第95話 1530年「熊野別当」◇
紀伊国熊野を支配するのは、三河鈴木家の遠国奉行・鳥居忠吉。
彼のもとで紀伊東部の統治は安定しており、内が定まれば次は外とばかりに、熊野新宮の代表者・堀内氏定が諸勢力を扇動して、敵対する色川氏・潮崎氏に戦を仕掛けている。
本来は紀伊国をまとめるはずの守護・畠山稙長は河内国で逼迫しており、直轄地と従属国人領のある紀伊西部では不穏な空気が流れていた。
◇
そんな鳥居の新宮奉行所では、先ごろ騒動が起きた。
熊野三山では、修験者・尼僧の勢力と、堀内氏に代表される神職系の社家という勢力が競合しており、現地支配者として頭一つ抜きんでた「名奉行」の鳥居忠吉との関係をめぐって、争いが起きたのだ。
奉行所には尼僧が大挙して押し寄せ、その後に堀内党が武器を担いで慌てて駆けつけた。その光景は新宮の人々には尋常ならざるものに見えて、注目を集めることになった。
「それはもう、堀内の武者と尼僧を守る修験者がいつ白刃で以て切り結ぶかと思われたほどよ。しかしそこはさすが鳥居のお奉行様。双方がやいのやいのとうるさい中で、少しも慌てずご思案なさった。」
奉行所で一体何があったのか。人々は気がかりで、知り合いをたどって奉行所に奉公に出ている者からしきりに話を聞きたがった。
知り合いから酒をふるまわれて話をするよう求められた小者たちは、いい気になってあることないこと話を膨らませていった。
彼らの印象に残ったのは、鳥居が今後の方針を言った後に尼僧と堀内党がしばらく黙った場面だった。
「そしてお奉行様がおっしゃったのだ。
『黙れ痴れ者ども!仮にも神仏に仕える身でありながら、互いの利ばかりを求めおって!本願所は元々の本願に立ち返り、寺社修築に精を出せ!社家は神事をなすに本願所の銭を当てにするとは何事か!儂が面倒を見てやるから、三山領を整えるのだ!』とね。
いやあ、その迫力ったらないね。空気がぴりりと辛かったよ、あんときは。みんな黙っちまってさ。これぞ名奉行ってやつだって俺は思ったよ。」
誰もそんなことは言っていないが、途中からだんだんと口上も洗練されていき、「鳥居奉行が本願所と社家を呼び出して喧嘩停止を諭し、文句を言う彼らを言い負かした」という話がまことしやかに人口に膾炙するようになった。
こうなっては本願所も社家も、いつまでも争うそぶりを見せていては人々から嫌われるばかりであるから、目に見えての対立は自然と避けられる風潮となってくる。
◇
領内での思わぬ不和に直面した鳥居は、紀伊南部での戦は配下に任せて、自らは御師勢力と神職社家の慰撫に努めた。
現状、鈴木家が熊野に入って間諜対策で宿駅や渡し場の管理を始めたことで、本願所は宿賃や渡し賃の収入が減っていた。そこで鳥居は毎年少々の喜捨をすると約束して穴埋めした。懐柔したわけである。
三河の鈴木重勝もこれを助けて「これまで通り堺から三河東端まで御師の通行を優遇する」と通達した。とはいえ、もちろんタダではない。諸国の情報収集を手伝うことと引き換えである。
さらに鳥居は、本願所との和解のために、妙順尼の求めで熊野新宮の神倉社という神社に参った。この神社は度重なる天災で崩壊していた。
「えらく急な所にあるのだな」神社があるという山を見上げて鳥居が言う。
「はい、この上の、お山の中腹あたりにご神岩がございまして、お社は、いまは崩れてしまいましたが、そのお岩様のそばにございます」お付きの尼僧が答えた。
鳥居はうっそうと茂る木々の狭間の石段を進み、息を切らせながら登山する。
やがて彼の目に飛び込んできたのは、朽ちた社にのしかかるように鎮座する巨岩だった。
鳥居は、とてつもない大きさのご神岩を見て、嘆息して言った。
「なるほど、これは神が宿っておられる。」
彼はその後、神倉社の再興に協力を惜しまず、石垣を積んで土砂崩れに備え、火災防止で社に延焼しそうな範囲の木々を伐採させた。
一方の社家は、熊野三山の運営費を本願所に頼りきりにならずに用立てねばならなくなった。
