第97話 1530-31年「福島助春」
武田信虎は甲府の躑躅ヶ崎館の詰め城(最後の砦)である要害山城に立てこもっている。
しかし、もはや武力で現状を覆すことはかなわず、和睦交渉が開始された。
武田家からは信虎の弟で僧籍の吸江英心、宿老・下曽根出羽守、小山田・北条と仲が良い工藤虎豊が交渉にあたり、信濃勢については跡部泰忠が交渉に当たった。
今川方では九英承菊、岡部久綱、今川に従属した穴山信風が交渉役となった。北条家からは江戸城代・遠山直景が、また、小山田信有も今川・北条に両属するような立場で交渉に加わった。
信虎は籠城中とはいえ、無視できない規模の軍事力を保っていたため交渉は難航した。
しかし、自腹で大兵力を動員している福島助春が困窮にあえいで、遅々として進まない交渉に業を煮やし、甲府の町を焼け野原にして身請け金目的で多くの住人を拉致した。
さらに、九英承菊が武田に臣従する諸家と個別に交渉を開始して、攫った農民の解放や家の存続、所領の一部安堵などの代わりに臣従を求め始め、それらを受けて事態は進展した。
家中を解体されては再起をはかることもできないため、こうなっては信虎も交渉を進めざるを得なかった。しかし、交渉するにしても馬鹿正直ではいけない。彼が目を付けたのは福島氏だった。
福島氏の困窮を見抜いた信虎は「早期和睦のため」と言って、子の太郎(後の信玄)を駿府に人質に出し、家督は次郎(後の信繁)に譲ってこの次郎と福島氏の娘を結婚させ、後見を福島氏に任せると持ち掛けたのだ。
信虎がこの提案を福島氏にした時点で、和睦交渉は今川対武田の構図から今川家内部の対立構図に切り替わった。
この信虎の案に従って、「甲斐の実権を福島氏に委ねるか否か」という論点で、遠江の大勢力・福島氏と瀬名・承菊ら氏輝側近団が対立したのである。
それを知った三河の鈴木重勝は、自ら諸勢力との交渉に乗り出した。
◇
「では、右馬頭殿(小笠原長高)は福与城と保科父子の身柄、安芸守殿(諏訪頼満)は高遠の旧領を取り分とし、捕縛した藤沢頼親は追放のうえ三河で引き取るということでよろしいか。」
「異議なし!」
鈴木重勝が話をまとめると、小笠原長高および諏訪家先代当主・頼満とその子・満隣は口々に賛意を述べて、連判状に署名した。
この連判状には伊那谷の天竜川以西・棚沢川以北・三峰川以南を小笠原領、それ以外の旧高遠領を諏訪領とし、両家から鈴木家に援軍の礼金として計150貫文を支払うという約束が書かれている。
三家の会合は、重勝の弟・鈴木重直の嫁に諏訪頼満の娘を迎えるために急いで行われた婚儀を口実にしたもので、東三河の鷹見新城で行われていた。
すでに重勝の娘と小笠原長高の嫡男は婚約しているが、今回さらに長高の娘を若神子城内で頓死した諏訪頼隆の遺児・頼重に嫁がせることも合意され、強固な婚姻同盟が結ばれることとなった。
伊那小笠原家と諏訪家は、長高の弟・長棟が当主となっている府中小笠原家や長棟の娘婿・村上義清ら信濃の北半分の勢力に対抗していくことになる。
今川が武田残党に目を光らせている間に、こうして信参(信濃と三河)は結束を強めていたのだ。
「さてもこれよりは、三家合力して今川・武田には甲信境あたりを諏訪殿の取り分に求むということで進めてまいろう。刑部殿(鈴木重勝)においては、なんとか今川家より援兵の見返りがあるよう願っておるし、我らもその後押しをせん。」
小笠原長高がそう言って会合の終了を告げた。
長高が言うように、三河鈴木家は今回の手伝い戦でなんだかんだと貢献していた。
動員兵数は延べ1400、うち200近い損害を出していた。しかも、上条河原の決戦では、鈴木家の柘植宗家の奇襲が戦局打開の一手となった。
せっかくなので、重勝は今川家との関係を扱うにあたって、これらを利用しようと思っていた。鈴木が対尾張戦を始めても、三河への何らかの懲罰的な行動に出るのを、今川諸将には少しでもためらってほしいのだ。
