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戦国の鈴木さん  作者: capellini
第7章 埋み火編「甲斐の虎」
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第98話 1531年「名跡」◆

 駿河国今川館の北、梶原山のふもとに瀬名氏の館がある。

 ここには、武田信虎正室の大井夫人、その子・太郎、夫人の六弟・大井常昭が幽閉されていた。それぞれ仏門に入って、瑞雲院、機山信玄、松月斎と称している。

 大井氏は先の甲駿大戦時に武田家に謀反し途中で今川方からも離反したため、全領没収、および、当主・大井信常とその弟で武藤氏の名跡を継いでいた信堯が切腹という処分となっていた。

 しかし、大井夫人(瑞雲院)と瀬名陸奥守氏貞の妹で戦中に討ち取られた大井信業正室の嘆願で、大井の名跡は信玄が元服した際に継ぐことになり、夫人の四弟・虎昌と五弟・虎成は大井を名乗ることを禁じられたうえで国外追放となっていた。


「ふたりとも無事に落ち延びたようで結構です。苗字は西郡(にしこおり)としたのですね。」

「はい、そのようで。特に監物殿(虎昌)は三河で甲斐や山伏との取次の御役目をまかされ、変わらず拙僧が往来いたしまするゆえ、夫人方々ともご縁が保たれましょう。」

「鈴木殿(重勝)の御心が広くて何よりでした。」


 瑞雲院と話すのは、鈴木家に仕えることになった大井氏本拠地西郡の熊野御師・一乗坊である。彼は龍爪山へ至る修験者の道を使ってこっそり大井氏と三河鈴木家の橋渡しをしていた。

 西郡監物虎昌は三河国へ、西郡式部少輔虎成は信濃国伊那へ落ち延び、それぞれ鈴木家と小笠原家に仕えることとなった。

 瑞雲院がほっとした様子なのは、自家がかつて鈴木家の重臣・鳥居氏の嫡男である忠宗に重傷を負わせたことがあったため、恨まれているのではないかと心配していたからだ。

 鈴木重勝は大井氏の残党を受け入れるにあたって、その話を忠宗の予後などとともに彼の父で紀伊国を差配している鳥居忠吉に伝えたが、父子そろって「あれは己(せがれ)の未熟ゆえ」ときっぱり言い切ったため、西郡虎昌はすんなり受け入れられたのだった。


「諏訪と縁続きの今井、北条と仲の良い小山田には、それぞれわらわの妹が嫁いでいますから、駿河・相模・郡内・北巨摩・諏訪・伊那・三河を当家の縁者がつなぐことができます。この縁でどうにか太郎、いえもう信玄でしたね、あの子の将来が開けるとよいのですが。」


 瑞雲院が嘆息交じりで言った。彼女の気がかりは何より太郎(信玄)のことであった。

 彼女は、夫・信虎が今川家との和睦交渉中に太郎を人質に出して次郎に家督を与えようとしたと伝え聞き、太郎を憐れんで「なんとか守ってやらねば」と気を張っていた。


 太郎はもともと慎重な質で、時に心配性と思われるような様子も見せたため、豪快な父・信虎の目から見て自分の後継者にふさわしいか疑問があった。

 一方、弟の次郎は父の言に素直で、まだ数え6歳にもかかわらず口も回り人々に愛されていた。そのため信虎は次郎をかわいがり、人質として駿府に移送される際にも次郎だけを伴っていた。

 しかし、太郎がそのような気質となったのは、自らの跡を継ぐべき者に向けた父の厳しい視線にさらされ続け、時に理不尽に叱られることもあったからである。

 母・瑞雲院からすれば、太郎は大いに優れた子であり、そのような扱いを受けるのは、ただただ不憫であった。

 瀬名郷に移る前に、太郎は「自分を置いて父が次郎と駿府へ移った」と聞くと号泣した。これを抱きしめる瑞雲院は、太郎は不遇でも父を愛していたのだと思うと胸が苦しくて仕方なかった。

