第96話 1530年「上条河原の戦い」
甲斐ではいよいよ武田対今川の最終決戦が始まろうとしていた。
両家は小競り合いを続けながら兵糧の備蓄を続け、秋には苅田をめぐってたびたび小競り合いを超える規模の衝突があったが、晩秋にはそれも一段落となっていた。
しかし、そろそろ麦の作付けをせねば、来年には飢饉が待っている。
甲斐武田家は、東部で北条家の援軍を阻み、北西部で三河・伊那・諏訪の寄せ集めの動きを封じてはいたが、その代償に多くの優秀な武将を失った。
これ以上戦が長引いて甲斐国内が荒れ果てれば、どうあっても滅びの道は避けられない。
一方の今川家は、三方から武田家を包囲して数倍の兵力をぶつけたのに、思ったほどの戦果は得られず、遠征軍を維持するための士気も財力もそろそろ限界に至ろうとしていた。
勝っているはずなのに、次で決めきれねば崩壊すると皆が思っていた。
◇
福島助春・三浦範時の率いる今川軍は、信虎が放棄した富田城を物資集積拠点としており、ここから北に進発して若神子城の兵と合流。兵1万と数千を集め、東に進む。
今川軍の出撃を知った武田信虎は数千の兵を率いて躑躅ヶ崎館から甲府西の荒川東岸に出て、横陣を敷いて待ち構えた。川に沿って柵を作って防御を固めるそぶりだ。
三河勢は荒川西岸の平地の最北端、川が山間から盆地へ出る丘陵に陣地を割り当てられた。今川軍はそれより南側へ、高地に沿うように部隊を展開している。
三河勢の陣で、宇津忠俊が柘植宗家に話しかけた。
柘植は伊賀出身で、今回甲斐に派遣された三河勢の総大将を務め、宇津はその軍師役を務める。
「いやはや、なんとか飢えずに乗り切れ申したな。」
「鳥居殿(忠宗)がけがを押して兵糧のやりくりに尽力してくれたからこそでござるな。」
鳥居忠宗は熊野を差配する鳥居忠吉の嫡男で、鈴木重勝の小姓から抜擢されて遠征軍の兵粮方を任されていたが、若神子城内で大井氏が反乱した際に顔面に大けがを負っていた。
幸い深手ではなかったため、彼はけなげにも仕事を続け、兵糧の節約に尽力していた。
というのも、若神子に籠城する諏訪勢は、信濃で高遠氏・藤沢氏・守矢氏・知久氏が蜂起したために信濃からの兵糧輸送がしばらく途絶えてしまっていたのである。
しかし、信濃国伊那郡の小笠原長高は三河から援軍600を得て知久氏を族滅すると、諏訪攻め中で空き巣だった高遠氏の本拠地を陥落させ、守将の保科正則・保科正俊父子を捕虜とした。
これで持ち直した諏訪家先代当主・頼満は、待遇改善を求めて武居城に籠っていた守矢頼真を懐柔すると、孤立した干沢城を攻めて、籠城していた藤沢隆親・高遠頼継を滅ぼした。藤沢氏の本拠地・福与城に残っていた若き嫡男・頼親は雲隠れした。
かくして、甲斐での決戦を前に、信濃の諏訪家・小笠原家と若神子の軍勢は再び連絡が取りあえるようになったのだった。
それでようやく鳥居忠宗は三河に後送されたが、顔に大きな傷跡が残ることになった。
「しかし、越後は動けぬようでござるな。越後が動かぬならば北条の援軍もないが、ううむ。」
鈴木重勝からの手紙を見た宇津が言う。
諏訪勢の苦境を見た鈴木重勝は、今川家が甲斐攻めを中止して先々の予定が狂うのを心配し、数年前に甲斐攻めの協力を約束した越後守護代・長尾為景に関東攻めを依頼した。
越後長尾家が関東の上杉氏の後背を脅かしてくれれば、北条家が甲斐に増援を出す余裕が出るだろうと思ってのことだった。
しかしこのとき越後では、加賀で生じた本願寺教団の内紛に対処する必要があったうえに、国内でも越後守護・上杉定実の弟・上条定兼が蜂起しており、身動きが取れなかった。