鳥居はこれを支援する方法を思案する。
「儲けを出すならば廻船が一番であるが、殿は三河を挟んで東西の荷運びはもっぱら三河屋に任せておるし、勝手はできぬか。あとは、新宮でも講を結んで新田を開くことができればよいが……。」
とはいえ、思いつくのは社家にも廻船業の分け前を与えるとか、三河で行われているような「講」を導入して土地を広域的に管理しようということくらいである。
廻船業については、三河屋がすでに業務過多で悲鳴を上げていたため、重勝はこれを機に、熊野沿岸部の有馬氏・榎本氏・宇井氏・鈴木氏らをまとめて一揆を結ばせて商人組合を作ることを許した。
先祖が関東との商いの伝手を持っていた榎本氏と鈴木氏が中心になって、堺から関東方面までの商いを担うのだ。三河屋は三河の行財政の補助や海外交易、大名間の大商いに集中することになる。
この商人組合は、三河屋に倣って、紀伊東部で鈴木家直轄の蔵本の役割を果たすことになった。低金利での貸し付けは、住民の開発・投資活動を後押しすることになる。
一方で、平地の少ない紀伊東部では、三河で行っているような農地の共同開発を主眼とした仕組みは使い勝手が悪かった。それに、急に世の中の仕組みを変えようとしても不和が拡大するだけである。
そこで鳥居は主君に相談し、結果、林業・造船業・漁業などの監督役として三河の人間を置いて、開発や投資の方針を指示するにとどめることになった。
監督役として熊野に赴任するのは、粟生と小島の相論で奉行として名声を高めた近藤忠用である。
「わが殿、ここはぜひとも小栗殿を連れて熊野に赴くことをお許し願いたい。かの者は新参なれど、怜悧なること甚だしく、功を積ませて早くに要職を任せるがよいでしょう。」
こうして近藤の下で、作事は熊野に入って3年が経つ浅井道介が、倉は岩瀬造酒佑が、投資関連の管理は小栗が担当する体制が整えられた。
開発の原資は、商人や、三河国内の開発で小金持ちになった富農、それから、禄をもらっても自分で経営する土地がなくてうまく使えていない家臣たちから集めることになる。
商いに通じていない者たちでも、三河で蔵本や鈴木家に銭を預ければ、少しだけ利子がつく。そんな怪しい話でも十分な銭が集まる程度には三河での鈴木家の信用は高まっていた。
三河から銭を集める都合、鈴木重勝は、熊野の開発については厳しく監査するよう近藤に言い含めた。そして、投資で生じた増収分から宗教行事を行う費用を社家に与えると通達したのである。
外部の商人や他国勢力の干渉を排除し、産業の保護と育成を目指しながら、特に勢力伸長著しい堀内家にこれ以上力を与えないで、むしろ鈴木家への依存度を増やそうというわけだ。
社家の側は身銭を切る鈴木家に対して文句を言う資格もなく、一部は商人組合というエサを与えられて在地勢力の結束も緩んでいたことから、この措置は直ちに実行されることとなった。
何かが根本的に改善したのでもなく、本願所と社家の対立も社家の財源不足も全く解決していない。しかし、一つだけ、熊野の人々の生活に、鈴木家を中心とした銭の流れが追加されることになった。
これにより、米・麦は三河から安く入ってくるし蔵本で低利で借財もできるから、無理して農地を広げても作付分の種籾のことを気にしなくてもよくなった。鉄が欲しければ三河屋がほどほどの値段で用意してくれる。炭焼きに手を出せば買い叩かれることもなく作った分からどんどん売れていく。
問題が解決したわけではないが、新宮の人々は活気が出てきたと喜び、やがて鳥居の呼び方を「名奉行」から「熊野別当」へと変えた。
手配したのはほとんど鈴木重勝だったような気もするが、熊野の人にはそれはわからない。
鳥居が「何とかする」と言ったら、次から次へと三河から人やら物やらが来て、世の中が上向きになった。彼らにとってはそれがすべてであり、それで十分だった。
鳥居はたいそうな呼び名に慌てて、三河に弁明の手紙を送った。「勝手に名誉ある職を名乗るとは、独立の気配があるようだ」とみなされては困るからだ。