 今や母子は深い絆で結ばれ、子は母のために、母は子のために常に心を配っている。


「甲斐に戻るに限らぬならば、ご先祖方々も各地に移り住んでおられまするところ、信玄殿も所を変えて然るべきお立場で迎え入れられることもありましょう。」

「……武田も大井も甲斐源氏の名門、父母からその両方の血を引き、さらにはその嫡流であるあの子に相応しき立場とは、いったい何なのでしょう。」

「いや、それは……。」


 瑞雲院の責めるような視線に一乗坊は返す言葉もない。

 国主の嫡男にふさわしいのは将来の国主の地位である。それ以外では結局は没落を受け入れることを意味するのだから、一乗坊の発言はただの気休めに過ぎなかった。


「……今はともかく、確かな師をつけたいところです。どこかの名刹に送ってやりたいですが、この地を離れることはできません。ご縁のある岐秀元伯殿をお招きできれよいのですが、しかし我らはすべてを瀬名殿に頼る身。」

「……なるほど、その方の御扶持が必要と。」


 瑞雲院は暗に「岐秀元伯の食い扶持を何とか用意してくれ」と言っていた。

 一乗坊は、瑞雲院のすがるような視線と、それと相反する有無を言わせぬ気迫のようなものを同時に感じ取って居心地が悪そうだ。


 信玄には名将・板垣信方が傅役としてついていたが、この国人領主は大幅に所領を削られたとはいえ甲斐を離れることを望まず、また今川家も板垣を武田家嫡男のそばに置いておくことを許さなかったため、信玄はほとんど供もなしに駿河に移されていた。

 一方、「機山信玄」の法名を授けたのが岐秀元伯。瑞雲院が信玄の師として旧大井領に招こうとしていた尾張の僧である。しかし、戦が始まってそれどころではなくなり、今は文通するにとどまっていた。


「武の方も師が必要です。これは瀬名殿にお願いするしかないでしょうが、どうにかしたいところです。」

「……。」


 一乗坊は黙って頷いた。


 ◇


「ふん!西三河鈴木の娘をそれがしの養女として嫁に出すのでは不足があるとでも?こたび柘植の功を譲ったというのに?なんとも傲慢なことよ。」


 重勝は今川家からの手紙を畳みながら言った。

 甲斐攻めの前に今川家と約束した「通婚の形をとった人質提出」というのを律儀に守ろうとしたが、当の今川家が混乱していて拒否されたのだ。


 とはいえ、三河が結果的に熱心に援軍を出したような形になったことで、今川家中の対三河感情は改善していた。

 一つは、福島氏に親しい遠江の諸家が三河への敵意を弱めたのだ。

 もともと彼らは、自分たちの将来の取り分と思っていた三河が鈴木家のものになって、今川氏親がそれを追認してしまったことが不満だった。

 それが今や、甲斐とその先に拡大の余地を得て、三河のことがあまり気にならなくなったのだ。


 あとは、鈴木家は永正年間末期に氏親の命令で引馬攻めに参加していたが、大永年間に諸家で代替わりが進んで、若い世代にはそういう間柄をよく知らない者たちもいた。

 そのため、彼らは駿府の重臣団の敵意にあてられて不毛な疑心暗鬼に陥っていたが、この合同出兵を受けて「なんだ、ちゃんと軍役に応じるではないか」と安心したのだ。

 また、これまでは鈴木家が三河と熊野(牟婁郡)で一国一郡なのに対し、今川家は駿遠二か国と差がほとんどなかったが、いまや三か国。格差が広がり、心理的に余裕が生まれたのだ。


 そのため今回の婚姻拒否は、上洛の話や九英承菊(後の太原雪斎)が倒れるなどで今川家中枢が麻痺して「それどころではない!」というだけのことだったが、重勝には知る由もない。


