の傍流・分部の一党くらいしかない。集められる兵の総数も1000ほどである。
しかも、重勝の相談役で外交方面では信頼して仕事を任せられる元外記・中原康友も元侍従・吉田兼満も連歌師・柴屋軒宗長も病を得て隠居している。
重勝は東部防衛と外交交渉を含めた今川家に対する欺瞞工作をほとんど一人でやりくりしているのだ。
「ん?」
ふと気づくと、何やら香ばしい匂いがしてきた。
重勝の継室・松平久が重勝お気に入りの土瓶にほうじ茶を入れて持ってこさせたのだった。
「お茶ですよ」と言いながら久は侍女に湯飲みを差し出させ、重勝がそれを受け取ると人払いをして話しかけた。
「遠江ではあまり動きもないのでしょう?」
「うん、まあ。」
重勝は、今川家が遠江にすぐに兵を集めて懲罰的な攻撃を仕掛けてくる可能性を考えていたが、どうもそうではないようだった。
遠江から福島党が甲斐に一部転封となった影響や、駿府の中枢が上洛軍に人手を取られて動きが鈍っているといった事情がありそうだが、はたしてどうなのか。
「でしたら、そこまで根を詰めなくともよいのではありませんか。」
「しかしなあ。」
「たまにはおもとも見舞ってやってください。」
「ああ、すまなく思っておる。」
重勝の側室・奥平もとは先ごろ身ごもった。
そのため、今は久も奥向きの仕事を一人でこなしていて忙しいのだが、それでも彼女は夫が日に日にくたびれていくのを心配して、こうして世話を焼いていた。
それというのも、重勝と久の間が瑞宝丸を人質に出すときからおかしくなり出して、その直後にもとの妊娠がわかって余計にギクシャクしていたため、当のもとが心配して、重勝から目を離さないよう久に強く言ったからだった。
「……確かに、尾張は何とかなりそうだとは思う」重勝は自分に言い聞かせるように言ったが、そうかもしれないと思ってはいても、不安で落ち着かない。これは性分の問題で、どうしようもないのだ。
「お前様のことですから、多少のことでは揺るがないとは思っておりますが、さすがに守護代殿が負けたときはわらわも心配しました。」
「あのときは伊庭(貞説)にも服部(保長)にも悪いことをした。」
重勝が苦い記憶を思い返して顔をゆがめた。
◇
清洲の尾張守護代・織田達勝は、鈴木家の支援で雑兵(臨時雇いの足軽)を雇って、那古野今川家の中野又左衛門と織田信秀配下の前田利昌の間の不和を口実に前田党を急襲した。
清洲軍は前田氏の治める荒子から一色川(庄内川)を渡って助光までを荒らしまわり、休憩地点を求めて荒子側の岩塚城に戻ってきた。
岩塚城は尾張守護斯波氏の一族である吉田何某が守っており、清洲軍は同じ陣営ということで従軍と補給を求めたのだ。しかし吉田はこれを拒否した。
「我らは守護様のご下命なくば動かぬ!」
「このわからずやめ!その守護様に万事を任せられておられる大和守様(織田達勝)の命令だというておろうに!ええい、こんなやつが後ろにおってはおちおち他の城を攻めておられん、焼いてしまえ!」
「おい、そんな無法がまかり通るわけなかろう、河尻!そんなこと仕出かしてみろ、どうなっても知らんぞ!」
清洲軍を率いる河尻与一はあたりの略奪を許可し、怒った城主の吉田は討って出てきたが、それこそ河尻の思うつぼ。あっさり捕虜になってしまった。しかし捕虜にしてしまっていいのか?河尻はそのことは気にしていないようだった。
「余計な手間をかけさせおって……。よし、次は稲葉地城を目指すぞ!」
清洲軍は信秀の弟・信光が守る稲葉地城を包囲すると、信光が「条件次第で開城する」と申し入れて交渉が始まり、その間に信光は清洲に雇われた足軽に酒を与えて無駄に時を費やさせた。
もちろん兄・信秀が反撃のための時間を稼ぐためである。河尻も途中でそのことに気づいたが、雑兵を中心にしている清洲軍の規律は悪く、城攻めを行おうにも士気がついてこなかった。
するとそこへ熱田にたむろしていた他の雑兵も合流してきて、がぜん気合を取り戻した清洲軍は強気に出て、いよいよ信光も開城して撤退。
河尻らは一色川・五条川を渡河して西方の戸田城に取り付いた。
戸田城はその名の通り昔は戸田氏の城だった。彼らは三河で鈴木家と争った一族のことであり、彼らがずいぶん前に三河に移った際にこの城も廃城になっていた。
しかし、数年前に織田信秀が、鈴木家に敗れた戸田政光を引き抜くと、彼を弟・信光の与力に付け、この城を再建させて住まわせていた。