信頼関係を深く結んだ主君・重勝はともかく、あちこちから人が集まっている鈴木家中では、鳥居のことをよく知らずに彼の増長を問題視する者もいたため、その動きは正しかった。
◇
しかし、事は熊野と三河の間の話では済まなかった。
「熊野別当ですか?久しく聞かぬ職名でございますね。」
聖護院門跡にして熊野三山検校の道増が言った。
道増は近衛尚通の子で、藤氏長者にして関白左大臣・稙家の弟である。
検校は熊野三山の最高指導職で、本人は在京である。熊野別当は、この職より昔からある現地統括職だが、すでに100年以上前から名乗る者はいない。
「山伏より報せありまして、拙僧自ら熊野に出向き、様子を見てまいりました。」
聖護院門跡の院家(従属寺院住職)である若王子乗々院・興淳が報告する。
彼は熊野三山奉行として検校の業務を補佐していた。
「かの地では、三河鈴木家の鳥居という奉行が、本願所と社家の争いを収めたことで、この職名でもてはやされておるようです。『どういう了見で勝手に名乗るか』と問うたところ、鳥居は『住民が勝手に言うのだ』と白を切っておりました。
熊野に逗留するうちに三河から文がありまして、『鳥居奉行はかつての別当・鳥居法眼の子孫なれば由緒においても相応しい』とかで、道増様への口添えを頼まれました。」
鳥居家は第19代別当・行範と鳥居禅尼の夫婦を祖とすることから、困惑する鳥居伊賀守をよそに、鈴木重勝は別当職への正式な就任を後押ししていた。
「ふうん、そうですか。」
道増は思案する。
紀伊守護はお膝元の西紀伊すら満足に統制できておらず、東の熊野から上納を確保する手伝いはできまい。それなら、現地をうまくまとめているという鳥居なる者を使ってもいいかもしれない。
道増はわずか3歳で父の尽力により聖護院門跡になったが、幼少過ぎて聖護院門跡に付属するはずの検校職を得られなかった。前任検校の死を機に8歳でなんとかこの職を得たが、少年期には熊野三山領からの収入が届かずに困窮した。
そのため、山伏を束ねて自力で収入源を確保しようと目論んでおり、つい2年前には乗々院を介して信濃国の山伏に役銭の徴収を命じたところである。
とはいえ、鳥居が純粋に熊野の人間ならばよかったが、三河鈴木家の家臣というのは問題だ。
「その鳥居の主君の鈴木重勝とかいう者のことを確認したいのですが。」
「なんなりと」興淳が相槌を打つ。
「その者、今川家に属して三河国主を務め、堺では左馬頭殿(足利義維)と誼を通じ、一方で管領殿(細川道永)とも誼を通じ、九条家を援け、北畠・信濃小笠原・本願寺・根来寺と和を結んでおる、あっておりますか?」
「拙僧もそのように理解しておりまする。」
「ふむ、なんともどっちつかずですねえ。どうもあちこちの顔を立てねばなりませんから、これは父上(近衛尚通)に相談するのが一番でしょうか。」
◇
「道増からは『この者を介して山伏から役銭を得られるならば、別当職を認めるもやぶさかではない。ただし、任命は三山検校の専権としたい』とのことでおじゃる。」
「鈴木家としましては、それで構いませぬ。」
近衛尚通と話すのは、三河鈴木家の上方での外交を担う三位侍従・吉田兼満である。
吉田はこれまでに、式目本の複写や根来寺の騒動で近衛家と連絡をする仲になっており、熊野別当職の問題がこじれていると聞くや、上洛して交渉に乗り出したのである。
しかしこの吉田、先の根来寺騒動の時点で疲れて体が弱っており、本人は今回の仕事をやり遂げられるか健康上の不安を抱えていた。
「さても、主君の今川家はどう思っておじゃるので?」近衛は吉田に問いかける。
「今川様は甲斐攻めの真っ最中にて、上方のことに関わっておる余裕はなくておじゃりましょう。されど、熊野の差配は先代の紹僖様(今川氏親)よりお認めいただいておじゃりますれば、ご理解いただけるものと信じておじゃりまする。」
「ふうむ……。」
今川家と鈴木家の微妙な関係は上方でも知られており、吉田の話では近衛は納得できなかった。