「とはいえ、なにもせずではまたいらぬ騒動となろう。ひとまず設楽か宇津か西郷か、これらより長谷川に嫁を出すのでなんとか誤魔化せぬものか。」


 鈴木重勝はぶつぶつ独り言を言いながら、今川家に家臣間の通婚を提案する文を認めた。

 長谷川氏というのは当代を元長といい、駿河西部の小川湊を支配する豪族である。


「これでよし。それで、そちらは?」

「はっ!甲斐の宇津殿よりの文にございまする!」


 小姓の青山虎之助少年が手紙を差し出した。

 重勝は「待っていた!」とばかりに手紙を受け取って読み始める。

 彼は戦が終わった後も宇津忠俊を甲斐に残しておき、改易・領地替えになりそうな武田家臣・臣従国人たちの引き抜きを頼んでいたのだ。この手紙にはその結果が記されていた。


「元牢人の窪田備中守長義、上野原の加藤駿河守虎景、長坂左衛門虎房、武川の青木ら、津金の小尾周防守。武川衆の曽雌(そし)何某は甘利に付いて我らとも一戦交えた間柄だったか。小尾は今井の城を夜襲で獲った者だな。しかし、あとは知らぬ名ばかりだ……。」


 窪田は先ごろまでは小室坂と名乗っていた。武田家に召し抱えられた牢人で、今回の三河移住を機に元々の窪田の苗字に戻したそうだ。

 加藤は北条領となった上野原の者で、失領したという。

 長坂は栗原の一族で、勝者となった栗原信重は大事に持っていた曽根縄長の首と引き換えに長坂領を多く奪い取った。納得できなかった若い虎房は甲斐を去り、長坂氏の家督は従弟・清四郎勝繁に移り、勝繁は栗原の臣となった。

 小尾は津金佐竹氏の流れで、津金本家当主が戦死して改易も同然となり、さらに勝者側に名を連ねる今井氏から恨みを買っていて、甲斐を去るしかなかった。

 青木らというのは甲信国境に住む武川衆という集団に属する者たちで、諏訪・今井・飯富・今川によって所領を削られ、あぶれた者たちがまとまって三河に移ってくることになった。

 武川衆青木氏惣領の青木尾張守信定(信種)の次男・山寺甚左衛門信明、その傍系・柳沢弥太郎貞興、所領を大きく減じた板垣氏被官の曲淵若狭守吉高・勝左衛門吉景などである。加えて、甘利氏に従っていた曽雌対馬守定能も、甘利氏の勢力が削られたことで移住を決めた。


「宇津に直に話を聞いてみねばわからぬが、武田家臣は精強ということであるから、きっと優れた者たちが多かろう。そして、こちらは大井氏に扶持を用意できるか、か。大井信玄の師――」


 手紙を読む重勝は、どうにもやる気が出なくて寝転がっていたが、とりあえずはそこそこの人数を集められたことに満足した。

 しかし、2枚目の手紙を見るや否や飛び跳ねるようにして起きた。


「なに、信玄とな!?瀬名に移ったは確かに信虎の子であったが、であればこの者がかの信玄公ということか?されど、公は子供の時から信玄と名乗ったのか?別人ということはあるまいな。」


 重勝は再び寝転がって右に左にごろごろしながら考えたが埒が明かず、思考を放棄した。


「……わからん。どれほどの銭が入用かにもよるが、いずれにせよ、こういうときこそ助けておくべきであろう。縁を繋いでよく見張っておかねば。はぁ。」


 重勝は考えることが多すぎて疲れを覚えつつ、かといって何もしていないと不安で押しつぶされそうだった。しかし結局その後も何もできずにそのままぼんやりしていて、どれくらい時間が経ったのか、小姓の呼ぶ声で意識を取り戻した。


「殿!殿!」

「なんだ、どうした!?」重勝は驚いて起き上がり、着物の衿を直した。

「柘植殿(宗家)が!柘植殿が回復したそうにございまする!」

「え?」

「『え』ではございませぬ!柘植殿でございまする!かの方のもとへお出ましになられまするか!?」


 重勝は何を言われたのかがわからずに、しばらく動けなかった。


 ◇


「いやはや、こうしておぬしと再び話せることができてなによりである。神仏が『おぬしにはまだやることがあろう』とお告げなのだろうな。」


 隻腕の骸骨のような見た目の男を前にして、重勝はどぎまぎしていたが、口では当たり障りのないことを言っていた。

 それを聞いた柘植はいきなり突っ伏して泣き出し、重勝はさらに混乱を深める。


「そそ、それもすべて、ととと、殿の、おかげでございまするぅっ!」


 しゃくりあげ嗚咽交じりで要領を得ない柘植の言をまとめると「自分が回復したのは重勝が医師を手配しただけでなく、祈祷を絶えさせなかったからだと聞いている」ということだった。

