第100話 1531年「面影」◆
話は少し遡る。
甲斐国を併合した後、幕府と朝廷から内々に上洛の要請を受けた今川家であるが、長期の軍事行動、降伏した敵国の慰撫、不安定な家中と懸念材料が山盛りで、上洛軍の派遣は容易なことではなかった。
とはいえ、武田家を降した直後に上方の意向で上洛するとなれば、今川家の甲斐国支配の正当性が天下に広く知れ渡ることになるため、駿府の重臣団の中で上洛はすでに確定事項だった。
ただ、時期が難しいということと、誰が上洛軍に参加するかということのみが問題だった。
九英承菊(後の太原雪斎)が元気であれば、きっと上洛時期の先送り工作を行っただろうが、残念ながら彼は体調不良でそれどころではなかった。
上洛軍の構成については、甲斐攻めで一度も総大将として出馬しなかった当主・今川氏輝が参加するのは最初から決まっていた。甲斐の支配を任される異母弟との格の違いを見せつけねばならないからだ。
病弱な息子を心配する母・寿桂尼も久々の帰京ということで同行する気満々であったし、彼らを守って氏輝の側近団は軒並み従軍することになるだろう。
そうすると、反抗的な国人が少なくない遠江、今川の一族が置かれた旧敵国の甲斐、得体のしれない三河に囲まれる駿河は、当主もなし、いくらかの頼れる武将もなしで、上洛軍が帰還するまでの期間を何とか無事に乗り切らねばならないことになる。
「今こそ人質を取るしかあるまい。三河のみならず、遠江と甲斐の国衆からも広く求めるべきであろう。」
氏輝の近臣団筆頭・瀬名陸奥守の言に反対する者はいなかった。
◇
胡坐で座る鷹見修理亮の視線の先では、深刻な顔でいかにも悩んでいるという風な主君・鈴木重勝が部屋の中をうろうろと歩き回っていた。
重勝は先ごろ長男の瑞宝丸と話をしてきたということだが、戻ってきた直後はひどく沈痛な面持ちで、声をかけるのもはばかられるほどであった。
「落ち着かれましたかな?」
「うむ、幾分かは。」
「ご嫡男殿は西郷(孫三郎正勝)らに見守らせておりまするが、お部屋に籠って書き物をなさっておられるそうで。」
「そうか……。」
重勝はようやく鷹見の対面に座った。
「……瑞宝丸はな、母似なのだ。」
「お目のあたりは確かに面影がございますな。」
「いや、目だけではない。耳の形と、声もそうだ。大人になって変わってしまえばまた違うのであろうが。」
鷹見は重勝がしゃべるのに任せて黙って聞いていた。
鷹見は彼が亡き先妻つねの子供たちを別格にかわいがっているのを知っている。
後妻の松平久との間に生まれた竹千代やその異父兄・源次郎、重勝自身の異父弟で養子になった興津紅葉丸に対しても重勝本人は平等に接しているつもりのようだ。
しかし、鷹見は「久がそのあたりを少し気にしている」と奥女中から相談を受けていた。
「あれはつねから『父の心をよく量り、これを支え、母の代わりとなれ』と言われておったそうな。どうりで物分かりの良いはずよ。父母そろって己が子に幼くあるを許さぬとは、因果なものだ。」
鷹見は重勝が何を考えているのかいまいちわからなかったが、おそらく子供が子供でいられる時間を与えてやれなかったことを悔いているのだろうと思った。
実際、重勝は瑞宝丸を早くから政務の場に連れていったり、庭野の学僧たちに預けてなかなかに高度な学問を身に着けさせようとしたり、次男の順天丸が子供らしく野山を駆け回っていたのに比べると扱いがだいぶ違っていた。
本人が外で遊ぶのを好まなかったとか、時々腹を下すなど体が丈夫でなかった瑞宝丸を心配してそばに置いておきたかったとか、重勝にもいろいろ思うところがあるのだろう。
しかし結局、瑞宝丸は父と亡き母からの期待を一身に受け、無邪気な子供でいられる時間はほとんどなかった。
そして今や、人質の話が来ている。
鷹見は宿老の熊谷実長とともに、すでに前回の人質騒動の後、内々に瑞宝丸を人質に出すことになった場合の準備をするよう命じられていた。
重勝はいまだに誰を人質に出すかは言明していなかったが、今回の息子との対話はそういう話だったのだろう。