戸田は頑強に守って清洲軍を寄せ付けず、包囲から3日が過ぎた。
そこへ清洲から使者が駆けてきた。
「一大事!清洲御城下、信秀めに焼き討ちされておりまする!」
「なに!?おぬしは坂井の手の者か。ご家老(坂井摂津守)は何をしておったのだ……。者ども、戸田は放っておけ!北へ向かうぞ!」
河尻は戸田城を放置して北上し清洲を略奪している信秀軍の背後を襲うつもりで急ぐ。
戸田城から清洲までは1刻ほど。河尻は、ちょうど敵が乱取りを済ませて、だらけ切っておるところを襲うことができよう、と算段していた。
しかし、それこそが油断だった。
先の使者は坂井の手の者ではあっても、信秀の息がかかっていた。それゆえ、信秀に都合のいい時刻に敵である河尻らを呼び込んだのである。守護斯波家、守護代織田家、織田信秀家には同じ一族の者らが分散して仕えており、身元は確かでも安心はできない状況だったのだ。
初動こそ遅れた信秀だったが、清洲の守将・坂井摂津守が兵を集めていないのを知るや、自領の防衛は滝川彦九郎が伊勢から引っ張ってくるだろう兵に任せることにして、自身は手元にある限りの兵で清洲を急襲し、河尻の隊を誘き出して各個撃破をもくろんだ。
「待っていたぞ、河尻!」
「くそっ、遅かったか!されど、こちらは倍の兵がある!者ども怯むな、かかれっ!」
準備万端の信秀軍300を前に、河尻は動揺を隠せなかったが、こちらは倍ほどの兵がある。力押しでもどうにでもなる!
河尻は自身も前に出て果敢に攻め立てたが、喧騒の中でふと気づくと、いつの間にか敵味方の数が逆転している。
「これは、いかなることぞ!?」
「フハハハハ!このたわけ!雑兵を集めるのに銭を惜しむからこうなるのだ!」
雑兵が寝返ったのだ。
信秀は熱田に残っていた足軽に清洲方より多くの銭を与え河尻のもとに送り出し、彼らの口利きで清洲方の雑兵にも戦後の褒賞の代わりに寝返りをそそのかしたのである。
それで寝返る者が多いというのは、彼らの質が悪かったからではあるが、清洲は雑兵を雇うために三河から渡された銭をネコババしており、彼らには少なめの銭しか渡っていなかった。
それに、こういう足軽は身の振り方を常に考えているから、熱田でたむろしていた連中のなかには、勝ち馬を見極めようとしていた目端が利く者もおり、信秀はそれらをうまく手駒にできたのだった。
結局、河尻は敗走。信秀はさんざんに城下を荒らしたのち、なぜか城を攻めずに本拠に帰って態勢を立て直し、密通していた岩倉織田家に参戦を促した。
◇
重勝は「清洲危うし」の報を聞いたときのことを思い返していた。
「あのときは服部(伊庭貞保)を叱責するかのようになってしまった。あれはよくなかった。」
上方から呼び込んだ足軽は、伊庭の後継者となった服部保長(現、伊庭貞保)が監督していた。彼も元々は近江幕府軍に雇われた足軽だったから、うまく話をつけられるだろうという目算だった。
その服部のもとへ、取り乱した重勝は「状況はどうであるか」と問う使者を立て続けに送ってしまい、彼の面目を大いに損なった。それは服部を後継者に望んだ伊庭の名誉にもかかわることでもある。
口下手な伊庭に代わって交渉事を一手に引き受けていた九里浄椿が死んだことで、伊庭党は勢威を落としているところだったから、このことは非常にまずかった。
「お前様、服部、服部といつまでもそのようにお言いでないですよ。もう伊庭殿なのですから」と久は夫をたしなめる。服部保長は伊庭貞説の養女と結婚して入婿になっていでいた。
「伊庭殿(貞保)には皆の前で感状をお渡ししてあげるのがいいかもしれませんね。」
「そうしよう。そなたも他に気になった者がおれば、言うてほしい。正しく労をねぎらいたい。」
「それで申しましたら、清洲方々が不手際を仕出かしても大過なかったのは、青山殿(徳三郎忠教)と熊谷殿(次郎左衛門直安)の大手柄ですね。」
「そうだな、これは何よりも大きい。しかし……」重勝はそこで言葉を切ると「味方が、いや、当家以外のということだが、味方がなあ……」とため息交じりに言った。
◇
時は少し戻って清洲城下焼き討ちの少し前。
桜中村城の山口氏を攻める青山徳三郎と酒井小五郎の隊は、山口家臣・成田久左衛門を討ち取る手柄に沸いていたところ、佐久間四兄弟の奇襲を受け、一時撤退する羽目になっていた。
