第101話 1531年「内意」
「今川は無事に近江に入ったとのこと。福地の者を1人そのまま南近江に置き、近辺を見て回らせておりまする。」
御用奉行を拝命した柘植宗家が今川上洛軍に付けて送った手下からの報告を伝えた。
御用奉行は主君の用事を何でもこなす係として設置され、平時は情報収集・連絡・護衛などを担っている。福地というのは伊賀国柘植から移ってきた柘植宗家の手下の苗字である。
「うむ、中原(康友)や吉田(兼満)、それに柴屋軒殿(宗長)らはどうにも体の具合がよくないゆえ、上方のことを知るには今はおぬしらの働きが大事である。よろしく頼む。」
鈴木家で書記の仕事を勤め上げた外記・中原は体調不良を訴え、先ごろ上方で交渉事をこなした侍従・吉田兼満とともに朝廷に官職を返上して今は療養中だが、2人ともなかなか復調しないようだ。
宗長は連歌師で、故・今川氏親の外交僧を務めた80も半ばの長老である。次々と友人に先立たれ、外交僧の役目も九英承菊の手に移り、いよいよ駿河に居場所をなくして三河で余生を送っていた。
いま彼の下には、三河屋の傘下に入っている武野という堺の皮革商の息子が弟子入りしている。
彼はもともと在京の連歌師で、かねてより名高き文化人の三条西実隆(吉田の娘婿の祖父)に取り入って自身に箔をつけるのに余念がなかった。
そして、父が鈴木家の紐付きになると、鈴木家が主導する琉球との交易に一枚噛もうと、表向きは連歌師の修行と称して宗長に取り入り、鈴木家の懐に入り込んでいた。
彼が持つ京での人脈は貴重であるから、鈴木家も彼に対する十分な保護と支援を約束しているが、武野は今は熊谷実長が道楽で営む瀬戸の茶器窯にご執心なのだという。
「伊賀は我らの庭なれば、かの地から近辺をうまく探って見せましょう」と伊賀出身の柘植は自信をもって答え、さらに続けて言う。
「また、ご次男殿の周囲を探りまして、いくらか我らで片づけておき申した。だいたいは『何か悪いものを食った』くらいに思われておりますれば、抜かりはございませぬ。」
「……うむ。結局、こうするしかなかったか。」
「致し方ありませぬ。そも、すでに『悪口は罰する』と触れておられると聞き申した。何が悪口かもわからぬような間抜けは――」
「いや、これしかないのならば、さっさと済ませておけばよかったと思うてな。」
「ははあ、なるほど。されど、我らがお役目を承るまではそのようなことを任しうる者どもの手数も足りておらなんだと聞いておりまする。
後ろばかり見ても仕方ありませぬ。雲の行くところ、水の流るるところ、今がそのときだったということなのでございましょう。」
「坊主のようなことを言いよる。」
それを聞いた柘植が隻腕で頭巾をひょいと持ち上げて、出家の際に剃髪した禿頭を見せると、重勝はそのひょうきんな動作につられて笑った。
柘植が頭巾を戻すと次の瞬間には手に文を持っていて、それを主君に渡して言う。
「酒井殿(忠尚)よりお言付にございまする。」
「手間を増やして悪いな。」
「なんの、お家の大事にございまする。ご長男殿(瑞宝丸)のことは、駿府の大井の方(瑞雲院)に手伝いを頼んでおりまする。」
柘植は駿府に人質に出た瑞宝丸の様子を調べるのに、同じく人質扱い受けている大井の方、つまり大井信玄の母の協力を得て、彼女のいる寺を隠れ家として使うことにしていた。
重勝は「うむ」と小さく返事をすると、待ちきれない様子で小さくたたまれた紙きれを広げて読む。そこには新城に移った順天丸の様子が書かれていた。
この次男坊は岡崎を出入禁止になり、奉行のとりまとめ役を担う鷹見修理亮とその弟子のようになっている酒井忠尚のもとで、後継者候補として人事・軍事・内政・外交の基礎を叩き込まれている。
順天丸が評定に乱入してきて不調法をなしたのは、重勝にとっては残念なことだったが、ただでは転ばずに、今後のことを考えて利用することにしたのだ。
我が子が四苦八苦している様子に心中で応援の言葉を送ると、重勝は柘植に向き直って言う。
「……おぬしは出先の手下を一手に動かさねばならぬ立場。それがしにいちいちあれやこれやと尋ねておっては動くに動けぬゆえ、先にこれを伝えておいた方がよかろう。」