 重勝は「そうだった、そうだった」とようやく理解が追いつき、柘植をなだめた。


「いや、それは当然のこと。おぬしはまことによく働いてくれた。今川の都合でおぬしの功は十分には称えられなんだが、この三河では万人がその勇ましき戦いぶりを知っておる。そのおぬしが生をこの世につなぎとめたは、まさしく神仏の思し召しであるな。」

「まま、まことにっ!」


 重勝は実のところ柘植は助からないと思っていたが、だからといって彼を死ぬに任せておくのはあまりに心なく、また、よく働いた者を惜しむのは誰からも好意的に思ってもらえることである。

 そこで、柘植が自家にとっていかに大事な存在で、自分たちの本来の功はたいそうなものだったということを特に今川家に対して示すべく、柘植の快癒のために岡崎で大々的に祈祷をさせていた。

 それだけでなく重勝は庭野学校の医者も送っていて、彼らは柘植の傷を焼いたり、膿袋を切開して傷を洗ったり、無理やり不味い薬湯を飲ませたりと、拷問にしか見えないような看病を続けた。

 柘植は意識朦朧のまま、今川と武田が和睦交渉を進めた何か月かを過ごし、峠を越すと今度は宗教的にはあまり好まれない獣肉を食わされ続けて滋養をつけ、ようやく生命の危機を脱したのだった。


「おぬしがこうして元気になったとなれば、褒美をたんと用意せねばな。」


 重勝は彼の子・柘植宗能を取り立てることはすでに決めていたが、本人も存命ということであれば、それにもまして禄を増すか顕職を与えるかしようと考え始めていた。


「殿、それはご無用にございまする。それがし、こたび神仏の類まれなる慈悲に感謝を示して、出家いたしたく思いまする。もとよりこの腕で、いったい何ができましょうや。

 それがしの代わりに、せがれをお引き立てくださいますれば本望にございまする。」


 肘から下がない左腕を持ち上げつつも、とはいえ柘植は残念そうではなく、むしろ前向きな様子で出家の意向を述べた。

 しかし、重勝は柘植に求めたいことがあった。そのため、出家は認めるとしても、仕事を引き受けてくれるよう頼んだ。


「出家は結構だが、おぬしはまだやることがあるぞ。神仏がおぬしをして生き返らせしめたは、ただ仏門に入って祈るためのみにあらず。

 それがしは、おぬしの夜討ち話を聞いて、その山歩きと夜襲の術に大変にたまげた。ぜひともこれを後輩に教え伝えてほしい。

 もちろん、このような術がおぬしや一族の秘技であろうことは承知しておるが、当家をおぬしの家と思うて人を鍛え育んでほしいのだ。」


 重勝はそう言って頭を下げた。

 柘植は主君の発言を神妙に聞きながら、頭を下げ返した。


「……なるほど、それがしがここで殿のために己の術を役立てるこそいかにも宿運でござったのでしょう。殿の御心はわかり申した。かような身となりても己の術を求められるというのは喜ぶべきことにて、先々を思えば楽しみなことにございまする。」


 かくして、柘植總左衛門宗家は入道して「喜楽」と名乗り、息子・市助宗能ともども、護衛・破壊工作・奇襲・情報収集などを目的とする特殊技能を持った将兵を育てる役目を与えられた。

 このような特殊な将兵とは、まさしく忍者である。

 柘植父子はひとまず300貫文の禄を割り当てられ重臣級の扱いを受け、「御用奉行」なる職を賜った。そして、郎党を増員するために、出身地の伊賀柘植から日置氏・北村氏・福地氏を招いた。