佐久間党は城主・山口太郎左衛門の無事を確かめるとすぐに御器所に引き返し、次の襲撃について相談していた。先ごろからずっとこの調子で、三河兵は神出鬼没の佐久間兵に翻弄されている。
「兄者(与六郎盛明)、次は南に出てみよう。何度も山口の城を攻めておるは、いかにもわざとらしい。三河のやつら、我らを誘き出し待ち伏せようというのではなかろうか」次男・久六盛重が大声で言う。
「……鳴海を脅かすか。かの地には次から次へと小荷駄が来ておるようだしな。それもまたよかろう。では、行くぞ兄弟!」長男・与六郎は即断即決である。
「合点!」三男の弥太郎盛経が短く答えて槍を握る。
そこへ割って入るは四男・左衛門信晴。
「いやいや、あまり前に出すぎては戻れなくなりまするぞ!」
「左衛門、水を差すな。弥太郎を見習え」与六郎が末弟をたしなめるが、信晴も引かず、
「我らは長く粘らねばならぬのです。三郎様(織田信秀)が熱田に出てくるまで。それまで何としても古渡と桜中村は守っておかねば。」
「川名の(佐久間)権平があとのことはうまくやるであろう。後ろばかり気にしておっては狩られるぞ、左衛門。こちらから喰らわねば喰われる。そうであろう皆の者!」
「おう!」配下の武者は威勢よく返し、結局、信晴の意見は退けられた。
佐久間党は北の台地から鳴海城に接近した。
鳴海城は南側が海で、西には一段と高い丘に物見櫓があるから、攻めるならば北か東となるが、東は続きの台地が深い堀切で区切られており、北から攻めるのがよいように思われた。
「しかし当然その北側は柵に土塁にと、たやすく近づくことはできそうもないわけだ。」
「兄者、さすがにこの小勢で城攻めは無理であろうよ。どこかで隠れて待って、小荷駄を襲うくらいがよかろう。」
「海の方はどうなっておる?」長男・与六郎盛明と次男・久六盛重の会話に三男・弥太郎盛経が割って入った。
「海は回り込めても城から丸見えではないか?」四男・左衛門信晴が懸念を述べると、
「小荷駄が来なければ、夜に海辺に出て小舟でも燃やして帰ろう。それで鈴木は『鳴海も危ない』となって、攻め手も鈍るであろう」与六郎のこの提案に弟たちは頷いた。
日中に小荷駄は来たが、護衛と合わせてこちらの倍以上の数であり、しかもあたりをよく警戒しながらの行軍であったため、佐久間四兄弟は夜まで待って海辺に出てきた。
「かがり火があるぞ、人がおるやも」信晴がいち早く指摘する。
「おってもこっちの数は50を超える。そうそう後れを取ることはあるまい」と言って次男・久六が信晴の肩をガシッとつかんだ。
「では、いくぞ!」長兄の号令で一同は浜辺を駆けだす。
「何やつ!おい、誰かいるぞ!」
舟にいるらしき人物は砂を踏みしめる音を耳ざとく聞きつけ大声をあげた。
そして、松明をつかむと佐久間党のいる方向へ投げつけた。
「うわっ!投げるやつがあるか!」
火の粉をかぶった三男・弥太郎が思わず声をあげると、
「曲者だ!鐘を鳴らせ!舟を出せ!」と鈴木方の組頭らしきその男は指示を飛ばす。
「あれを狙え!その舟の上だ!」
佐久間久六が組頭の姿を捉えて手下に矢を射るよう命じた。
暗闇でもかがり火のせいでかえって人影は目立つため、矢は過たずに鈴木方の組頭に飛んでいく。
「うぐっ!」
「間野殿!」組頭を心配する声が響く。
「怯むな、いったん海へ逃れるのだ。舟を奪う気か知らぬが、漕ぎ出してしまえばこちらのもの。城からもお味方が来るであろう。しばらく粘るだけでよい。」
間野と呼ばれた組頭は軽傷のようで、的確な指示を出し、うろたえる水兵をまとめている。
「うむう、敵の船頭はできた人物のようだ。ここで無理をしても割に合わん。仕方ない、引くぞ。『鳴海も攻められるのだ』と脅かすことはできた。それで十分だ」与六郎は引き際を悟って指示を出す。
手近にあった櫂を圧し折っていた弥太郎はすぐに弟・信晴を連れて引き下がり、殿は次兄の久六が務めた。
かくして、佐久間党は鈴木方の水兵にいくらかケガを負わせたが、そのまま御器所に帰還した。
しかし、彼らを待っていたのは、川名の佐久間権平討ち死にの知らせだった。
「何があった!」与六郎は村人に問う。
「夜襲だ!おぬしらが南に行った後、日が暮れたくらいに北から敵が来たのだ!」
「北だとぅ!?那古野兵か?しかし、権平がやられるとは、ずいぶんな手練れだったようだな。」
