第9話 1515年「まめびと」◆
熊谷方から「お奉行」と呼ばれる甚三郎。その彼の作事を司る奉行は鷹見弥次郎である。
「溜池づくりもお手の物になってき申した。いよいよ水田のみとても100反は増えたのではなかろうか?まこと吉田奉行殿のおかげよ。」
弥次郎を手伝ってにこやかに言うのは熊谷直運。当主・実長の弟である。
直運は言われたことをしっかりやり遂げることのできる性質の人間で、地道に土地を開墾していくのに向いていた。
溜池を増やしたことで、夏場の渇水や雨量過多による洪水の危険性も下がるため、農民は進んで作業を手伝った。
こうして領地経営が安定してきたことで、甚三郎は母・お秋を呼び寄せた。
鳥居源右衛門は平七・平八を従えて、地形の把握や武具の調達に余念がなかった。
そして、源七郎は浜嶋を使って商いを推し進め、銭勘定に詳しくなっていった。
◇
柿本城の評定。
そこでは上も下もなく様々なことが話し合われたが、そのほとんどは作事や商いのことであり、時には村人の諍いや婚姻のことも話題になった。
「──かくして、密かに集めており申した槍に腹巻、『いざ』というときに呼び集める予定の民らによく行き渡りてござる。」
「したりしたり。まこと源右衛門の忠実人なるかな。」
軍備担当の鳥居源右衛門が「やりとげた」という顔で報告し、甚三郎は彼のまじめさを喜んだ。
鈴木家では、長らく農産物の増産に務める傍ら、それを元手に武具や矢束を集めていた。これは来るべき戦に備えてのことである。
村から農民兵を集めようにも、彼らが持っている武装は貧弱だったり、そもそも持っていなかったりで、まともな兵を選出すると動員兵力が少なすぎた。そのため、彼らに十分な装備を貸し与える必要があった。
ついでに、増産した食糧も分け与えて兵士の健康を改善することもでき、彼らはそのことに感謝してくれたため、忠実で有力な兵が集められそうだった。
この準備が大変だったのは、武具を買うという露骨な戦支度を周囲に警戒されないよう気を付けねばならなかったからだ。特に甚三郎はそのことを口を酸っぱくして注意していた。
源右衛門は食糧の取引に偽装したり、時間をかけて目立たない程度の頻度で買い付けたり、苦心して仕事を成し遂げたため、誇らしげな様子だったのだ。
続けて農事に関して鷹見弥次郎が報告した。
「──とのことでござった。『刈敷』や『草木灰』にて肥やしやりて、冬に麦を作り、春に米やら粟やらを作らせたところ、ずいぶんと収むる量は増え申した。
山の麓や谷では蕎麦を春夏に作付けしており申すし、水田や溜池で増やした魚に平七・平八らが狩ってくる肉と、食い物にはゆとりが出てきて、村人も随分と健やかにやっており申す。」
「なにより、なにより。」
弥次郎の報告に満面の笑みで甚三郎は答えた。
刈敷はその名のごとく草木を刈って田畑に敷き込む施肥の方法であり、草木灰もその名の通り草木を焼いた灰で肥料になる。
特に草木灰は、吉田鈴木家では材木をいぶして乾燥させているため、常に生産され続けており、それをまくだけで地力が弱まるのを遅らせることができるのであれば、やらない手はなかった。
「ただ、農民どもの間にては『喜ばしけれど忙しなし』との声もあるようにて。また、材木は売りすぎたからか、値が下がってきておるようにござり申す。」
「農民どもには、たらふく食うには仕方なしと言い聞かせるほかなかろう。材木は薪や木炭にするがよかろう。あるいは、老人や女人に木椀の作り方を学ばせるもよいか。それに加えて木綿を増やそう。糸を紡ぐのは彼らにもよいゆえな。木綿となれば地が荒れるゆえ、さらに肥やしもいるだろうな。ああ、さりさり、魚のカスを煮詰めるか干すかするがよいはずよ。あとは──」
「殿、まあ、そのあたりにてとどめたまえ。さても木炭と綿はようございますな。炭焼きは出来る者を近場で募りてみましょう。綿は三河では出回っておりますゆえ、そう難しくはないでしょう。」
弥次郎は苦笑しながらとめどなくしゃべろうとする甚三郎を抑え、なぜか同席している浜嶋新太郎に「手配を頼む」とばかりに目配せをし、それを受けて新太郎はひょいと頭を下げた。
弥次郎は農事に必要な諸々を調達する上で、新太郎とも付き合いが深くなっていた。
「うむ、頼んだ。ではこんなところか──」
「あいや殿、よろしいですかな?」
鳥居源七郎が突然このように切り出した。
その雰囲気はこれまでとは違って硬いように見えたため、甚三郎は少し姿勢を正した。
「田畑も開け、紙と材木で商いの種はあり、川舟も自前で抱えるようになり申した。かくなる上は、いよいよ熊谷様とのお約束を果たす時がきたのではありますまいか?」
約束とは菅沼氏との対決のことだった。
吉田鈴木勢が長篠を抑え、足助鈴木勢が田峯を抑えている隙に、熊谷勢で野田の菅沼氏を吞み込むのである。
「ううむ、確かに時期はよいようだ。我らだけでも根こそぎ集めて30、40の兵を出せるだろう。長篠を引き付けておくだけでよければ、田峯が援けに駆け付けるまでの短き間は抗しうる。」
「さにあらばすぐにも策を練り申さん!」
軍備を担当する源右衛門が身を乗り出してきたが、甚三郎は「まあまあ」と宥めて続けた。
「まあ待て、源右衛門。その前に、それがしは今川様にご挨拶をしておいた方がよいのではと考えておる。」
「今川様ですか。」
源七郎が意外そうに尋ねた。
「左様。菅沼は今川様に仮にも服しておる。これを叩いてはご不興をこうむりかねぬ。それゆえ、先にご機嫌を伺ってこちらの大義をそれとなく流しておくのだ。」
「それとなくでござり申すか。」
「うむ。まあそのあたりは、それがしと新太郎!おぬしとでうまいこと段取りを整えようぞ。」
「へっ!あっしでございまするか!」
「そうだ。源七郎は駿府に同道してもらうことになるゆえ、戦の準備はこのまま源右衛門に任すこととする。」
【史実】100反の水田からは、等級が「上田」だと150石の米ができると計算されます。後北条氏の米価だと150石のお米は125貫文になります。税率4割なら、100反の上田が増えたら50貫文の増益です。
本作の鈴木家では、田畑の等級や作柄別の換金額の計算が面倒なので十把一絡げに一律100反=100石=50貫文、そこから25貫文を徴収、所領規模は石高制での4石を1貫文と計算しています。