「そもそもなぜ己はかような危うい橋を渡っておるのか。松平を滅ぼし、織田を西尾張に追い込んで、すでに鈴木家を滅しうる二家に対抗できておるのではないか?このまま大人しくしておれば、あれに苦労を掛けずとも、ほどほどに幸せな暮らしができるのではないか。」
鷹見は重勝の夢見の話を聞いていないため、松平と織田に対する彼の敵意の理由を今初めて知ることとなった。それだけでもちょっとした驚きであったが、その後のひどく投げやりに聞こえる彼の自問に思わず口を開いた。
「大人しくしておっても、そうとは限りませぬぞ。」
すると重勝は、そこに鷹見がいることに今初めて気が付いたように驚いた表情で視線を合わせ、一拍あけて「そうだな」とこぼした。
鈴木家はたとえ何もしなくても警戒されるほど大きな存在になっている。そんなことは重勝もわかっていたが、精神的な疲労の蓄積から将来への不安がどんどん大きくなり、弱気が首をもたげてきていた。
この規模の勢力で下剋上の嵐を無事に抜けきるには、自分が天下人になるか、いち早く天下人になる人物を見極めてその支えとなる他ない。
すでに織田信長と徳川家康の天下取りは他ならぬ重勝自身によって邪魔されてしまった。重勝には現状では次の天下人候補が思い浮かばない。六角定頼か、今川氏輝か、はたまた自分か。ピンとこない。
三者のいずれが立つにしろ、織田を封じ込めるのは絶対。その後には、いずれにも目はあるように思われた。今川の天下、そのような未来も無視できない中では、今回の人質は断れない。いやむしろ将来の選択肢を複数残すのであれば、必須ともいえる。
それでも、我が子を一番大事にしたい。なんとかならないものか。
堂々巡りの悩みに囚われた重勝は嫌というほどに何度も思い返していた瑞宝丸とのやり取りを、そうしたくなくとも再び思い出してしまっていた。
◇
「まったく、甲斐を獲ったからといって一気に強気になりよって。結局、まともに礼をよこしたのは信濃勢だけではないか。福島は甲斐が落ち着いたら礼を送るとは言うものの、どうだか。」
思えば二人でちゃんと話すのは近頃はほとんどなかったかもしれない。いとし子を前にしながらも重勝は「何を話したものか」と迷って、結局、今川家に対する愚痴をこぼしてしまった。
甲斐攻めに協力した対価がかなり渋かったのだ。しかし、そのような発言の裏には、今回の人質供出の要請に対する不満があるのはもちろんだった。
「福島殿と仲を深めるは大事と思いますれば、いくらかでも礼物を受け取りましたら、父上のことですから『今川ご本家と違って太腹』とでも噂を流すのでございましょう。」
賢しらに言う息子に苦笑しながら、重勝は囲炉裏で焼いた塩煎餅を手渡した。
「どうやら我が息は頼もしく育ったようだ。もう(数え年で)13か、それがしは12で元服したゆえ、吾子もそろそろだな。」
「……烏帽子親のお話でしょうか。」
息子は父が何か言いにくそうにしているのを悟って、自分から話を切り出した。
烏帽子親は主君があれば主君に頼むことが多いから、父子で思い浮かべているのは今川氏輝のことである。今川の愚痴から己の元服とくれば、父の内心は息子にはわかりやすかった。
「まあ、それもそうだな。吾子の加冠の儀は駿府で行われるだろう……。」
父の歯に物が挟まったような物言いに、息子は今川との間で何かまた厄介ごとが生じたことを理解した。息子は父が切り出すのを静かに待った。やがて重勝は意を決して嫡男に告げる。
「……そなたはそのまま駿府にとどまることになる。それがどういうことかは……わかるか?」
「はい。三河国主の……長男として一分の隙も見せぬようにいたしまする」瑞宝丸は途中不自然な間を開けて答えた。そして、少し考えてからさらに言葉を続ける。
「また、父上におかれましては、なにとぞ順天丸にひときわ目をおかけくださいますよう。そうであれば、それがしも心安らかに駿府に向かうことができまする。」
それを聞いた重勝は大いに驚いた様子で、本当にそれでいいのかと伺うような視線で息子を見返した。瑞宝丸は背筋を伸ばしたまま身じろぎ一つせず、重勝はかいてもいない汗をぬぐった。