重勝は順天丸の扱いの背後にある自身の思惑について、柘植には伝えておくことにした。
彼の内意を知っているのは熊谷実長・鷹見修理亮・伊庭貞説などで、熊野の鳥居忠吉には情報漏洩の心配からまだ伝えられていない。
「心して伺いまする」と言って、柘植は姿勢を正した。
「うむ、そは当家の先々のことなり。
こたび今川が上洛したは公方様(足利義晴)にとって一層の誉となり、そのお足元は確かなものとなろう。もし長らく揺れ動きたる幕府が再び天下の信望を集め、今川がその柱となるならば、当家はその下で立場を固めねばならぬ。
では、いかなる立場か。望むらくは三河守護職なれど、守護代がせいぜいか。いずれにせよ熊野も和泉も手放すこととなろう。
されど、熊野は別当として鳥居を立たせ、和泉は我が甥(鱸永重、在和泉国)を守護殿(細川九郎)に頼みて守護代にお取立ていただくよう動くつもりだ。あの管領殿(細川道永)は話の分かるお方ゆえ、銭さえ積めば、あるいは琉球のことでいくらか譲れば、どうにかなるであろう。
当家が幕府のもとで、かように家と勢威を保つには一つ問題がある。今川との間柄だ。そこで我が息・瑞宝丸、いや輝重が活きるのである。今川の名が天下に轟き道が定まれば、輝重が立つ。そこでその方らには、いざというときには――」
「みなまで仰せになられずとも、畏まり申した」と柘植は静かな声音で口をはさみ、主君の言葉を引き取った。
重勝が言おうとしたのは、今川に完全に従属するとなったときに、これに反対する者たちが必ず起こすだろう大小の謀反についてだった。
従属するのならば、今川にはなおさら付け入る隙を与えてはならない。家中や三河の国に介入される口実を決して与えてはならないのだ。
そのためにはどうするか。謀反の目を事前に摘み取るしかない。では、その謀反の目とは何を意味するのか。
主君の考えを察した柘植は、発せられた言葉が持ちうる霊力を恐れて重勝の言を遮ると、彼が述べたことや己が考えたことをもう一巡思い返したのち、一つ尋ねた。
「されど、いずれ天下が定まるとて、か細きそれがしの命のあるうちに『かくなる』とはとても思えませぬところ、このこと、せがれ(市助)に語り継ぎてもよろしくてありましょうか。」
「無論だ。市助にもそれがしの子らをよく助け支えるよう頼んでおいてほしい。」
主君の示した無条件の信頼を受け止めた柘植は、言葉なく深く頭を下げた。
それを見つめる重勝は、感情をなくしたような平坦な口調でさらに続けた。
「しかして、世も乱れ、天下が幕府や今川の手に余るならば、そのときはいよいよ当家も目指すべきところを定めねばならず、そこに至るまではいかなる悪事に手を染めようとも歩みを止めぬだろう。
きっとそこかしこから責めたれてられ、左様、あたかも越後の長尾殿(為景)がごとく苦しむことになるであろう。それは当然望ましくなく、速やかに事を成し遂げ、内外の邪魔だてを防がねばならぬ。そのためにこそ順天丸が活きるのである。
かの者をそれがしから遠ざけ、一連の物事に関わらぬように仕向ける。そして、あれが立つときには、それがしが仕出かした恥を雪ぎ、何にも縛られぬ新たなる家を立ち上げるようにするのだ。」
柘植は今度は主君の言葉を遮ることなく黙って聞いていた。
淡々とありうる未来を述べる重勝には、有無を言わさぬ気迫のようなものがあった。
重勝の口から出てきた2つの未来は、言霊とでもいうのか、その通りになると余人に思わせるだけの何かがあった。信心深い柘植はそれを感じ取ったのだった。
どれくらいの沈黙があっただろうか。柘植は、喉の皮が引っ付いたような不快な感じがするのを、唾を飲み下して何とか抑え込んだ。
「……では、殿はいずれにしても、さほど遠くない将来に、……御身を引かれるおつもりなのですな」柘植は慎重に言葉を選んで問いかけた。
「左様。とはいえ、すぐということはない。幕府と今川の動きを見るべく、あちこちにちょっかいをかけてみるつもりだ。動きが鈍ければ、あるいは、そのまま外地を得られそうならば、それもまたよし。熊谷らと内々に相談したところ『どのみちさらに力をつけておく方が先々有利に運ぼう』という声が多かったゆえな。