そのため、関東で扇谷上杉家と睨み合う北条家は結局、今回の決戦にも援軍を出せなかった。
重勝はそうした事情と今後の対応を事前に宇津ら遠征軍の指導部に伝えたのである。
「確かに武田は思いのほか兵を集めたようにござれど、それでも数は我らが有利。宇津殿は何やら気がかりでも?」
「山本殿がな、『よくない占いが出た』とこっそり教えてくれたのでござる。」
「ふうむ……。まともにぶつかるだけでは不安ということでござろうか。確かに地の利は向こうにござるが。」
宇津と柘植は籠城戦の間に互いに理解を深めて、意見交換ができるくらいには仲よくなっていた。
「これも山本殿からにござるが、今川は大将同士でどうにもうまくいっておらぬとかで。」
「ほう……。」
今川勢の動きが鈍いのは柘植も察しており、宇津の話を聞いて何やら思案する様子である。
宇津は柘植の様子に嫌な予感を覚えて釘を刺す。
「柘植殿、何やら思案しておる様子でござるが、余計なことをしようとは――」
「いやいや、まさかにござる。されど、今川が攻め切れぬとなっては、我らの望むところにあらず。いざというときのことも考えておかねば。」
「そはいかにもなれど……。」
◇
今川軍は盛んに渡河して対岸の武田軍の陣を脅かすが、川を渡った先の柵が厄介で敵軍の防備を突き崩せずにいた。それが数日も続くと、柘植は覚悟を決めた様子で宇津に相談した。
「このままでは埒が明かぬ!それがしは元来、山や木立の中での戦を得手としており申す。それがしが荒川を上って山を回り、敵陣の背後を突き申すゆえ、宇津殿には山本殿(菅助)と合力して迎えに来ていただきたい!」
「柘植殿、なにを言われるか!かようなことがうまくいくわけもなかろう!」
「武田は川沿いの陣こそ厚けれど、数でこちらに劣るはず。なれば、川を守るのでやっと。後ろの本陣は薄いに違いなし。」
「それはそうであるが……。貴殿は甲斐の者でもあるまい。いくら山の戦が得手とはいえ、それでは道もわからぬであろう。」
「そこで頼みがあり申す。宇津殿は何やら修験者どもと通じておられるようで。」
「いや……、まあ、主命ゆえ、熊野の手の者と誼を通ぜんとしてはおったが。」
「山伏ならば修行のための道を知っておろう。貸してくだされ。道さえわかれば、どうとでもなりまする!」
宇津は柘植の気迫に悩むそぶりを見せた。
鈴木重勝は熊野鵜殿氏を通じて甲斐にゆかりの熊野御師と縁を結んでおり、その紹介を受けて宇津は甲斐国内に協力者を作る任を帯びていた。
結果、西郡の熊野先達・一乗坊なる者とわたりがつけられるようになっていた。
西郡は甲斐大井氏の本拠地であるが、この一族は先ごろ今川方から武田方に寝返った。それを知った一乗坊は、武田方の敗北を予想し、勝者側と縁を結んでおこうと、宇津の接触に応じたのである。
柘植は籠城の間に周囲をよく見るようになって、宇津の怪しい動きに気づいており、彼の伝手で甲斐の修験者を雇って山中を案内させようと考えたのだ。
修験者のみが知る山道を使えば、確かに武田軍の後方に出ることはできるかもしれない。
また、戦後のことを考えると、この決戦で鈴木家の貢献を目に見えるものにしておいた方がよい。
ただでさえ鈴木家に対する今川家の扱いはよくないのに、特段の武功もなしでは今後はもっと悪くなるだろう。宇津は宇津でこう考えていた。
しかも「こたびの戦は負けぬ」と踏んでいる今川軍は、福島党と三浦党の手柄争いの延長で、他国者に手柄が行かないよう、特に三河勢を戦場の北部に追いやって、主戦場に出てこられないようにしている。
三河勢は伊那小笠原家を救援した援軍から補充兵を得て1000ほどに数を回復しており、隣り合って布陣する小笠原家の兵も加えれば1300ほどである。