重勝は、まず、寿桂尼に仕えている自分の母・恵柿尼に連絡して駿府の様子を伺い、「尼御台様を悲しませるでないよ」と小言をもらうと、次に、半ば軟禁されていた対今川交渉役の神谷喜左衛門の身柄を取り戻し、いったん三河に呼び寄せてこれまでの働きをねぎらった。
「こでまでは文のやり取りも見張られており、碌な事柄をお伝えすることも能わず、ふがいなきことにてござり申した。まことにかたじけなく思いまする。」
「よいのだ、喜左衛門。これはどうにもならぬことであった。それよりも、いかがであろう、このまま三河に帰ってきては?」
重勝は鈴木家と今川家の微妙な関係から、神谷を常駐させておくのは危険と判断して、このように問いかけた。
今川の様子を探ったり速やかに意思の疎通をしたりするには不便になるが、どのみち自由に動けないならば引き上げるのも手である。
「……いえ、五郎(嫡男・神谷正利)も置いてきておりまするし、それがしは駿府に戻りまする。
代わりと申しては烏滸がましけれども、三男の助兵衛(神谷吉久)を三河で取り立てていただけませぬか?宗定(三河岡崎の北)に一族がおりますゆえ、この者らとまとめて扱っていただけますれば。」
重勝は神谷のその願いの意味するところを察して、「必ずそうしよう」と答えた。
「……して、喜左衛門。どうも今川家中はややこしいことになっておるそうだな。福島が欲を出して甲斐を欲しておるとか。いや、2年もあれだけの兵を動かしておったのだ。かの家は報われて然るべきではあるが。」
「いかにも、福島殿はいまだ恩賞の分配もないことに強くお怒りで、こと瀬名殿と承菊殿のご采配に不満があり、武田と勝手に折衝してしまったそうにございまする。
誰も武田の家をなくしてしまおうとは思うておりませなんだが、福島越前守の娘を武田の次なる当主の嫁にして越前守が後見人になるともなれば、『甲斐の差配を任せよ』と申すと同じことゆえ、不和が深まっておりまする。」
「ふむ」と重勝は思案し「福島は当家をどのように見ておるであろう?」と神谷に問いかける。
「福島殿には殿の義父殿(朝比奈俊永)の紹介でお会いしたことがございまする。その後、それがしが押し込められておる間も贈り物などいただき、世話になり申した。義父殿と近しいならば、当家のことをそう悪くは思うておらぬのでは?」神谷は福島家について話を進める。
「福島のお家は先代様(今川氏親)に室を出しておりますれば、権勢著しくてござる。
とはいえ、今川筆頭ご家老といえば、三浦家が代替わりした今や、掛川の朝比奈殿(泰能)にございましょう。かの方は瀬名殿らと仲が良く、同じ遠江の福島殿とは競い合う間柄。こたびの武田家に嫁を出そうというのも、家格を押し上げ朝比奈殿に並ぶ家臣筆頭の地位を求めたものかと。
当家は瀬名殿に嫌われておれば、福島家にとって『敵の敵は味方』ということになりましょう。」
その言に納得した重勝は、神谷に密書を持たせて駿府に送り、福島氏と接触を試みた。
◇
今川家中の論功行賞と同盟勢力への礼は、それらを土地で賄うならば分配すべき所領を武田家からどれだけ剥ぎ取るかにかかっているため、すべて武田との和睦次第である。
そしてその和睦交渉の方針は、今川家中で諸将、とりわけ福島氏に褒賞をどれくらい割り当てるかでいろいろと変わってくるため、これらの話は循環していて全然進まなかった。
いくつかは確定事柄もある。例えば、甲斐東部では岩殿山以東が北条領、小山田氏勢力圏の郡内に点在する武田領は小山田と今川で折半、裏切った大井氏新当主・信常の切腹と所領没収などだ。
しかし、長期の遠征で破産しかけている諸勢力は、合意が済んでいなくても、自分が占領した範囲にいる武田家臣で特に当主を失った者らを従えたり所領を没収したり、ということを始めていた。
それができるのは今川以外の独立勢力であり、今川に従属する家々は主家が物事を決めるまで勝手はできない。これではせっかくの取り分を逃してしまう!今川家中の諸将は焦っていた。