「……そうか。本当に」重勝はなんとかそこまで言ったが、急に胸にこみあげてきたものがあって続く言葉を失った。
そして、こぶしを強く握って、「頼もしいことだ」と力強く言った。
こうしてこのとき、父子の間で家督継承者の交代について合意がなされたのであった。
◇
父と別れて部屋に籠った瑞宝丸は、部屋の外から声をかけてくる父の祐筆・西郷孫三郎の問いかけを無視して、文机に向かっていた。父のものを真似て作らせた背の高い机と椅子である。
「順天丸……。」
瑞宝丸は弟のことを思い浮かべながらつぶやく。
「これでいいのだ。いや、これしかない。」
父との会話で瑞宝丸は己を指して「嫡男」と言わないことで家督相続の辞退を告げたつもりだったが、その後の父の狼狽を見るに、正しく伝わったようだった。
人質に出るという話を超えて家督相続の放棄を打ち出したのは瑞宝丸からだったが、それを案外父があっさり受け入れたのを見るに、父もそこまで考えていたのかもしれない。
鈴木家は今後さらに拡大する方向に進むだろうから、どうしても今川家と対立する。ということは、人質として主家にずっと大切にされるわけもなく、やがては命の危機を迎えることになる。
瑞宝丸としても、己が家督を継ぐつもりではあったから、このことに納得ができているかというと、まったくそんなことはなかった。
しかし、息子は父をよく見ていた。自家の置かれている状況もよく理解していたし、父が日ごろからどんな風に物事を考えるかもある程度はわかっていた。
母から「父を理解せよ」と言われて育った瑞宝丸は、父が出す答えもわかってしまっていた。わかってしまっているがゆえに、父の意に反した行動をとるという選択肢は彼にはなかった。
そして、それではこの家を導いていくには不足があるとも薄々感じていた。
「さてと、あの愚弟に一筆残しておいてやろうかな。」
父は順天丸と接している方が表情が豊かだった。
順天丸には紅葉丸も竹千代もなついていたし、年上のはずの源次郎も従者のように従っていた。
あいつは自分と違って走るのも早いし、馬も好きなようだ。山歩きも自分と違ってすぐに息が切れるようなこともない。薬師の厄介になることも少ないし、飯もたくさん食べる。
熊谷や鷹見の者など古参は決してそんなことはないが、新入りの中間や小者には主家の行く末を口さがなく話題にする者もいて、順天丸に期待する声もあると聞こえる。彼らは大名家に召し抱えられて気が大きくなっていて、何を勘違いしたのか世情や人物を論評するのである。
おそらく瑞宝丸の耳に届くくらいであるから、諸将もそういう話は聞いているだろう。瑞宝丸は口に出したことはないが、このような噂を内心で非常に気にしていた。
「瑞宝丸殿。」
手紙を書いていると、女性の声で呼びかけられた。
「母上ですか?」と瑞宝丸は尋ね、そうだと聞くと「孫三郎(西郷)め、知恵が回るようだ」とこぼして手元の手紙をくしゃくしゃに丸め、継母の久を招き入れた。
「お父上とお話ししてから二人とも様子がおかしいと皆不安のようです。大丈夫ですか?」
「それがしは大したことはありません、母上。それよりも、父上を見舞ってあげてください。」
「しかし……。」
瑞宝丸は表向き普通に継母と接していたが、実のところ、どういう距離で付き合えばいいのかがわからず内心では少し苦手意識があった。
順天丸はあまり気にしていないようだが、瑞宝丸は亡き母・つねと接した時間が長く、その分、言葉にできない割り切れなさが心にあったのだ。
「何か、お心のうちに留め置いて……、そのせいで苦しいというようなことはありませんか?こたびのことに限らず。瑞宝丸殿はしっかりしておいでですが、だからこそ心配です。」
久は久で聡い女性であるから、父子が互いによく通じていることもわかっているし、今回の状況もそれとなく知っているから、とてつもなく重大な決断をしたのだろうというのもわかっていた。
彼女は一族を重勝の謀略で滅ぼされた身であるから、彼が自分を大事にしてくれているとわかっていても、その心中に残酷な部分があるのをよく承知していた。