武田全軍の数は不明ながら5000くらいだろうから、これだけで四分の一はある。戦局を覆すこともできないことはない。
いろいろ思案するうちに、宇津は柘植の案に乗るのも悪くないように思えてきた。
「ううむ、当家の先々を考えれば、抜け駆けしてでも武威を示すは確かに大事に思う。しかし、山中を抜けるも一苦労、しかも抜けた先に味方は一切なしとなれば、とても生きては帰れぬぞ。」
「そう簡単にやられるつもりはござらぬよ。とはいえ、万一のことござれば、せがれの市助のこと、なにとぞお頼み申す。」
「……わかり申した。なれば、これを持っていかれるがよい。」
宇津は懐紙入れのようなものから平べったい小箱を取り出し、柘植に手渡した。
「これは?」
「父が殿より褒賞として賜ったもので、方位磁針という。この中の針が常に北を指すという優れものだ。これを貴殿に預けるゆえ、必ず返しに来るように。」
「宇津殿……、かたじけない。」
柘植は強く目をつむって溢れ出ようとする激情を抑え込むと、クワと目を見開き「明後日の夜、それまでに敵本陣を探し出し、夜討ちを仕掛け申す!次は戦場にて相まみえん!」と言って去った。
◇
「このまま耐えるのみならば、数に劣るこちらはいずれは負けるでしょう。兵数をごまかしておくのも、ここらが限界。そろそろこちらからも攻めていかねばなりますまいな。」
父の代から残る股肱の宿老で、唯一生き残っている下曽根出羽守がつぶやくように言った。
武田軍は先ごろ農作業のために一部の兵を村々に帰したが、それに乗じて逃散したり、収穫後に再集合せず隠れたりした者たちがいたため、兵の実数は4000ほどだった。
敵味方にはそのことを隠して、旗指物を増やすなどして5000以上に見せかけていた。
側近の金丸若狭守は難しい顔で黙り込み、信虎も仏頂面でそんな2人を見やったまましばらく黙り、やがて言った。
「……随分と寂しくなったものだ。ほんの少し前ならば、迷わず曽根に攻め手を任せたところを。」
家臣の前では常に気を張って泰然とふるまう信虎であったが、弟や荻原・曽根・楠浦といった股肱の臣を多く失い、さすがに心を揺さぶられているようだ。
「まことに」下曽根は一言だけ述べると、しかしすぐに切り替えて続ける。「数の不利を覆さんとすれば、奇襲を狙わねばなりませぬゆえ、半端な者には攻め手大将は任せられませぬな。」
「うむ、ここはやはり板垣(信方)がよいと思う。義弟(浅利虎在)や河村(縄興)をつけて……。守りの陣立ては改めて原加賀に整えさせよう。そなたは板垣の渡河を援け、退路を守ってやれ。」
浅利は信虎の妹をめとっており、河村は信虎が幼くして家督を継いでから一貫して味方をしてくれた部将である。原加賀守は名を昌俊といい、戦場を見通す力に長けた賢将である。
「承知つかまつった。手抜かりなくいたし申す。」
信虎は下曽根の返事を聞いて頷くと、その晩、板垣信方に兵1000を任せて今川軍を襲撃させた。
武田軍は開戦から一度も攻めておらず、今川方には若干の油断があり、一宮彦三郎なる物頭が戦死し、兵200の損害が出た。うち半数は暗闇による混乱で生じた同士討ちによるものである。
しかし、今川軍は初動こそ遅れたものの、福島党の福島盛広が態勢を立て直して防備に徹すると、板垣は勢いを失って撤退することになった。
福島盛広は怒りに囚われて無理にこれを追撃し、板垣らを逃がすために殿を引き受けた河村縄興とやり合ったが、川にからめとられてそろって溺死した。
翌日は、双方で立て直しと休息を優先したため、川を挟んだ矢戦が行われるにとどまった。
◇