 また、重勝の護衛である阿寺衆、武田旧臣で山歩きに慣れた者らも配下に加え、柘植父子は一乗坊と西郡監物虎昌を両腕に、熊野御師の連絡網を束ねていくことになる。

 これは突然のことだったから家中には若干の混乱もあったが、柘植の功が大々的に宣伝されていたことや甲斐牢人の引き取り先と理解されたことのおかげで、大過なく事は進んだ。

 しかし、なぜ重勝はこうも柘植党の整備を急いだのか。

 それは、同じような任務をこなしていた伊庭党に弱体化の兆しがあったからだった。


 ◇


 重勝のもとに伊庭出羽守貞説から手紙が届いたのは突然のことだった。


「九里入道の様子がおかしい?伊庭と喧嘩をした?なんだそれは、聞いていないぞ。」


 伊庭の手紙には、九里入道と喧嘩をして、この老人がへそを曲げてしまったから執り成しを頼みたいとあった。


「入道も歳であるから大事にしてやらねばと思うが、伊庭がこんな手紙をよこすのはよほどのことと見える。どれ、それがし自ら挙母城に出向いて久々に二人の顔でも見るか。」


 挙母城で重勝を出迎えたのは、ぶすっとした顔の伊庭貞説と、いかにも老人という風体の九里浄椿である。

 重勝は内心で、「これほど痩せていただろうか」と思われるほど、九里が細くなっているのを見て驚いた。少し人相も変わっているような気がする。


「養子を」伊庭がぽそりとそう言うと、九里は噛みつくように言い返す。

「なりませぬぞ、なりませぬ!どこの馬の骨とも知らぬ者を、佐々木源氏の血筋にして元は近江守護代たる殿の後継ぎとするなど!そも、伊庭とは近江国神崎郡の地にて、かの地に移り住みたる――」


 九里の長い話をうんうんと重勝が聞き流しながらだんだんウトウトしてきたところ、伊庭が珍しく声を荒げて「うるさい!」と言った。

 九里はびくりと震えたものの、これまでもそういうことがあったのか、意に介さずに話すのをやめなかった。

 しかし、重勝はあまりに珍しいことで、びっくりしてすっかり目を覚まし、そして尋ねた。


「すまぬが、その、結局、誰を養子にとろうとしておるのか?」

「は――」伊庭が口を開きかけたが、九里の方が先に言葉を発した。

「服部とかいう伊賀の地侍にございまする!かの者、公方様に仕えておったなどと大ぼらを吹き散らかしよってからに――」


 重勝はそばにいた九里入道の後継者である九里采女正に手招きして話の大筋を聞き出した。


「要するに、出羽守(伊庭貞説)は後継ぎがいないから服部保長を養子にとろうとして、入道は家格が釣り合わないから嫌だと言っているわけか。」


 采女正は困った顔で頷いた。

 重勝は、先ごろ仕官してきた服部党を「忍者だ!」と喜んで、鈴木家の重要戦力である伊庭党と合体させようと挙母に送り込んだが、その後の甲斐のごたごたなどで放置していたことに思い至った。


「その服部というのは、入道が毛嫌いするほど出自のわからぬ者なのか?」重勝が采女正に問う。

「ただの農民ではないかと入道殿は思うておられるようにて」と采女正はほとんど口を動かさずに囁く。

「伊庭の親族は?」

「ほとんど残っておりませぬ。六角に成敗されておらねば伊庭の地に別流の者らがおりましょうが、入道殿がそこから養子をとって満足するかどうか……。」

「見知りでもない者をいきなり外から連れてきて、それに伊庭党を任せるというのは、それがしも不安があるなあ。それはそれとして、服部の器量はどうなのだ?」

「出羽守殿は見込んでおられまする。自ら指導すれば後を任すに足る者となろう、と。」

「そこまでであるか……。」


 重勝はそれを聞いて思案し、いがみ合う伊庭と九里を静止して言う。


「まず、出羽守の後継ぎにつきて、そなたらは近江守護代の家柄ゆえ何事も己で決めたいだろうと勝手に思うて話も聞いてこなんだは、それがしの手抜かり。かたじけない。

 それで、出羽守には近江に親族がおるやもとのことなれど、そこから養女をとって、相応しき者と娶わせ伊庭の名跡を継がせるのではだめか?出羽守が服部が相応しいと思うのならば服部でもよい。これでなんとか家格の話は片付かぬであろうか。」