それと同時に彼が非情になり切れない性質であることもわかるようになっていたが、かえってそのような繊細な心の動きに対して、どのように接すればいいのか彼女も悩んでいるところだった。
その点この父子はよく似ていた。来年には数え30になる父に比べて、この子はまだ13である。何とか寄り添ってやりたい。久は心からそう思っていた。
「であれば、一つ。これは母上にしかできぬことと存じまする。」
「なんですか?」
「奥の者らや諸将の奥方らが、これから何があっても余計なことを口にせぬよう、よく引き締めておいていただきたい。先代の鳥居殿の騒動からしばらく経って、新入りも増え、気が緩んでいる者もおるようです。母上がこれらを押さえておけば、口さがない者たちに勝手を許すこともないでしょう。」
ここまで言って、瑞宝丸はふと口を突いて出てくる事柄がこんなことであることに自分で驚いていた。思ったよりも家督相続に関する噂が応えていたようだ。
なんだか愚痴を言ったような気持ちになって、瑞宝丸は少し取り繕って一言続ける。
「……こういうことは父上一人では手が回りませぬゆえ、なにとぞ。」
それを聞いた久は、瑞宝丸のあまりにもけなげな様子に心を打たれて、目に涙を浮かべてにじり寄り、これを抱きしめた。
「わかりました。安心なさい。あなたは一人ではありませんよ。」
瑞宝丸は顔を隠すように久の懐で丸くなった。
◇
夜、奥の部屋で重勝と久が二人きりになったときに、久はためらいがちに切り出した。
「瑞宝丸殿ですが、泣いておられました。」
「……。」
「もう少しお話ししてはいかがですか?」
「考え直せと言うのか?」重勝がとげとげしく言い返した。
「いえ、そうではありません」と久は焦って否定する。「そうではなく、お話をしたり、聞いたり。なんと申せばよいのでしょうか……。」
重勝はおもむろに布団から出ると、灯りをつけ、その下で手帳を広げて何やら確認し始めた。
困惑して久は彼の方を向いて顔をあげたが、角度が悪かったのか光の加減で重勝の顔がひどくいびつなように見え、恐ろしくて身震いした。
しかし、彼女は諦めずにさらに話を続けた。
「あの子はわらわにはなかなか心の内を話してくれません。お前様にならどうですか?先に話したときは家中の噂話を気にしているようでした。お前様ならもう少しなんとか……。」
「それがしから評定で注意してみるのはどうだろう。」
今は瑞宝丸と過ごす時間を増やしてはどうかというような話をしているため、重勝の返事はかみ合っていない。久は疑問に思ったが話を続けようと試みる。
「いえ、それはかえって余計な詮索を……。」
「ではどうすればよいというのだ!」
うつむきがちに話していた久は、夫の急な怒声に驚いて顔をあげると、手帳から顔をあげた重勝が鬼の形相のように見えて、それっきり口をつぐんでしまった。
このとき重勝は非常に情緒が乱れていて、家中で人質の話が噂になっていることを妻が非難しているかのような被害妄想にとりつかれてしまっていた。
家中でいろいろな噂がはびこっているのは重勝も知るところであったが、こういったものはなかなか対処が難しい。上から高圧的に注意したところで状況がよくなるものでもない。普段なら重勝もそれくらいはわかっているはずだが、どうにも思考力が鈍っているようだった。
そうした噂の中には松平の血を引く三男・竹千代が重勝の後継者になるのではないか、というようなものもあった。
関係が悪化している今川家の重臣・朝比奈の血を引き、しかも肝心の母を喪っていて後ろ盾もない瑞宝丸・順天丸よりも、久の一族・松平の支援を集められる竹千代の方がいいではないか、というのである。
久が全く口にしていないそんな噂話が聞こえたような気がして重勝は混乱した。もしや久は自分の子を後継ぎにしたいのではないか。彼は一瞬、全くでたらめな疑心暗鬼に囚われ、身内に裏切られたような強烈な苦しみに襲われた。
久が見たのはそれが顔に出てしまった瞬間だった。
重勝は己の醜い内心を取り繕うように意味のない言葉を口にする。