「大永年間より長年かけてようやく甲斐を勝ち取ったは、いったい誰のおかげと思うておるのやら。」
福島助春は、今川重臣団に対する文句を口にしながら鈴木重勝からの書状を読み終え、そこに書いてある通りに、台所の竈で焼いてしまうよう小者に言ってこれを手渡した。
この福島助春、重勝が生まれるより前から戦場を駆けてきた歴戦の勇将である。その長年の戦功は自他ともに認めるところであった。
これまでに蓄積した功も踏まえれば、今回の甲斐獲得で福島家には相応の報いがあって然るべきである。そういう思いは、確かに武田信虎が吹き込んだ毒かもしれないが、もともと助春をはじめとする福島一族が多かれ少なかれ抱いていたものだった。
「鈴木は福島の功が御屋形様に正しく認められるよう力添えしたいと申しておる。『柘植何某の夜討ちが福島家の命によるものであったと述べてもよい』とまで言ってきよった。」
「ほう、それはまた」と、助春の後継者である福島越前守が応じた。
「かの者は『柘植はひどい傷を負っており助からぬは必定。当人の死を理由に功までなかったことにされてはかなわぬゆえ、貴家の名とともに柘植の戦働きを末代までの誉として残したい』と書いてよこした。瀬名は三河嫌い。功を立てた当人が死んでおれば、その功をうやむやにするのもあり得る。」
「かの夜討ちは見事!信虎本陣まで討ち入ったはなかなかできぬことにござる。主君としてその名誉を埋もれさせまいというのは、あっぱれにござろう」と福島越前守が感心すると、助春は声を張ろうとして痰が絡んだのか、大きく咳払いをしてから彼を叱った。
「たわけっ!それだけで済むはずもなかろう、も少し深く考えよ!」
「ははっ、申し訳ございませぬ!」
「よいか、鈴木はな、瀬名と不仲ゆえ、当家に味方してくれと言うておるのだ。」
「おお、いかにもそのように思われまする。では戦にございまするな!」
「左様!」
福島氏は優れた戦闘集団ではあったが、全体的に少し短慮だったり視野が狭かったりするところがあった。
「しかしなあ、我らはこたびの戦で倉が空なれば、期待には応えられそうもない。それに、尼御台様(寿桂尼)も『短気はおこすな』『瀬名にも譲るよう伝える』とおっしゃっておる。」
「尼御台様でございまするか。かのお方は我らにもよくお心を配ってくれてござれば、それがしからもお力添えをお願いしてまいりましょう。」
「うむ、それがよかろう。鈴木には悪いが、こたびはともかく力添えを頼み、おぬしが次なる甲斐守護の岳父となったらば、そのときに便宜を図ってやるので我慢してもらうしかあるまい。」
◇
九英承菊は、禿頭の眉間に皺の痕が消えなくなって久しい。
今も頭が痛くてずっとしかめ面をしているが、顔と一緒に手にも力が入ってしまったようで、持っていた鈴木家からの文もくしゃくしゃである。
承菊は、1万を超える軍勢を食わせるために今川領内の兵糧をかき集めて延々と甲斐へ送り続けるという苦行を2年も続け、その途中には今川領内の山伏の掌握にも手を出した。
そして、ようやく甲斐武田氏を追い詰めたかと思えば、福島氏が無茶を言い出した。恩賞について落としどころを探そうと交渉を試みるも、彼らは微妙に話が通じない。
しかも、承菊は鈴木家を警戒して「甲斐攻め中に謀反するだろう」とまで主張したのに、どういうわけか彼らは甲斐攻めに積極的に協力してきてしまった。
その三河の将・柘植總左衛門なる者は武田信虎本陣に奇襲をしでかす始末である。
「柘植何某の夜討ちは福島の命だったというのはまことなのだろうか。」
「そうであればこたびの勝利は当家の武威をこの上なく高むるものなれど……。」
今川氏輝側近のひとり岡部親綱の独り言のような問いかけに、瀬名陸奥守氏貞がしかめ面の承菊の様子を窺うようにして小声で答えた。
近頃、今川家中では柘植の武田信虎本陣奇襲に関して、それが福島の命令によるものだったという噂が囁かれるようになっていた。