そしてその夜。
鈴木家信州取次の伊藤貞久が柘植に話しかける。
伊藤は奥三河の山中の土豪で山歩きに慣れていたため、柘植の補佐役としてついてきていた。
「こんなに遠回りせんでもよかったのではござらぬか?」
「いや、途中の吉沢とかいうところには人家があった。次には砦らしきものも見えたゆえ、北の山中から回るのは必要でござった。」
柘植の率いる兵300は、1日半の時をかけて戦場の北を大回りし、山中の道なき道を2里半(今川式の数え方で約16km)ばかり進んできた。
途中には吉沢という集落があり、その先には平瀬という地に武田家の烽火台があったため、ずっと人目を避けて足場の悪い山地や林の中を通ってきた。それゆえ、兵たちは疲労困憊である。
「それに、我らにはこの方位磁針があり申す。夜は針が見えぬゆえ松明を消せぬのが難点だが、人里を離れるならばどうとでもなる。それがしは暗闇でも足元の不確かなところはすぐにわかるゆえ、時さえかければこれが一番よ。」
道案内は熊野御師・一乗坊。彼が柘植に金峰山に参るための修験者の隠し道を教え、柘植が先導して山歩きの術を駆使して安全な足場を見極め、遅々たる歩みで移動してきたのだった。
しかしそれもあともう少し。一隊は烽火台から山々の狭間を通って南へ向かって帯那川に出くわした。ここから東に進めば躑躅ヶ崎館、西へ向かえば武田軍の陣地の裏にある片山となる。
「そろそろ日暮れ。約束の刻限は今晩ゆえ、完全に日が落ちる前に敵の陣容を調べねばならぬ。とはいえ、兵がくたびれておるのもよからず。長くは待てぬが、この川でしばし休むとしよう。」
休憩の後、柘植隊は武田軍の裏山の中腹に移動して潜伏し、信虎の本陣を探した。
「武田は四菱、武田は四菱……。おい!そこら中、菱紋だらけではないか!どれが本陣だ!?」
「花菱はご一門ゆえ、四角い割菱のみに絞られましょう。大将旗を見つけらるれば……。」
柘植は伊賀の人で、東海の武家の家紋には詳しくない。
一方で地元の人間である一乗坊が目を凝らすが、日没間際。よく見えない。
「御坊は伊藤殿と本陣を探しておいてくれ。それがしは烽火の用意をする。夜襲が始まれば御坊は山に残って隠れ、我らの手柄を、いや敵陣の様子をよく検分してほしい。」
敵中で孤立しないために、夜襲の開始をなるべく早く三河勢本軍に知らせねばならない。そのためには山腹で火を焚くのがよい。それゆえ、柘植は兵を指導して枯葉や枯枝などを集めさせた。
やがて夜になり、敵陣にかがり火が灯った。
◇
「御屋形様、御屋形様!!」
「なにごとぞ!!!」
鎧もつけずに切羽詰まった様子で信虎の所在を尋ねる使番を捕まえて、金丸若狭守ががなった。
「おお、金丸殿!浅利の陣に敵襲にござる!御屋形様にお伝えくだされ!」
「なにっ!いったいどこから!?いや、先に御屋形様にお伝えせねば!」
金丸は使番を連れて信虎の寝ているところにやってきて事情を伝えた。
飛び起きた信虎は即座に武装を整えながら思案する。
「浅利は昨晩の夜討ちでくたびれて陣を下げて休んでおったゆえ、奇襲にはまともに応戦できぬ。敵はすぐにここに来るぞ!そこな浅利の手の者よ、者どもに戦支度をせよと触れてまいれ!若狭(金丸)もよく支度せい!!」
信虎隊が迎撃態勢を整えるうちに、柘植隊は早々に浅利虎在の首級を挙げ、続けて近くの駒井の陣を荒らしたのち、ようやく信虎本陣を見つけてこれに攻めかかった。
金丸をそばに置いた信虎は自らも抜刀して兵を鼓舞する。
「来たぞ、これぞ火に入る虫!なんとも愚人なり!迎え撃て!!」
「ようやっと本陣ぞ!ここで信虎めの首級をあげれば、富も名誉もほしいままぞ!」