 重勝の発言に九里はたいそう不満そうだが、この老人も長年の付き合いで重勝を主君と認めていたからあからさまに文句を口にすることはない。

 伊庭は仕事を引き継ぐ相手として服部を見込んでいるだけで、体裁にこだわりはなかった。


 かくして重勝は、近江に住む伊庭家の主君・六角定頼に連絡を取り、今川家の近江幕府救援のための上洛を全力で支援する代わりに、近江伊庭家の娘を三河伊庭家の養女にする許しを請うた。

 伊庭氏はかつて六角氏と争った仲であるから交渉は難航するかと思われたが、特にこじれることもなく話は進んだ。

 実はこのとき、六角家中は享禄元 (1528)年の浅井亮政との死闘の傷が癒えておらず、近江公方を支える軍事力に不安があったため、今川家の上洛をひそかにあてにしていた。そのため、近江と駿河の間に挟まる三河がへそを曲げて通せんぼをするようなことは避けたかったのだ。


 一方で入道は最後までごねた。近江伊庭氏から養女をとるのはいいが、その結婚相手は佐々木源氏の家から迎えたいと駄々をこねたのだ。

 しかし、貴い血筋の他家に紐づいた人物に伊庭党を委ねるのは、彼らが主に諜報や軍事を担う都合、機密の保持に差し障るとして重勝と貞説が難色を示したため、結局、実現しなかった。

 失意の九里浄椿は、やがて寝込んで死去した。70歳はとうに超えていたという。

 まさかそれほど急なことになるとは思っていなかった重勝と貞説は、気まずい思いを分かち合った。


 ◇


「これは何の行列か?」

「へえ、伊庭の姫様が三河に輿入れするだとかなんとかでござい。」


 脇に寄って行列を見送った農民に、とある若侍が声をかけた。


「ふうん、三河か。甲斐武田家が人を集めておると聞いて出立の支度をしていたが、なんともはや、かの家は今川に降ってしまったし、どうしようか。今川に仕官するか?」


 こうつぶやくのは愛智源助を名乗る若者、数えで16歳である。

 彼は伊庭村から東にしばらく行ったところにある鯰江の住人で、武者修行と仕官先を求めていた。

 伊庭村から三河へ向かう一行は八風街道を通って東へ向かったが、鯰江はその通り道にあった。

 少し思案していた源助だが、ともかく東に出ようと走って行列を追いかけ、護衛を買って出た。

 そのまま三河に至り、駿河を目指して東海道を進もうと考えたが、ちょっと一息のつもりで逗留した岡崎で素寒貧になり、護衛で縁のできた伊庭家に生活費のために仕官したのだった。

【史実】本作で三河に移った武田旧臣の中には、史実でも後に徳川家に仕えた家が多いです。何人かコメントを記しておきます。加藤虎景は信玄に兵法を指南したらしいです。長坂虎房は釣閑斎を号し、事績に不確かなところが多いようですが、武田勝頼の重臣です。柳沢弥太郎は直系ではありませんが江戸期の有名な側用人・柳沢吉保に繋がります。

【史実】愛智源助は三井氏の出で、史実では武田信虎に仕えて「虎」の字を賜りますが、近江に戻り藤堂家の養子に入って「高」の字を受け、藤堂虎高と名乗ります。次男に築城名人の藤堂高虎が出ます。

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― 新着の感想 ―
[一言] 九里のじいさん亡くなってしまったか...。主人公の子供達は為になる昔話を聞けたのだろうか
[良い点] とうとう甲斐が落ちましたか。 主人公のところにも少しずつ人材が集まっていますし、いろいろ画策しているようなのでどう物語が展開していくのか楽しみです。 [気になる点] 愛智源助の記述を読んで…
[気になる点] 戦後の捕虜もかなりの数になったかと思いますが、彼らの行く末もちょっと気になるところですね。 妙法寺記の小田井原戦記事にある「さる程に男女を生け捕りになされ候いて(中略)二貫、三貫、五貫…
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