上条河原の戦いで今川家を勝利に導いたこの夜襲が福島氏の指示だったとすれば、今川家に属する諸将からすれば、よそ者に手柄を持っていかれるよりは嬉しい話であるから、真偽を置き去りにして「もしかしたら」という声が広く聞こえていたのだ。
しかし、承菊をはじめとする重臣団にとっては、福島に戦功が集まってしまうことになるため厄介な話だった。福島に与える恩賞を削ろうという方向で動いているからだ。
福島の手柄にならないように、鈴木家とは談合する必要があるかと思われた矢先、
「柘植の手柄を福島のものとするというのが御屋形様のお望みならば、受け入れるのもやむなしと思うものの、なにとぞ死にゆく柘植總左衛門の名誉は守られるようにお頼み申し候」
などという、しおらしい文が鈴木家から来てしまった。
九英承菊は悩む。
なるほど、鈴木からすれば、この噂は柘植の戦功を福島のものと偽るための地ならしに見えよう。
夜討ちを福島の手柄に含めるのが覆らないならば、その功は比類なきものとならざるをえまい。
福島が恩賞のためにこのような搦手を使ってくるとは。彼らの普段の振る舞いからは想像だにしていなかった。
いや、それは言い訳である。戦中・戦後の忙しさにかまけて手当てを怠ったのだ。これらは己の手抜かり。致し方ない。
承菊は己の落ち度と悔やんでいるが、実のところ、彼は家中に様々な対立を抱えながら諸勢力とのやり取りを一手に引き受けており、しかも手足として使えるのは実家の庵原氏・興津氏くらいしかない。
なんとか氏輝の側に人材を集めているものの、とてもではないが手が足りなかった。それに、氏輝の周囲を手の者で固めるほど、そこからあぶれた者たちとの隔意は深まってしまう。
そうした者たちの声は寿桂尼が拾い上げてくれているが、それに応えられるかというと難しい。
承菊は鈴木家からの文を握りしめながら、臓腑に直に重りを載せたかのような形容しがたい不快感を押しとどめるべく、心で般若心経を念じていた。
この英邁なる僧侶から放たれる冷気のような雰囲気に、今川中枢部の諸氏は自然と身が引き締まるような思いで、承菊が落ち着くのを待っている。
やがて承菊は静かな口調で言った。
「玄広恵探殿(今川良真)は還俗の上で信虎の娘をめとって武田の家督を継ぎ、これを三浦加賀入道が後見。福島の家は遠淡海(浜名湖)北における所領を召し上げ、替地として甲斐の曽根を加増して与えるものとする。方々、いかがにございましょう。」
玄広恵探は今川氏親と福島氏の側室の間にできた子で、当主・氏輝の次弟にあたる。
この者を信虎の婿養子とすることで甲斐支配の正当性を得て、なおかつ武田家に福島氏の血を混ぜて、福島氏の要求にも一部で応える。
それでも、新たな武田家当主をあくまでも今川家の分家として扱うことで、今川家による甲斐支配に邪魔が入らないようにする。
これが承菊が絞り出した答えだった。
とはいえ、これは苦肉の策であり、最上の解決とは程遠い。
というのも、この新たに生まれる武田家の皮をかぶった今川の分家は非常に危険。名目上は甲斐一国を支配する正当性を持ち、今川本家の家督相続にも介入できる血統を持つからだ。
それゆえ、旧武田領の分割は念入りに行われねばならない。
また、これにより福島氏は今川・武田と両名門と縁続きとなって一国人から抜きんでた名誉を得ることとなるが、彼らにもこれ以上の増長を許してはならない。
そのため、福島氏については遠江の所領を削り、甲斐に飛び地を与えて一族が団結して蜂起しづらいように工夫したのだ。
この措置がどういう意味を持つのか、諸将が問いかけて承菊がこのような事柄を澱みなく答えるうちに、方針は自然と固まっていった。これ以上の対処はないように思われてきたのだ。
「さても、信虎とその息らは腹を切らせるのか?それがしは少なくとも信虎には切腹を求めたいが」と瀬名が問う。瀬名は信虎を生かしておいては厄介なことになると思っていた。
「武田家中には信虎を嫌う者もおりまするが、一方で信奉する者もおるのは確か。切腹を申し付けて『是が非でも認めぬ』という者たちが出てきては、和睦はさらに遠のき、いよいよ当家家中のまとまりも崩れ、信虎に再起を許すことになりかねませぬ。」