とはいえ、そういう小汚い真似はそれがしまで。次の当主は堂々たる三河の守護・守護代として、あるいは東海の大大名として、うまくやってくれるであろう。
そのためにも、おぬしらにはあれやこれやと、各地の噂を集め当家から噂を流し、人の縁を繋ぎ物を運んでほしいのだ。これから、ずっと。」
重勝は吹っ切れたようにそう言った。
一方の柘植は息苦しさで押しつぶされそうだった。
◇
こうして伊賀を拠点に陸路で近江幕府の様子を探っていた鈴木家であったが、近江幕府軍の壊滅と管領・細川道永の死去という突然の知らせは、堺から海路で先にやってくることになる。
堺公方を支える三好の手の者とともに。
「一大事!一大事!」
興奮した様子の宇津忠俊が、父・忠茂を引きずるようにして主君のもとを目指していた。
重勝は三好方の使者・野口肥前守を引見して三好元長からの書状を受け取り、事態の急変を知った。それについて重臣と話し合うために、近場の主だった者を招集したのだ。
野口肥前守は淡路島の豪族で三好家に従っているが、瀬戸内の航行をめぐって鈴木家とやり取りをしたこともあって知らぬ仲ではなく、それがゆえに使者に選ばれていた。
「父上、よもや管領様がかようなことになるとは思いませなんだな!」
「これ、耳目を気にせよ!」宇津忠茂は、道中にもかかわらずに気が逸って迂闊なことを口にした忠俊に小声で注意し、そのまま耳元に口を寄せて続けた。
「ここで三好からの使者となれば、いよいよやもしれぬ。」
「まずは殿のお心の内を聞きたきところにございまするな。」
「いかにもその通りである。」
宇津父子が部屋に入ると、そこにはすでに汗だくの伊庭貞説が着座していて、うちわで顔を扇いでいた。彼は挙母から岡崎まで馬で駆けてきたのだ。
他には新城で人事を司っている宿老・熊谷実長の名代で、その婿にして重勝の側掛を務める松平信長と、野口をもてなした取次で重勝の元小姓の設楽清広が同席していた。
「我らが最後でしたか」宇津忠茂が切り出す。
「いや、出羽(伊庭貞説)が早すぎるのだ」重勝がそう言うと、伊庭はふんと鼻息を吐き出した。
「さても、まずは三好の文であるが、三郎(設楽清広)よ。」
重勝は疲れた様子で設楽三郎に用件を説明するよう促した。
彼としては「近江方優勢と見た途端にこれか……」と情勢の急変に心が追いついておらず、「こんなことなら瑞宝丸を人質に出さなければよかった」と大きな後悔に囚われていた。
また、賄賂で縁を繋いでいた管領・細川道永が退場したのも、近江幕府内での自家の発言力を著しく損ねることになるため痛手であり、先々を思って疲れを感じていたのだ。
「はい、野口殿から聞いた事柄も合わせますれば、要するに『一気に堺の公方様を上洛させ将軍宣下を賜るべく、援軍を出してくれ』という話にございまする。」
設楽の発言を聞いて、重勝は黙ったまま、伊庭は再びふんと鼻を鳴らし、松平信長はちらっと宇津父子の方を見て、その父子は食い入るように主君を見つめていた。
「ここは尾張でございましょう」沈黙に耐えきれなくなって宇津忠俊は口を開いた。
その発言はいくぶん唐突だったが、信長はうんうんと頷き、
「ずいほ、あ、いや、勝太郎様が駿府におわす今は、表立って近江に楯突くわけにはまいりますまい」と、堺公方の味方をするのを避けるよう進言した。
あとは伊庭次第だが、彼は重勝の意見を尊重するつもりなのか、意見を言う気配がない。
一座がなんとはなしに緊張した感じなのは、彼らの背後に派閥の問題があるからだった。
鈴木家中は東三河衆・西三河衆・外様衆に分かれている。
東三河衆は鳥居・鷹見・熊谷を筆頭とし、概して現状に満足している。この場では設楽がこの派閥である。
外様衆は伊庭や倉を任されている美濃出身の大畑定近らを筆頭とする一派で、三河に地盤がなく、主君・重勝の恩顧で己の立場を保っているため、忠実である。
そして、西三河衆は西三河の鈴木家のほか、酒井や青山など旧松平系の家々が名を連ねており、宇津はこの一派に属する。
重勝の人事は順当で平等であるから、ほとんどの者は不満を持っていないが、何がどうあっても不満を抱く者たちはいる。特に臣従する三河国人が急に増え、外様衆の柘植党が一気に昇進したあたりで、燻っていた不満の声が集まり、いよいよ派閥としての姿を見せるようになってきていた。