「すまない、しかし……。それがしにできることは、あまりないのだ。」
◇
やがて重勝は大評定で、今川が要求する人質として瑞宝丸と家臣たちの親族をいくらか送ると発表した。
こじれた両家が関係を修築するには、相応の人質の提出と相応の受け入れ態勢が求められた。
人質を出した後がどうなるのかまるで見通しが立っていないが、今の時点では嫡男を送るというのは一切後ろ指をさされえない完璧な対応であり、あとは今川の度量が試されるばかりだった。
諸将の反応は様々だったが、今後の予定について暗黙の了解が広く共有されていたから、今川への不満を表し人選の妥当性を評価する声ばかりであった。
そしてそれぞれ内心では、瑞宝丸が無事に帰ってくるのかどうか、あるいはこれを見限り早くから順天丸か竹千代のどちらかに近づくべきかどうか、と勝手に勘定するのだった。
一方で重勝は瑞宝丸の家督相続放棄の話は出さなかった。
それどころか瑞宝丸と九条家の娘との婚約を発表して諸将を驚かせた。今川家と紐づかない高貴な家柄の姫との婚約は、重勝が前々から熊谷と鷹見を使って秘密裏に準備させていたことだった。
この娘は九条稙通の娘で今年生まれたばかりだった。娘の母の身元は鈴木家には知らされていないので庶出だろう。財政的に困窮していた九条家は、この婚約ですでに得ている支援を継続してもらえるよう確約を求めたのだ。
瑞宝丸の身柄を大切にしてもらえるよう、重勝が用意できたのはこれくらいだった。
あとは、せいぜい盛大に行列を組んで駿府まで息子を送ってやることだ。
すると突然、広間に順天丸とその一党が飛び込んできた。
彼はまだ幼いがゆえに評定には出席させてもらっていなかった。
見張りの者たちは当然、順天丸を止めたが、彼は松平源次郎や興津紅葉丸など仲間を連れていた。この幼い戦士たちは彼らにとって主君の子供であるから、手荒なことはできずに突破を許してしまったのだ。
「九里のじじいも見殺しにして!次は兄者か!この人でなし!」
開口一番に順天丸が放ったのはとんでもない言葉だった。
九里云々というのは、順天丸が慕っていた九里浄椿入道が重勝・伊庭貞説と口論の末に急死したのを言っているようだ。彼自身がそう考えたというよりは、誰かが話していたのを聞いたのだろう。
瑞宝丸の話も、彼が人質となることは皆が推測していたから、そこから先をさらに想像した者が「兄上が駿府で害されれば、ご家督は順天丸殿のものですぞ」などと吹き込んだのだろう。
あちこちに出入りして駆け回っている順天丸の方が、こうした悪意ある――吹き込んだ者はいいことを教えてやったとでも思っているだろうから善意なのかもしれないが――噂に触れやすかった。
そして、瑞宝丸より分別の足りないこの次男坊は、父への不信感を増していたのだった。
「兄者が駿府に行けば――ぶべらっ」
場の空気が一瞬で凍り付いた中で順天丸がさらに声を発そうとしたところ、2人の人物がいち早く駆け付けこれを殴りつけた。
順天丸は吹き飛び、板間に頭から落ちて気絶した。
「いやはや、よい動きでしたぞ、瑞宝丸殿。」
鷹見修理亮が左こぶしを突き出した姿勢のまま、隣の小さい人影に話しかけた。
瑞宝丸は、諸将からの視線を一身に集めて元々緊張していたことと、火事場の馬鹿力で急に心肺機能を酷使したことで息切れが激しく、返事ができなかった。
「……その愚か者は岡崎に立ち入ることまかりならぬ。新城にて修理亮の預かりとする。」
重勝はそう厳しく告げると、鷹見と視線を交わして何事かを確認し合い、評定を解散させた。
しばらくして瑞宝丸はたいそう荘厳な行列を引き連れて駿府に赴き、かの地で今川氏輝を烏帽子親に元服。鈴木勝太郎輝重を名乗ることとなった。
今川重臣団は鈴木家の誠意を認め、上洛軍は三河を通って近江へと向かったのだった。
【史実】九条稙通の娘の生年・生母は不詳です。史実では和泉国を支配した三好長慶の弟・十河一存に嫁ぎます。作中では十河より20年少々早く和泉国の九条家財産を保護するパートナーとなった鈴木家に嫁ぐことになりました。