承菊は、三河鈴木家のような新興の寄せ集めとは違って、甲斐源氏の血筋が持つ広い親族関係や譜代家臣のつながりを甘く見てはいなかった。
「なれば、父子ともども髪を剃らせて駿府に召し出すのはいかがでござろう」と瀬名が提案する。彼はともかく信虎を甲斐に置いておきたくないのだ。
「それならば受け入れるやも」と諸将も同意する風である。
「ではそのように」承菊は疲れた声に若干の安堵をにじませて言った。
◇
武田家の家督は確かに慎重に扱わねばならなかった。
信虎が失脚したことで、他の直系に近い親族たちが家督を狙って怪しい動きを見せていたのだ。
今川家はこうした者たちに、家督をめぐって争うのをやめさせる代わりに、所領の安堵や、新設される甲斐今川家の重臣として迎え入れるといった条件で根回しを進めていった。
やがて、信虎は出家剃髪し、駿府で幽閉されることが決まった。それに同行するのは彼のお気に入りの四男・次郎と、原虎胤や戦死した楠浦の嫡男・虎常ら忠実な家臣たちである。
ただし、大井氏に嫁いでいた瀬名の妹を介した嘆願で、大井の家名は何とか残してほしいという話になった。
そこで、武田太郎(後の信玄)は大井姓を名乗って母・大井の方、そして失領した大井残党とともに、瀬名の監督下に置かれることになった。
これらの仕置きが済んだとき、時はすでに享禄4 (1531)年に入っていた。
前年中には、近江幕府と堺公方の間の対立において、大きな情勢の変化があった。
堺方の重鎮・柳本賢治を浦上村宗が暗殺し、これと同盟する近江幕府管領・細川道永は浦上の軍勢を頼りに上洛を果たしていたのである。
「管領殿はそこから一息に堺方を攻め滅ぼそうと兵を進めましたが、摂津にて迎え撃つ三好筑前守(元長)と睨み合いとなっておじゃりまする。管領殿は伊勢を平らげたる北畠と六角に後詰を求めておじゃりまするが、心の内では何よりも尊家・今川の上洛を願っておるとか。」
駿府の今川重臣団を前にこのように話すのは、寿桂尼の甥にして娘婿である正五位上右中弁・中御門宣綱である。彼は近江幕府の使者として駿府に下向してきていた。
享禄3年中に伊勢では北畠・六角に攻められていた長野家が降伏した。当主・通藤が病死して継戦できなくなったのである。
かねてより誘われていた伊勢沿岸部の上野城主・分部光定は一族で三河に逃れ、内陸の一部所領が六角方に譲渡されたが、長野家全体としては北畠家の支配下に収まった。
生まれたばかりの北畠晴具次男が新当主・長野稙藤の養子として送り込まれ、長野家嫡男・源次郎は北畠家に人質として出されている。
「御屋形様(今川氏輝)ご上洛の暁には、こたび祝着なことに平らげたる甲斐の守護職に加え、ご先祖の例に倣いて侍所頭人の職も用意があるとのことにおじゃりまする。」
中御門は、武田の色が染み込んでいる甲斐国を支配するためにも、幕府から正式に守護職を賜れるとあれば今川にとって最上だろうと思って、熱心に上洛を勧める。
確かに重臣団はいま喉から手が出るほど甲斐守護職を欲している。守護職を氏輝が保持し、武田家の養嗣子となる次弟・今川良真を守護代とすれば、支配体制はかなり確かなものとなるだろう。
「管領殿は、はかなくなりしご嫡男に与えんとされておられた三河守護の職につきても『東海の覇者たる御屋形様にこそふさわしい』とまで口にされておられたでおじゃる。これも認めらるれば、今川は四か国太守となるでおじゃる!」
重臣団はそれを聞いて一気にざわつきが大きくなる。
それが実現すれば、鬱陶しい鈴木家をくびきにつなぐことができる!
「長らく上方を騒がせたる近江と堺の争いもいよいよ終わりかと見えて、公卿方々のみならず主上も尊家にはご期待を寄せたまうと聞くでおじゃる。」
諸将が期待の目を承菊に向けたそのとき、この賢僧は上洛軍を出すにあたっての諸々の手配を想像して目の前が真っ暗になり、崩れるようにして倒れた。