彼らの文句は結局のところ、「禄をもっと寄こせ、そのための武働きの機会を寄こせ」ということに尽きた。
ここで微妙な立場なのは、松平信長である。
彼の舅・熊谷実長は東三河衆の宿老であるが、新参者の人事振り分けを担当した結果、三河国人の親分のような立ち位置になっていた。
その婿で松平の血を引く信長は、彼の父世代が宇利城で熊谷家と死闘を繰り広げた武勲譚もあって、東側に顔の利く西側派閥の若頭のような扱いになっていた。
鈴木家中で有力な松平家としては、もう一つ、重勝の妻・久の前夫の一族である大給家がある。
しかし、その長老・松平乗元は露骨に重勝におもねる姿勢を見せてきたため、西三河勢から信用を得られていなかった。
そのため、信長は西三河の利害の代弁者となることを期待されつつあったのである。
主君の様子を伺いながら宇津忠茂が発言する。
「我らがご主君はこれまで尾張攻めの下ごしらえに全く余念がございませなんだ。きっと、こうして好機が来るを待っておられたのでございましょう。」
重勝は家中の好戦的な者たちを宥めるために長らく尾張攻めの姿勢を見せ、実際に準備をしてきた。
本人はのらりくらり戦を先延ばしにしているだけだったが、家臣たちからすれば主君が準備を整えながら虎視眈々と尾張を狙っているようにしか見えなかったのだ。
「今川の当主は近江にあり、当家は陸でも海でもその背後を絶ってこれを駿河から切り離しておりまする。いわば上洛軍は人質のようなもの。今こそ邪魔だてなしに存分に動くことができまする」と宇津は続けた。
宇津は宇津で、僚友の青山家は次代が幼く、酒井家は当主の弟で鷹見の下で奉行を務めている忠尚がすっかり東三河衆に取り込まれてしまったため、国衆から「自分たちの旗頭になってくれないか」と期待を集めていた。
宇津党は親族衆が豊かなことから使番など軍事の中枢を任されており、九里浄椿が死んで調整力が落ちた伊庭党よりも、今や武働きを主とする家々をまとめるようになっていた。
宇津父子自身は派閥の利害に惑わされてはいないが、重勝の微妙な心の動きに配慮するよりも鈴木家の勢力拡大を第一に動いており、それは結局、戦功を求める国衆の望みに沿うものであった。
重勝がうんともすんとも言わないので、宇津父子は話しぶりを変えてさらに発言する。
「なるほど、ここで三好に力を貸して新たな公方様をお迎えし、その功を以て三河守護職を賜るもよいでしょう。されど、そうなっては近江方の今川と開戦するは必定。上方で近江方とやり合ったのちに、今度は遠駿甲とやり合うは、誰が見ても無謀というもの。」
「いかにも、父の言はもっともにございまする。ゆえに、ここは尾張を切り取りて、近江方につこうが堺方につこうが、いずれにしても足元を盤石に固めるが吉でしょう。
殿はそのために那古野今川家を手懐け、こたびご嫡男を駿府に置いて時を稼ぐよう取り計らわれなさった。いまさら何を迷うことがございましょう。」
那古野今川家云々というのは、尾張国高畑の住人・中野何某を間者として那古野城の今川竹王丸(故・氏親の庶子)のもとに送り込んだことを指している。
また、それだけでなく、重勝は織田信秀の沓掛侵入の際に清洲織田家と会談したが、その帰りに竹王丸を三河に招いて順天丸と引き合わせていた。
それ以来、竹王丸は同世代の相手と知り合うことができたのが嬉しかったのか、順天丸とときどき手紙のやり取りをする仲になっていた。
先だって、馬をねだった順天丸に重勝が仔馬を選んでやった際には、父のいない竹王丸にも元服の先祝いとして「一緒に狩りに行けるように」と仔馬を贈っていた。
それもあって順天丸の師のような立場にあった九里浄椿が亡くなった際には、那古野から供料が贈られた。
宇津父子はこうしたやり取りをすべて尾張攻めの下準備とみなしており、主君の念入りな様に大変感心していたところであった。
「殿はこれまで十分に手はずを整えてこられ申した」忠茂は主君の尽力を労い、
「ここは『やれ』と一言いただけますれば、あとは我らで万事うまく回しまする。その間に、どうぞ殿はお休みになられますよう」と重勝の近頃の不調を心配して締めくくった。
重勝に踏み出さないという選択肢はなかった。