今川家の関知しない出来事だとすれば、安易に別当職を認めない方がいいのではないか。
そう考えた近衛は、今川家に嫁いだ寿桂尼の実家である中御門家に問い合わせをして、どういう反応をするか確かめようと心に決めた。
「ところで、今川は甲斐攻めの後には上洛と聞こえておるが、そこのところはいかがでおじゃる?」
近衛は今川の話のついでに、近頃上方で広まっている「今川上洛」の噂について聞いてみた。
「今川様が甲斐をお獲りになれば、三河はご上洛の軍勢が尾張を通るのを全力でお助けするつもりでおじゃりまする。尾張さえ抑え込めば、近江の六角様が迎え入れてくれるでおじゃりましょう。
そしてその甲斐攻めも勝利は目前。上洛もそう遠い話ではないでおじゃりましょう。」
吉田はここぞとばかりに今川上洛の可能性を強調した。
何を隠そう、この噂の出所は鈴木家である。
持てる限りの伝手を使って、特に近江幕府の中枢に今川上洛の噂を吹き込んだのだ。今川家が甲斐攻めの後に三河を攻める暇もなく上洛を要請されるよう、上方の世論を誘導しているのである。
その計画を聞いている吉田は「近衛家までその話を真に受けているようだ」と手応えを感じた。
「ふむ、管領(細川道永)は堺方との決戦を望んでおるゆえ、東からは六角・朝倉・北畠にならんで今川の援軍に期待しておるようでおじゃる。」
「左様でおじゃりましたか。」
「しかしのう、そうなると、幕府を支えておる紀伊守護の畠山をなんとか助けてやらねば、という話なのでおじゃる。知っての通り、紀州の畠山はいま苦しい立場でな。熊野で勝手をしておるそなたらをよく思うておらぬで、『別当なぞ以ての外』と言うておるのでおじゃる。
公方も管領も悩んでおるそうな。」
畠山稙長は何かと迷惑な鈴木家を嫌っていて、幕府重臣に「熊野別当職を認めないよう聖護院門跡に働きかけてほしい」と頼んで回っていた。
将軍・足利義晴はそれに理解を示す一方、奉公衆で鈴木の手先である佐竹基親から「鈴木が和泉でほとんど武力を使わずに諸勢力の仲裁を成し遂げた」と聞いて、内心ではこれを評価していた。
なにしろ、佐竹氏の所領復旧は義晴の命令である。鈴木家はそれを実現しつつ、不利益を被った下和泉守護・細川家と近江幕府との関係も維持してくれたのだ。
鈴木家の堺雑掌・中条常隆も、幕臣長老の大舘常興(尚氏)に執り成しを頼んでいる。
管領・細川道永も、畠山は長年の盟友であるものの、鈴木家からは瀬戸内の商船通行のことで時々賄賂を得ており、さらには堺方との決戦を望む中で鈴木家を敵方に走らせたくないとも思っていた。
彼の従弟・細川尹賢も、鈴木家の頼みで「あまり無下にしないように」と口添えしている。
この細川尹賢と縁を結んだことは鈴木家にとって大きかった。
近衛稙家の妻である彼の姪を通して、近衛家が鈴木家の話に耳を傾けてくれたからだ。
ただし、近衛家にとって見過ごせないのは、鈴木家が政敵・九条家と仲が良いことだった。
「麿としては、近江の公方に畿内を平らかにしてもらいたいゆえ、鈴木には、堺方や、ついでに九条と仲良くするのをやめて、なんとか畠山を援けてやってほしいのでおじゃるが。」
この条件であれば、近江幕府方の今川家の立場にも合致しているから、そのうえでなら別当職を名乗るのを許可しても大きな問題にはならないだろう。近衛はそう思っている。
また、彼は「自分たちが仲裁に入れば鈴木と畠山の間はなんとかなるから、あとは鈴木が堺と縁を切ればいいだけ」と思って簡単に言う。しかし実際には、それはとんでもなく大事である。
「……そこまで大きな話となれば、刑部大輔殿(鈴木重勝)は手を引かれると思うでおじゃりまする。」
「ふむ?手を引くとは?」
「こちらに『万一の時に』と文を預かっておじゃりまする。」
近衛尚通はその手紙を受け取って読みだすと、渋面を作った。
そこには「鳥居が別当と呼ばれているのは現地で勝手に言っているだけだから、最悪、任命などの話は不要。その代わり三山検校の配下にあるわけでもない。それで構わない」と書いてあった。