「頭目のでかいのと小さいのがめっぽう強かった。権平はあっという間にやられちまった。」
「くそう、我らもうかうかと巣を空けておられぬということか。これは動きにくくなるぞ。」
こうなると、佐久間党だけの力では熱田の周りを守ることは難しかった。
鳴海に十分な兵糧と人員を輸送し終えた鈴木家は、青山忠教率いる知立兵300と、熊谷直安率いる小荷駄護衛隊から選んだ300で、互いを守らせながら桜中村城を攻め、城主・山口太郎左衛門父子を自害に追い込んだ。
彼らは城の守備を青山の副将・酒井忠親に任せると、休む間もなく御器所の佐久間党を攻めた。
この間、佐久間は那古野の鈴木兵の断続的な攻撃を受けて身動きが取れなくなっており、やむなく古渡城に逃げ込むことになった。
この那古野兵は、大森から進出してきていた石川又四郎・猪助・多田三八郎の隊であった。
大森の備大将・西郷正員は、那古野西の大秋氏の館で無駄飯を食っていた兵を那古野に戻し、これを守備に充てる代わりに、浮いた人数を石川に任せて南北の味方の合流を目指したのだ。
清洲焼き討ちが知れ渡ったのは、そのすぐ後のことだった。
◇
「桜中村と御器所を落とせておったおかげで間一髪で事なきを得たが、清洲のみならず、那古野もどうにも使えぬ」東三河・嵩山城に詰める鈴木重勝は、妻・久に愚痴った。
どうもこの夫婦は、家族のことやお互いのことになると不器用であるが、仕事のことの方がうまく話せるらしく、この頃では珍しく会話が続いていた。
「どうかなさいまして?」
「やつら、兵糧をためておらずに『足りぬ足りぬ』と言うで、大森から運ぶ羽目になったのだ。これだけでも仕様もないが、これを石川がやったのもよくなかった。
あやつ、護衛ということを忘れたか、古渡から出てきた者どもと討ち合ううちに兵からはぐれて、『仕方ないから』と言うて、一人で敵中を突破して逃げてきたのだ。」
「まあ、左様でございましたか。……お詳しいですね。」
「あやつめ、『尾張は片付いたから』とひょっこりこの城にやってきおったのよ。それで本人から聞いた。いくら戦勝手次第を許したからと言って、滅茶苦茶しよる。」
「しかし」と久は少し考えて「きっと、又四郎殿はお前様が東三河で一人頑張っておられるのを心配してこられたのですよ」と言った。
重勝は苦笑して、
「あれにそんな殊勝なところがあるかな」とこぼして茶をすすった。
「そうだ、鳴海で船頭がよい働きをしたとか聞いたな。間野七郎だったか、素性を調べて、よさそうならば重く用いてみてもよいか。」
この間野七郎、小笠原水軍に拾われた時点ですでに高齢で、なかなか振る舞いの優れた人物だった。
摂津から孫を伴って落ち延びてきたとかで、何年か前に伊勢にたどり着いたはいいが、銭に困って三河屋の船をつかまえて雇ってほしいと願い出たのだった。
孫は娘の子で苗字が違い、伊丹というとのことである。
◇
清洲織田家の武威のなさを露呈するだけだった荒子騒動は、織田信秀の要請で岩倉織田家が参戦すると、西尾張の信秀・岩倉織田家の連合と、東尾張の清洲織田家・那古野今川家・三河鈴木家の同盟が対立する内乱へと発展することになった。
清洲方が岩倉織田家に備えて消極的な動きしか見せなくなると、信秀は堂々と熱田まで増援を送れるようになり、三河鈴木家としては清洲とともに熱田を挟撃することはできなくなった。
信秀の軍勢はどこから集めたのか1000を超えており、まだ増えている。岩倉織田家も500は集めている。
一方の鈴木方は、那古野と清洲は下手に数に入れると後が怖いということで、安心して使える兵数は輜重兵を除けば2000と少々。兵力差は東西でさほど大きくない。
とはいえ、大森・那古野の線は御器所を介して桜中村・鳴海の線となんとか繋がっており、鈴木家の熱田攻めの足場はしっかり固まっている。長期戦に備え、鳴海と大森には兵糧もよく備蓄されている。
問題は近江そして遠駿甲の今川家の動きだけだった。
【注意】嵩山城は作中のみに登場する架空の城です。実在する城だと月ヶ谷城が近いです。
【史実】佐久間四兄弟は本当に四兄弟かどうかも、次男以下の順番も不明です。織田信長家臣団の中で有名な佐久間大学の父が盛経、佐久間信盛の父が信晴、佐久間盛次の父が盛重です。
【史実】間野の孫は伊丹康直といい、今川義元・氏真、武田信玄、徳川家康に仕えた海賊衆です。