一方の三河兵も柘植の怒声で鼓舞され、果敢に武田兵に攻めかかった。
本陣とはいえ、数の差はほとんどない。浅利と駒井の兵300は本陣の守りだったが混乱して身動きが取れず、この場にいるのは信虎直属の500程度。対する柘植隊は300。やってやれない差ではなかった。
「見つけたぞ!貴殿こそ甲斐源氏の棟梁、武田信虎殿とお見受けいたす!お命頂戴!」
「させるか、愚か者め!」
柘植は乱戦の中、血眼になって信虎を探し、ついに信虎と金丸の姿を視界にとらえた。
信虎の前には金丸が立ちはだかる。柘植は近距離では取り回しに難のある槍を捨て、刀に持ち替えた。
柘植と金丸は十数合も打ち合うが、両者の気迫はすさまじく決着はつかない。
しかし、そうこうするうちに、柘植についてきていた少数の三河兵が討ち取られていき、柘植は金丸ばかりを気にしてはいられなくなる。
「隙あり!」
すかさず金丸は一閃を繰り出す。
避けそこなった柘植はとっさに左手で受け、切断された腕が宙を舞った。
金丸の太刀筋が絶妙だったことと、柘植の籠手が動きやすさを重視したやや軽装の作りだったことが重なってしまった結果である。
柘植は痛みに耐えて後ずさるが、雑兵が背後から槍でついてきて腰にも深手を負った。
「柘植殿!背後からとは卑怯な!」
そこへ、なんとか伊藤貞久が追いつき、柘植を攻撃した兵を蹴倒すと、いまにも倒れそうな柘植を引きずるようにして一目散に陣幕の外の暗闇へ逃げて行った。
◇
一方で、片山の中腹に残った一乗坊は、夜襲の開始と同時に盛大に火を燃やした。
山腹に赤々と燃える火を見た宇津忠俊と山本菅助は、直ちに渡河して対岸の武田方の守将・秋山新左衛門の兵に襲い掛かった。
秋山が守る地は山と川に挟まれた狭い場所で、寡兵で容易に守れることから、守備兵は多くなかった。
敵も味方も前日に続けて夜戦があるとは思っていなかったため、秋山隊は三河・信濃兵に肉薄を許してしまい、乱戦となった。そうなれば兵数の多い三河方が有利だった。
そうこうするうちに、戦闘音を頼りに落ち延びてきた伊藤の率いる100ほどの兵が、秋山隊の背後を突く形で突っ込んできた。彼らは武田方の陣に捕捉されないよう、こそこそと山麓を西進してきたのである。
たまらず秋山隊は逃げ出し、三河勢は荒川東岸に占領地を得ることとなった。
柘植隊の夜襲に呼応したのは彼らだけではなかった。
宇津から話を聞いていた諏訪満隣も、別の場所から強引に渡河して対岸の武田軍と戦闘を開始した。
やがて、今川軍からも、抜け駆けに後れを取るまいと攻勢に出る者たちが出てきた。
一方の武田軍では本陣の混乱が広く知られるようになってきて、前線の兵たちは不安を隠せなかった。
浅利虎在は討ち死にし、駒井隊と合わせて死傷者は100ほどになったが、信虎本陣の被害は大したことはなかった。数だけでいえばそうであっても、しかしながら、本陣奇襲は士気に大きく響いたのである。
最初は信虎の生死すら不明だった中、準備を終えた今川軍が攻め手の兵をだんだん増やして戦闘が激しくなっていき、ようやく信虎健在の報が行き渡ったのは朝日が昇ってからだった。
武田方の前線の諸将は、士気の乱れた兵を何とかうまく扱って今川軍の攻めをいなしていたが、混乱する本陣は適切に後詰の部隊を派遣することができなかった。
あちこちで守りに穴が開き、今川軍は「好機を逃さぬ」とばかりに惜しみなく増援を送り出し続けて、武田方の防衛線は突破された。この混乱で、土屋信遠、津金胤秀、南部下野守らが落命した。
かくして信虎は撤退を決断し、要害山城に入った。
武田家は武力による挽回の機会を失い、残るのは和睦交渉である。