つまり、「こじれるくらいなら放っておいてくれ。検校から命令などもするな」というわけだ。
近衛は「しばらく考えたい」と吉田に言って、彼に辞去を促した。
◇
やがて熊野別当職をめぐる問題は、上方を大いに騒がせることになった。
熊野でも別当称号には反対意見があった。
先ごろ、堀内は那智社を急襲して廓ノ坊の潮崎氏を追い落としていた。
那智社のもうひとつの有力な御師統括組織・実報院は米良氏の支配するところだが、彼らは一旦は堀内の呼びかけで従属を受け容れたものの、本拠地の紀伊南の田辺に戻ると蜂起した。
この米良氏は鳥居の血筋とは別系統の、田辺別当家という一族の末裔であるため、「自分たちも熊野別当を名乗る権利がある」と主張して、堀内に攻められている色川氏・潮崎氏に同調したのだ。
また、公家社会では、吉田兼満が上方で活動するようになったことで、彼自身の敵対者が動き出し、別当職に異議を唱えていた。
兼満の叔父の平野兼永・清原宣賢の兄弟のことだ。
兼満には男児がおらず、かつて清原の子・兼右を養子にした。
しかし兼満は、兼右がまだ幼いにもかかわらず、叔父との不和に嫌気がさして、養育も投げ出して三河に出奔しており、喧嘩別れしていたのだ。5年前のことである。
特に平野は、
「熊野三山は神社だから、その監督者となる別当は神職であるべきで、神職ならば就任には吉田家の承認が必要である」と横槍を入れてきた。
吉田家の吉田神道は、神仏習合に反対して神道の優越を唱えており、なおかつ自分たちは「神祇管領長上」として全国の神職を統括するのだと主張しているからだ。
その一方で、鈴木家を擁護する声もあった。
神祇伯・白川雅業王は吉田神道と対立しており、
「かつて熊野別当は社僧が務め、これに帝が僧位(僧侶の位階)を与えたことから、慣例に則れば吉田家の承認は不要。くだんの鳥居は僧籍にあるのが望ましいが、俗別当としてもよい」と主張したのだ。
彼は本願寺の蓮如の孫であり、門主・証如と和解した鈴木家に気を遣ったのだろう。
また、鈴木家と仲が良い伊勢神宮も吉田神道と対立しており、白川神祇伯を支持した。
◇
近衛家からの問い合わせでこの問題を知った中御門家は、慌てて今川家に問い合わせたが、もちろん彼らにとっても寝耳に水の話で、急いで三河に叱責の使者が送られた。
とはいえ、今回ばかりは勝手に生じた騒動があれよあれよと知らぬ間に大きくなったものであるため、鈴木重勝は根気よく「当家も困惑している」と訴えた。
そして「別当称号をどうしても名乗らせたいわけではない」ということも伝えるうちに、熊野での出来事の詳細を知った今川家中枢は何とか矛を収めてくれた。
単に甲斐攻めの途中で揉め事を増やしたくないため、揃って傍観しているだけではあったが。
とはいえ、九英承菊(後の太原雪斎)は、鈴木家が熊野の支配を強めたことを深刻に捉えていた。
「鈴木が熊野修験道と仲を深めれば、山伏どもは重勝めに一目置くであろう。そうなれば、領内の山伏どもはやつに気を遣うやも。これは大事なるぞ!」
駿河にはこのご時世でも熊野へ上納を続けている三山領が存続しており、今川家自身も長年、熊野への寄進を欠かしてこなかった。
また、駿河では富士山修験道も盛んで、その一大拠点である富士村山寺(興法寺)との関係も今川家にとって非常に大事だった。
承菊は、熊野と富士の修験者たちをなんとか自家の手の内にとどめ、余所からの影響を排除して今川家の支配下に固めようと動き始めるのだった。
一方の重勝は吉田の体調を心配して三河に戻って静養するよう勧め、自力での事態収拾を諦めた。
とはいえ、彼はこの騒動のおかげで、自家の影響力が思ったよりも上方で――特に近江幕府内で――ある程度は大きくなっていることを知ることができた。
コツコツと作ってきた伝手を使えば、話も聞かずに一方的に貶められることはないかもしれない。
今川家との関係を改めようとしている重勝にとって、それは重要な手応えだった。




